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武門の妻 序篇 1
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武門の妻 序篇 9

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●貧乏物語

 籍を入れた直後、家内を平戸に連れて行ったことがあった。昭和56年のことである。
 私は既に三十を越え、家内は22歳であったと思う。家内は2月17日生まれてである。平戸に向かったのは、二月初旬であったろうか。
 そして、何故二月であったか。
 家内にとっては22歳という年齢数字が問題であったようだ。

 まさか数値主義者ではないが、これまでの下手な占を遣って、数字に凝る愚かしい占い信仰をしていたようである。所謂、その年齢のミーハー趣味であった。

 当時、ミーハー22歳の家内に仕向けたことは、その年齢からの柔軟な頭に期待する「策」を仕掛けたように思う。
 私も実は、変な信仰を持っていた。

 策にはいろいろあるが、愚策とか悪策などの策を弄
(ろう)する謀(はかりごと)でなく、同志として自ら進んで、わが武門に加わる策を講じたのである。決して、懇願すると言うものではなかった。

 わが武門に加われば、人生が楽しく、かつおもしろく、また生き甲斐を感じ、その先きに夢と希望があることを臭わせたのである。夢の共有である。夢を共有して理想を追うって人生を歩くのである。
 その側面を、ちらりと垣間見せたのである。
 当時、こんな夫婦の「物語」を話したことがある。作者は誰か忘れてしまったが、こんな話であった。

 あるとき、ある国のある町に住む、ある若い夫婦が結婚した。その夫婦は相思相愛で結婚し、しかし甚だ貧乏だった。
 私は、この出だしで始まる「しかし甚だ貧乏だった」というこの件
(くだり)が何と好きなのである。

 その結婚生活は甚だ貧乏な上に、病気まで伴った惨めな不幸な生活であった。
 妻は病気勝ちで、夫もそれほど体力のある方ではなかったが、無理して毎日力仕事に出掛け、妻の看病に日雇いに金銭を投じるのだが、焼け石に水であった。働いても働いても夫婦の暮らしは役にならなかった。
 そして遂に、夫婦ともども力尽きるときが遣って来た。
 最後にこういう言葉を残すのである。
 「わたしたちは幸福には至らなかったが、しかし幸福への道を夫婦で歩いたことは、とても幸福であった」と。

 更に作者は言う。
 幸福に達したか否かは、運命が決めること……。幸福への道を歩いて、そこに到達できるか否かは天が決めること……。
 幸福に至らなくとも、人間側に責任はない。人間は、幸福に針路を定めたら、その道を懸命に歩くだけでいい。そこに至るか否かは運命が決めることであり、それへ向けて「歩いた」と言う行為が大事なのであると。

 作者の主観は、相思相愛の夫婦を物語にしたのであろうが、また一方で、単にベタベタとした恋愛遊戯を延長させて物語にしていないことである。昨今の不倫恋愛のように、不倫を犠牲覚悟の恋愛劇にしていないことである。
 つまり、悲劇性が無いのである。
 本来、恋に墜ちるとは、運も墜ちるのであるが、恋愛は今持ち得る手持ちの運を遣ってそれを浪費し恋愛するのである。
 これこそが恋愛の盲目である。

 だが、長い人生を青少年期、壮年期と見ていって、晩年期の死に際に到達したとき、これがプラスなのかマイナスなのか、釈然としないところが出てくる。
 何事も、運命の「うねり」すら、藕糸
(ぐうし)の絶えざるが如しで有機的に繋がっているのである。蓮華の糸筋を考えれば一目瞭然であろう。
 したがって恋愛劇は意味が薄れてくる。
 つまり、恋愛イコール幸福という図式に必ずしもなり得ないのだから、幸福を理想と置いた場合、それに向かって歩くか否かが問われるところで、ここに努力する他力の価値があるのである。

 その努力自体に価値があるのであって、到達したか、しなかったかは人間側の決めることでない。歩くと言う行為によって、自らの「生」は充分に満たされ、それ自体が実は幸福そのものであったというのである。
 未完成の悲愴感を感じない訳でもないが、しかし、幸福を自分の外に求めず、自分の裡に需
(もと)めて奮闘努力する。砕身粉骨する。此処には幸福の根源があるように思うのである。

 昨今は、幸福を豊かで便利で快適でという物質的幸福感を幸福と称しているようだが、こういう物で飾られた幸福や平和は何となく鼻に突くものがある。それはニセモノ臭く感じる人工的な幸福であるからだ。

 そして、物で飾り立てる人工的な幸福は、それを常に外に求める幸福である。自分の中に存在する、また自分の中に置き忘れた裡側の幸福こそ、貧しくとも楽しい真の幸福なのではないのか。
 幸福が物質的に飾り立てる幸福と信じ込んでいるのは、実は幸福の名を借りた幻影であり虚構である。

 幸福とは、既にそう言う努力を尽くすことで、既に幸福を得ているのである。
 幸福に向かって努力し、働き、夫婦で助け合う。それは極めて不完全ではあるが、不完全でありながらそれを幸福の目標を定めていることは、それはどんなに歪だろうと、もう完全を得たのと同等なのである。

 何故なら、目的地に向かう道程に価値があるのであって、その道程に貧乏が転がっていようと、したくない仕事が待ち構えていようと、窮地や病苦があろうと、それは確かに波瀾であろうが、これは不幸であることとは無関係である。
 そもそも幸不幸はその人の人生観と価値観の相違から起こるものである。
 したがって、幸福イコール生活の快適感という図式は成り立たなくなる。

 現に、私は極貧でありながら、「死しても朽ちず」という人を歴史の中で知っている。
 この「死しても朽ちず」の話を、「幸福の道を歩いた若い夫婦」の話とともに家内にしたことがある。

 死しても朽ちず……。
 私はこの言葉を、幕末の儒学者・佐藤一斎は『言志四録』の一節ともに今でも口ずさむのである。

(わか)くして学べば、壮にして為(な)すあり
壮にして学べば、老いて衰えず
老いて学べば、死して朽ちず

 ここに「学ぶ」という深い意味がある。それは「学ぶ以外ない」と解することが出来るかも知れない。人は学ぶ中に人生がある。
 そして、また死しても朽ちず……である。



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