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武門の妻 序篇 8

現代人は恥辱に敏感だろうか。恥を知っているだろうか。
 そういう敏感さは失われてしまったように思う。
 更に突き詰め、現代人の行動律に、恥に対する名誉意識があるだろうか。
 人間は、人それぞれに自分なりに自尊心を持っている。一寸の虫にも五分の魂である。自身で、誇り高くありたい、そして毅然とした態度が示したいという願望は、誰にもある。

 かつての日本人は、人に笑われることを嫌い、侮辱されることを拒
(こば)んだ。
 これは背景に、何事も毅然とした態度で臨みたいという誇り高さが存在したからだ。
 また、侮辱を受けることは、自分自身の人格の否定でもあった。
 この時代の人は、没我的な生き方で、全体に奉仕することを常に考えていたからである。


●五つの換

 見識を知る前に、「換」を知る必要がある。
 人間は転機のときがある。
 特異点を迎えて、ある日突然“どんでん返し”の転換期を迎えることがある。
 『論語』
には「君子は豹変す」とある。
 また、『易経』
(革卦)によれば、「君子豹変すとは、其(そ)の文(あや)(うつ)たる(斑紋が華やかに美しくなる)也」とある。

 君子は過ちがあればすみやかにそれを改め、鮮やかに面目を一新するという意味である。俗一般に使われている、考え方や態度が急に一変するという意味ではない。悪い方に一変するのでなく、いい意味で用いるのが正しい。

 また転換には、『陰隲録』にある通り、転換の術を心得ていなければならない。
 この術を「換」という。
 「換」とは転換のことである。
 この換には、大別して五つある。

換金 経済的に困窮した場合に、金銭などに変換できる物品であり、貴金属宝石類やそれに準ずる美術品など有しているか。
換智 “いざ”というときに、自らの貯えた智慧で急場を乗り切る。知識を見識に変換できた場合、人間が教訓として智慧を得る。
換悟 窮地に立たされた困惑の只中にあって、迷わぬ精神的道標になる悟りや感得できるもので、そのために殉じれる「道」をいう。。
換命 接待絶命の命の危険に晒(さら)されているとき、間一髪で命を救うことの出来る、命相当のもの。立命の切り札である。
換魂 死した後、肉体は無に帰して自然に還るが、精神的文化圏の意味合いを持つ、朽ち果てない魂の有無。不屈の精神などがこれに入り、その精神や魂などの意識体が意志として残っていれば、後世にそれを引き継ぐ者が出て来る、そういう見えない部分の有機的繋がりである。霊統などはこれに入ろう。

 「換」とは、急遽、事を致さねばならない場合に、即座に転換できる物質的並びに精神的かつ霊的状態を言う。絶体絶命の土壇場で、最後の最後に物を言うものである。

 しかし、見識はまた見識に留まってはなるまい。
 見識より一ランク上の胆識まで備えていなければならない。
 絶体絶命の土壇場でどう対処するか。二進
(にっち)も三進(さっち)もいかない窮地に立たされれば、どうするか。進退窮まったらどうするか。
 凡夫の無知ではどうしようもない。解決策の奇手は生まれない。
 仮に知識を些
(いささ)か有していても、それだけでは話にならない。経験不足もある。結局行き詰まるのである。

 そこで見識が必要となるが、では見識と言う智慧のみで処理できるのか。
 はやり、肚が要る。度胸が要る。動じない不動心が要る。
 では、それは何か。
 それは見識のみならず、肚の据わった「胆識」である。古人は胆識を、人間の実体と感得した。ここまで迫らねばならない。

 特に武門では、その意識と気概が旺盛であった。
 伝達する使命感を持っていた。それゆえ一子相伝の運命転換術を、その家が代々伝えた歴史もあり、ところが先の大戦を敗北した日本人は、「換」の術策があることを、物財と引き換えに、あるいは黄金の奴隷に成り下がって忘れてしまったように思うのである。残念なことだ。

 一子相伝という、父から子へ、子から孫へと当然受け継がれて行かなければならないものが、いつしか金や物へと摺り変わり、精神的豊かさがあることを忘却してしまったのである。

 貧しくとも人に恥じない……という生き方より、金や物に富んでいて、便利で快適である方を選んでしまったのである。心を物にすり替えた。
 斯くして、五つの「換」があるいことを、生き方から忘却し、金や物に恵まれ、ただそういう財で満たされていることに満足感を覚えるような道を選択してしまったように見える。幸福を自分の裡側
(うちがわ)に求めず、外側にある物質的なものへと奔らせてしまったのである。

 つまり、長らく武門には継続されていた「換骨奪胎」の精神が失われたのである。
 窮地に陥れば、俗人は俗人のレベルでは駄目である。俗人からワンステップ向上しなければならない。高い目の付け所によって、状況把握しなければならない。近視眼的かつ微視的視野では駄目である。

 道教には、「換骨奪胎」の精神があった。俗人の域を超越することを言う。
 『冷斎夜話』に出て来る道家思想では、俗人の骨や胎
(からだ)を取り換えて仙人になる意であるが、その手の焼き直しを指すのではない。換わらねばならないのである。

 根本から、丸ごと換わらねばならないのである。
 決して古人の作品の趣意だけを残して変えず、あるいは体形を変えず、単に語句だけを換え、または古人の作品の趣意に沿いながらも、新しいものを加えて表現することではない。この付け焼き刃こそ、誤用もいいところである。

 だが「換」は決してそんなものではない。
 根本から改める。
 また取り替え、刷新して新生するのである。そのための「転換術」であり、芯から弾ける発揮力を意味するのである。これを、また謀
(はかりごと)と解釈してもいい。換は謀にも通じるのである。

 「換」の字は、「手」+音符「軍」
(=円陣)のことであり、手をまるく円を描いて振り回す意味を持っている。新たな方法論である。それを刷新した人間が用いることを言う。

 古人は、このことを知る人が多かった。
 運命は自らの手で切り拓く、努力する他力の意味を知っていた。懸命に努力する限りに於いて天命は働き、これが「他力一乗」になることを知っていた。若い頃、このことを教えてもらったのである。間一髪で命拾いしたこともある。

 ところが戦後の日本では、天や神仏に取って代わり、人間崇拝の民主主義が生まれた。
 神仏は眼に見えない。それに代わって、人間を英雄視したのである。
 芸能人やスポーツ選手が騒がれて英雄視され、成功視されるのは人間崇拝の考え方から起こった。芸能畑の成功者が偉人として書き加えられるのは、おそらく中世以来のルネサンス以降のことであろう。
 この根本理念には、庶民と言う一般大の意見は正しいという認識を持ったことである。つまり選挙人を選ぶ有権者は正しいとする意識である。

 斯くして人気投票に奔走することになる。多く支持を受けさえすれば正しい人となる。
 大多数は正しい。
 その例として、今日でも人気投票なるものがある。
 株価なども人気投票の最たるもので、それに準ずる投資信託もその類だろう。人気商品は、どこへ行っても引っ張りだこである。そもそも資本主義がそう言うシステムの上に成り立っている。

 昨今話題になる“行列の出来る店”もその類だろう。食評論家でも、食通でも、自称食通でも、「美味い」という言葉が連発・連鎖すれば、それは万人向けの美味い代表したことになるから、個人の一人や二人が反対した少数意見など問題にされないのである。大多数の意見で、美味いと一致すれば美味いのである。したがって逆もある。
 少数票だと不味いとなり、大多数の受けなければ追放の対象となる。
 大多数の意見は正しい。これこそが人間崇拝の民主主義の精神である。

 したがって選ばれた被選挙人は、民意を受けた正義の使者と言うことになる。
 ところが、逆も信なりではなく、裏に真実が隠れていることもある。
 事実は一変し、言い回しによって能弁者の言葉巧みにすり替えられ、言葉だけが議会政治の中で先行することになる。この言動原理である。行動など、二の次である。二枚舌でも構わないと言うことになる。行動も誠実も二の次になるのである。

 弁舌爽やかな者は多く支持を受け、謳
(うた)い文句に詭弁(きべん)が弄(ろう)され、これらのことが文言の中に織り込まれる。不言実行ではない。言論主体である。
 「あなたは正しかった。自分は愚かだった」
 思えば、経済優先に趨
(はし)る自由主義は、そういう実情を招く元凶を抱えている。
 そして堅実な人はこの種の騙しに掛かる。

 預金高の数字だけが幸せのバロメーターなのである。数字の桁と数字の羅列に踊らされる。
 現代社会は数字のみが上下して踊る時代である。数値主義である。

 さて、運命の転換は、何を以て転換と言うのか。
 幸福度を経済の向上と採
(と)るのか、大自然の自浄作用ととるのか。これからの地球は自力で回復できる自然力を持っているのか。その分岐点に立たされた観が否めないようだ。
 「換」の新生する発想は、疾
(と)うの昔に置き去られた観が否めない。古人が試みたその発想は失われたように思うのである。

 何故なら、現代は人真似人生を模倣する人が殖え、自身では自分を掘り下げないし、哲学すらもしなくなったからである。
 誰もが考えなくなった。その元凶は、目先の人生と安泰とに慣れてしまったからである。その後のことは考えない癖がついてしまった。

 現代日本人は、生き甲斐について何も考えなくとも、何もせずに普通にしていれば「普通に生きていける」と高を括
(くく)ってしまったのである。
 受験前の少年少女が考えることは、何処の大学に行けるかその種の受験であり、卒業間際の学生の考えることは、何処に就職できるかだけを考えていればいい。

 そして壮年が考えることは、如何にして社会の流れに妥協しつつ、巧く泳ぎ渡って得をするかだけであり、また老人は老人で、老後を如何に楽しみ、如何に若作りして長生きし、如何に安楽に死んでいけるかだけである。それ以外のことは考えない。人生を哲学することなど毛頭なく、また求道者でもあり得ない。

 しかし考えず、苦悩せず、迷わず、憤らず、己の無力で卑小なることに嘆かず、その種の人間に「換」の大事さは分るまい。切歯扼腕
(せっし‐やくわん)の困窮無くして「換」はない。そもそも必要としない。
 だが、人間の品性をよく考えると、思考の中にそれは存在しているのではなかったか。

 そして今、人間はパスカルの言うように考える葦でなくなった。
 現代人は宇宙に乗り出し、何ものも怖れず、大自然を征服し、管理して、利用できるようになったと思い上がっている。科学の力で生命を生み出し、死さえ遠ざけることが出来るようになったと思い、斯くして正しく考えることを棄
(す)ててしまったのである。
 これは神とも平行線であり、理想からは遠く離れて行っているのではあるまいか。

 私は長らく、極貧のドン底生活を送って生きた。
 まさに苦行僧の如き生活を四十の厄年から、六十を過ぎたごく最近までやってきた。
 しかし、極貧を一度たりとも「苦」と感じたことはなかった。志を持ち、理想に燃えていたからである。
 これをと同じ道を家内も歩いた。

 日々大忙しの格闘の毎日だった。能
(よ)く闘ったし、能く逃げもした。逃げて躱したことも度々である。そして能く生き残ったと思うのである。
 神出鬼没に現れ、消えもした。しかし、どれもこれも懐かしい。よかったことも悪かったことも、どれもこれも懐かしい。

 今でこそ、貧乏なる若者は殆ど見なくなったが、それでも時々真摯なる苦学生を見ることがある。こういう学生と大学構内で出会うと、つい私の若い頃を思い出し、何だか好感を持つのである。

 そういう若者に限って、何処か口には出さない、燃え熾
(さか)る原動力と、貧乏とが、歯を食いしばった凛々しさとともに、自らの不如意と闘う姿となって雄々しく感じることがある。
 側面で、「頑張れよ」と声を掛けたくなる衝動に駆られる。そして苦学生は、矛盾と闘うことに闘志を失っていないのである。
 こういう若者の中から偉業をなず人間が生まれるのだろう。
 刻苦勉励……。
 今では死語に近い言葉だが、いい言葉だと思うのである。



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