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武門の妻 序篇 5

現代日本人に取って「家」とは何だろう。
 往時の日本人のように「わが家」という感覚をもち合わせているのであろうか。

 既に「わが家」と言う感覚ななど、微塵もあるまい。その面影はあるまい。貧しくとも、精神性をもった、かつての「わが家」は存在しない。そういうものは、今は消えた。
 総てマイホームなのである。それぞれが平等・同等の権利を有する豊かで快適で便利なマイホームなのである。

 そして、マイホームの中には、確かにハッピーがある。
 それは往時の日本人が感じた幸福ではなく、物財に囲まれた豊かさのハッピーなのである。
 果たして、マイホームのハッピーと、貧しくとも精神的豊かさの存在していた頃の幸福な「わが家」と、一体どちらが倖せだったのだろうか。


●武門の家

 現代は非常に知識力を強調し、主知的な時代である。
 知力が、その他を圧し、細分化し専門化に趨
(はし)る時代である。そして物を観察したり、記述したりのストーリーには体系と言うものが重視され、論理的かつ概念的な頭の働きを求められる現実があり、その捉え方は人物でもその他のものでも、ただ“物”として皮相的に見るようである。

 自然科学の眼は、肉の眼で見ることの出来る「見聞の知」によって判断されている。
 しかしこの判断こそ、西洋科学の最たるもので、隠れた部分の有機的な繋がりを見逃した観が否めない。
 東洋で言う事理よりも、もっと深い見えない部分の把握が抜け落ちているのである。まさに直観が不在となっている。

 これを「直観」というが、あたかも断続的に映る隠れた部分を有機体として鑑
(み)る「藕糸(ぐうし)の絶えざるが如し」というもので、藕糸は、あくまで譬喩(ひゆ)であるが、それは蓮華の糸筋が隠れた地下の茎まで繋がっていることを指している。
 それゆえ西洋という科学文明に鎮座するものは、「体系」と言う名の還元主義である。

 しかし還元が正確であったとしても、丸ごと生きているものを細分化してバラバラにし、幾ら専門化したとはいえ、生きた有機的生命体を無機化すれば、この解剖主義的な論理では、元の生命を復元することは不可能である。

 特に敗戦後の日本では、科学的観念が増長された。
 一方、古来より連綿と続いた日本人の精神思想を、殆ど「科学的体系」と言う名をもって、完膚
(かんぷ)なきまでに否定しまったのである。
 そしてその否定は、一般人の範囲は仕方ないとしても、哲学や思想や歴史においても、これに携わる学術的な専門家までもが否定の方向に狂奔し、これまでとは一変した見方に変質させ、学習法までもを変えてしまったのである。

 それは奇
(く)しくも、西洋流の組織分析であり、また体系的分解であった。その結果、西洋の拡散と膨張の論理に掛り、東洋流の根本精神までもの悉(ことごと)くが分裂させてしまったからである。

 日本における第一次の欧米化革命を明治維新とすれば、第二次の欧米化革命は敗戦後のことで、この二回に亘
(わた)る西洋化革命によって、伝統的な「漢字文化」が衰退するに至った。
 特にアメリカからは完膚なきまでに叩きのめされた。
 斯くして戦後の日本には、アメリカナイズされることが常識として定着した。
 古来より連綿として続いた日本文化も、これによって大きな打撃を受け、日本的なものは総て「悪」となった。これにより、道徳や修身が教育現場から姿を消したことはよく知られるところである。

 昨今は、付け焼き刃的な道徳が復活したようだが、この道徳は何処まで追求しても、欧米化された、欧米のモラルに従う似非道徳であろう。
 斯くして、日本から人の道は失われたと検
(み)る有識者の見解もあるようだ。
 その一方で奇なることが起こった。

 これは小中学校の教科書から漢字が完全に消え去った訳でないが、西洋の科学的精神が教育の中に導入された結果であり、戦後日本には、それが著しかったのである。そして教育現場では、過去の日本的あるいは日本精神や大和魂を、総て悪の代名詞のレッテルで貼ってしまったのである。
 戦後の日本人の物の見方や考え方は、表皮的であり、近視眼的である。微細に執拗にこだわって専門化したため、肉の眼で確認できる表面しか見ない。そして、これを欧米流の「科学的」という言葉で持て囃
(はや)している。

 そもそも生き物は、有機的な繋がりを持った生命体である。
 大自然を含む総ては、みな有機生命体なのである。見えない部分で繋がっている。全体的に、有機的な繋がりを持っている。
 だがこれを表や分類によって数値的に表し、肉の眼に見える部分だけを体系的に捉えたとしても、生きた生命体の有機的な繋がりは捉えることが出来ない。有機的繋がりの中には、当然、隠れた部分が存在する。肉の眼で確認できない部分が存在する。
 物事を隠れたままに見る『東洋的有機体生命観』は、西洋の科学的体系とは大きく異なっているのである。

 東洋的有機体生命観は解剖などしない。絶たれたものは元通りに復元したいことを知っているからである。
 生命は絶たれると、元通りに復元しない。絶たれた生体は、物体に成り下がる。
 ゆえに細分化もしないし、専門化もしない。その分類すらしない。況
(ま)して生き物を物体化などしないのである。

 その証拠に、一度生命体を分解すれば、途中で解剖ミスなど犯さなくても、元の生命体は、元の生命体に戻すことが出来ない。復元できないというズレが起こるのである。それは生命体が無機物ではないからである。

 現代社会に登場している“科学的”という一般に使われる概念は、まず物事を皮相的に、相対的に見ることから始まる。信用すべきな自分の肉の眼で確認できるもののみである。
直観無視の概念で、概念的かつ論理的な知識を重視する考え方である。あるいは「智慧無視」という、智慧自体を尊ばない概念である。
 斯くして、「神は死んだ」となるのである。

 神を不在にして、信仰を否定して、専門の哲学こそ大事と説くのである。
 現代人は畏敬を念を忘れた。
 それゆえ知らず識らずという教訓から身に付けるものの一切を否定し、データから割り出された数値を大事にするのである。昨今の医療機関で出されるデータなどを検れば数値主義の氾濫
(はんらん)が一目瞭然であろう。

 医療機関では人間を「物」として看る。人として診ない。何処までも物である。意志や感情の無い物として扱い、例えば医師が「検査」と一言発すれば、患者側はそれが必要でないと分っていても、何故か「厭だ」と言えない力が働き、遂には命令されるようにベルトコンベアに載せられ物として種々複数の検査室送りとなるのである。あたかもアウシュビッツ送りになるようにである。それが、まず第一に怕
(こわ)いといえないだろうか。

 医師の欲しいのは検査のデータのみである。検査結果から出たデータの数値と照合して病気と病名を見るのであって、患者を診るのではない。
 だが数値のみで、的確なる判断に誤りがなく、正しいのか、真実なのかと言いたい。そして現代の知識である。

 現代の世では、知性と知識が別々のものに分離してしまった。
 現代人の多くは、知識があるが知性が無い。ゆえに知識階級の大半は“インテリ無知”であり、酷いのになると“インテリ無恥”である。
 現代の恥部は知識階級にも波及しているのである。



●貧士の客好き

 貧乏はそれを主観的に捉えるのでなく、客観的に捉えれば、それはそれで何処か風雅を感じさせる。
 あたかも、旅の途上の旅人を見ているような眼で観察すると、である。

 旅の途中、驟雨
(しゅうう)に遭遇する。街道を歩いている最中、突然の俄雨に出遭う。その雨で、旅人は木陰に立ち竦(すく)み、暫(しばら)くは此処で立ち往生する羽目となる。そのうえ濡れ鼠である。これを客観視すれば、一幅の画となり、また風雅を感じさせる。但し、雨に降られた旅人は大変だろうが……。

 これと同じように貧乏もこのように客観視すれば、一種独特の趣がある。
 現に、『酔古堂剣掃』には、「貧にして客を享
(もてな)す能(あた)わず。而(しか)も客を好む。老いて世に狗(したが)う能わず。而も世に維(つな)がるるを好む。窮して書を買う能わず。而も奇書を好む」とある。
 この貧士の客好きですた客観視すれば、何処か風雅を感じさせるのである。
 そして、この種の客好きは、金のないくせに無闇に来客者に酒を呑ませたり、ありったけの食糧を出して持て成し、且
(か)つ議論をしたがるものである。それが、また実に楽しいものである。

 呼ばれる方も楽しく、呼んだ方も嬉しくて仕方ないのである。こうして、同じ心を持った連中が挙
(こぞ)って、貧士の家に押し掛けても来る。
 このように人が集まってくる家は、未来展望として「栄える暗示」がある。人が集まる家は、栄える暗示があるのである。

 但し、その妻君は大変である。よくで来た人に限る。
 少なくとも、こういう家の女房と言うのは中々よく出来た人である。
 来客貧乏になりながらも、一生亭主と苦労することを厭
(いと)わない。それを覚悟に貧士の女房を勤めている。見上げた覚悟と言うべきであろう。
 それは、亭主と一心同体になって二人三脚で、人の喜ぶことを知っているからである。
 そのうえ自分達のことは後回しにする。決してマイホーム主義ではない。ここに家が栄える暗示がある。こういう家は、やがて天の富貴が味方するであろう。

 亭主は亭主で、老年になってこの方、遊楽習道風見で、益々世間とは逆行し、風流を好み、時代に取り残されている現実を振り返り、見るもの聞くもの全く面白くない。そのくせ白眼超然としておれない。なぜか捨て置けないのである。
 あっさりと世捨人になって隠遁すればいいものを、世の中の不条理が何かと癪
(しゃく)に障る。
 そう言う人物に限り、金でも持たせたら最後、有り金を叩
(はた)いて奇なる本を買ってしまうのである。
 人を持て成し、且つ老いて学ぶことを忘れない。

 『酔古堂剣掃』には、そのことを挙げており、そうでなければ、つまらない男というのである。
 更に本来、一廉
(ひとかど)の人物と言うのは、そうした人であり、この奇人振りこそ面白いと言っているのである。

 現代の世は民主主義が罷り通る時代である。この政治スステムを冒涜してはならないとされている。
 しかし、国民の間で均等な状態を作り上げようとする昨今の日本では、社会の同意に基づいて、自尊心を求めて一人ひとりが奮闘し、極端なエゴイズムが派生すれば、これがまたこの国の不安となろう。
 要するに、均等なる状態と言うのは何処まで追求しても幻想であり、誰もが均等かつ平等で一廉
(ひとかど)の人物と言う国では、裏を返せば誰一人、重要人物は存在しないと言うことである。敢えて言うなら、日本を僅か400人程度で動かしている高級官僚こそ、重要人物とされているのであろう。


 ─────さて此処に展開している内容は、小説風に脚色している。
 しかし事実無根を挙げている訳でない。根拠のない捏造話
(ねつぞう‐ばなし)を挙げているのではない。
 私は敢えて言えば、大した学も無い。一介の、学び足りない、大した学も持たない苦学の学徒に過ぎない。

 だが、人が喋った言葉は長らく記憶する特性を持っている。
 いつ誰が、どのようなことを喋ったか、それは子供の時から、印象に残ることは長らく記憶する能力があったと自負している。特技と言えばそれだけだろう。
 そして、その人が喋った当時の声の色すら覚えている。
 上げ調子か下げ調子か、怒張か、誇張か、歓喜か、悲しみか、苦悩の溜め息か、誘惑か、唆しか、二枚舌の絡む策略かなどの、それすらも以外に克明に覚えている。

 無駄に、ドン底を這い回った訳でない。七十年弱も順風満帆の世界で生きた訳でない。楽しいことより辛いこと、苦しいことが九割り以上も占めている人生を送った。まさに波瀾の人生であった。善人よりも悪人を多き見た。
 特に、“善人の皮を被った何もしない無力”な、善人と言う名の悪人は多く見て来た。地獄に仏などは滅多と出くわさなかった。

 それゆえ掛け声だけの、威勢のいい言葉で目眩
(めくら)まされ、助け舟きたらずの方便まで知っている。
 「また、次ということもありますよ」などの言葉で、体
(てい)よくあしらわれたことまで知っている。
 人の言語の中には、正直な発言のようであって、何処か自分に利する二枚舌が絡んでいるものである。

 人間は来る日も来る日も、何もいいことがない現実の中を生きているのである。至って日々好日で平凡なのである。大して、昨日と今日は変わりない。そう言う代わり映えのしない、平凡の中で人間は生きているのである。
 毎日がいいことのない連続である。しかし考えれば、この中に「いいことがない」という、いいことが起こっているとも言える。
 そして逆に、“いいことが起こった”とか“ラッキーが転がり込んだ”ということこそ、不幸のはじめである。

 例えば、声を掛けたら、偶然?にも見も知らぬ女が応じて、不倫が始まったとか、九星気学を信じていい方位を採ったら思わぬ喜びが転がり込んだなどの、この種のものは、実はアンラッキーの始まりであった。
 しかし、この偶然?を、途方も無いラッキーと思う男は案外多いようである。それが実は因縁的なアンラッキーであることも知らないで……。
 実は、これが不幸の始まりであった。

 したがって、代わり映えのない日々の連続こそ、実は「いいことが起こっている奇跡だった」のである。そして、人生は奇蹟に中に奇跡が起こる特異点が待ち構えているし、この特異点は諸刃の剣であるから、いつアンラッキーの働いて生命が絶たれるかも知れないのである。

 特異点は、人を殺すか活かすかであり、その中間は存在しないのである。
 生かされる奇蹟を期待するには、活かされるような振る舞いをしなければならない。その振る舞いに徳がなければ、人は活かされないのである。振る舞いに徳がなければ、他力一乗は働かないのである。
 生き残り、多くを期待しない平凡な日々にこそ、陰徳を積む機会は多々残されている。神は、天は、そこを見ていると言える。

 そして、私が体験したことは、こういう現実の中で、あるいは庶民の縮図の中で、きらりと光る大物を見たことも事実であった。
 目上の引き立ては確かに存在していた。捨てる神だけでなく、拾う神もいるのである。

 今日の私が、こうしてこの追懐ができるのは、拾う神に救われたからである。そして拾う神こそ、目上の引き立てだったのである。他力一乗の、努力する他力は働いていた。

 この世には、他力一乗が働く、どんでん返しのステージがあるのである。
 その前提は、如何なることがあっても生き残らなければならなかった。死ぬわけにはいかなかった。生き存
(ながら)えることこそ、人生の評価に値する根拠であったのである。
 ゆえに私には、他力一乗は確
(しっか)りと働いていた。
 その記憶に従い、これから先のノンフィクションを小説仕立てに綴ってみた。



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