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武門の妻 序篇 3



理想へ向かう夢は、いつも若者の志が息づいている。前途に波瀾が待ち構えていようと、この世に生を受けた以上、そこに身を投じることは、老いてもなお朽ち果てない証であった。


●こころざし

 現代に、「武門の妻」などと称せば、精神的にも時代的にも、大きな違和感を感じる御仁(ごじん)は多いであろう。
 封建時代の悪しき遺産として侮蔑する人も多いであろう。
 また時代錯誤が甚だしいと、私の古い頭を指弾する人も少なくなかろう。

 その意味からすれば、指弾されて当然だと覚悟していることだし、昨今の武道や武術と言っても、多くは格闘技化しスポーツ化し、「武の道」とは程遠いものである。そして、そこには「求道精神」が失われ、単に売名行為に奔
(はし)るものが少なくないようだ。

 更には、昨今格闘技界やスポーツ界は、芸能界の陸続きのため、現代日本人は一億総タレント主義の煽
(あお)りを受け、本来の素朴で朴訥(ぼくとつ)であるべき草莽的なものは時代錯誤のように見下されている。
 礼儀や作法は既に崩壊し、仁もなく義もないように思う。
 追うものは、自己の裡側
(うちがわ)でなく、自己の外にあるものばかりを追い求めている。金・物・色である。

 一方で現代が、往時のような形態の身分社会ではなく、また往古の武士達が日常生活の中に取り込んでいた生活様式や価値観も、それをそのまま現代に持ち込むことはナンセンスであると事は言うまでもない。それゆえ、一部の人達からは、時代錯誤のアナクロニズムの批判を受けることはあろう。

 だが、それを覚悟で、誹謗中傷も敢えて厭
(いと)わないことを百も承知で筆を進めている次第である。
 そして、批難と槍玉に挙げられ、大半の人から何らかの違和感を与える情報でなければ、情報としてな何の価値もなく、またわざわざ筆を執る必要もないのである。

 読み進めるに当り、ひとこと御断りすることは、各分野の武道や武術の態度に対して遠慮のない意見を述べたが、これについての責任の所在は、一切私個人の帰すべきもので、わが流を代表して批判を行った訳でもない。

 ただ、「道」が失われて行くこの現実は、危惧
(きぐ)すべき懸念である。
 現代人は、心を論
(あげつら)って生き甲斐を求める求道(ぐどう)がある反面、求道から程遠い選択肢をしたようにも思えるのである。
 いま「道」の概念が急速に失われている。物一直線にアネルギーが注ぎ込まれつつある。
 知識・知識……、科学・科学……の大合唱である。現代の世には、数値・数値……の数字の羅列が氾濫
(はんらん)している。
 だが、知識や科学の行き着いた先に、いったい何があると言うのだろうか。

 かつて『ノストラダムスの大予言』というのが実
(まこと)しやかに流布され、お騒がせの時代があった。日本を含めて、世界が滅びるその種の解釈がなされ、世紀末を思わせる流行があった。
 この大予言は、確かにお騒がせで終息したようであるが、しかし今の日本が、ジリジリと破局に向かって沈下しているのは拭
(ぬぐ)いようもない事実であるようだ。
 じっくりと今の世相を眺
(なが)めると、現代日本人の人間性が、本来の日本人の美徳を失い、徳の面が著しく変質していることに気付かされるのである。

 例えば、急増する未青年犯罪である。
 この異常は、かつてなかったような狂気の殺人や、また未成年の苛めによる自殺である。
 自他ともに狂ったように、何故か死に急いでいるのである。そして動機や原因も釈然としないものが多く、かつての恨み、憎しみ、飢餓などからくるものでなく、ある日唐突に人が死んでいくのである。
 現代ほど、人命が軽く扱われている時代はないであろう。
 また、自他を殺す殺人者にも、はっきりした理由があるとも思われない。

 そこで知識人や心理学者らは「キレた」という言葉を用いて、分析批評をし、その背景には親の在
(あ)り方、学校教育や教師の在り方などを指摘して、これが間違っていた、あれが間違っていたなどと分析する。最終的には政治や社会の在り方が悪いとなる。
 そして分析手法には、分析結果の数値主義により、増減の数値で示して、どんな事態もそれなりの正当性や理解ならびに同情が生まれ、結局未成年者の殺人犯は、周囲の同情において反省したり悔い改めたりの機会を失われるのである。

 昨今のネット時代は、不思議にも加害者擁護の団体が直ぐに立ち上がり、加害者への同情を訴えて強引に無罪に持ち込む判例も多くなって来ている。
 斯
(か)くして人の命は軽くなり、人命軽視に歯止めが掛からないのである。
 殺人者も、「オレが悪いのではない。みな社会が悪い、政治は悪い」となる。
 あるいは「親が嫌いだった。親が悪い……」となって、今度は親へ鉾先
(ほこさき)が向かい、親の不届き罪が指摘される。
 まったく難しい時代になったものである。

 こういう時代を作り上げたのも、背景には人情の機微が失われ、人に対する愛念や慈悲が喪失してしまったためである。
 それに代わって、観念的な理解とともに、分析結果の数値の氾濫から、これまで日本人が持ち合わせた理屈を超えた慈しみや許しを請う心が押し潰されて、もはや反省や悔い改める機会は永遠に失われるのである。
 同時に、現代日本人からは「恐れ畏
(かしこ)む」気持ちが消えた。怖れるものがなくなった。

 目に見えぬ存在に対し、科学は非科学のレッテルを貼り、迷信の最たるものと一蹴してしまったのである。
 日本人の科学的なる言葉の乱用とともに、では科学的なるその意味となると、これを明確に説明できる人がは少なく、ただ科学的と云う言葉と同時に、数字の羅列だけが一人歩きしているのである。
 斯くして、「恐れ畏む」意識は消えた。

 それはまた、現代人から良心を失わしめ、孝行を失わしめ、愛国心や徳や慈悲の意識までもを失わしめたのである。
 これこそ滅びゆく暗示であり、既に日本語の持つ言葉の意味すら希薄となり、言葉が消えると言う方向に向かっているという懸念すら感じるのである。

 言葉が消えるとは実体がなくなると言うことである。人間性が失われて行くと言うことである。
 人間から人間性が失われれば、もはや人間は人間でなくなると言うことである。人でなしである。
 一方、こうした元凶から生還できる要素は、「恐れ畏む」ものへの畏敬の念であろう。
 「恐れ畏む」存在を知る。これこそが、人間が万物の霊長と言われる所以ではないのか。
 その観念なくして、人間性の沈下は食い止められないだろう。

 かつて、フランシスコ・ザビエルが表した日本人の毅然とした姿に戻りたいものである。

 「日本人にはキリスト教国民のもっていない特質がある。それは武士が如何に貧しくとも、その貧しい武士が、豪商と同等に人々から尊敬されていることだった。清貧なる貧しさを、少しも恥だと思っている武士はいなかった」

 人間は貧富の差に関わらず、毅然さがあれば、貧しくとも凛
(りん)とした人格が示せるのである。その根本は清貧だろう。
 清貧はまた、自らを『自力灯』として、理想や夢へと向かって邁進する原動力になる。

 釈尊が死ぬ間際、弟子達はその周りに集まって「今、あならに死なれたら残されたわれわれはいったい何を頼りに生きて行けばいいのですか」と縋
(すが)ったと言われるが、そこで釈尊は「自灯明」という言葉を残されて逝かれた。
 つまり釈尊は、「釈迦の灯明を頼りにするな。自分自身を灯明として生きて行きなさい」と示したという。

 自灯明は、わが家の武門の家訓に遵えば『自力灯』である。
 自分自らが灯となって世を照らせと言う意味である。その裏には、また自分自身を深く掘り下げ、自己を探求せよという「道」へ続く教えがあるのである。道を教える「道学」である。
 『自力灯』こそ、自分と言うものをもう一度見詰め直す、「己
(おの)が灯」なのである。

 そもそも、かのギリシャの神殿に掲げられた有名な言葉に「汝自身を知れ」とあるではないか。
 内なる己と向かい合うことである。しかし、これは至難の業であり、また大いなる冒険でもある。それだけ難しい。
 然
(しか)も、立ち向かえば、立ち向かった者は必ず深い疵(きず)を負うだろう。
 だが、これを超克したとき、人は道の世界に入ることが出来るのである。自らを信じる信仰に入れるのである。



●余裕

 かつてザビエルが感嘆した武士の毅然さは何処にあったか。
 それは「余裕」の一言に尽きよう。
 人間は余裕を持つには、まず素心であることである。素心なく、粉飾していては誤解を招くし自らを殆
(あや)うくする元凶である。

 素心とは、浮世の汚れを洗い流し、巧妙さを捨て去り、純真なる心を言う。自然な心である。純真かつ自然で、素朴と言うのは東洋独特の文化であった。その文化には西洋のように利害打算などが絡んでいない。利のみで交わっていない。
 利は二の次である。

 往時の日本人も、利を二の次に考える文化を持っていた。
 地位、名誉、利益などを抜きにして、人間の朴訥
(ぼくとつ)なる真の姿のまま、純粋に素地で、素心で人と交友を持ったものである。こういう交わりを「素交」といい、この素交をもって生地のままの誠を貫いたのである。これを「至誠」という。
 至誠は、如何なる窮地に立たされても、喪失すべからざるものである。
 利害、利権、年齢、立場、地位、身分、家柄など、様々な世間風の着色に染まらない人間関係を作ることを友誼の第一としたのである。

 貧しくとも密かに徳を積む。
 窮すれば窮したで、それに振り回されず、自らを快活にする。これが窮した場合の徳である。窮すれば通ずるのである。
 踏み止まって絶えていれば、天に届くのである。
 これこそが他力一乗の原点であった。

 心の練れていない人は、逆境や狂乱に遭遇すると、慌て、焦る、狼狽
(うろた)える。どうしても混乱して、まごついてしまう。更に深刻さが増せば思い詰める。そして行き詰まる。苦悩するだけ苦悩して、自分では解決できない。まだ来ていない明日の事まで思い悩む。
 こういう時には、余裕が大事である。
 余裕は、心を鍛練することにより生ずる。心を養えば余裕ができ、こうした局面も却
(かえ)って風雅となるのである。

 一時の混乱に囚われて、現実の何たるかを見失ってはならない。如何なる現実に立たされて、そこが窮地であっても、心は自由さを失わない。柔軟に動き廻る。
 この自由こそ、存在であり、生活が表されているのである。そこに風雅と言うものが生まれる。それは余裕があるからである。
 そして私の場合は、これに一捻りを加えて「損する余裕」を人生観の中に設定してみた。

 人の世は、綺麗事だけでは済まされないせかいである。現象人間界は、善も悪も綯
(な)い交ぜとなって、清濁併せ呑んでいる。善人の居る分だけ、またそれに比例して、悪人も同数居るのである。

 それ以外は、可もなく不可もなく、また沈香
(じんこう)も焚かず屁もひらずの、その種の人達である。
 最も始末の悪いのは、この種の人間であり、思い込みと人真似模倣で生きているから、常に「何もしない」という過ちを犯して生きているのである。この種を敢えて分類するならば「善人と言う名の何もしない悪人」であろうか。
 そして時には、小さな罪を何の過失もなく、それを「天は見ていない」とか「天などいるものか」と高を括
(くく)っていることである。

 その背景には、組織人であるが故に、知らぬ過ち、気付かぬ過ちを犯すことがある。
 謀
(はか)られれば、『謀填(ぼうてん)の徒』となることがある。
 よく、素人ほど恐ろしいというが、まさにこれでる。
 「謀填」といいう言葉は、私が若い頃に聴いたものであるが、これを教えてくれた人のおそらく造語であろう。更には、計略などの手段もこれに入り、素人が、堅気が、ときにこれに与
(く)することがあるから、気を付けよと忠告されたことがあった。その忠告を今でも墨守し、人を検(み)る物差しとして遣っている。

 謀填という語は、辞書にそういう言葉はない。
 しかし、これを教えてくれた人は恐らく自分の経験からこの言葉に行き当たったのか、誰かが用いていた造語を使っているのであろう。
 または「謀略」の中にあった、かつての用語かも知れない。私には何処から引用されたものか検討がつかなかった。
 しかし、「謀」の文字が使われている以上、「はかりごと」であることは間違いない。
 つまり、現象人間界は、騙す側と騙される側が居て、その鬩
(せめ)ぎ合いを演じているのである。これを完全に回避するのは至難の業である。

 そこで、万一の場合、まごつかず、慌てないためにも、損得勘定の「損」を計上し、私はこれを「損する余裕」と呼んでいるのである。
 一寸先は闇である。
 その先きに、青天の霹靂
(へきれき)が待ち構えているかも知れない。どんでん返しの特異点が発生するかも知れない。

 これを、人生にはよくあることだと感得し、最初から「損」を計上して、負債を抱え込むことを覚悟の人生道を歩いているのである。
 敵は、おそらく襲って来ないだろう……と考えるのではなく、最初から襲われることを覚悟の上の人生道を歩いているのである。

 この世は何が起こるか分らない。
 また人間は一筋縄では行かない。多くは一癖も二癖もある。昨今のように物質第一主義で、科学万能主義の世の中では、物が先行しているため、欲に転び易い時代とも言える。裏切り、欺き、陥れは常套手段のように使われている。その覚悟で損することを計上していれば、それも余裕になる。
 それだけで、万一の場合、衝撃も半減する。

 私は若い頃から、日本刀が好きで、二十代前半には刀剣商売を遣って来た。刀剣市場に出没していた。
 その経験上から言えば、簡単なことだが、押し売りを考えてみれば分ることである。
 刀剣市場には多くの有象無象の、一筋縄では行かない鬼どもが殺到する。したがって業者間で、刀剣類を押し売りされとき、絶対に「金がない」などと言ってはならない。
 ババ抜きをするために、填
(は)めることを前提に競争入札が展開されている。

 そこで金がないと言えば、「今は金がない……」と看做
(みな)され、“先でよい”とか“延べ払い”でいいからと、まんまと売り付けられてしまう。言葉尻を捉えられて、揚げ足を取られ、遣り込められてしまう。
 こういう場合は、金がなくとも、相手に金がないと悟られてはならない。
 また、商売をギリギリの資金で遣っているなどと悟られてはならない。余裕がるように見せ掛けることが大事なのである。金がなくとも、ある程度の資金を有しているように見せ掛けることが大事で、足許を見られてはならない。
 金がないと見られれば、そこを読まれて付け込んでくる。

 かの『葉隠』で言う、健康であるよりも健康そうに見える、その見掛け上の毅然さが大事なのである。それとともに、余裕があるように見せ掛けることである。余裕がないと、資金不足を見透かされて、足許を掬
(すく)われるのである。

 したがって、こうした場合の返答は、自分が余裕綽々
(しゃくしゃく)である凛としたところを見せ付けておいて、まず押し売りする作品を、縦横のあらゆる見地から評論できる眼力を養っておかねばならない。一ヵ所を突っ込まれても、他方から切り返す評論の眼力がないと付け込まれる。

 「眼力がある」と言うことは、作品に対して長短を指摘できると言うことである。また、作者についてもその精神的長短や伎倆の長短を論ずることが出来るのである。
 この場合、欠点ばかりを論
(あげつら)っても駄目だし、逆に褒(ほ)めちぎっても駄目である。拮抗していなければならならないのである。

 これこそ、転ばぬ智慧であるが、この智慧が中々会得できない。そこで学ぶことが必要になってくる。
 学ぶのは、刀剣美術についてのみではない。それを扱う、人間側の心理を学び、研究し、人間学を会得するために「人」その者を学ぶのである。扱うのは人間であるからだ。
 この術を会得しておれば、不意打ちを食らっても簡単には倒れない。



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