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死ぬるも、また一大事 2

幸福と不幸とは、言わば紙一重である。表裏一体で貼り付いている。
 また神と悪魔も表裏だろう。人間現象界には、常に二面性が付き纏う。
 この構造を把握すれば、地獄の底に極楽があるのかも知れない。奈落の底に落ち、その最下位で這いずる廻れば、ここから這い上がる創意と工夫が生まれ、やがては極楽に舞い上がることもあろう。
 その意味で、地獄の底には「極楽への手掛かり」があるのかも知れない。


●一寸先は闇

 人間にとって、「未来」という未知のものに、確かなものは何一つもない。一寸先は闇(やみ)であり、一秒後、一分後、一時間後に、どういう出来事が自分を見舞うか分からないからである。前途は、不確かな闇に包まれている。決して、万人に対して洋々たる未来は開けていないのである。
 人間は間一髪のところで、奇蹟的に生かされているのである。生かされる因縁によって、まさに生かされているのである。
 だが、特異点を持って変化する「運命の襲撃」に対して、現代に生きる“自分”という存在は余りにも無防備なのである。

 科学技術が進んだ今日でも、明日の天気すら正確に言い当てることは出来ないし、台風の進路すら明確に予測するいことは出来ないのである。
 現世とは、こうした予報や、予測や、予知が不可能な状態の上に、物質文明が築かれ、未来は、多くの未知の不測に包まれていると言えよう。

 つまり、現象界の事象を、物質的な測定によって解き明かそうとしても、可視世界は物理的に測定が可能であろうが、不可視世界は、物理的な測定は不可能と言うことになる。
 物理的な測定の結果からは、不可視世界の現象が把握できないからである。一人の人間の運命すら、物理的な測定では計ることができないのである。

 したがって、人生は「一寸先は闇」である。いつ何が起こるか分からない。こんな時代に私たちは生きているのである。あるいは歴史そのものが、可視世界と不可視世界の融合体であると言えよう。
 つまり、物理的現象の裏には、不可視世界の「何か」が同居していて、それが同時に働いている事になる。可視世界と不可視世界は、つまり表裏一体の関係にあるからだ。

 しかし、可視世界は眼に見えるが、不可視世界は眼に見えない。眼に見えない人間の運命は、明らかに不可視世界にあるものだ。だから、人間は一秒先、一寸先が、闇を見るようで、検討がつかないのである。
 また現代は、多くの危険に満ち溢れており、現代社会を生きる者としては、最低限度の危機管理能力を身につけていなければならない。

 しかし多くの人は、この点を迂闊
(うかつ)にも見落とし、自分は特別であり、こうした「危険な局面」に遭遇しないと、安易な考えを抱いている。
 またこれが、日常生活下の中で、安易に現実を捕える現代人の姿でもある。悲劇とは、こうした安易な考えから起こるものである。

 この地球上に存在するさまざまな事物には、非日常空間という危険な現象を誘発させる要因を含んでいる。
 事実、私たちの身の周りには、直接的な関わり合いだけでなく、間接的な関わりが生まれ、戦争の火種の消えない戦場、核実験場、原子力発電所周辺、疫病、台風直下、大地震、地盤弛みの大雨災害、火災下の高層ビル、交通事故、航空機墜落事故、ハイジャック、金融恐慌、借金地獄、犯罪渦巻く大都会……等と、目紛
(めまぐる)しく、次から次へと新たな不安が襲って来る。

航空機墜落事故 暴動鎮圧

 現世の実体とは、非日常下の連続の中に、途切れ途切れに存在する、ほんの束
(つか)の間の日常生活があるということに過ぎない。それは丁度、戦争と戦争の間に、細やかな平和が存在するという現実と酷似する。

 したがって、どんなに安泰で、安全圏にいて、然
(しか)も、順風満帆(じゅんぷう‐まんぱん)であっても、次々に姿を顕(あら)わすものは、非日常の恐ろしい現実であり、これに対して現代人は適切な解消手段を身につけておかねばならない。つまり実践的で、なおかつ、平常心で対応できるという心構えである。そして実践的であるということは、裏を返せば日常生活下の普遍性は、必ずしも保証されていないということである

 しかし、一つの未知に確かなものがある。
 それは自分が、将来「必ず死ぬ」と言うことだ。
 「もしかして、死ぬ……」というあやふやなものではない。必ず死ぬと言う事だ。死ぬべき存在なのだ。
 人間が、いつ迄も生きていたいと思うのは、誰もが共通した人情である。共通の欲望である。しかし、やがて死ぬ時がやって来る。

 人間の日常生活は、「いつ迄も生きて行こう」とすることが基本となって構築されている。
 ところが、「いつ迄も生きて行こう」とする究極は、「必ず死ぬ」という、覆
(くつがえ)せない事実と表裏一体の関係にある。

 究極が「死である」という事は、生の向かう先には、死が見隠れしているという事である。
 生きて行く為に、人間としての営みを重ね、日々、何かに向かって邁進
(まいしん)しているが、その行き着く先は「死」である。確実に、死に向かって突き進んでいるのである。
 この、一見、死に向かって、日々、歩み続けていると言う行為は、人生が無意味なものに思えて来る。
 それは「生きる為の努力」が、死に向かって歩んでいるからだ。ここに寂寥
(せきりょう)が襲い、空しさが襲うのである。

 ある意味で、人間は生まれながらにして、死刑宣告を言い渡されているようなものである。実際の死刑囚と違うのは、ただ死刑執行の日が確定されていない事だけである。それだけに考えてみれば、人はみな哀れな存在であり、不憫
(ふびん)な存在であるといえよう。
 何故ならば、自分の死ぬ命日が確定されてないだけに、自分の死は他人事のように思え、遠い未来の事と考えてしまう。そして今は、やがて自分の死がやって来ると言う実感を抱けないからだ。

 ガン告知をされ、「余命数カ月」という、死を待つだけの人の不安の胸中は、計り知れないものがあるが、考えてみれば、現在、健康な躰
(からだ)を維持している若者であっても、いつ何時、突然、不慮(ふりょ)の自己で死に遭遇するかも知れないという事である。
 ただ、ガン病棟の末期ガン患者のように、不治を言い渡され、病床に横たわって居るか、居ないかの差であり、単に健康な若者の寿命と、ガン患者の寿命を比べれば、単に寿命の長短だけの問題である。

 一方、飛行機事故や高速道路での交通事故は万全が期され、滅多に起らないとされているが、事故調査委員会の調査官は、ほぼ毎日のように何処かで飛行機事故や鉄道事故、その他の乗り物の事故を多く検証する。
 また、高速道路を取り締る交通機動隊の警察官でも、毎日のように交通事故の調査を検証している。この事実は、滅多に起らないとされる事故が、実は頻繁
(ひんぱん)に起っていると言う事を物語っている。

 仕事で飛行機に乗り、目的地に向かう途中、飛行機が墜落すると言う現象がある。
 しかし、墜落する飛行機に乗り合わせた人は、飛行機に搭乗する際、今日、その飛行機が墜落して大惨事になるとは思わない。

 また、交通事故に遭遇する人が、マイカーを転がしていて、高速道路を走っていて、その数時間後に大事故に遭遇するとは思わない。あるいは所用で鉄道に乗り、その電車が数分後、運転ミスで正面衝突するとは思わない。こいうい人達も、朝、家を出かける時には、家族に夕餉
(ゆうげ)の用意を命じて出掛けたはずである。まさか自分が、今日、事故で死ぬとは、夢にも思わなかったはずである。

 事故に遭遇する人も、向かう先の各々の目的地があり、そこを目指して出かけ、その後は家に帰り着く事を信じて疑わなかったはずである。しかし、信じた事は成就しなかったのである。ここに、「一寸先は闇」と言う現実があり、人の命は、儚
(はかな)いものであると言う実体がある。

 この現実を考えれば、死の問題は、決して老人や病人だけの問題ではなく、万人に対して共通した厳粛
(げんしゅく)な問題として浮上して来るのである。
 死は、宗教でも度々繰り替えされて説かれている。
 生きると言う行為を裏から見れば、それは死に向かう行為である。したがって、生きると言う行為は、死ぬと言う行為を明確にさせなければ、生の意味は発見できない事になる。生の意味は、死と表裏一体の関係にあるのである。



●「無」に回帰する非存在の人間

 一般に多くの人は、生の終わりが死と思っている。人の誕生が人生の出発点で、死ぬ時の臨終
(りんじゅう)が終着点と思っている。そして、その中間が人生だと思っている。
 こうした考え方を、一概に否定しないが、これは時間の継続を生存と言う形に置き換え、数直線上に置いたものに過ぎない。単に、時間と空間を考えた虚構である。錯誤である。

 何故ならば、時間を空間化すれば、時間と言う本当の意味は消えてしまう。
 時間とは、空間と共に、人間の認識の基礎を成すものであり、この時刻とを併
(あわ)せたような概念は、何処までも時間であり続けなければならない。その空間化の入り込む余地はない。継続の長さを数直線で顕(あら)わし、それが時間だとすることは出来ない。その場合の継続の長さは、「経過」でしかないのだ。
 元来、時間と言うものは、「長短」で顕わすことができない概念なのである。

 そして、私たちが肝
(きも)に銘じて忘れてはならないことは、ハイデッガーが「人間は、死に向かっての存在」と定義しているように、人間は死ぬべき存在なのである。
 人間はやがて死ぬ。これは人間だけに感知できる未来予測である。この予測は、他の動物にはない。また、植物にも存在しない。人間だけが、自分の身の上に、必ず死がやって来ることを自覚できるのである。

 その自覚は、実は今直ぐにでも、死がやって来るかも知れないと感知できるのである。そればかりか、死は一秒後の、一寸先の、ほんの短い瞬間にも、襲って来るかも知れないと云うことを感知することができるのである。こう考えると、人間の「生」には、常に「死」が混じり合っているのである。

 つまり、人間のしての存在の本質が、実は死と言う現実のあることに対し、人間の存在は実は「非存在」ということになる。だから、人間の裡側
(うちがわ)には、存在と非存在が互いに結びついて、同居していることになるのである。
 人間は、生きながらにして「死」の恐怖に曝
(さら)されている。
 生きていることは、つまり強迫観念に、不安と罪責を観
(かん)じ、心の深層部では激しい不安を体験していることになる。しかし、死が訪れる不安を、出来るだけ思い出さないようにしている。

 存在と非存在の狭間に挟まれて、人間は時として不安体験をする。この不安とは、自己の存在が、ある時、「無」に帰しうるということを感得した人間が体験する主観的な状態であると言えよう。その背景には、人間としての存在の本質が、いつの日か、必ず「無」に回帰されることである。

 そこで、自分が死に向かって進んでいる存在である事を感知している人間は、一方で、自分が自由な存在であることを知っている。
 この場合の「自由」とは、束縛から逃れる自由ではない。自分自身の在
(あ)り方が、自分自身に委ねられている本質的な意思において、これが自分自身に委ねられているということである。

 人間の肉体だけを見れば、確かに他の動物に似た、本能的な衝動を持っていることが分かる。しかし、他の動物の衝動は一義的である。つまり、存在するということと、衝動が一体である。
 ところが、人間はこの衝動を退
(しりぞ)ける事が出来る。これが人間の所有する「自由」である。つまり、人間は他の動物と異なり、自らの存在を、自分の手で形成していけるようになっている。人間は自己現実に向かい、それに邁進することも出来るが、一方で責任を負わされた存在でもある。

 人間は自由であるが故に、常に自らの存在を自分自身で決定していかなければならない。存在の意義を証明し、その自己現実に向かって決定していく課題を担わされている。
 それは「死」という非存在の脅威に曝
(さら)されながら、自らの存在を決定していく課題の前に立たされているというのが、「今この一瞬」を生きる人間の姿であり、これこそが人間的実在の、紛(まぎ)れもない本質と言えよう。

 この本質的状況を洞察した時、人間は容易に不安を体験する。一見「死」が恐ろしいと思う。したがって、人間である限り、「死」の不安は取り憑
(つ)いて離れない。
 いま健康体として、わが世の春の人生を謳歌していても、また、病床に伏して細々と長生きしている老人であっても、「死」の影からは逃れることができない。死は確実に迫る。

 死が、いつ襲って来るかと言う点については、健康体の若者の方が後で、病症に伏した老人の方が先であるとは言い切れない。事故死を考えれば、健康体の持ち主である若者が先かも知れない。だから一寸先は闇である。したがって、生きるべき課題において、問題点は「闇」の部分に隠されている。

 だが、「闇」がどんなもので、一寸先の未来に何が起こるか、予測が出来ない。だから、ここに不安の要素が横たわってる。
 しかしである。
 此処で問題になるのは、闇に隠された不安に対し、これにどう対処するか、それは個々人の態度に委ねられる。

 死と言う、非存在の可能性に対し、これをどう対処するか、それは「死」の観念を自覚し、それに対処する態度である。また、自分に課せられた責任をどう処するべきか、更には自分が何を為
(な)すべきか、これを知っている人は、目前に、自分の死が眼の前に迫ったとしても、死の不安から解き放たれる。

 死と言う非存在と向き合い、これを正しく対処できるか否か、それは、実は死生観を超越し、穩
(おだ)やかな境地に居る人に限られる。その境地を得た人は、自(おの)ずから死の不安からは解き放たれる。

 しかし、この世の大多数の人間は、死に対して真摯
(しんし)に向かい合い、自分が、本質的には非存在である事をあまり認めがらない。いつまでも生きる存在として、死から逃れ、不安から逃れている。
 非存在の脅威にいつも眼を背け、故意にこれを忘れて、死生観を超える努力を怠っている。然
(しか)も、その為(な)すべき事を知りつつ、実はこれを履行(りこう)していないのである。

 死生観を超越することへの不履行……。
 これは不安が不安を呼ぶことになる。
 死ぬべき非存在の人間が、不安と罪責に駆られ、「死」から逃げ惑う。不安を恐れて迷走する。
 死を恐れている姿である。

 しかし忘れてはならないことは、こうした人間に限り、また、運命の陰陽は克明に働くことだ。
 非存在の人間に対し、運命法則は克明に姿を現わし、陰陽に支配をもって、運命はその人間を苦しめ、ついには残酷な死を齎
(もたら)すのである。これは短命で終る所以(ゆえん)である。

人の死を複雑にする事故死の実体。それは人間の本質が、「非存在」としての実体を知らないからだ。
 生きていると云うことは、紛れもなく、人間が天より生かされているということである。それを忘れた時、事故死と云う、思いも掛けない不幸は、怒濤
(どとう)のごとく襲って来る。

 「恐れるものは皆来る」という俚諺
(りげん)があるが、不安は「恐れ」を作る。それが脅威を伴い、不安と手を携(たずさ)えて、罪責感が人間を襲って来るのである。「無」に帰する事の非存在の本質から眼を背けたからである。
 したがって、本来穩やかであるはずの、人の死が、地獄絵
(じごくえ)(さな)がらの残酷な、阿鼻叫喚(あび‐きょうかん)を呼ぶことになる。

 事故死で死んで行く人間の多くは、「無」に回帰するはずの人間本来に実体を見失い、穩やかに死ねるはずの人の死を、わざわざ騒ぎ立てて、複雑にし、難解にし、不成仏的な死に方を選択しているのである。
 何と愚かなことか……。




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