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如何に死ぬべきか 4

死するに当り、巧く死ねればいいが、中には交通事故死をしたり難病奇病に沓死んだ挙げ句、苦しんで死ぬなどの悲惨な死を遂げる人がいる。


●生まれては死ぬ

 現世に生きる人間の多くは際限もなく、物質だけを信用し、それを欲しがってきた。
 金品などの物財をはじめとして、異性を求めて自由恋愛に現
(うつつ)を抜かし、精液の垂れ流しのセックスに狂奔し、物を掻(か)き集めて身の周りを飾った。美しいもの、可愛いものだけの目を向けて来た。

 しかし、死を目前にすれば、今まで必要と信じられていたものが、殆ど不必要であると言うことを知る。総てが幻想だったと分かる。
 せっせと溜め込んだ小金、人を伸
(お)し退(の)けて掴んだ地位、自己顕示欲を満たす名誉、そして物財に明け暮れて蒐集(しゅうしゅう)した自慢すべき品物……。
 先んずれば人を制す……。
 自己顕示欲はこの顕われか。
 これらは一切、死ねば無効になるばかりの物である。死後の世界には、何の意味も為
(な)さない。

 それは死を目前に控えた老人を見れば明白だろう。
 人は生まれた以上、その後に残るものは、死を待つばかりの人生となる。特に老人になれば、これが克明のものとなる。これはどんなに否定しても、覆
(くつがえ)すことの出来ない事実である。
 したがって、人間は生きている間に、如何に「生死を解決するか」という事が問題になる。その準備が問題となる。

 生まれて死ぬ……。
 人は生まれては死ぬ。死んで、また生まれる。
 これは人間に最初から定められた宿命である。
 しかし生まれて、死んで行く迄の間に、人は自分の使命を全
(まっと)うし、人生を意味付ける。
 また「生まれて来た」ことに値する使命を果たすのである。その使命には「生死を如何に解決するか」ということも含まれよう。

 しかし一方で、突然に襲って来た死に、“生死
(しょう‐じ)”を解決できずに、悲愴(ひそう)な気持ちを味わいつつ、死んで行く人は多い。こうした「悲しみ」で、死を迎える人は意外に多いのである。
 そして、死に行く人にとっては、この悲しみが、やがて「迷い」となって、成仏
(じょうぶつ)の妨げとなる妄執(もうしゅう)を招き寄せるのである。
 これが仏道で云う「迷妄
(めいもう)の執念」である。
 そもそも生死は、人間は人の死が最後と思えば、その死は永遠のものとなり、また生死の「迷妄の世界」に流転
(るてん)する輪廻(りんね)と思えば、それは間断(かんだん)なく繰り返される。

 永遠の死も、間断なく繰り返される輪廻も、どちらも迷いっぱなしの生死を解決できない“終りなき生き方”と言えよう。それはあたかも、車輪が回転して極まりないように、である。

 さて現代人は、その多くが、病院で生まれ、病院で死んで行く。こうした死んで行く人の多くは、かつての日本人が、月の「満ち欠け」によって、生まれ、死んでいった事と、逆行する運命を辿っている。月は太古より、潮汐
(ちょうせき)を通して、人の死に関わっていた。人の生き死には、かつては月が関与していると思われていた。
 おそらく自然死は、潮汐を通して死を感知したのであろう。

 しかし、今日では現代人が病院で生まれ、病院で死んで行く現実を見れば、人が自然死で、汐
(しお)が引いていくように、死んで行くことは殆ど考えられない時代になった。
 この意味で、現代人は、古代人より退化した文明の申し児と言えよう。そして「退化」の実情の中で、現代人の生と死が繰り返されているのである。

 その為に、現代人は、「人間が死んで行く」という現実を充分に学習する時間がなくなっている。つまり、「人の死とは何か」ということに、赤の他人の不幸を見るような眼で見ているのである。

 「人の死」というものが、よく分からないために、「物事に始めがあり、終わりがある」という「けじめ」の大切さを知らないのである。
 「けじめ」を理解しない人は、その生涯において、常に迷いっぱなしで人生を送り、生死を解決できないで死んで行く人である。

 安易に「人の死」と云うが、生死を解決できないで生涯を終える人は、「人間のけじめ」をつけることができないので、再び六道
(りくどう)を輪廻(りんね)して、「迷い」を繰り返す事になる。六道を輪廻する事を繰り返せば、これこそ「終りなき生き方」と言えよう。



●何の為に働くかを知っているだろうか

 人は働かねばならない。
 しかし、何の為に働くかを真当
(ほんとう)に知っているか、それを知る人は少ない。知りもしないで齷齪(あくせく)と働く。
 この理由は何か?……。これをあまり考えることは無い。
 しかし、何の為に齷齪と働くのか。
 なぜ齷齪しなければならないのか。
 これを真摯に考える人は少ないようだ。

 多くの人は、こう答えるであろう。
 「若いうちに、一生懸命に働けば、齢
(よわい)をとってから、働かずに幸せになれる」と。
 したがって「若い今のうちに、精一杯働きましょう」というスローガンに、つい惹
(ひ)かれて、これが本当かなと思う。
 しかし、真当
(ほんとう)でも、ウソでも齷齪(あくせく)しなければならない。喰うために働き続けなければならない。
 何故ならば、周囲の誰もがこうしているからだ。

 しかし齢を重ね、歳をとってから幸せになれると言うのは、真当か。
 人が幸せになると言う現象は、その人個人の徳分から生まれるものである。その人に蹤
(つ)いて廻る因縁(いんねん)に他ならない。齷齪(あくせく)と働くこととは何の関係もない。

 金銭だって、そうだ。
 その人に金が蹤
(つ)いて廻る因縁がなければ、幾ら一生懸命に働いても、金は身に付くものではない。逆に若い時、そんなに齷齪(あくせく)と働いたわけではないが、金が身に付く徳分を持っていれば、やはり歳をとってからも金の方が蹤(つ)いて廻って、金には困らない人が居る。
 これは我が身の因縁であり、また徳分である。

 ところが、こうした因縁がなく、徳分がなければ、貧乏をしながら、肉体を酷使し、歳をとっても働き続けねばならぬ人が居る。
 こうした現実を見ると、「人は何の為に働くのか」という事が分からなくなって来る。

 多くの人は、金を得る為に働いている。これは金を多く得ることによって、幸福になれると信じているからだ。
 しかし金が身に付く因縁、つまり徳分がなければ、幾ら働いても、これは身に付くものではない。これは単なる理屈ではなく、平常の現実として、周囲には、実際にこう言う人が何人か居て、それを見ると、実に羨
(うらや)ましい限りである。

 因縁や徳分は、欠落していれば、金がついたと思っても、こうした金は一時的なもので、直ぐに抜け出て行く。こうした場合、ただ抜け出て行くだけではない。今以上に兇
(わる)い結果を伴って抜け出ていくのである。

 例えば、真面目一点張りの人が粉骨砕身して歯を喰い縛
(しば)り、鼻水垂らし、懸命に働き、生存競争の中でも、臂(ひじ)で他人を押し退け、せっせと金を溜め込んだとしよう。
 ある程度まで溜まり、どうやら一安心と胸を撫
(な)で下ろしていると、もし、この時に金が身に付く因縁と徳分がなければ、家族が生死を伴う重病に罹(かか)ったり、自分が交通事故に巻き込まれたり、その後遺症で廃人同様になったり、その他の事件や、火事などの災害に巻き込まれたりして、金は直ぐに出て行って了(しま)う。

 これを考えると、幾ら齷齪
(あくせく)と働き、身を粉(こな)にしたところで、金が身に付く因縁と徳分がなければ、やはり出て行くようになっている。
 以上は現象人間界における事実として、率直に認めなければならない。

 人は念ずるに似合った生き方で、自分の人生を送りたいと思っている人が少なくない。
 ところが世の中は思い通りにならない。同時に、念ずるばかりで、欲の方が先走りする人も少なくない。

 これだけ一生懸命に働いているのに「給料が少ない」「ベースアップが無い」「夏冬のボーナスが少ない」「夏や冬の有給休暇が少ない」「今の仕事が自分の合わない」などの、要求事項ばかりが「欲する人」の姿であり、こんな人に限って、自分を顧みて、自己向上に努力しない人である。念ずる事と、欲ばかりが強くて、金が身に付く因縁も徳分も持っていないということが、こうした言葉から証明される。

 そこで東洋の哲学者達は、金や幸せを直接的に掴もうとせず、金や幸せが舞い込んで来る「徳分」を最優先に考え、徳を養う事に努力したのである。
 つまり、金や幸せの方が、身に付くような因縁を探したのである。自分が追い求めるのではなく、金の方から自分に向かうように仕向けたのである。

 金や幸せを直接に求めれば、それは単に、我欲
(がよく)の炎上に過ぎない。貪欲(どんよく)さや我執(がしゅう)の強さばかりが表面化するだけである。いわばこれは、人間の煩悩(ぼんのう)をたぎらせているに過ぎないのである。

 ところが、東洋に哲学者は、それを自分の方から直接に追い求める事をせずに、金や幸せの方が、自分の方へ向かってやって来るように仕向けたのである。
 天理教などは、「求めて得たものは埃
(ほこり)」と云っているが、これはまさに真理を適中させた言葉である。

 幸福と言うものは、総
(すべ)て自分から求めるものではなく、先方の方が、こちらへやって来るものでなければならない。この真理を見抜いた東洋の哲学者達は、「幸福が身に付く徳分」を養うように努めたのである。幸福とは、自分が求めて追い掛けるものではなく、先方の方から来るものなのである。それこそが、本当の幸福なのである。

 自分から追いかけ、それを掴む行為は、強奪であり、必ず後に禍根
(かこん)の結果を招くものである。自分で求めるものは、我利我欲(がりがよく)の何者でもない。仮に、自分が追い求めて、何かの幸運を掴んだとしても、これは何かの凶事を残して、やがて逃げ出して行くものである。実は、金と言うのも、こうした特性を持っている。

 幸福と言うものは、求めたからと言って、与えられるものではない。求めて与えられるものであるならば、世の多くの人は皆幸福になり、齷齪
(あくせく)と働く必要はないのである。しかし現実とは、これとは大きく異なる。
 幸福を願って、金を得る為に一生懸命働き、歯を食い縛
(しば)ってそれを求め、願っているにも関わらず、実際には百人に一人、否、千人に一人も幸福になれた人はいないであろう。

 金を沢山
(たくさん)所有出来れば、幸福になれると誰もが信じている。
 幸福になるために、金を得ようと働き、その究極の目的は、幸せな老後である。
 老後に楽する為に、若いうちから一生懸命働く。
 つまり、老後、働かなくて済むように、若い今のうちに働くと言う考え方である。働く目的は、働かなくていいように、働くと言う矛盾を抱えているのである。こうした矛盾の中に、果たして本当に幸せがあるだろうか。
 そして、こう考えている人は、その先に「自分の死」が待ち構えている事を気付いているのであろうか。

 若い時に、一生懸命働く。老後に備えて働く。歳をとってからは働かなくてもいいように、いま働く。
 このようにして、我武者羅
(がむしゃら)に働き詰めで、無事に老後を迎えたとしよう。しかし、働き詰めで働いた、この老後は果たして幸せであろうか。

 人間の「生」のサイクルは、生・老・病・死である。老いただけでは、人生の終着点に到達しない。老の後には病気が待ち構え、病んで死ぬと言う、人間の一生の中で、最も辛い局面を迎えなければならない。それは「病」と「死」である。

 「病」と「死」に差し掛かった晩年は、年齢的あるいは肉体的に末期患者と同じ立場に立たされる。
 末期患者は、最早
(もはや)自分が死と関係である事が否定できなくなる。しかし、それでも数パーセントの助かる延命の見込みがあれば、主治医の口車に乗って、二度三度と手術を受け、あるいはその他の治療を施してもらい、入院加療を受けなければならなくなる。

 自分の抱えた病気を、笑顔で片付けられなくなる。末期患者に於ては、感情喪失、泰然自若、もしくは憤怒
(ふんぬ)などは、殆ど見られなくなり、大きなものを失ったという、一種の諦めに似た、喪失感に取って替わられるのである。
 歳をとって末期患者となり、自分がこれから先、どう足掻
(あが)いても無駄だと諦めの気持ちに至った場合、何もかもが、喪失感に取って替わる。

 例えば、乳ガンの女性は、自分の容姿への喪失を「諦め」に替えるかも知れない。
 また、子宮ガンの女性は、最早
(もはや)自分が「女でない」と感じるかも知れない。あるいは、かつての歌手や映画俳優が、顔面の再手術や全歯抜歯をしなければならないとなると、その精神的ショックと狼狽(ろうばい)により、深刻な「抑鬱(よくうつ)反応」を示すかも知れない。

 更には、集中治療と長期に亘
(わた)る入院によって、経済的負担は重圧となって、わが身に伸(の)しかかって来る。
 老後、働かなくて済むように、若いとき一生懸命に働いて蓄えた老後の蓄財など、自分が末期患者となった今、「老後、働かなくても済むように蓄えた蓄え」など、何の役にも立たなかったと思い知らされるのである。最後の、老後の楽しみも、こうしたことで吐き出さねばならなくなることに、何とも割り切れない「絶望」を感じるのである。

 更に、こうした事に追い打ちをかけ、集中治療と入院費用は莫大
(ばくだい)な数字に上り、末期治療の多くの患者は、唯一の持ち物すら、手放さねばならなくなるのである。老後の為に蓄えた預金も総(すべ)て吐き出し、また老後の為に建てた家屋も、ついには維持できなくなってしまうのである。

 「生」への執着は、ついに実らず、最後は諦めと共に、総てを失って死んで行く現実がある。そして、何よりも辛い事は、今まで自分が慣れ親しんだ、この世界と訣別し、肉体も、物財も、金銭も、一切無縁となって死んでいかなければならない事である。ここに、死に行く者の、悲痛な叫びがある。
 では、こうした現世からの一切の訣別に対し、私たちの残された、死生観を超越する
「荘厳な死」は、どうしたら迎える事が出来るのだろうか。


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