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如何に死ぬべきか 2

“人はみな平等である”と言いながら、実は平等と言うことを頭から信じておらず、それゆえ、陰では罵詈雑言(ばり‐ぞうごん)を吐き、死すら平等でないことを知っている。

 人の死はそれぞれで違う。どう言う死に方をするか、それは人によって異なる。
 生まれ方が違うように、死に方も異なるのである。


●意識の残留

 死後の世界が有るか無いのか?、あるいは人間は死んだらそれでお仕舞いなのか?……。
 こういう疑問を持っている人は以外にも多い。その何れかに決めかねている。多くは半信半疑だろう。
 そして、有るか無いか分らないが、しかし、死後の世界が有ると考えることは大事なことと思うのである。

 総ての生物は、死ねば無に帰すると思い込んでいる人は以外にも多い。
 また、造物主について漠然と思うことはあっても、では具体的に……となると、その確信には至らないのである。それは中途半端な無神論者であるためだ。神仏に縋
(すが)りながらも、神仏など信じていないからである。

 現代は神仏不在の時代である。神仏に変わり、その崇拝は人間へと移行した。人間崇拝の時代であり、その中でも人気者や有名人などが崇拝される時代なのである。斯くして、神仏は不在となり、不在は死後の世界の否定にも繋がったのである。

 かつての大昔、太古の時代、例えば縄文時代で言えば、その時代に生きた人々は、みな霊能者であった。肉の眼に見えないものと交信することが出来た。人の眼には見えない霊的な動きを読み取っていた。
 ところが時代が物質的に発達し、文明社会を作り上げると、知識力だけが突出して、霊的能力が退化した。

 しかし数千分の一とか数万分の一の比率で、太古の時代の霊能力を引き摺っている人がいる。“普通”と称する一般人には見えない、とんでもない遠くのものが見えたり、聴こえたり、古代人の視力や聴力を生まれながらに宿している人がいる。その人は、古代人とほぼ同等の霊的能力を有し、その力は退化せずに残っているのである。それゆえ様々な霊的現象を見る。死者の思いを感得する。
 その感得の中に、「成仏出来ない霊と言う意識体」の訴えが分る。不成仏霊のサインを理解するのである。
 例えば、ラップ音などは不成仏霊の苦しみを訴えるサインである。

 人間は死んだ後にこの種の苦しみを訴えるのは、成仏できない死後の世界が存在することを雄弁に物語っている。死後の思いだけで意識体が、何事かに執着の念を抱いたり、口惜しんだり恨んだり憎んだりして、肉体の死後も意識だけを残しているのである。
 霊魂と言うのは、換言すれば人の念が抱いた意識である。
 この世に、生きているときの意識を引き摺っているのである。それだけ、死後、帰るべき途を見失った意識体が多く存在すると言うことになる。そして、そもそもそれは人間意識であり、惜しい、悔しい、憎い、可愛いなどの意識を引き摺って、帰るべきところに真っ直ぐに行けずに立ち往生しているのである。

 不幸な生い立ちや、不幸に苛まされても、心の持ち方次第では、すんなりといいところに行けるし、帰還できるのに、考え方の捻れや間違いのよって理解力が希薄で、それだけにこの世に残留することになる。
 則
(すなわ)ち、生きているととの心の持ち方がものを言うのであるが、それを怠り、心を鍛練していないと、死後も、その未熟のままで残留した意識を持ち越すことになる。
 欲や嫉妬や、後ろ髪を引かれるような気掛かりなどを引き摺ったまま死ぬと、それはそのまま不成仏として残留する意識体となってしまうのである。

 人間は成長すると、「次第に枯れて行く」という現象を起こす。理に合った枯れ方であるからだ。
 ところが、若作りして「若く有りたい」という妄想に囚われると、肉体も情念も枯れる事が出来ない。

 本来は枯れ木のようになって死んでいく人間の最後が、欲により枯れることを拒み、老いることを退けてしまう。長生きしてその期間を苦しみで充満させる。そして、その「苦」の元凶に、まず若返り欲が有り、次にそれに準ずる色欲が絡む。物財欲も金銭欲も、その元凶に由来する。
 現代は難しい老後が襲った時代と言えよう。総て楽しむことばかりである。
 それは換言すれば、「巧く死ねない老後」であり、それだけに臨終間際の断末魔の苦痛を体験しなければならなくなる。



●死に向かっての存在

 「人間は死に向かっての存在である」と云ったのは、ドイツの哲学者ハイデッガー
Martin Heidegger/キルケゴールの影響を受け、フッサールの現象学の方法にもとづき、人間存在の根本構造を時間性として実存論的に分析。1889〜1976)であった。
 また、ハイデッガーは、その著書『存在と時間』の中で、人間存在の根本構造を説く中で、人間の本質を追求し、その存在を、他の生物と違うことを論じている。

冬は人の心に「死」をイメージさせる。冬の凍てつきが、一層死に近付ける。死が冬に直結される。
 しかし、冬は死と結びつくものではない。

 また死は、霊魂の最後ではない。冬は、次のステップの為の貯え期間であり、「殖
(ふ)ゆ」なのである。
 そして死は、新たな出発の為の発進点である。

 それは人間が、自ら、「必ず死を迎えることを知っている生き物である」としていることである。しかしこの為に、人間は、自己の実存の形体を破壊される力に、脅
(おび)かされる不安に持っている。
 つまり、「死」というものは、いつ襲って来るか分からず、へたをすれば、今、この瞬間にも襲って来るかも知れないという不安である。人間はこうした不安に、絶えず脅かされている。

 則
(すなわ)ち、人間の生命は、常に「死と混じり合い」かつ「死と表裏一体」の関係にある。ここに「死への不安」の実態がある。また、この実態こそ、「存在」「非存在」とが分かち合いながら、然(しか)も固く結びついている。

 自分が死に向かって突き進んでいる存在であると知っている人間は、また、自分が
「自由である」ことを意識している生き物でもある。

 この「自由」とは、単に束縛
(そくばく)されたり、柔躙(じゅうりん)されることから逃れる、肉体的な自由を云うのではない。
 人間が「自由」であると云う事は、自分自身の在
(あ)り方に於いて、その本質が、自分自身の意思に委(ゆだ)ねられる自由を持っていることだ。

 人間は、水冷式哺乳動物の形体を構成し、動物に酷似した造りで生活活動を営んでいる。
 また本能的衝動は、他の哺乳動物のそれに酷似する。しかし他の動物の衝動は、一義的であり、自
(おの)ずから一本槍であるのに対し、人間は理性を以て、それを退(しりぞ)ける事が出来る。
 この退ける「意思」こそ、自由の正体であり、人間は自らの存在を、自分で形成していく、「自己実現」に向かって、責任を負わされている生き物である。

 この事が分かって来れば、
「人間は何の為に生きるか」と云う目的意識が明確になって来る。それは、人間が自由であるが故に、常に自らの存在を、自らで決定していかなければならないと云う課題の前に、「立命」の目的を見る事ができるからだ。

 人間に向けられた
「非存在」とは、則(すなわ)ち「死」である。
 「死」の脅威に直面しつつ、自らの存在を、自らで決定していく課題を課せられていることが、そもそも人間実存の本当の目的である。
 この目的を
「存在」の状況として洞察した時、そこには確かに、人間を不安に駆り立てる要素が横たわっていることに気付く。これに気付いた時、「人間は不安から決して逃れない生き物だ」とも理解するのである。

 「不安から逃れられない」これは、人間に課せられた宿命である。どう藻掻
(もが)いても、これから逃れる事は出来ない。
 しかし、大事なのは、「不安から逃れられない」と嘆くことではない。この不安に直面しながらも、不安に対処する個人個人の態度が問題になぅてくる。

 不安がのしかかるのは、同じ条件下に於ては、如何なる人も、みな同等の不安材料になるはずだ。問題はこうした不安に直面した時、それに対処する態度である。この態度が立派であるか、そうでないかで、人間の価値が決る。

 「死」という、非存在の現実に直面し、これを正しく対処して、また、自分の課せられた責務をどうすべきか、自分が何を為
(な)すべきか、これを知っている人は、やがて死生観を超越し、不安から解き放たれるであろう。

 しかし、大多数の人は、
「非存在」の恐怖に目を背け、故意に逃れようとして、遂(つい)には忘れ去ろうとする作業までをやってのける。然(しか)も、その為(な)さねばならないことを知りつつも、それを果たさずに逃げ回るのである。
 こうした人は、永遠に「死の恐怖」から解放されることはあるまい。不安と手を携
(たずさ)えて、罪責感に何処までも追いかけられなければならないのである。
 そして、死の不安から解放される、またとない絶好のチャンスを、自らの現実逃避によって取り逃がしてしまうのである。

 そうした最悪の状態に陥らない為には、「死」を素直に認め、いつの日か自分の死ぬという事を自覚し、「死」を他人事のように考えないことである。真摯
(しんし)に向かい合い、それを恐怖で捉えるのではなく、「死」こそ、本来の人間の姿と捉えるべきだ。したがって、逃げ回る必要はないのである。

 生も死も、人間は表裏一体なのである。表裏一体なるものからは、常に「生の波動」と共に、「死の波動」が送り出されている。
 地球上のものは、動物であろうが、植物であろうが、鉱物であろうが、常に波動と言うものが送り出され、それは互いに共振し合っている。波動は共鳴し合うものなのだ。
 したがって同類項は共鳴し、「類は友を呼ぶ」という俚諺
(りげん)まで生まれた。

 つまり、人間は生きながらにして、「死」と共鳴し、死の波動によって、生を全うしている事になる。人間には最初から、死が内臓されているのである。何処かで、絶えず、死と共鳴し合っているのである。これこそが、人間の実体である。

 共鳴し合うものは、相似の波動を作り出し、裏表の表裏一体の関係を作り、隨
(したが)って死を意識する者は「よく生き」、死から逃げ廻る者は、「生」によって殺されるのである。
 本来、死生が同一の波動であるならば、死を意識すれば「よく生きる」ことになり、死から逃げ廻り、死を忌
(い)み嫌う存在として遠ざかれば、死は益々追いかけて来る事になる。

 つまり、人間には現世に存在する「生の波動」があり、その裏返しとして「死の波動」が、非存在として内蔵されているのである。
 「生の波動」あるいは
「死の波動」というと、一見、非科学的な論理に映る。しかし、波動の研究は、決して非科学的なものでなく、未だに解明されない未科学分野のものである。



●生も死も捨てれば楽になる

 二十世紀初頭にかけて大流行した唯物論は、肉の眼に見えないものをひたすら切り捨て、これを迷信と決め付け、非科学的と罵倒
(ばとう)した。二十一世紀の今日になっても、眼に見えないものを否定し、これを非科学的とする考え方に、誰もが染まり、こうした考え方の後遺症をいつまでも引き摺(ず)っているのである。

 「死」も、実際には眼に見ることができない。
 死ぬ一秒前に抱いて居た人の意識は、死後、一秒経った後の、その意識を感じ取る事は出来ない。
 死んだ人間の肉体は見ることが出来るが、死後の人間の意識は確認できない。それ故、「霊魂」などと云うと、非科学的なものの、オカルトの最優先に挙げられてしまう。
 しかし、未科学分野は、相当数残されていて、多くの事象は殆ど解明されていない。

能面の皺尉(しわしょう)の面は、一見、品のよい翁面である。
 しかし、よく見ると、怕
(こわ)さとともに一抹の憂いを含み、これから先の人生を案ずるようにも窺(うかが)える。老いて、生い先短い、自らの「生」を憂いているのであろうか。

 最近の物理学では、量子力学が「見えない心」を解明する糸口を掴み始めたが、医学の分野では「見えない心」に対して、科学する意識が希薄である。医学者の多くは、霊魂など存在しないと一蹴
(いっしゅう)する。
 そして「霊魂の世界」や「霊的世界」が、今なお、未科学分野にもかかわらず、オカルトとして捨て置いて居るのである。

 こうした思い上がりこそ、科学者の慎
(つつ)む態度であろう。波動の世界、霊魂の世界、霊的世界と対面し、これに真摯(しんし)に、謙虚に向かい合う事こそ、科学者として、最も大切な心ではあるまいか。

 人の「生」に意味があるとするならば、勿論「死」に対しても、大きな意味がなければならない。物事には総
(すべ)てに大きな意味があるはずだ。
 意味あるものは、総て縁
(えん)によって導かれ、「因縁」によって、「縁起」が発生している。一切の事物は固定的な実体を持たず、さまざまな原因(因)や条件(縁)が寄り集まって成立しているということだ。
 だから、「死」も、この中に包含されている。

 こうした結論から考えると、「死」を強迫観念で捉えるのではなく、一歩進んで死を意識し、また謙虚に「死」を真摯に見詰め、「死」を自分の人生の「最終結果」として、受諾する態度を確立することが大事である。
 しかし、これを拒否して逃げ回ると、本当に死の到来の、到達チャンスを失ってしまうのである。そして、絶望的で「孤独な死」を迎える結末を招くのである。それは「捨てる」ことを知らない為である。

 私たちは、自分の人生を省みて、「捨てれば随分楽になるのに」と思うことは数多くある。
 肩書きや地位、名誉や財産、それに家族などと、いろいろな重荷を担ぎ廻っている。その為に、迷いや悩みが付き纏
(まと)う。そして、最後は「生」に執着しようとする。

 しかし、「生」に執心していては、本当の「死」すら得ることができない。生も死も執着しないところに、人の落ち着く安住の場所がある。
 晩年を迎え、そこで体験しなければならないことは、老齢期特有の「老い」と「病気」と、自分が死ぬということである。しかし、こうしたことも、逃げ回る必要はない。

 老いれば老いたで、涸
(か)れれば済む事であり、不老長寿を求めて若返りに執心する必要はない。病気になったら、病気の真っ只中にあって、病気と闘い、苦しみがあれば、苦しみにのたうち回ればそれでよい。しかし、それに囚(とら)われて思い悩むことはない。
 生きる時は精一杯生きて、死ぬ時は死ねばよい。「死」に、思い悩む必要はないのである。

 問題なのは、人間が死ぬ生き物であることを否定し、特に自分の死を否定することである。
 物事には必ず始めがあり、そして終わりがある。起こったものは、やがて終焉を迎える。
 これは如何なる現象も否定できない。始めがあり終わりがある。こうした実際に対し、迷ったり、悩んだりする必要はないのである。

 生まれる時に清浄無垢でこの世に「生」を得たならば、また、死んでいく時も清浄無垢に立ち返り、人間としての「けじめ」をつける事が大事である。
 この「けじめ」をつけずに、迷いっぱなしでは、生死を解決することも出来ず、失意のうちに人生を終わることになる。こうした生涯を終った人は、再び六道
(りくどう)を輪廻(りんね)して、「迷い」を繰り返すことになるのである。



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