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死の荘厳 4

この世の真理は、「捨てていく中」に真理がある。
 現世と言う人間が構成する現象界は、表面上は人間によって運営されているが、その深層部は人智で動かされているものでなく、人智が及ばない、不可視世界の現象で、それが可視世界に反映されている。可視世界だけで人間現象界が動かされていると考えるのは大間違いである。

 つまり「人間の肉の眼で見えないもの」が、人間を検
(み)ていると言うことである。善も悪も、清濁併せ持つこの世界のものを、「人間の肉の眼で見えないもの」が、じっくりと検ていると言うことである。
 よく「天が見ている」というが、それである。
 したがって、「人間の行為の一切は観
(み)られている」ということになろう。
 人間を観るは人相も含めて、可視世界では眼力のある人間だが、行為や行為や発言などの言動は、如何なる場所や時間帯に居ても、それを観るのは、人間以外の「天」である。
 「天」は、人間を観ているのである。天から検られてるのである。

 検られていないなどと、楽観論は通用しないのである。
 愚者ほど、楽観論を期待し、希望的観測で、可視世界のことだけしか考えぬようであるが、背後には不可視世界が控えているから、そこから観られることが恐ろしいのである。
 現象界では人間の眼以外に、人間を視ているものがある。無言のまま凝視しているものがある。


●死棋腹中、勝機あり

 手でも脚でも、相手に掴まれ、自由は奪われた状態になれば、そこはそのまま捨ててしまえばいい。捨てた上で別なる局面から、こちらが勝機を掴めばいいのである。
 離すまい。取っておきたい。占領したい。独占したい。
 そういう体勢で攻め込んで来た時、それはしたいようにさせて、こちらは別の手を考える。別角度から戦機を窺
(うかが)う。

 それには先ず虚になることから始まる。
 「死棋腹中、勝機あり」と云う言葉がある。
 碁でも将棋でも、下手な一手を打って、その局面がすっかり死んでしまうことがある。
 例えば碁の場合、多くの人はそういう取られた、占領された局面を何とか盛り返そうとする。この石を救おうなどと焦って、あれこれ考える。これを手当てしようとする。
 ところが、そこがいけない。
 捨てればいいことを、あれこれと考えてしまう。

 また「もったいない」という貧乏人根性を起こす。
 この根性が、時には命取りになることがある。もったいない……の「惜しみ」が時として取り返しのつかない事態を招くことがある。時として「もったいない」が命取りになるのである。
 捨てねばならない時に、捨てなかったからである。出し惜しみをしたからである。
 出し惜しみは後遺症を招くことがある。損を悔
(くや)しがれば、その悔(く)やみは尾を引き摺ることがある。未練を露(あらわ)にすることがある。ここが凡夫(ぼんぷ)の悲しさでもある。
 そして迷う。

 散々迷って、あれこれ手を打って手当を考えるから、いよいよ局面が窮して、行き詰まってしまうのである。局面の石一つを助けようとして、そればかりに囚
(とら)われて、戦局全体を忘れてしまうのである。
 その結果、僅かな片隅の小局面を生かそうとして、じたばたした為に、全局面を失って大敗するのである。墓穴掘りの、お決まりの最悪コースである。

 これは将棋にも言えることで、「玉
(ぎょく)より飛車を可愛がる」などの愚行が、まさにこれである。愚者の陥る落し穴である。全体の大局が見えないからである。ケチの目先の慾である。
 世に「玉
より飛車を可愛がる」愚者の何と多いことか。

 同じ愚者でも、愚者には「格」と言うものがあり、位違いの「ランク」と言うものがある。その中でも最低の愚者こそ、結果は絶望的な悲惨な事態を招く。
 大の虫を生かすどころか、小の虫すら生かすことが出来ず、おまけに自らも没落させてしまう。貧乏人根性の自滅コースである。

 「死棋腹中、勝機あり」
 そう言う場合は、下手を打つより捨ててしまう。放っておく。そして他を生かすことである。死んだところは眼もくれない。新たなところを開拓すればいいのである。
 死んだ棋譜の中で、別角度を生かして行く勝機というものがあるのである。
 勝機は死んだ箇所に眼をくれては駄目である。まだ死んでないところを生かすべきなのである。

 小さな局面に閉じ込められて、それに思い悩むと迷いが生じて優柔不断になり、遂には自由自在性に欠け、裡側
(うちがわ)より出(いず)る力が萎縮するのである。

 人生においても、そう言う束縛や蹂躙
(じゅうりん)は生じる。摩擦が生じる。
 例えば不幸とか、貧乏の類
(たぐい)である。
 普通、不幸は厭
(いや)である。厭だから不幸から逃れようとする。

 しかし、そうした運命にある場合は仕方がない。不幸と言う因縁が運命的に定められれば、それは迎えて果たして行く以外あるまい。逃げ回っても解決することではない。逃げれば永遠に追い掛けて来る。
 不幸が厭だといって逃げ回っても、そういうものは簡単に諦めてくれない。いつまでも追い掛けて来て離れようとしない。益々くっついてしまう。接着して貼り付こうとする。幾ら背中を向けて逃走しようとしても、それ以上のスピードで追い掛けて来る。追跡の手を弛
(ゆる)めない。

 では、こう言う場合どうするか。
 背中を見せて逃走するのでなく、反対に不幸の方に、こちらから突進すればいいのである。不幸の中に、頭ごと突っ込めばいいのである。
 逃げれば、不幸と自分は相対的な二者の関係であるが、こちから不幸に突っ込めば、自分と不幸が一体となって、もう追いかけて来る不幸は存在しなくなる。そこで不幸は消滅する。
 不幸は逃げるから、いつまでも不幸をぶら下げていなければならない。
 ところが、逃げずに不幸の中に突っ込めば、不幸から追い掛けられる自分は消滅する。したがって、自分は不幸から追い掛けられなくなる。斯
(か)くして、以前の不幸な自分ではなくなる

 人間は生まれた以上、やがて死ぬものである。いつかは死ぬ。
 これは何人
(なんぴと)も免れまい。
 しかし何れ死ぬにしても、まだ寿命でもないのに早々と死ぬのも厭だし、やはり寿命まで生きたいものである。そのためには、思いがけないアクシデントに備えて自己防衛が出来る余力エネルギーだけは、老いたりと雖
(いえど)も養成しておきたいものである。これは「損する余裕」である。
 自己を防御するには「余裕」がいるのである。更には捨てて、損する余裕である。
 捨てる中にこの世の真理があり、捨てることが出来るからそこに余裕が生まれるのである。
 命も、捨てて行く中に余裕が生まれる。捨てる時は、捨て惜しみをしない。そのときは捨てればいい。

 人間は寿命で死ぬ。病気では死なない。
 確かにそうである。
 ところが、多くの現代人は人間は病気で死にと思い込んでいる。病魔が生命を奪うと妄信している。だが、実はそうではない。
 人間の死に関与するのは寿命である。寿命の持つ因縁である。因縁は必然と解してもいい。したがって必然が人間の死に関与する。

 不慮の出来事や事故、事件、災難、奇禍などの遭遇する場合は、寿命も一気に縮められ、寿命を全う出来ない場合がある。
 それはそれで、そこで尽きるのが、「それまでの寿命」と言えば言えなくもないが、そういう結末で寿命が終われば、それは自然死とは程遠く、明らかに事故死である。悪く言えば「横死」である。
 断末魔に遭遇する死に方である。これでは臨終はしくじろう。

 事故死を避け、出来るだけ「自然死」に近い寿命で死ぬという状態を維持するには、やはり普段から死ぬためのエネルギー、つまり、より善き死を得るために「自然死トレーニング」をしておかなければならないと言うことである。
 これを仏道的に言えば、「生きながらにして即身成仏になる」ということだろうか。
 何故なら成仏した者に横死も無いし、況
(ま)して断末魔など経験しようがないからである。



●死の荘厳と歓喜

 次は歓喜
(かんぎ)について述べてみよう。
 人が生まれる時が喜びであったら、また死ぬ時も喜びでなければならない。
 これは朝起きる時が、今日一日の希望に満ちた喜びであるのなら、その終日の、寝る時も、また喜びでなければならないのと同じである。

 これは金銭についても同じ事が言える。
 金銭が入る時が愉快であるならば、また、金銭が出て行く時も爽快
(そうかい)でなければならない。現象人間界は、常に循環する世界であるから、「巡る」というこの世の仕組みを忘れてはならない。巡るは、また「廻る」である。失っては得るからである。失わねば、新たに得ることが出来ないからである。出て行けば、また再び戻ってくるからである。
 したがって貯金が嬉しくて、借金が悲しいと言う道理はない筈だ。

 物事をこのように考えていくと、生まれる時が喜びであれば、また、死ぬ時も喜びである筈なのである。喜びは両方にある。そして生死は一如
いちにょ/真理はただ一つという意)であり、この一如は生命が不滅であり、宇宙は永遠であると云う事が分かろう。

 更に、一歩一歩踏み締めて行くと、生に善悪の二色があり、禍福
(かっぷく)の両面があり、明暗の二局面がある事が分かる。
 しかしこれを解さない人も少なくない。

 死は荘厳
(そうごん)なものである。
 私たちは、この荘厳に向かって日夜努力しているのである。しかし努力を怠る人も少なくないようだ。

 その一つの例として、世の中には、生きている時はどんなに苦しんでいても、一度死ねば、極楽浄土
(ごくらく‐じょうど)に行けると、念仏宗ねんぶつしゅう/一般に「南無阿弥陀仏」を唱える浄土真宗、浄土宗、融通念仏宗、時宗など浄土に往生することを願う仏教宗派を指す。彼等は僧侶も門徒も、法然や真鸞の言に惑わされて真物の「真諦(しんてい)」を知らず、方便の「俗諦(ぞくてい)」を有り難がる)の戯言(たわごと)を信じる人が少なくない。

 しかし、生においてでさえ、「楽」を得ない人が、死して、どうして楽を得る事が出来ようか。これは自殺願望の心理を描いたもので、錯覚の描写と云わねばならない。
 未
(いま)だに生を得ずして、どうして死を得る事が出来るであろうか。

死を得るとは、心に一切の翳(かげり)りを残さないことを言う。ちょうど大空の澄み渡った青空のように。

 仏教について一言申し添えるが、現存する日本の仏教の多くは、仏教を真諦
(しんてい)から説いているのではなく、法然(ほうねん)が知り得なかった俗諦(ぞくてい)を基本として、これに後世の仮託的な解釈を加えている。巨大な仏閣を立て、新興宗教の教祖に収まっている類は、俗諦でものを言い、日本仏教を邪教化の方向に導こうとしているのである。
 そして平安中期の天台宗の学僧の源信
(げんしん)によって『往生要集』が著され、地獄が創出された。あしもしない地獄を創出することによって、光り輝く浄土の世界が創出されたのである。
 斯くして、本来ありもしない地獄がこの世に存在し、その恐怖で人心を惑わすのである。

 念仏宗が、当時の時代の人々に「潤いを与えて、救った」というのは、あくまで俗諦の範囲内のことである。真諦は方便によって隠された。
 法然や真鸞
(しんらん)が、これをやったお陰で、真諦という本当の仏教を民衆に伝える事が出来なかったのである。

 俗諦で説かれている事は、「六道輪廻」
りくどう‐りんね/衆生(しゆじよう)が善悪の業(ごう)によって、おもむき住む六つの迷界のことであり、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天を指す)であるら、何処に行っても、六道の堂々巡りを繰り返し、ここから一歩も外に出られないのである。
 仏教用語を使うと「解脱
(げだつ)出来ない」ということになる。この六道(りくどう)から一歩も出れないと言う事は、まさに「無間(むげん)地獄」の名に値しよう。そういう意味では、念仏を説いた法然も真鸞も、無間地獄の墜(お)ちた事になる。
 何故なら、ありもしない地獄を説き、想念からつくり出した地獄を描き、その地獄に行った事になるからだ。

 生きている時は、何にも楽しい事がなかったが、せめて死ぬ時は大往生
(だいおうじょう)をしてみたいというのが阿弥陀仏(あみだぶつ)の名号を称える念仏宗の「念仏往生」である。阿弥陀仏を頼みにし、その名号を称えて極楽往生(この世を去って極楽に生れること。浄土往生とも)を遂げる幻想を抱く人がいる。これは阿弥陀仏の本願であり、また、衆生がそれに頼って成仏を願うことを指す。これを「他力本願」と云う。

 他力本願は、今日では、もっぱら他人の力をあてにすることを云う意味で遣われるが、仏や菩薩が過去世
(かこぜ)において、立てた衆生救済の誓いのことであり、阿弥陀仏の四十八願などが、これにあたるものである。
 しかし「他力一乗」とは異なる。

 他力一乗は、最終的に運命に身を委
(ゆだ)ねる事で、人事を尽くして天命に委ねると言う考え方である。つまり、とことん努力はするけれども、その結果は運が決定すると言うことである。一切を天に任せると言うことである。
 しかし、これは他力宗の考えとは異なる。努力する他力である。
 精一杯、極限まで努力し、その結果を天に任せると言うことである。
 人は誰でも、苦しみから逃れて、幸せになろうと願うものである。その幸せすら、決定するのは天である。人間側に無い。
 人間のすることと言えば、精一杯の努力、極限までの粉骨砕身のみである。



●臨終の不可思議

 幸せの定義は人各々に異なるであろうが、多くの人はそれを少しでも成就したいと、日々頑張り、努力をしている。そして多くは、幸せの定義を金銭に求めることが多い。
 金さえあれば幸福だと考える人がいる。金で買えないものは無いと信じている。
 金が総てではない!……と豪語しながらも、実は金の信奉者であった。
 それゆえ出来るだけ多くの金を得て、富者になる事が人生の目的のような考え方をする人がいる。

 しかし、この考え方は、懸命に努力し、寝食忘れて一生懸命に働いて、もし、金持ちになれなかったら、この人の人生は、一生が無意味であったと言うことになる。
 それでも多くの人は、これを目指して一生齷齪
(あくせく)と働き、それでいて圧倒的多数は貧乏で人生を終わっている。
 したがって金持ちを指して働き、最終的に金持ちの道が成就できなければ、それは人生を無駄にしたと言うことになる。
 しかし、こんな甚だしい考え方はあるまい。

 したがって金さえ多く所有すれば、幸せという論理は成り立たなくなる。
 事実、もし金だけ多く貯蓄し、金さえあれば幸せと云う、金持ちの家庭は、常に幸福に満ちていて、勝て襲う義やお家騒動などは全く考えられないということになるが、実際はそうではない。
 財産の配分を巡って、兄弟姉妹が骨肉を削って、壮絶な争いを繰り返している。
 したがって、金さえあれば幸せと云う論理は成り立たなくなる。むしろ、金など無くてもいいから、楽しく、平和な家庭の方が、よほど幸せであろう。

 だが、そう諭
(さと)されても、今なお、金への不安や、物への不信は尽きる事がない。多くは金を頼りに生き、金の為に働いている。それは、やはり多く金銭を所有する事で、その向うに幸せがあると信じ込んでいるからである。
 まさに念仏宗の思考であり、どんなに悪いことをしても、阿弥陀仏の本願の絶対的な力によって、許されるとする念仏宗の「本願誇り
(ほんがん‐ほごり)」にも通じてしまうのである。これは誤った幻想と言えよう。異端の浄土に狂喜してはならないだろう。

 何故ならば、一年中、年から年中、貧乏をしていて、せめて大晦日
(おおみそか)と正月だけは金持ちでありたいと願うようなものであり、また年から年中、病気をしている人が、正月の元旦だけは、病気から解放されて、清々しくありたいと願望を抱くようなものである。
 「金で買えないものは、何一つない」という発想から来ているからである。
 これは愚かな幻想と云う外ない。

 なぜならば、問題は一向に解決していないからである。
 これは最期
(さいご)の、人の死に例えるならば、「死の場面」のみが、荘厳(そうごん)でありたいと幻想を抱くようなものであり、どうして最期のみが荘厳で、かつ奇抜であり得るであろうか。

 人生をよく生きた人は、その死によって、また、更に広く、より高い次元へと生き返る事が出来るのである。
 しかし本当の「生」に生きず、自分を誤魔化
(ごまか)し、死後、楽になると願う、人生を生半可に生きた人は、また、死も本当に、死に至らしめないのである。死ぬ事すら、許されないのである。

 こうした想念を纏
(まと)っているものは、肉体を死んでも、その願望や唸ねん/経験を明瞭に記憶して忘れない心の憶念)は、この世に残されて停滞し、永久に死が訪れないのである。
 これは霊的には「地縛霊」
【註】自ら自分を縛り、頑迷にこの世に留まる浮遊の意識体)などと称されて、オカルト愛好者の興味をそそっているようである。
 しかし、これは「当たらずとも遠からじ」で、生前に思い描いた人の唸や意識は、死して残留するのは事実でる。
 何故なら、人間の本性は「意識体」であるからだ。
 人間の最期に、このような悲惨が待ち受けているとしたら、これ程、大きな悲惨はないであろう。

 私たちは、確実に死に向かって歩いている。何人
(なんびと)もこれを否定することは出来きない。だからこそ、よりよい「死の場面」を迎え、それが荘厳(そうごん)でありたいと願うのである。

 したがって真の修行とは、単に喧嘩に強くなるとか、高級儀法が遣えるようになって、人を驚愕
(きょうがく)させることではなく、こうした地道な求道(くどう)の中で、日々の修行を積み重ね、「死の荘厳」を求めて、日夜模索するものでなければならないのである。
 そしてその奥に、歓喜
かんぎ/本当の喜び)があり、人生の連絡回路は、此処に繋がって居たと言うことを知るのである。

 往古の人は、人間の死を重んじた。立派な死に方をしたいと念じた。
 しかし、正しい生き方をした人でないと、美しい死を迎えることは出来ない。往生が出来ない。安らかな臨終
(りんじゅう)は訪れないのである。
 見事な死に方をした人は、見事な一生を貫いた人なのである。
 だからこそ、「臨終の大事」が此処にある。


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