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死の荘厳 3

此岸と彼岸の、生死の海を渡って到達する終局・理想・悟りの世界を涅槃と云うが、それはまさに蓮池の境地と同義ではあるまいか。


●死を恐怖と思う錯覚

 死は人間にとって一大事だと思う。しかし、この一大事には不安が取り憑(つ)く。そして、不安の最大の原因は、果たして死後、魂の落ち着く先はあるのかと云うことが、未だにはっきりとしないことである。
 特に、信仰を持たない人は、この恐怖が一段と強いようだ。

 こうした考えを持っている人は、「人間は死ねば、それで終りよ」という
“魂消滅説”の考え方に毒されている。したがって、死後の魂や、死後の世界と云うのを全く信じようとしないのである。

 さて、死についてプラトンは『ソクラテスの弁明』の中で次のように述べている。
 「つまり死ぬと云うことは、次のうちの二つに一つなのである。
 一つは全く“無”といったもので、存在しないことを指し、死者は何も感じないか、あるいは古くからの言い伝えにあるように、魂にとっては、今の場所から他の場所に住居を移動することなのである。
 つまり、在るものがなく、特定存在の欠如を言う。あるいは有の否定である。

 それは何の感覚もなくなっていることであって、人が寝て居て、悪夢一つ見らず、快適な眠りのようなものであるとしたら、死とは、びっくりするほど「儲
(もう)け物」であると言うことになろう。
 何故なら、万有を生み出し、万有の根源となるもの。有と無との対立を絶したものとされるからだ。そして無は、有の否定であるから、非存在が存在することは奇蹟に等しい儲け物なのである。

 私が思うのに、もし人が夢も見らないくらいに熟睡した夜を選び出し、その夜に並べて、自分の全生涯の、それ以外の昼と夜を置き、これと比較する形で観察して、この夜より、もっと楽しく生きた昼と夜が、自分の生涯のうちで、幾つあったかと述べなければならないとしたら、そういう昼夜が、以上に比べてそんなに多くなく、ごく数えるほどしかなかったと云うことを発見するだろう。
 したがって、死がそう言うものであるとしたら、それは儲けものなのである。

 また、もう一方、死と言うものが、現在の場所から他の場所へと旅に出るようなものであって、人が死ねば誰でも、彼
(か)の国のようなところに行くという言い伝えが本当だとすれば、死が儲けものと考える以上に、これはどんなに喜ばしい、善いことでありましょうか」と。

 プラトン
Platon/ギリシアの哲学者で、ソクラテスの弟子。前427〜前347)は、霊肉二元論をとり、霊魂の不滅を主張した哲学者である。また、肉体的感官の対象たる個物は真の実在ではなく、霊魂の目で捉えられる個物の原型たる普遍者(イデア)が真の実在であると説いたことで有名である。
 そして、彼の云うところの、哲学者の任務はイデア界を認識して、現実の世界をこの理想世界に近づけることあるとしたところに、肉の眼とは異なる、霊魂の眼の存在があるのである。

 プラトンは、「死とは、熟睡できるような、びっくりするような“儲けもの”であり、これは、ごく数えるほどしかない」と云っているのである。

 しかし、その一方で、戦後の日本の現代社会では、「あの世はない」と言い切る人が居て、多くは世間並みに、人が死ねば葬式などをあげるなどして、その一方で、「人間は死ねば、それで終りよ」という考えに取り憑
(つ)かれている。「祈りの世界」が完全に欠落しているのである。
 この欠落こそ、「蛮勇」というものであろう。まさに、理非を考えずに突進する愚かしいまでの勇気である。

 “あの世”の存在は、こうした唯物論者によって論じられる通り、それが“無い”と証明する材料が何一つない限り、また“有る”という証明も出来ないのは当然であるが、そもそも人間如きのレベルで、これが証明できるものか、甚だ疑問であり、一概に“無い”ということも不可解千万となる。人間は、それほど肉以外の眼で物事を見る能力は、そんなに発達していないのだ。

 したがって、“無い”ということは断言できなくなる。無いと断言するより、人間の能力の問題であり、三次元の眼ではこれを感得することは出来ず、実際には人間のレベルでは、解らないことは、解らないのである。

 また、死後の世界が無い、霊界など無いと断言する人には、その人自身の生き方にも問題があろう。
 その問題の最たるものが、自分の身内が大病に懸かったり、山で遭難したり、海外で誘拐事件に巻き込まれたり、飛行機が乱気流に巻き込まれて墜落しそうになったりした時に、断じて無事を祈るなどの、「祈り」を捧げてはならない人達である。
 無神論者は祈りを捧げてはならない。悲願を願ってはならない。神仏を否定したのだから、祈りも願いも無用のことである。無用を確信しているからこそ、霽
(は)れて無神論者と胸を張れるのである。

 また、暴漢に襲われたり、泳げないで河や池に落ちた場合、野犬などの動物に夜間襲われた場合に、決して「救
(たす)けて」などと、救いを求める声を出してはいけないのである。
 何故ならば、彼等は神も仏も信じない人達であるからだ。
 神仏を信じることができない人は、「身内の無事」を祈ったり、危険に遭遇して、いやしくも「救
(たす)けて」などと声を挙げてはならない人達である。天に縋(すが)ってはならない人達である。

春分と秋分の日を中日として、その前後七日間を彼岸と云う。

 逆に、身内の無事を祈ったり、危機に瀕
(ひん)して助けを求める行為は明らかに眼に見えない何かが働いていると言う感得であり、“この世”を此岸(しがん)とするならが、やはり“あの世”は「彼岸(しがん)」となりはしないだろうか。



●人生終盤に残された最大の課題

 人間に死に方の相違が起るのは、その人の生き態
(ざま)と因縁の関係であろう。
 人は、過去世
(かこぜ)からの習気(じっけ)を引き摺(ず)っている。過去が未来に向かい、また未来が過去に向かう。
 これが宇宙の呼吸であり、膨脹と収縮が、この中に包含されている。

 文明は驚くばかりの技術的偉業を人類に齎
(もたら)した。そしてその反面、それに劣らぬ社会運営の無能ぶりをも人類に齎した。
 この著しい落差こそ、現世を生きる「人類の特長」なのである。

 この「人類の特長」は、また「人類病」をも、つくり出した。人類の病は、古人が病魔に襲われるだけでなく、公
(おおやけ)を代表する権力者までが、戦争と云う争いことまでに手を染め、この中に人民を引き摺(ず)り込んでしまうのである。則(すなわ)ち人類の歴史は、また「戦争の歴史」でもある。そしてこの歴史を手本にして、やはり現代人も、戦争に向かって、人類の滅亡に向かって、その道を歩いているのである。

日本の空を警戒すると言うP-3C早期警戒機。この早期警戒機は、果たして日本の利益の為にあるのか、あるいはアメリカの利益の為にあるのか。

 人類の歴史は、間断なく轟
(とどろ)く、戦(いくさ)の太鼓の音に、大きく揺(ゆ)らいで来た足跡を遺している。
 そして人間は、成仏と不成仏の明暗を分ける境目は、戦いを好む、好戦的であるか否かに懸っているように思う。

 人間は自ら不成仏を引き寄せ、戦いの太古の響きを轟かせ、戦いの烽火
(のろし)を上げて来た。部族間の争い、宗教戦争、市民戦争、王家や皇室同士の争い、国家の権益の懸った戦争、イデオロギーの為の革命戦争、植民地戦争、主義主張や文化を押し付ける為の戦争、自由を標榜しての戦争、そして戦争を終らせる為の戦争。
 人類の過去の歴史を振り返れば、夥
(おびただ)しい戦争が鎖の如く繋(つな)がっている。そしてこの「鎖」は、どう見ても、未来へと繋がっている。

 未来へ繋がる、戦争への鎖
(くさり)は、まさに核戦争であり、この幻影は人類の脳裡(のうり)から消えることはあるまい。
 この幻影が、また現代への未来を暗示した大事故や大自然災害へと繋がり、事故死で死んで行く者を暗示しているのである。

 世の中の出来事は、決して偶発的に起こるのではない。起るべきして起る、因縁がその背後に横たわっているのである。悲惨な事故に遭遇し、その犧牲となって死んで行く、こうした人の背後には、過去世
(かこぜ)から引き摺(ず)った習気(じっけ)の実態があるのである。
 人間に齎
(もたら)される災いと云うのは、それが必然なる因縁から来ているので、その連鎖反応の火が点(とも)る可能性は次第に増大して行くであろう。そして、人類滅亡に向かって、不可僻となるのだ。

 では、世界滅亡へと向かう危機を招く起因は、何処の存在しているのか。
 それは人間の持つ、脳の重大な欠陥からであろう。
 人間の脳には、爬虫類脳の上に、様々な脳が覆
(おお)い被(かぶ)さり、最終脳と云われる大脳皮質によって辛うじて、「知性」を満たしている。この知性の中に、慈悲も愛も含まれていると云う。

 人類が爬虫類や加糖哺乳動物と共有して来た原始的な脳の構造は、人類に進化を齎
(もたら)した人類特有の新皮質に、他の霊長類と一線を画する特長があると言う。
 しかし、大脳生理学者は云うように、人類の進化によって、爬虫類脳や下等な哺乳類脳と、原始的な人類特有の脳が、両者間
に於いて調整され、拮抗(きっこう)されたと言う証拠は何処にもない。

 もともと、人類は進化した存在なのかも、疑わしい生き物なのである。
 したがって「進化した」とか、「進化の過程にある」という実情すら疑わしいものになる。果たして、人類は進化しているのか。

 むしろ、人類は「進化の手抜かり」によって、脳の構造に於ては、前者と後者は不安定な形で共存し、それが本能的もしくは情緒的な行動となって、この行動に関係のある先祖の脳が、共鳴し、その因果関係を引き出しているのではないか。

 もし、そうだとすると、先祖伝来の脳の構造は、人間の言語、倫理、道徳、象徴的思考を齎した新皮質と屡々
(しばしば)対立し、鬩(せめ)ぎ合いを起して、遂に爆発したのではなかったか。
 したがって、「ここに人類は苦悩する」のではないか。

 自然は人類に三つの脳を授
(さず)けた。
 三つの脳のうち、最古のものは、基本的には爬虫類脳であり、二番目が下等の哺乳類脳である。そして最後が、哺乳類脳から発達した脳で、この脳こそ、人類をして「人類的」にたらしめたのである。

 つまり、人間は一個の脳の中に、三つの脳が共存する羽目となり、一般的には、辺縁系の脳の構造を保っているが、時として、爬虫類脳の「攻撃」と「縄張り」の主張が起り、あるいは原始人脳と云われる外表系の顕われから、「記憶」と「言語」が飛び出して、新皮質
(原人脳)と云う人類特有の「思考」に対し、単純にR領域の哺乳類脳や辺縁系の哺乳類脳の「古い脳」(愛情や交流を司る辺縁系)の出現と、鬩(せめ)ぎあう事もあるのである。

 また、人類が病気をするのは、人類脳と云われる美と創造を司る前頭葉の発達度が未成熟で、これにより怒りっぽい人は高血圧症や動脈硬化に罹
(かか)り易く、これはR領域の爬虫類脳の活動によるものだと云われている。
 一方、胃潰瘍や膵臓炎などの消化器疾患は、辺縁系の哺乳類脳の仕業で、これが野放しになっているからだと云う。

 更に、心身症や神経症、鬱病
(うつびょう)や精神疾患などは、多くはストレスが原因していて、また、ストレスから発症するガン疾患もストレス病に含まれ、これは幼児期の学習期に正しい教育を親から受けておらず、甘やかされて育った人間に多いと云う。

 例えば、双子の兄弟が居て、あるいは年子の兄弟が居て、その兄弟の中でストレス病に罹り易いのは長男ではなく二男である場合が多いと云う。長男は跡継ぎなので、「しったりしろ」と親から厳しい眼で見られ、それなりの教育を受けるが、二男は甘やかされて前頭葉の発達に阻害を受ける場合が多いと云う。

 双子や、年子である場合、長男より次男の方が、甘やかされて育つ確率が多くなるので、どうしてもそれだけ前頭葉の発達が阻害され、隨って二男が精神障害やストレス病の影響を受け易いと云うのである。これは幼児期に辺縁系やR領域の制御を充分に行う教育を受けておらず、これが起因している場合が多いと云うのである。

 かくして人間の脳は、これまで「記憶」と「言語」の爆発的な成長により、古い脳と新しい脳、また情緒と知性が、あるいは信念と理性が相剋する精神的アンバランスの中で、文明とうい種子を発芽させたとも言える。

 この構造は、一方に合理的論理的思考を持ち、その一方に感情で縛られた不合理な信念の働きがあり、過去と今日の鬩ぎ合いによって、一種の狂気を作り上げたとも言える。その狂気こそ、遺恨や怨念を含む、争いや戦争ではなかったか。
 この怨念や遺恨が、現代に飛び火したとしても不思議ではあるまい。そして、その飛び火の材料こそ、自然死と事故死、更には事故死にしても、一般事故死と横死とにわける明暗の材料になっているのではないか。

 もし、人が惨たらしい死に直面しなければならないのは、その過去に刻まれた遠い日の因縁が、現世に再浮上しているとも言える。
 では、こうした無惨な死に態を回避して、安らぎを得る、古人が眠るように、また、潮が曳いて行くような、静かな臨終を迎えることが出来ないものか。
 この模索こそ、人生終盤に残された最大の課題であろう。そして、死は「荘厳
(そうごん)」でなければならない。「厳(おごそ)か」でなければならない」



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