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死の訪れ 4

「死」というものは、老成しなければ、見えてくるものではない。
 常に死が見えない者には、人生など見える訳がないのである。人生の見えない者に、死は見える訳がなく、死は、ただ逃げ回るばかりの対象となる。そこに死を逃げ回る現代人の愚かさがあると言えよう。
 死を思わない人間こそ、その人間が口にする人生論は嘘
(うそ)で塗固めた人生論であり、また死を逃げ回る人生論である。


●特異なる死相

 現代という時代は、この怨念による精神異常者が急速に増加しているのである。それが現代特有の、金銭欲、食欲、性欲、愛情欲、支配欲、名誉欲などに回帰されるだろう。何れも溺れる欲であり、また、それらが満足に享受できない場合、精神には何等かの心因反応が顕われる。

 精神状態において、それが正常であるか、異常であるか、これは本人に自覚症状があるか否かということは余り問題ではない。また、知ってて遣
(や)っているのか、知らずに遣っているのかも余り問題ではない。

 問題なのは、精神異常者の反語として、精神健常者というものが存在し、異常か健常かのこの一点に尽きるのである。そして、精神を異常か健常に分けるとしたら、その根拠は、その人の行動であり、行為であり、かつ動機であろう。
 つまり、行動ならびに行為にその動機らしい動機が存在しない場合、動機なき犯行を犯した者は、精神異常者と言えるのである。現代社会はこの手の犯罪が多くなって来ており、ねじれた精神が種々の事件や事故を起こしている。

 こうした「ねじれた精神状態」は、一種に現代ならではの「特異な死相」を作り出すことも少なくないようだ。
 例えば、人間が生まれる出産というのは、臨終状態を同じであると考えることができる。
 死の刹那
(せつな)が、また、生まれる刹那でもあるのだ。この世に生まれ墜ち、最初の「オギャー」と泣いて吐気(とき)を吐き、次に息を吹い込むこの一瞬の吸気(きゅうき)に、臨終と裏返しの現象を検(み)るのである。

 繰り返すが、「出産は臨終と同じ」である。換言すればその反語は、「臨終は出産と同じ」ということにもなる。子供を生む妊婦の中には、子供を産み落として、安らかな貌をした人もいるし、また、生みの苦しみで苦痛に歪んだ貌をした人もいる。
 これを逆から見れば、死んで行く時の臨終の貌にも、安らかな貌と苦しんだ貌がある。また、この刹那の教養の差も明確であろう。

 不倫をして、不義の子を生んだり、不義の子を堕胎する場合の苦しみは、一見麻酔に弱められてその知覚が少なかったとしても、そこに起こりうる現象は、明らかに断末魔が起こっている。したがって、断末魔と死相は密接な関係があるといわねばならない。

 何しろ、「人の相」というものは、「生」は貌から始まり、「死」は貌で終っているからである。これは動かすことの出来ない現象人間界の真理である。安らかであるか、苦痛に満ちているかは、まず、貌が決定する事柄である。

 したがって、貌には「出産と臨終が同じ」であるから、現象界の現象として、「死相」が漂うことになる。つまり、「正中線上」の死相の現れは克明である。
 額
(ひたい)、印堂(いんどう)、鼻筋、人中の溝の線上には死相が顕われ易い。例えば印堂上に、青黒い筋が顕われると、これは死霊の「唸(ねん)」に冒されていることを顕わす。また、呪われている場合は、印堂上に二本の筋が顕われる。

 特に顕われ易いのは、額から印堂に掛けての部分であるが、死期が近まった人は鼻筋から人中に掛けて顕われる。
 例えば、交通事故で死ぬ数時間前などには、こうした死相が顕われ易く、かつて著者は、この手の死相が顕われて居た人に、「祈り」をもって物事に対処し、悪想念の捨てて、物事に対しての執着心を無くすように奨めたところ、この人は笑いながら「馬鹿馬鹿しい」の一言を残して、その数時間後に死なれてしまった経験を持っている。

 死相は確かに顕われ、三次元唯物論では片付けることの出来ない多くの問題を残している。特に、眉間に顕われる「懸針紋
(けんしんもん)」という督脈(とくみゃく)上の正中線に顕われる死相は、霊学的に見て、死霊ならびに生霊の「恨み」であることが確認されている。恨まれたり、妬まれたりしている人は、年齢に関係なく、此処に懸針紋が顕われることが多いようだ。
 そして懸針紋が、死と直結するような一大事に至った時、その猛威は
「断末魔の状態」を巻き起こすのである。

 呼吸は、死と共に停止する。
 だが、その停止は死を裏付ける根拠とならない。死後には、鉛色の小さな斑点
(はんてん)が顕われる。これは血管から細胞組織に血液が流出することによって生ずるもので、殆どの死に見る事ができる。

 また、皮膚全体に変色が顕われ、こうしたものを「死相」と表現しているが、それだけでは100%の死を断定する材料とはならない。
 ただ、死が訪れた兆候として、以上を挙げることが出来、やがて訪れる死後硬直への前兆となる。
 忘れてはならないことは、臨終にも各々のランクがあり、安らかであったか、苦悩に満ちていたかで、成仏したか不成仏で終ったかの、差が生じるようだ。



●臨終を悪くする「こだわり」の思考

 現代人の悪癖に一つに、「こだわる」ことが、何でもいいように考える思考がある。またこうした思考がマスコミなどを通じて、広く流行している現象がある。

 例えば、「こだわりの○○」などと云うと、その主張が素晴らしいもののように受け止めてしまう愚かしい考え方がある。これは「固執」であり、自我
(じが)を剥(む)き出しにした「愚かさ」を顕わしている。
 例えば、「こだわりの料理人」などと表すると、その料理人は如何にも料理の達人のように見えて、素晴らしい料理を作る才能の持ち主と思い込んでしまうが、自称「こだわりの料理人」が作った料理など、食べられたものではない。

 こだわる人間の正体は「自我の剥き出し」であり、こだわった人間が作った料理は、霊的に見て、傲慢であり、かつ驕慢である。したがって、見かけ倒しであり、内容は実にお粗末である。こうした料理を有り難がるのは、本当の季節の食材の味を知らない味音痴だけである。

こだわりの料理人が作った、味音痴の人の為の特別料理。
 そこには季節ごとの食材の本当の味を殺し、見せ掛けと、傲慢と、驕慢が漂っている。飽食の時代、多くの日本人はこうした「偽料理」に騙されて本当の味覚を失っている。

 まず、人間は「こだわる」ことから敗報されなければならないのである。こだわれば自我を頑迷にし、何事かに執着を植え付ける心が生まれる。こうなれば、例えば快晴の天気は清々しいが、曇りや雨になると、鬱陶
(うっとう)しくてかなわないというような、自他を離別する想念が生まれる。

 「こだわり」から離れれば、爽やかに晴れた日ばかりではなく、曇っていれば曇っている日の風情を楽しみ、雨が降れば雨が降ったで、雨音を聴く趣があり、更に晴れれば晴れたで、喜ぶと言う味わいを感じることで、自我を離れ、「こだわり」を離れてみれば、毎日毎日が、良くもなく、悪くもないと云った、安らぎの日暮しになるのである。
 つまり、「日々是
(こ)れ好日」なのである。

 本当の意味での「日々是
(こ)れ好日」とは、「今日は天気がよくて結構だ」とか、「今日は事故や事件が何事もなく結構だ」という、俗世で云う「好日」ではないのである。毎日毎日が「恵まれている」ことを云うのではない。

 これでは「よい日だけが好日」になり、雨が降ったり、病気をになったり、災害に見舞われたり、事故や事件に遭遇すると、厭
(いや)になってしまうからである。
 また「こだわり」から弾き出した凶日に嵌まると、厭になるばかりでなく、実際に凶事が起こればそのショックから立ち直れなくなり、日の吉凶を選
(よ)り好みする迷信に取り憑かれてしまう。

 いい日と悪い日を分類し、また九星早見表に偏ったり、大安と仏滅を選
(よ)り好みするようになると、永遠に幸せと云う日は遣(や)ってこない。
 人の一生は、「今日の連続」であることを忘れてはならない。今日と云う日は、一生に二日とない「幸福の日」なのである。

 一方、何事かにこだわり、隙を作れば、どんな危険が襲うかも知れない最悪の厄日となるのである。
 「やすらぎ」とは、「こだわり」から離れて、「日々是
(こ)れ好日」を心から感得することなのである。本当の「日々是れ好日」が感得出来れば、死ぬその日も、まさに好日であるに違いない。


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