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うまく死ぬ法 26

ある時点を境に抑圧されたものが浮上し、芯(しん)が弾けて立ち向かう勇気に変わることもある。一介の凡夫(ぼんぷ)でも勇者に変わることがある。
 人間は捨身に転じた時にこういう現象を起こすようだ。

 人間は強弱の二面性を持っているから、急に臆病になったり、裏切ったり、卑怯者になったりして、勇気を発揮する他方が抑圧されているが、これが時として、人生の試煉
(しれん)として浮上するときがある。ある時期を起点として、芯が弾け出る時がある。

 この時ばかりは臆病風に取り憑かれた懦夫
(だふ)でも、ある時期を起点として、見違えたような勇者になることがある。

 普段、人間は「何によって生きていこうか」と模索している。
 つまり、生きることばかりを考えている。また、自分だけが生きられればいいと云うことだけに力を注いでいる。この一点に奔走の原点を見出している。そして他に求めない。
 つまり、何によって生きていこうか……である。

 自分を生かすことばかりを考えている。更には、力強い生き方は「何か」ばかりを追い掛けている。生き方だけの模索である。
 しかし、これでは本当に生きはしないだろう。
 生に奔
(はし)ろうとすれば、死から追い掛けられるからである。死神の追尾に遭(あ)う。
 死から極力逃れようとして、死に追い掛けられることになる。故に損得勘定が先行する。打算的になる。

 しかしこれでは、むしろ逆に殺すことになる場合が多い。自分を殺してしまうのである。
 結局、死んでしまうことなのである。
 生きることばかりを考えるから、結局は自分を殺し、遂には死んでしまうのである。肉体は動物的に生きているとしても、心は死んでしまうのである。

 それは何故か。
 本当に生きる道とは、何かばかりを模索したからである。
 そして、死生観を念頭に置いて、真に生きるにはどうしたらよいか。どう言う生き方が力強い生き方か?……ばかりを追求したからである。
 普通、何によって生きていこうかを考える。生きることだけを主眼に置く。
 しかし、そもそも此処が行き詰まる元凶だった。


●現象界を司る相

 人の生・老・病・死は、全宇宙の法則の中にある。
 人間はこの世に生を禀
(う)けて、その瞬間より生命に併(あわ)せた「天与の賦(ふ)」が、その一個人の一生の在り方を定める。その性質と性格は、この世に生を禀けた、その瞬間より始まるのである。

 人の生まれ……。
 「生まれ」とは、どんな環境の下で産声を挙げたかで決定される。また何の縁で生命が与えられたか、その瞬間に決定されるが、それを知らずに人は育って行く。自分が生まれてきた意味すら知らずに育つのである。
 なぜ人間は生まれたのか。
 このことを真剣に考える人は少ない。

 多くの人は自己探求をしないまま、「自分とは何者か?」を考えず、単に“肉体こそ自分”であると確信している。その確信のまま人生を終えていく。自分が分らずに死んで逝く。
 運良く百歳以上の長寿を得て、しかし長寿を得ながらも、自己探求をして「自分とは何者か」を探求せずに安易に過ごし、長寿を喜々とした喜びだけに捉えて、そこまでの長き人生で満足し、これを大往生などと自称する。だが、それだけの人生で、単なる長寿で終わる。

 長寿が全う出来た……。
 この長寿に、果たしてどういう意味があるのだろう。
 単に長生きしたことだけを喜々として人生を終える。長生きしても“この程度”である。
 然
(しか)も自己探求までして自分を自分で顧みる人は少ない。

 殆ど多くの人は、自分の本能の命ずるままに突っ走る人生を送る。その奔走に自らの生き方を示す。それも自他ともに生きるのではなく、保身的な自分だけが生きるだけの生き方である。

 自他と比較した場合、自分の本能に対する比重が大きい。他人より自分である。
 自他の境目を明確にし、自他同根であることを知らず、知らぬままに滅びの途
(みち)を突き進む。
 滅びへの途は多くの物で満たされ、見掛けに勢いがあり、繁盛しているように映る。幸福を約束しているように見える。物財に囲まれることこそ、そこに人生の意義があると自称する。そして、その自称の先に何もない。

 豊かで便利で快適である物質文明の恩恵は、今や裾野まで広がり、ただその恩恵を多く受ける人と僅かしか受けられない上下の二者に分離されている。
 何れにしろ、物に満たされる一見幸福感を感じる文明生活の側面には、滅びの途
(みち)が隣接されていることも知らねばならない。
 つまり滅びの途は、凄惨な地獄の修羅を呈しながらも、同時に甘美なものを含んでいるのである。

 現代人は修羅と甘美さを同時に触れ、誰でも心が何処かで、ふと憧れるものであるようだ。
 そこに身を置けば、これまでの平和な日々は崩壊する以外ない。
 現代人の多くは、こうした社会の枠組みの中で、出来るだけ人間らしく生きようとするのだが、その生き方には“ある種の欺瞞
(ぎまん)”が隠れていることも否めない。欺瞞は時として、容赦なく暴れ、無法な暴力へと発展することもある。

 現代社会は、無法な暴力と同居しながらそれ以外の生き方が無いような世の中なのである。
 したがって、平和で平穏な、平凡な人生を期待して保身を図っている者は、どうしても自己中心的にならざるを得ない。そういう時代なのである。
 そして、現代は生を前提に動いている時代なのである。ここに肉体固執主義があるようだ。

 人間の所有する肉体とは何か。
 実は自分の肉体と思っていた肉体は、天からの借り物であった。自分のものでは無かったのである。
 死ぬ時は、この肉体を脱ぎ捨てて、自らは意識体となり、魂魄はそれぞれに分離さて、軽きものは天へ、重きものは地へと帰って行く。それぞれの定めに遵う。

 自然界は日進月歩である。
 刻々と変化している。その変化の中で、人も変化していく。
 人の変化には、まず最初、自己意識の芽生えによって自分の存在と周囲の人との比較から始まる。
 特有の個性が出来、人と比較し、比較の中で、自分なりの人生を形作り、そこに生活目標や人生設定を描くようになる。将来を夢見る。理想を掲げるようになり、理想を志に返還して、志に向かって励む人もいる。

 人は生まれながらにその人独自の運を持っている。
 また運には強弱がある。この強弱こそ、人がこの世に生を禀
(う)け、その環境下で自我と言う自己形成がされていく。自己形成の基盤には過程の環境があり、幼児期から少年期、少年期から青年期、青年期から壮年期、そして壮年期から晩年期へと変化の以降の中で、生の次に控える老いへと突入する。

 生まれた以上、老いていく。老いて病む。
 赤子でも、やがて老いと言う成長に伴う現象を見る。そして老いの中には病気が潜んでいる。
 躰は、心の歪みや食の乱れから起こる不摂生や、肉体酷使から起こる不養生や、更には事件・事故・怪我などに遭遇して、傷付けられる事態が生じる。これは肉体の侵蝕である。運命から啖
(く)われる現象である。

 かつては人生五十年と言われた時代があった。
 昨今はで百歳以上まで生きる人もいる。
 “仮初
(かりそめ)の平和”の中に居る日本では、先の大戦以来、戦争は起こっていない。しかし、この平和は実に不安定な平和である。

 現代の日本人の長寿は何処にあるか。
 一つは食生活が向上し、飢えて死ぬことが無くなったからである。下層階級に位置していても、食うだけのことは喰える。餓死することは無い。
 また、戦争に巻き込まれなかったことと、医療技術の発達により延命だけは確保できるようになった。寝たっきりでも生命維持装置の力を借りれば、ある程度の年数は生きられる。

 だが延命補助で、僅かな生を得たところで、それで人間は至福に到達できると言う訳でない。
 長生きさせられながら、惚
(ぼ)けることもあろうし、植物状態になっても生かされることがある。その生は、正常なる動きが出来ないことで、ただ生きなければならない状態に置かれただけのことである。

 現代は「生きる」という心の拠
(よ)り所を肉体のみに求める時代である。
 しかし、肉体は脆
(もろ)い。
 肉体が脆いからこそ、脆い肉体に変わって魂の輪廻転生がある。
 仏道では、輪廻転生を繰り返しながら魂は永遠に生き続けるとされている。
 人は生まれてこのかた人生を経験していく上で、その足跡は至る所に愧
(はじ)多き部分が点在する。

 その元凶には感情が逆撫でされて起こる。
 その顕著な例は誤り、過ち、出しゃばり、目立ちたがり、妬み、恨み、憎悪、溺愛、自己顕示、引け目や負い目、劣等感、敗北感、不備、失敗、苦悩、迷い、無能、思い込み、罪悪感などがあり、これらは自覚症状が起こらなければ気付かず、悟れないようになっている。感情のまま過ごすことが多い。

 だが、その認識は肉体を通じて行われる。
 感情の変化には、肉体反応が顕われるのである。変化の動きが出る。それが瞬時に心に伝達される。
 顕著な色の変化では、貌
(かお)に出る。動揺である。
 次に、躰には態度に出る。体形に顕われる。心の歪みとして揺れる、震える、浮腫
(むく)む、白髪が急に殖える、窶(やつ)れる、水死人のように膨らんで肥るなどである。
 更には肉体の変化は病気になって表面化する。ストレスや精神障害、生活習慣病となる不摂生や不養生などである。
 人はこのような変化の中に居る。周囲がめまぐるしく変わる。それに併せて自己の変化する。

 この世を仮の世と言う。現世
(うつしよ)という。
 此処に棲む者を現し人
(うつし‐びと)という。また在俗の人と言う。此処の住人は仮の世を、肉体を借りて仮に棲(す)み、人生を経験して行く。そして経験する意識体は、肉体に対して覚醒、未覚醒を問わず真の姿の姿勢をとるが、肉体そのものは意識体の住処(すみか)であって、真の姿ではない。
 実体は非存在である。
 非存在がゆえにやがて、自己完結性が求められ、肉体総てを完
(まっと)うすべきときを迎える。臨終すべき時を迎える。その時に、悟道の境地に到達したか否かが問われる。死の超剋である。

 あの世に赴く際に、人間は肉体への我執を捨て切っておらねばならない。生への未練を断ち切り我執を捨て去っておかねばならない。我執を捨て、輪廻転生の定めに魂を移さねばならない。死ねばそれで終わりではない。死後の作業も残されている。
 そして悟道の境地に至れば、輪廻転生の定めに魂を移入でき、そこで魂の自由が得られる。
 魂魄は、死した後、魂は軽き気
(神気)であり昇華の天へのルートを辿って上昇するが、魄は肉体を司った重き気(精気)であるため地に残って白骨となる。魄は地に埋葬された白き骨を指す。
 これまで一体であった魂魄は死した後、分離する。

 あの世を隠世
(かくりょ)という。死後の世界のことである。
 人間が死した後、死後の世界などある分けが無い……、人間は生きているだけの存在であり、死ねばそれでお仕舞いよ……と、そう信じている人が圧倒的多数であるが、有るか無いかは別として、古来より、日本では死後の世界のことを「黄泉
(よみ)」と呼んで来た。
 古代人ほど、黄泉の世界のことを熟知し、人間は死んだ後も、現世の残って、非存在なる存在として「この世人と、あの世人は同じ処で同居している」という考え方をしていた。
 死者は、常に自分の傍
(そば)に居て、自分の先祖は、自らを生み出した根本であると考えていた。
 此処に先祖を崇拝すると言う思想があった。

 故人を敬う行動が日常生活の中に在ったのである。この先祖こそ、自らにとっては先祖霊であり、「先祖霊はまた神である」と信じていた。
 ところが現代人は、先祖の祖霊や神仏のついての認識が“苦しい時の神頼み”であったり、“現世ご利益で”の欲に絡んだお強請
(ねだ)りである。神仏は縋る存在、恃(たの)む存在に成り下がっているのである。そのくせ神仏など信じず、また信じないくせに中途半端な無神論者で、安易に“神仏など存在しない”と思いつつ、“しかし、先祖の墓があり親戚の手前”などと称して彼岸の度に墓参りをする。先祖供養をする。何とも行動が不可解である。

 人は死した後、これまで同居していた魂魄は臨終とともに分離して、魂と魄に別れ、それぞれは天の昇る性質を持っている存在と、地に下って地の神になる異なる性格があり、地に向かう性質の神は、地に下って土地の神の産土
(うぶすな)を司ったと信じられていたのである。
 この信仰が正しいか否かとは関係なく、この世には、この世だけの現象以外に、人間の肉の眼には見えない「何か」が常に起こり続け、超常現象を起こしていることも、また事実である。

 勿論、頑
(かたくな)に唯物論を信じ、神仏否定の確信的なる無神論者には無用の論理であろうが、更には、例えば自らの子供や孫が雪山で遭難したり、旅行に出掛けた先で事故や事件に巻き込まれて「無事で帰ってこれますように」と、天に、神に、祈らない自信のある人なら、現象界で起こっていることは総てニュートン以降の科学で、“科学的”という言葉で一蹴できるならば、それはそれで結構であるが、この種の科学信奉者の中で、中途半端な無神論者であった場合、その後の考え方に悲劇を齎しているようだ。
 心の歪みから、ただ世襲に流されて死生観が中途半端になっているからだ。現実には「迷い」が存在するからである。

 その最たる愚行が、口では神仏を認めないくせに、先祖の墓参りはする、盆・彼岸・命日には線香を上げ、結婚式は神前にぬかずんだり、あるいは教会のバージン・ロードを誇らしげに新郎新婦とも腕を組んで歩いたり、仏式の葬式には寺に詣り、神式では教会に訪れたり、正月には初詣して、暮れの三十一日まで除夜の鐘を聴いていた仏教徒が、一日開ければ神社に詣でて神道氏子へと早変わりする。
 子供の高校入試や大学入試には合格祈願に神社仏閣に詣で、合格したらしたでお礼参りをする……などの、日本人は無宗教と言いながら、中途半端な無神論者なのである。

 神は存在するのか?……。
 仏性はあるのか?……。
 そして造物主を、どう捉えるのか?……。
 人間は誰によって生かされるのか?……。
 あるいは生命は、生物学上で言う単なる生き物が増殖を繰り返し成長し、運動し、栄養代謝によって生活現象を表し、それが地球上生命として発生しただけのことか。探求すれば深淵なる謎が絡んでいる。

 更にその生物は、認識作用の結果、生命の維持並びに増進のために生存競争を繰り返して、例えば人間の場合を例にとると、社会現象である社会有機体なる「社会ダーウィニズム」により、弱肉強食と適者生存のために現在を生存する生物なのか。
 つまり生物学的現象は、創造物不在で、人老と言う生命体が繁殖現象により万物の霊長として“生存する”という現象を起こしているだけなのか。
 人間は何故生まれたのか?……。
 人間の存在理由は何か?……。

 人類は始まって以来、この問いについて悠久の長い時間を費やして来たのである。それは現代に至っても、明快な確たる説明が出来る人は殆ど居ない。
 しかし、奇跡は起こっているのである。
 現に、科学万能の時代においても、科学で現在は確認できない現象があり、この現象は人為的に作られた捏造話ではなく、迷信とは他に、未科学の分野に含まれるものである。波動の分野は未科学の域を出ていない。

 ところが、この未科学分野を、非科学極まりないと一蹴する考えが、戦後広く蔓延
(はびこ)ったことも事実である。
 世の知識階級は唯物論に入れ揚げ、唯物史観に熱を上げ、肉の眼でのみ確認できるものが正しいとなってしまったのである。そして同時に“科学的”という言葉が持て囃
(はや)され、現代人は安易に科学的とは如何なることを指すのか、正確に回答できないくせに、この言葉を好んで遣っているのである。

 また、科学的なる言葉は芸術や美術の世界にも反映さて、特に建築などにおいては、古代様式なども研究される一方で、建築家の多くは自らの美的感覚のもと、建造物を芸術的に構築するという考えに固執する一面もあるようだ。
 現に「こだわりの何々……」という称する言葉にそれが象徴され、何事も細事にこだわり、固執し、執着して、執着することがいいことのように思い込んでいる。拘泥である。拘泥こそ、芸術の極みと信仰する信心もあるようである。

 例えば、「相」についての考え方である。
 人間現象界には、様々な「相」を持つものが存在する。それは人間やその他の動物だけに止まらず、物にも相があり、その相によって、それと関わった者は、一生が作用されると言う現象が起こっていることも事実である。

 相には、喩えとして「家」があり、家は血縁・血族を後世に伝える根源である。
 家が子孫を従えて長く続くか、ある代で突如子孫が絶えて没落して行くかは、「家」という相を持つ中に入って、そこで過ごす生活態度で、その後のことが決定されているように考えられるのである。
 つまり家が在
(あ)り、家とともに暮らし、その暮らし方での行動と、行動に伴う心掛け次第で、その人の一生が作用され、支配されていると言う事実がある。したがって、相とともに非存在なる人間が、一時的に肉体を借りて存在する物体として、生かされることが許されていることだ。それが日々生かされる奇蹟の現象を起こしているのである。

 少なくとも、神とともに神に願わず、神に縋らず、「伴に在
(あ)る」という態度は必要であろう。無視し、否定しても始まらないことである。
 また、現象界で描き出す「相」には、伴に在るという現象が至る所で起こっている。これこそ、科学的と云う言葉で一蹴できず、無視できないものである。肉の眼に見えない法則にも、人間は支配下にあり、それに遵うしかないのである。自然界とはそういうものである。

 人が生きること、そして死ぬことも、自然界の法則の制約下にある。人間はその法則を知って遵って行くしかないのである。
 肉の眼に見えないからといって迷信とか、非科学と呼称して無視してはならない。また、芸術性重視で自然界の法則を甘く見たり、蔑視してはならない。そこに不幸の元凶も存在するのである。
 運が良い、悪いも、こうした支配下に含まれているのである。

 人間には「知らずの行動をしている」という、持って生まれた性癖がある。
 「知ったかぶり」などもその一つで、知っているつもりで、実は理解していないことが多い。
 普通、当り前と思い込んでいるものにも、そういうことは多く存在する。

 例えば、芸術的センスや美意識を優先させて、遣ってはならない大自然の理を犯して、それをしてしまう場合がある。
 特に、家相という古来より「相術」を駆使して練られた術を無視し、また神の摂理を無視して、人間の意識のみを優先して行動が行われ、その結果、例えば、古来より最も遣ってはならない、現在の一階平屋建ての建築物の上に二階を造るという「御神楽」であるが、これをしてしまうと凶事の暗示があり、近い未来に次々と不幸事が発生するのである。これで財産を失ったり、最後に自らの命まで失ってしまうのである。

 八門遁甲には、人間と人間が布陣する家屋・陣屋の八方に配置をするという独特の戦闘思想があった。八方角のそれぞれに門を設け、その門に攻めを懸ける「攻めの術」と「守備する術」があった。攻めれば勝ち、守れば守り抜いた。
 その守備の術の中に、霊的に、また敵将の命
(めい)を読んで、そこに付け入る攻め方があった。天に通ずる術である。
 それゆえに大自然の法則は無視することなく、その天の理
(ことわり)に則って、攻防を備え、理に反さない「相」を読んだのである。

 人間の行動律は、ややともすると自我が入り込んで、その我の中には魔が紛れ込んでいることがある。そして人間は邪に冒され易い。誘惑もされ易い。
 これ自体に、人間には最初からマイナスへと誘惑・誘導される不可解な行動律があるのである。
 人間がこの世にオギャーと生まれ出て、人生を生き、死に至るまでの道筋を辿る。そして人生の歩み方も、人それぞれに異なり、自意識で、あるいは意識せずに流されて歩いて行くかの何れかである。ここに個人差の「我」がある。
 しかし、自我意識が強過ぎると、何処かで愚を犯して死期を早める場合が少なくないのである。
 自我の動きと言うものには、自分自身がいつも中心にあり、中心意識の心をもって自然の動きに反する事を遣らかすのが、また人間である。
 特に自らを知らず、自己探求の訓練をしていない者は、我流で物事を考えてしまいがちである。そして自分の人生を知ろうとせず、ただ時代の急激な流れに流されるという人も少なくない。

 この種の愚を犯した場合、死期を早める人がいる。
 五体満足で、普段は健康で若く、元気で身体能力に優れ、スポーツ万能であっても、堅固な肉体を持ちながら事故死したり、事件に巻き込まれたりして不慮の死を遂げる場合があるのである。
 肉体は強靭であるからといって、必ずしも長寿は約束されていないのである。自信のあるにくらいでも、やがては運命の陰陽の支配に翻弄されて、寿命を待たずに早々と朽ちはれることがある。

 それに「相」というものが危険信号のシグナルとして出ているのにも関わらず、我流で、知ったかぶりをして、知らず知らずのうちに虎口に引き寄せられている場合も少なくないのである。

 これでは自らの生命体を、寿命が尽きるまで健全に導いて行くことは出来まい。人間の行動は、寿命以前に早死にして虎口に引き寄せられてはならないのである。

 そもそも人生において、死に向けて流れている生命活動は、生命を維持しつつ、肉体をもってこの世の闇の中を、手探りで闊歩
(かっぽ)するのではなかったのである。闇の中でも見通せる明るい視力と視覚を訓練しておかねばならないのである。そして、そこには行動律の静動があった。動くべき時はどういうときか、また止まるべき時はそういうときか、これを知っていなければならないのである。
 したがって、このことを知っている人と、知らない人とでは当然人生の歩み方が違うのである。
 更には、死についても勉強しておかねばならないのである。この勉強を怠れば臨終に失敗するのは請け合いである。

 知らないことを、解った振りをしてやっていることに案外、凶事ごとが含まれているのである。
 他にも仏壇の祀
(まつ)り方を知らないくせに仏壇を祀ったり、神棚を設けて自分勝手な現世ご利益を願ったり、欲の絡んだ行為・行動をすると、その愚は必ず自分に必ず跳ね返って来るのである。

 こういうものは始める時よりも、それを止めて始末する方が非情に難しいのである。祀るのが厭になったから廃棄すればいいと云うものでないのである。この行為こそ、敢て遣らなくていいものを遣らかしてしまい不幸を招くと言うマイナス要素となってしまうのである。

 例えば増改築の愚行の結果、新たに生まれるマイナス効果は、今まで以上に不幸現象を齎し、また知らないくせに神仏の何たるかを理解せず、ただ欲に絡ませて現世ご利益などを願って、欲塗れのことを遣った場合、そこには必ず不幸現象が発生している。此処に知らずに行動する現象界の恐ろしさがあるのである。

 また、死後の世界すら知らないくせに、死後の世界を勝手に信じ、天国に対して、あるいは極楽に対して、地獄などを対峙
(たいじ)させてしまうと、元々在りもしない地獄まで出現し、自らの最期の死に態(ざま)を悪くして、臨終をしくじり、「天国と言う名の地獄行き」を決定してしまうのである。
 知らないことを知らずに行う行為の中には、その行動自体にマイナスの要因を誘発させる最悪の結果が、人生最後の土壇場に控えていると言えよう。



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