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うまく死ぬ法 20

運命は常に動いて変化し続ける。
 運命は動いている。運命の陰陽は常に変化するものである。時々刻々と変化する。
 人間は、天地の間にあり、「人間
(じんかん)」を為(な)す。そして「宇」は天地四方を指し、「宙」は古往今来の意味を持つ。

 一説によれば、「宇」は天の覆
(おお)うところ、「宙」は地の由(よ)る所だ。その上、万物を包容する空間でもある。そこには当然の如く、人間(じんかん)に運命の陰陽が働いている。その陰陽は、時間および空間内に存在する事物の全体に及ぶ。

 宇宙空間での時間は、抛
(ほお)っておけば瞬(またた)く間に過ぎていく。
 したがって、漫然と見過ごすことはできない。時間を空費することなく、また、どんな辛いことでも回避することなく、これを身を以て経験し、体験していかなければならない。

 写真は『鬼膺懲
(おに‐ようちょう)』である。平戸の凧である。
 表凧は武士の子供用の凧であった。兜婆羅門の鬼を懲らしめる膺懲を指す。昨今は膺懲を洋蝶とも書くらしい。
 この「鬼ようちょう」には、「表凧」と「裏凧」があり、表凧は武者の正面、裏凧は武者の背後の図柄となっている。
 因
(ちな)みに表凧は武士の子供用の凧であり、裏凧は町人や漁民農民の子供用の凧であった。筆者が子供時代に親しんだ凧である。

 これら二つの凧の特徴は、どちらも尻尾を付けずに飛ばすということであった。それだけに難しい。
 したがってバランスが究めて悪く、凧揚げの経験のない子供は容易に揚げることが出来なかった。筆者も例外ではなかった。
 小学校低学年の少年時代、平戸の地で育った筆者は、それでも当時叔母にねだって「ハタ」と「鬼膺懲」の二つの凧を平戸桟橋近くの土産物店で買って貰ったことがあった。
 今はすっかり風化し、もう忘れかけた遠い昔のことである。


●死をあるがままに受け入れる話

 あるがままに……。それが自然である。
 それは現実を、あるがままに受け入れることである。
 一般に“あるがまま”というと受動的側面の要因を引き摺
(ず)り、「盲従」と判断されてしまいがちだが、実は「あるが儘」には素直さと従順さがある。言われるままに従うのではない。

 言葉を変えれば、状況判断に応じて「環境に順応する」という意味を持つ。
 したがって何も無闇に、盲目的に鵜呑みにして従い、先の運命を諦めることではない。是非善悪の分別を無くすことではない。人智の言動に服従することではない。

 自分の身の上に起こった事の成り行きの実情を、あるが儘に受け入れ、素直に認め、最悪の事態が発生したとしても、嘆かない。最悪の事態から善後策を考える。そこには建設的な行動の意味が隠されている。
 これは能動的でもあり、大自然を敬い、そして従い、そこに畏敬の念を持つことである。
 また自然に服従することであり、自然であるならば、当然従順になれる筈である。ゆえに自らは生き、活かされる。

 つまり、あるが儘の従順なる姿、また建設的なる行動は、例えば自分が成長していく上で、あるいは路
(みち)を進んでいく上で、前方に岩があればその岩を排除することなく、また爆破することなく、そういう不自然なことをするのではなく、岩に沿って路を進めていくことである。それが不安の胤(たね)なら不安を活かせばいい。活用すればいい。
 そして前進について諦めはない。

 そこには不可能を可能にしようとする傲慢
(ごうまん)さもない。岩の形状に沿ってそれを壊さず、岩の環境に併(あわ)せて柔軟に対応しながら、自らを活かしていく。不安の中に自らを開花させていくのである。行き詰まったと諦めないで脳漿(のうしょう)を搾り、考え抜くのである。
 その岩が下向きに斜めに逆傾斜しているのなら、その逆傾斜に併せて、実際の環境に従いながら状況判断をし、足を一歩一歩進めていくのである。
 環境に従いつつ、環境の変化をも取り込んで、自分の味方につけて、自分をあるが儘に変化させていくのである。
 間違っても、さからって傲慢に押し通らないことである。傍若無人に振る舞わないことである。ただ合わせるだけである。

 これに対して盲従とは、状況判断も観察眼も駆使せず、ただ前方に岩があると言う理由だけで、尻込みしたり、諦めて引き返す消極的な行動を言う。これでは前途は開けまい。
 行き詰まるだけである。塞がって、二進
(にっち)も三進(さっち)もいかなくなる。そして益々塞がりが大きくなり手も足もで無くなって行き詰まる。奇手の下しようが無くなる。
 遂には八方塞がりになって、自身を消極的にし、臆病にし、ケチにし、盲目のうちに諦めねばならない。

 そして、岩を「死」に置き換えた場合どうなるだろうか。
 自分の魂が前進し、死を通じて魂の昇華や浄化を試みるなら、死を前に、嘆いて途方に暮れることではあるまい。死も、あるが儘に受け容れるのが自然である。
 死は必然的に遣って来るものである。
 突如偶然に顕われるものではない。必ず、いつかは誰にでも訪れる。いつかは、わが身に降り懸り、肉体に終わりを告げる時が遣って来る。

 しかし、死は恐れる対象でもなく、また憎む相手でもない。生きることと死ぬことは同根である。表裏である。生死に境目はない。それも、あるが儘にその現実を受け容れればいい。逃げ出す必要はない。
 更に、忌み嫌う必要もないのである。

 死に腹を立てたり感情を露
(あらわ)にして、気分を恐怖で汚染させてはならない。死も、あるが儘でいい。素直に従順に受け容れればいい。

 死は現象界で起こる自然現象であり、これが自然現象ならば、決して人間側の意のままにはならない。そう言う制御は無用である。また如何様に努力しても自分の意のままにはなるものでない。従順に遵
(したが)えばいい。

 肉体の老朽化も自然現象の一つであるならば、畏敬の念をもって神妙に遵うのみで、それはまた、実に幽玄微妙なる変化流動の中にあるものであるから、自らの意志力で変更出来るものではない。
 これを変更しようと言うのは、あたかも意志力をもって晴天下に雨を降らせたり、大河の流れを低いところから高いところへの逆流させるようなものである。そういう行動や験
(こころ)みは、狂気の沙汰である。
 あるが儘の実情を否定するだけでなく、不可能への病状的挑戦である。これでは依存状態が起ころう。縋ったり、新興宗教などに帰依するものを求めたくなってしまうのである。危険なことだ。

 そして、この病状的挑戦は感情家の激怒に酷似している。ヒステリーである。
 恐怖から起こる神経症的な劣等感である。感情を抑制できないと、自然現象まで否定してしまうのである。
 人間の感情は、怖れとともに刺戟
(しげき)が継続している時に起こる。
 例えば、怒鳴れば怒鳴るほど激昂してくる……、あれである。そしてこの激昂が、バカな結末を導く場合もある。後でそれを悔やむことがある。

 人間は自分の意に沿わなければ時として激昂する。怒気し、興奮する。
 また怒鳴ることによって、怒りの刺戟が継続されれば、それは「火病状態」になり、また、それは後世に遺伝する性格的な因子となって引き摺ることがある。
 喧嘩早い者や好戦的な者も、悪しき“火病”の因子を保因している者が少なくない。
 そして火病が烈しさを増すと、それが激昂によって、周囲に不協和音を齎し、現象界に凶事の連鎖を齎すことがある。
 悪い事が連続して重なるのは、こうした不協和音の連鎖現象である場合が少なくないからだ。

 喧嘩は、一方が黙ってしまえば喧嘩にはならないが、双方で怒鳴り合うと、売り言葉に買い言葉で益々エスカレートし、遂に手が出手足が出る。暴力行使も辞さなくなる。
 これが刺戟・激昂の連鎖であり、連鎖するものは継続することが少なくない。後に引き摺る。
 更に連鎖の継続は、注意の集中によって益々感情を荒だてると言う状態に陥り、「火病状態」に発展して、病んだ状態まで誘引してしまう。前後の見境まで見失う。

 例えば、死に対しての不安を考えてみよう。
 この「不安」というのは、死に即しての未経験・未体験の不安であるから、不安を取り除こうとすればするほど、不安は募る。これが不安の連鎖である。
 これは、今から刑に処されようとする死刑囚の感情を考えれば、自分の罪を贖
(あがな)って死刑に処されるのだから致し方ないが、しかしそれでも死は怕(こわ)い。一回限りの人生において不安を募らせるものである。覚悟が出来れいなければ尚更であろう。
 そして、生に縋る気持ちが強い場合は、死に対する不安は益々募る。

 死と言う人間に起こる自然現象は、単に動物の死ではなく、人間型の動物が死んだり、殺されたりと言う現実の他に、不安と注意が悪循環になって混乱を錯乱を齎し、更に不安が強なる興奮した感情を起こす。訳も分らず烈しい怒りを覚える。激昂が起こる。
 つまり、不安と取り除こうとして努めるということは、注意の集中となる。

 これは不安の集中でもある。精神の交互作用である。
 こういう場合、死に対して勉強不足では殆
(あや)うい。死を十分に研究し、臨終という最後の結末の臨死体験をしておかないと、恐怖はますます増幅するものである。
 死に対する恐怖は、知らないことから起こる。生に縋り過ぎると、こうした感情の激昂が起こり、ついには死に腹を立ててしまうのである。
 これこそ不成仏の構図である。

 そして大事なのは「あるが儘」である。
 人間の欲求は、それが喩
(たと)え強欲でも満たされれば問題ない。縋って、縋れれば何の障害にもぶつからない。
 ところが障害に直面して欲求が満たされないとなると、満たされないことに対して不安が起こる。この欲求は強ければ強いほど、不安も強くなる。
 生と死を比較して、その違和感が強い場合、これ自体に烈しい不安が付き纏う。神経的に細い人ほど心配性であるばかりでなく不安に囚われ易いのである。斯
(か)くして、死に恐怖を感じ遂には憎むことになる。

 死は抗
(あらが)うものでなく、任せることを肯定し、自然を認めることである。
 この認識がないと、死は恐怖の対象になりに組む対象になり、その対象自体に腹が立って来る。
 なぜ自分が死なねばならないのかと、「自分ばかりに……」と立腹するのである。不安を抱えた者の感情の持って行き先は、決まってこうなってしまう。
 あるが儘に受け入れればいい。
 あるが儘に大自然の意向に任せればいい。
 このことを知らねば、困難に直面して不安に襲われるばかりである。
 特に、死に直面した場合、死に不安を感じるようでは却
(かえ)って破局を招き、生きながらに不成仏の形を採(と)って、臨終に失敗するのである。

 一方、死生観を超越して、あるが儘の態勢に、わが身を置くことが出来れば困難も苦境も克服するから不安の胤は消滅するのである。
 生死が表裏の関係にあるのなら、生が死の中に入って一体となれば、もう生も死も無くなる。存在から非存在へと移行するだけである。



●想い出の消去

 老齢期に至っては、徐々に過去を「忘れる作業」と整えておかねばならない。
 一種の『忘術』を駆使することである。
 決して「昔は良かった……」などと言う、過去の栄光やいいことがあった想い出に縋って、想い出に翻弄
(ほんろう)されてはならない。

 日本が世界有数の長寿国となった昨今、老人人口の比率は鰻上りである。そして、これが社会構造に大きな変化を齎している。
 歴史を振り返れば、文明の発達と言うものは福祉や医療面に進歩を齎し、かつての過重な労働条件は改善され、これを背景にして老人人口は増加の一途を辿っている。

 それに伴い、老人のイメージも一変した。
 かつて七十歳を「古稀」と呼んだ時期があった。この古稀の言葉の裏には、老人に対する尊敬の意味が含まれていた。
 杜甫
(とほ)の『曲江』には「酒債は尋常行く処に有り、人生七十古来稀(まれ)なり」とある。
 大意は、酒代のツケは自分の行くところ何処にでもある。しかし、七十年生きる人は、古くから稀であると言っているのである。

 この時代、七十歳まで生きる人は稀であった。そして、その七十年の人生には老人として長い経験が横たわっていた。古稀には智慧者と言う意味もあった。それだけに尊敬されたのである。
 先祖から受け継いだ生活の智慧を子孫に伝えていく。それ自体が立派な役目を負っていた。長老と言われた所以
(ゆえん)である。

 ところが現代は違う。
 生活様式が大きく変化したため、昔の智慧は現代では古ぼけたものに変わった。古いものは必要とされなくなった。役立たずになり、その一方で老人自身が新しいものに馴染めない側面を作り出した。もはや長老としての指導者の役目は終わり、その地位も崩壊した。

 このことが、古きよき時代を懐かしむ感傷である。老人の口から漏れる一言が「昔はよかった」である。
 不満と愚痴に明け暮れる老後を過ごす老人も少なくない。
 愚痴が過ぎれば益々憎まれ、嫌がられるばかりである。そして、ただ死を待つばかりの長寿と疎んじられるのである。
 このように、哀れに顛落
(てんらく)していく老人を多く見受ける。

 現代の世に、残老の身に残るものは虚しい遠吠えばかりである。安易に昔を懐かしむばかりである。過去の栄光に縋ることばかりである。そして過去の想いでの中に生き、今を生きていない。
 生き生きとした生産活動は行われなくなり、若かりし日のことを回想するばかりである。

 そのうえ長い間に染み付いた人生の垢や汚れが一種の“あく”となって、染み付いた不浄を見詰めることが出来ず、また清らかな魂を生成することも難しくなくなった。柔軟性も躍動性も、また伸縮性も無くなり、至る所が錆び付き、慟哭
(どうこく)ばかりが襲って来る。
 こうなると、ただ死を待つばかりの老後を過ごすことになる。危うい老後である。

 若い頃は確かに身も心も柔軟だった。
 思い立ったこと、計画を立てたことを実行するだけの力に満ちていた。そうした背景によって、新しい体験や身に付け、失敗もまた味わいとなり、成功すればその度に自信をつけ、未来は、永遠の無限の可能性に満ちているように感じた。生命の躍動を覚えた。

 ところが、老いは無限であった筈の心に描いた夢は、障害と壁に打
(ぶ)ち辺り、老いとともに萎み、不安と心配で汚染され、傷付き、朽ち果てていくのである。遠くを見る目は近視眼的になり、悔いと恐れを同居させて、偏り過ぎた劣等感に苛まされることになる。そして死に対し、恐怖を一層募らせ、怯(おび)えた弱腰の老人に成り下がる。

 老いは決して肉体年齢だけで決まるものではない。夢を捨て、かりそめに幸せに固執し、こだわるところから老いは忍び寄って来る。気持ちが老化現象を起こすのである。
 また無知や鈍感さのために、心の抵抗力や免疫力ななくなり、周囲の影響を受けて急変する愚行は、老いても幼き魂から来るものである。
 それはこだわるからであろう。頑
(かたくな)に迷うからであろう。

 いい物も悪い物も、いいことも悪いことも、さらりと流して、忘れて去って行く心構えが大切である。過ぎ去ったものは追わない潔さが大事である。
 総ては忘れる中にある。
 真理は捨てる中にある。捨てて行く中に真理が包含され、魂の進化があると言えよう。

 進化した人間の魂は、後に何も引き摺らない。未練も、後ろ髪を引かれる思いすらない。ただ淡々として去る。そして、老後は濃厚な人生の「今」を生きるだけである。
 あるが儘、活かされる儘に生きればいい。そして、死ぬ時がしたら死ねばいい。後には何も引き摺るものが残らない。あるが儘である。

 しかし、あるが儘に任せられない時に不安が生じる。此処に小細工が起こる。安心感を無理に招来して不自然な安心感に縋ろうとする。この安心が依存である。
 例えば、何かに依存しようとする行動である。
 その最たるものはアルコールに依存したり、精神安定剤の力を借りて、不安を蹴散らす愚行である。

 これらによって不安を鎮めようとした場合、大抵の場合が逆効果を生み、依存率は益々高くなっていく。
 更に、過去の想い出などは、懐かしがれば懐かしがるほど、想い出に対する妄執は募り、妄執から不安が増幅したりする。

 アルコールも精神安定剤の依存もそれだし、更にギャンブルにのめり込む依存症も不安と無縁でない。
 依存には不安が大きく絡んでいる。そして警戒すべきは「感情の暴走」である。
 感情は暴走とともに、激昂するものである。昂
(たかぶ)るものである。昂って載せられれば、一溜まりもない。まんまと仕掛けられ、嵌められてしまう。煽られ、ブームに載せられ、操作される。

 例えば、昨今の美食主義である。
 煽られれば、多くの大衆はこれに抗う力を持たず、その抑止力がない。煽られるままである。美味いものを少しでも多く食べなければ……となる。人生で、どれだけ美味いものを多く食べたかが問題になる。そして食道楽に奔走する。

 これは昨今のサプリメントの流行にも絡んである。
 喧伝されれば載る。載せられる。買ってみようかとなる。そして遂に依存症となる。
 思い込みと脅迫観念から、それを飲用し、使用しなければ自分が朽ち果てると言う脅迫観念に迫られ、商業主義のルートに載せられて「是非、買わなければ……」となる。

 現代は、「買わなければ……」と言う脅迫観念で動かされる時代でもある。依存症に陥る元凶である。
 この元凶が横行するのが、現代と言う便利で快適で、そして豊かであると信じる現代社会である。
 しかし、この豊かさは真理から来るものでない。欲に絡んだご都合主義である。此処に定見などない。物質的相体主義から起こった疑似世界の「似非
(えせ)」である。
 現代人は似非に載せられる。脅迫観念に踊る。あたかも釈迦の掌の上で乱舞する孫悟空である。

 アルコールも、睡眠薬などを含む精神安定剤も、ギャンブルに興じる奔走も、総て不安から起こった似非が生み出した脅迫観念であり、また一般に流行しているサプリメントブームも、不安から起こったものである。
 これらで不安を克服しようとしても、その実験は成功しない。何れも、似非であるからだ。
 これに依存し、寄生すると、寄生依頼心によって、破壊へと向かい、反対に、底知れぬ不安に見込まれてしまうのがオチである。

 では、現世を生きる上での「不安」とは何だろう。
 不安は数限りなくあるが、大別して、健康や性の問題、更には子育てが不完全になったスピード時代の育児の不安、社会生活での不安、国際問題での不安や領土問題、そして日本人としての不安であろう。

 不安は、人間として欲求に絡む不安も大きく関与しているのである。
 生物的保存欲求や社会的自己保存の不安なども、生きる上での不安となり、また自分が死した後の後始末にも不安もあり、それに絡むのは金銭であり、残った物財などにも不安もある。
 遺言も、これから先の大きな不安の要素を孕
(はら)んでいる。

 人間は生に固執する以上、健康で長生きをしたいと願うものである。老いても異性を得たいと、その願望を沸々とさせるものである。子供が居たら居たで、その行く末を案じるものである。総て欲求である。
 その側面には生物的欲求があって、この欲求が強ければ強いほど、健康や生に固執し、老いても異性と交わる性にまで及ぶ。
 人からよく思われたいと思うのは、老齢期に達しても枯れることはない。生に固執すればするほど、この欲望は強い。

 老いても「人からよく思われたい」という欲求は、決して枯れることはない。そして、向上発展し、何事かにこだわり、執着し、とにかく人から認めてもらいたいという思いは果てることはない。
 誰にでも“エエカッコシー”の側面はある。筆者の私でも、例外ではない。

 これは社会の側面を意識し、自己保存欲求が濃厚だからである。欲深いからである。
 この欲が強ければ強いほど、人間関係や社会生活に対して不安が募るのである。いわば凶の人生の選択肢ある。
 こう言う人生を無意識で、脅迫観念から選択している人も少なくない。

 思惑通りに、欲求がどんな強くても、思惑通りに運び、何の障害にもぶつからなければ、不安などは生じないが、ところが問屋はそうは降ろさない。現実は障害に満ちている。前途は多難である。

 その前途に先んじて「死にたくない」と激しい欲望を燃やした場合、その自己防衛には不自然な偏りが生じる。死にたくないに……完璧さを求めることになる。
 完璧と言うのは観念の世界だけに存在し得るものである。現実にあるものではない。こういうものを追い掛けると、あり得ない完璧主義に襲われ、不完全であることに不安の胤が付き纏う。

 かつてこう言う話しがあった。
 ある大学病院の医学部の教授の話である。
 この教授はガンを恐れていた。そのため日常生活もガン予防策を立て、熱い御飯は食べない、熱いお茶は飲まないと、熱から起こる食道ガンを警戒していた。それは「粥を食べることの多い地方に多発する医学的データ」から得たものであった。
 また大気汚染による肺ガンなどを警戒して、いつもマスクを掛け、タバコを喫煙していたがこれを細かく切り刻んでフィルタータバコを吸わず、パイプでタバコを吸っていた。そういう警戒心の強い教授であったが、皮肉にもガンで死んだのである。

 ガンの発病は、単独なる病因で起こるのではない。複数要因が絡んでいる、種々の因子が組み合わされて起こるものであり、然も人の肉体には先天的にガンに対する免疫力がある。
 一生の間に何度か急性的なガンに罹るであろうが、罹っても免疫力が働いて治ってしまうのである。その最たるものが、可逆性である。
 ところが、ノイローゼ的に内外からストレスとなって襲われた場合、血液は汚染され、細胞が変質することもあるのである。これがガンの免疫力を失わせてしまうのである。
 心配性ほど、ノイローゼは加速度を帯び、逆に明るく心配性でない人は自然退縮によって治ってしまうのである。

 死に対して敏感過ぎれば、警戒心ばかりが先立って、“石橋ばかりを叩いて、遂に結局は橋を渡らない”となってしまう。
 また、不安に対して鈍感ならば不用心になって、不幸な事故死の類
(たぐい)に陥れられる。死に態(ざま)を悪くする。

 不安や将来に対する保障は虚しい心の迷いに過ぎない。
 今日一日を精一杯生きれば、この日の今日一日は素晴らしく、それに喜びを感じ、感謝できれば、死ぬその日も、今日と同じ素晴らしい日に違いない。生涯でまたとない吉日である。
 総てのものは、個々の働きが終われば、肉体が朽ち果てるように滅んで行くが、その働きが存在したことは永遠に伝達されていくのも、また法則のしからしむるところである。



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