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うまく死ぬ法 17

近代史はルネサンスとともに幕開けした。
 ルネサンス以降の近代史の方向は、資本主義社会の到来で、神仏的精神社会が止めを刺された。また、止めを刺すべき方向へと向かった。

 だが、これで総てが新しい方向へと向かった訳ではなかった。
 資本主義の擡頭
(たいとう)により、次に図ったように共産主義が擡頭し、かのロシアの地で人間牧場の実験がなされた。共産主義社会はその出現によって、ある模索の一つを実験したに過ぎなかった。次世代の人間管理の在り方である。監視し監督する人間の管理の在り方の実験であった。

 ところが近現代史は、この模索に大いに入れ揚げ、共感し、共鳴し、熱狂的に支持した人も少なくなかった。それが、単に思索のための試案と実験に過ぎなかったにも関わらず……である。
 特に当時、インテリゲンチアと言われた知的生産に従事する社会層には絶賛され、持て囃された。
 日本では今日でもこれを支持するシンパサイダーは少なくない。

 プロレタリア革命を通じて実現される、生産手段の社会的所有に立脚する社会体制を共産主義と言う。その第一段階は社会主義とも呼称された。この政治システム下では、生産力の発達程度があまり高くないため、社会の成員は能力に応じて労働し、労働に応じた分配を受ける。
 そして更に追求すれば、生産力が高度に発展し、各成員が能力に応じて労働し、必要に応じて分配を受ける段階があり、これを共産主義と称した。

 私有財産制の否定と共有財産制の実現によって貧富の差をなくそうとする思想および運動は何とも耳障りがよく、この体系付けの背景には、社会の構成員が共有する「何か」があるように連想する。またその連想の先に、人類の夢があるように思えた。
 しかし一方で、人間管理の実感がなされたことも事実であった。
 今日に至っては、幻滅で終焉したかのように思える。虚構の幻影に終わったように映る。

 そして、共産主義はソビエトの崩壊とともに滅んだかのように見える。復活は不可能のように映る。
 だが、そうではない。時の流れに任せて、隠れたように見えただけだ。

 凍土の地で人間管理の実験をしたことは大きな成果だった。
 やがて近未来に、情報化社会が世界を網羅するかの如きの暗示を残して……。
 現に、情報で操作され、管理され監視されるデモクラシー社会は何故か社会主義に酷似するではないか。
 民主主義デモクラシーは、現代の世は諸手を挙げて歓迎されているようだが、そこに巧妙に作られた虚構の蠱物
(まじもの)が隠れている。

 そして民主主義は、昭和20年8月15日の日本の敗戦によって、米国より押し付けがましく齎された。
 敗戦当時、日本人の大半は「国破れて山河あり……」などと、ふるさとの感傷に浸った。そして敗れた果てに、自由と平等を売り文句にした民主主義デモクラシーに入れ揚げた。米国から齎されたものは優れたものだと信じた。それが米国の巧妙な工作によって行われたプロパガンダとも知らずに……。
 爾来
(じらい)、それが頑(かたくな)に守られている。民主主義を冒涜するなど、以ての外となった。

 今日でも民主主義デモクラシーは「民主」と云う言葉で大衆を酔わせ、しかし、未だに真の意味での民主主義は確立されていない。民主主義を受け入れられるだけ、社会が、大衆が成熟していないからである。
 今では「民主」だけが一人歩きし、分けも分らず、誰もが民主主義を標榜し、それが世界最高の社会システムだと思い込んでいる。

 その現実下に、民主主義は老朽化の様相を呈しはじめた。かつてのものは朽
(く)ちて、多くは腐朽が見え始めたのである。
 情報化の世の中では、情報によって我田引水が齎されるからである。民主主義の多数決原理は、それを如実に物語っている。

 そもそも民主主義の総本山の米国が揺らぎはじめたからである。
 現代人は、こうして転換と模索の狭間に逍迷
(さまよ)っている。
 しかし現状把握は疎く、「民主」と言う名の下で、企業戦士として組織人の一員を決め込んでいるが、実情は、朝起きてから夜寝るまで、何らかの形で管理されている自分を知らないようだ。
 此処にこそ、巧妙な搾取があったのではないか。見えざる管理の手に操られていたのではないか。
 物質文明の「民主」を謳
(うた)った背景に、精神的なる自由は何処にも存在しなかったようだ。

 思えば、こういう時代は、人々がある意味で「人生とはなにか」という問いに対して、周期的に先祖帰りをしているのではないかと思うのである。
 それは魂の故郷へ、帰家しはじめたとも言えるのではないか。


●何事もあるがままに任せる

 人生は運命によって構築されている。相応しい生き方は運命によって構築される。そして善も悪も運命の構築による。
 運命などという、身の上にめぐって来る吉凶禍福は、絶対に信じないと言う勇ましい人がいる。運命は自力で切り拓くと信じている人がいる。
 それはそれで勇ましい。自らの力を頑
(かたくな)に信じる人であろう。自身で変えられると信じ、自分以外を頼りにして人生は進むことが出来ると確信している。

 ところが現実には、どうしようもないことがある。
 如何に努力して、努力こそ頼りにして、努力を信じた結果、努力は実らないと言うこともある。自力には見解がある。
 そして努力は、むしろ実らない方が多いようだ。

 この現実は決して無視出来ないものであり、努力は実らないという事実を軽視するべきでないだろう。
 そして、努力は実らないからこそ、そこに再挑戦する努力があり、努力する他力を忘れてはなるまい。

 努力する他力は、努力の範囲は自力で究極まで努めるが、その後の結果は天に任せることである。後のことは人間側には無関係である。結果の善し悪しは他力、つまり天が決めることである。ゆえに任せる。善いも悪いも任せる。これを「他力一乗」と言う。
 換言すれば、人事を尽くして天命を待つということである。

 死生観を考えれば、死は必然、生は偶然と言う。
 したがって、偶然の生ばかりを追い掛けて、必然である死から逃げ回っても仕方ないことである。
 必然に起こることから逃げ廻って、偶然に縋
(すが)っても、これは必然に逆らうことである。これでは人生を全うすることにはならない。逆行する人生である。あるが儘の自然の姿を逆らう人生である。

 そもそも必然に起こることは、あるが儘に受け入れ、それから先は、任せればいいことである。恐れて忌み嫌い、逃げ回る必要はない。受け入れて任せればいい。任せるところに他力一乗が働く。

 現象界は、死して出発する法則がある。死から総てが始まっている。
 再生するものは死ななければ生まれない。
 また物は捨てなければ、新たに貯えることは出来ない。いつまで経っても、相対世界に引き摺られることになる。自己同一性をもたないもに縋るのは愚である。
 それは奇
(く)しくも、自らを不自由で縛ることであった。

 窮屈な、身動きがとれないまま、本来の目的地を見失い、自己を無慙に歪
(ゆが)めてしまうのである。それでは、魂は日に日に痩せ細っていくであろう。わが命は、蒼白(あおざ)めて血を失いかけるであろう。
 受け入れて任せることを覚らねばならない。

 人の生死は、表裏一体……。
 切っても切り離せない。それ自体を、あるが儘に受け入れればいいことである。
 ひたすら生を追い掛け、死から逃げ回るから、常にこの構図は、恐怖が蔓延
(はびこ)り、死の認識を誤らせるのである。

 生に縋って、死からひたすら逃げ回る……。恐れて忌み嫌う……。
 この構図は、貧乏が厭
(いや)で、貧乏から逃げ回っている人の行為に酷似している。そして金持ちになろうとして、あくせく動き廻るが、結局金持ちになれずに貧乏の儘である。
 それは何故だろう。
 反芻
(はんすう)してみる。

 金儲けが下手なのか。金銭感覚が鈍感なのか。
 あるいは商才がなく、何を遣っても上手くいかないからか。
 更には働けど働けど楽にならず、自分の稼いだ金は、総て穢
(きたな)らしい雲の上の資本家や経営者から、当然自分に配分されるべき利益を搾取されているからなのか。搾り取られる構造を持った資本主義のブルジョワ的階級構造が悪いのか。
 持てる者と持てない者が、互いに鬩
(せめ)ぎ合いをしているからなのか。
 あるいは相互間の対立構造が悪いのか。
 そしてこれを克服すれば、両者の階級闘争は終焉を迎えて、万人に自由と平等が訪れるのか。

 確かに人間社会では不条理は存在するが、決してそれだけではあるまい。
 わが身一人を、経済的に自由にする。
 それくらいのことは、普通の能力を備えた常人なら誰でも出来よう。
 経済的自由を得る。わが身を不自由なく賄
(まかな)う。この程度のことは誰にも出来る筈である。
 ところが現実はそうではない。同じラットレースを試みる階層にも物質的な見栄は働く。先んずれば人を制すの野心は誰もが所有している。

 身形は立派で、マイホームやマイカーを持ち、妻子が居て物質的には表面上、何不自由なく恵まれた生活をしている。物を買うにしてもカードで買う。海外旅行もカードで済ます。それで十分にリッチ感を楽しめる。俄
(にわか)金持ちを気取れる。

 ところがこう言う人は、果たして経済的自由な立場にあり、金銭と言うものに縛られていないのか。カード決済のためにローン漬けになっていないのか。ローンを払うために、その奴隷になっていないのか。そして、金銭のために本当の自由を奪われていないのか。

 もし、物質的豊かさだけを求めて、精神的な自由追求に欠陥箇所があれば、それば物質面、特に金銭面に不自由が生じるばかりでなく、精神的豊かさも失ってしまうのである。金銭感覚が無いとか、経済的不自由に強いられているという以前の問題である。
 そもそも考え方に落度があった。今を満足する「足るを知らなかった」ことではないのか。
 アラブの言葉に「お前も私もパンを持っている。それなのにどうして羨
(うらや)むのか」と言うのがある。

 その意味で、アラブ人は実にいいことを言っている。
 「借金がなれれば、金持ちなのだ」と。
 全くその通りである。
 彼らは更に言う。
 「貸し借りは、家政の貧しさを顕す」
 同感だ。
 それに比べて現代日本人はどうか。比較すれば一目瞭然だろう。
 アラブの箴言を逆から取れば、“家政が貧しいから貸借が起こり、借金を抱えていれば金持ちであり得ない”と言えないだろうか。
 しかし、自称「一億総中流の上」と信じている日本人は、“借金を抱えて貧乏人”という経済的不自由に全く気付いていないのである。自分の自由が、先ず第一に金銭に束縛され、第二に会社や職場と言う運命共同体?に束縛されているという気付いていないのである。

 アラブは皮肉を込めて、資本主義市場経済に生きる自由陣営革の、今日の日本人に「あなたたちは、実は不自由なんですよ」と、あたかもその種のメッセージを送っているのかも知れない。負債の、債務の出所を指摘しているようである。
 負債を抱えている土地家屋やマイカーの大ローンのことを指摘しているのである。
 そして止
(とど)めが「貧困は争いを残す」と言ったことだ。

 更に「貧困は、人間を盲目にする」と言う、実に皮肉な箴言を持ち出し、あたかも今日の日本人の頭上に降り懸る、個人的な債務というローンだの、月賦だのの「愚」を厳しく指弾しているかのようである。
 つまり貧困とは、今の足るを知らないことを本当の貧困と言うのではないか。物に頼ったことで派生したのではなかったか。

 また、自由という本当の意味を知らなかったことから、起こった事象こそが、貧乏からひたすら逃げ回る行為であった。
 此処には貧乏から逃れようとして、あくせくと働き、それによって貧乏を回避したことであった。果たしてそれだけで逃げ切れるだろうか。
 多重のローンを抱えていては、逃げ切れる訳がない。働いても働いても利息に追われ、焼け石に水である。元本は決して減ることはない。

 思えば貧乏から逃げ出そうとして周囲を物財で飾ったことであった。周囲が金持ちのそれに似ていれば、リッチになると考えたことから起こったことであった。上を見て羨んだことにあった。
 金で買えるものを周囲において、贅沢を楽しみ、その楽しみがリッチであることと勘違いした。
 そして、本当に金で買えないものは?……となると、果たしてあったのか。人が盗もうとしても、盗めないものはあったのか。
 それを考えてみれば、自分のした行為や企てが、浅はかであったことが分ろう。

 豊かになろうと思ってしたことは裏目に出たのである。
 快適で便利な生活を楽しもうとして、それを模倣したところ、実は更に経済的自由を強いられることであった。つまり、リッチの模倣を外面の辻褄合わせで遣ったからである。中身が伴わなかった。中身が空っぽだった。

 本来、金銭と言うものは、身に付くか身に付かないかの、人によって根本的な違いがある。
 あくせく働いても身に付かない人もいれば、殆ど何も働きもせずに経済的に不自由をしていない人もいる。
 この違いは何処にあるのか。

 恐らくこれは「余裕」だろう。余裕が有るか無いかに根本的な開きがある。
 つまり、損しても「損する余裕」である。
 あくせく働いて金銭が身に付かない。働けど働けど経済的不自由を強いられる。
 なぜか。
 損したところを取り返そうとするからである。

 これはパチンコをはじめとする競馬競輪に公営ギャンブルにのめり込んでいる人なら明白だろう。
 失ったものを取り返そうとする。
 つまり、失ったものを惜しいと思うからである。取られっぱなしでは済まされるものかと意地になるからである。取られたものを大変だと思うからである。取られたものを大きいと過大評価するからである。
 結局失うまい、取り返そうという心に囚
(とら)われて、その心が心全体を支配してしまう。

 こう言う負け将棋を、もうもう一番もう一番と繰り返す人は、小局面に心全体が囚われて、本来の心の制御の仕方を失うからである。小事に狂奔する心に囚われて、小さき場面に囚われ、閉じ込められ、自由自在性を失い、心の本来の働きを生かしていくことが出来ないからである。そうして斃
(たお)れてしまう。

 私たちの生活にも、こう言うことは至る所で起こっている。
 商業にしても商談にしても、また人付き合いにしても、自分の下手を打ったところを取り返そうとすれば、必ず負けが込むようになっている。
 これは、捨てることを知らないからである。抜けることを知らないからである。躱
(かわ)すことを知らないからである。そして損を惜しいと思うからである。

 対処法はただ一つ。捨てればいい。放置すればいい。
 あたかもトランプゲームの「いち抜けた」でいいのである。
 それよりも遣るべきことは、先を見ることだ。先を切り拓くように、新たな努力を始めればいいのである。

 努力は必ずしも実らない。
 実らないが、諦めずにまた努力を重ねる。ここに他力一乗の働きがある。
 失ったところを取り返すよりも、新たな努力を重ねて、自身は新生することである。一旦死んで生まれ変わることである。

 必然と言う運命は、人知では左右できない。変更できない。任せる以外ない。受け入れて立って行く以外ない。そして運命は逃げるべきものではないのである。
 相対界では、必然から逃げようとしても、何処までも追いかけて来るのである。

 迎えて、それを果たして行く以外ない。損した生は放置して、一旦は死して、また新たに復活する。それがこの世の「捨てる」と言う行為に纏
(まつわ)る因縁なのである。
 これは貧乏も同じだろう。
 貧困は何故起こるのか。

 貧乏が厭だと言って逃げ回れば、いつまでも貧乏が追い掛けて来る。
 その所為
(せい)を、政治や経済システムの不合理に需(もと)めても仕方ないことで、本来は自身を変えることの方が先決なのである。
 世の中に不合理は確かに存在するが、その非を責めたところで何一つ変わらない。階級闘争だけでは解決に至らない。世の中がどう変わろうと、あるいは社会体制の逆転劇が生じたところで、同じような状況は再び派生するからである。人間の思考は、いつの時代も同じところを廻
(めぐ)るようになっている。
 かつて暴君が横行した千年前の人間と、現在の民主主義を標榜する千年後の人間とでは大して思考は変わらないのである。
 そもそも、権力者は初心を忘れて不合理な働きをするものである。そうした行動を採るものである。

 斯
(か)くして、自身を襲った貧乏は迎えて果たして行くしかない。失ったものを惜しいと思わないことである。損するだけの余裕をもって、立ち向かっていくことである。それから逃げ回らずに、迎えて果たせばいいのである。

 貧乏から逃避しようと背中を向けて走り回るから、いつまで経っても貧乏は追い掛けて来る。
 ゆえに、いつまでも貧乏を背中に背負っていなければならない。
 しかし、逃避を止める。現実逃避を止めて、反対に貧乏の中に頭を突っ込んでいく。貧乏と一体となる。

 逃げれば貧乏と自分は二者の関係で、相対的関係を持つが、貧乏の中に突進してその中に入り込めば、自分と貧乏は一体関係に早変わりする。貧乏と一体で居れば、貧乏から逃げ回る自分と言うものは存在しないことになる。もう貧乏はないし、貧乏な、貧困から逃げ回る貧乏な自分も居ないことになる。

 厭だ。恐ろしい。逃げようとしている間は、貧乏に心を囚われて全局面を貧乏だけに奪われていることになる。
 つまり全局面を奪われると言う現象は、やがて自らの全生涯を奪われてしまうことになろう。現代人はひたすら貧乏を恐れる。
 これはあたかも、豊かで便利で快適な現代人の文明生活が、実は精神的にはリッチでなく、ひたすら生に縋り、死を忌み嫌う現代人流の逃避生活に酷似する。

 これと同じ現象が死に方についても起こっている。
 死をひたすら恐れ、憎み、逃げ回り、生に固執する現代社会である。
 昨今の日本語表現の、こだわり、こだわり……の言葉の連発から考えても、それは何処か、現実逃避を企てている行為と酷似しまいか。

 人生は「円」に支配されている。
 人の一生は「円」に支配され、円周の輪の中を循環するようになっている。輪から逃れようと足掻いたとしても、最後にはその中に取り込まれてしまう。循環しているのである。
 円運動は廻
(めぐ)るのである。やがて巡り廻って許(もと)に戻り、跳ね返ってくるのである。



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