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うまく死ぬ法 16

人間は天命によって生かされている。
 私たちは自意識で、自力で「生きている」のではなく、「生かされている」という気持ちをもっていなければならない。また自分の力で生きているのではなく、生きるだけの運命が与えられ、生かされているのである。
 天は、人を生かす。そして人は、天から活かされている。

 天の“思し召し”によって生かされているのだ。そこには天の好意ある意向が働いているのは、自明であろう。
 だから「非存在」なる人間が、「存在物」として“生”を受け継ぐ事が出来る。当然、“活かされいる”のだから、感謝が必要であろう。これにより、人は「生」を全
(まっと)う出来る。
 生の全うの基盤は「感謝」である。心優しく、感謝に満ちたものが生の全うへと向かわせる。

 だが多くの人は、天より生かされていることを忘れ、一時的な“ツキ”に恵まれた順風満帆
(じゅんぷう‐まんぱん)に気を良くして有頂天(うちょうてん)に舞い上がったり、他者を見下して、傲慢(ごうまん)になったり、思い上がって傍若無人に振る舞い横柄(おうへい)になったりして、自身の身を律することを怠り、慎(つつし)んだりすることを忘れてしまう。自身の生来の実力と思い込んだりする。
 思い上がりの殆
(あや)ういところである。

 また、不幸現象に襲われて、進退窮
(しんたい‐きわ)まり困窮している人は、ツキに見放されていることだけを嘆き、天命が働いていることを忘れ去っている。自らの生存に、何が関与しているか知らないからである。


●生の偶然、死の必然

 死ぬには準備が必要である。ある日突然、予期しない死を迎えることこそ恐ろしいものはない。
 特に事故死の類である。
 突然の死は、覚悟する時間がないことである。ある日突然襲って来る死は、死の覚悟が出来ておらず、ただ恐怖に引き摺られて死ななければならないことである。

 特に戦後育ちの現代人は、死を悪と考え、死から逃げ回り、生き残ることこそ善と考えて来たから、死は実に恐ろしいものとしてのイメージが出来上がっているのである。
 斯
(か)くして、死から逃げ回り、死を恐怖の対象にしてしまったのである。また、死ぬことは許されない時代になってしまったことである。否応なく生かされるのである。
 現代は死んではならないのである。

 だが、こうした背景にあっても、死は、ある日突然襲ってくることがある。
 事故や事件に巻き込まれれば、人間の生命など一溜
(ひとた)まりもないのである。生命は脆(もろ)いのである。一見強靭のように見える肉体も、何かに感染し、冒されればガラス細工のように脆い所がある。
 しかし、脆さの部分は隠され、体力重視主義が持て囃
(はや)されて、生きることのみに焦点が当てられている。

 そして、現代社会ではひたすら死を恐れ、死を憎む“生の哲学”で、世の中が動いているため、既に死期に入っていながら、無意味な生に固執する生き方を老人達に押し付けられている。
 ただ動物的に、生命維持装置でダラダラと生かされるだけである。ここに何の意味があろう。

 人間とは、そもそも生を引き摺るのではなく、動き、働き、自分の意志や、自意識を外に抗
(あらが)って主張し、自身の存在を物申すことではなかったか。自己主張こそ、「生きている」と言えたのである。機械的に引き延ばされ、機械的に生きているだけでは、生きる意味は存在感を失う。非存在の、その程度にしか過ぎない物体なのである。
 存在感を主張するには、非存在も含めてあるが儘に意味を主張し、何らかのメッセージを役立てることであった。そこに価値観があった。だから、「死ぬ」という行為にも意味があった。逃げてはなるまい。

 楽しいことだけに帳尻を合わせてはなるまい。
 善いも悪いも、善も悪も、清濁併せ呑むのが、この“現象界”の掟である。
 自然の儘に任せればよかったことを古人は熟知していた。それを受けて立った。
 ところが、憑衣と言う奇怪な現象を起こすのが現代の世である。否応無しに逃げ回り、そして憑衣された。取り憑かれた。憑衣は、逃げるから何処までも追って来る。
 現代の世の経済システムはどうだろう。
 ローンと言う借金を背負い、あるいは家を建てる。この行為には、よほどのエネルギーが必要だろう。

 マイホームやマイカーの発想。
 根底には人よりも善い暮らしをしたい……。
 そういう思いが、現代人の根底にある。先んずれば人を制す……。
 出し抜きの気持ちがあるようだ。
 そこで狂気の一滴が血に流れ、激情して“自分だけは”とか、“自分に限って”となる。
 こういうのは、これまでとは異なった、生きようとはするエネルギーとは違うようだ。
 つまり生き方が狭い、「生」のみの生き方である。生が萎縮する。

 萎縮するから、老いにもめげず若作りを企てる。気負って粋がってみる。まだまだ若いと軽い軽薄をしてみる。
 斯くして安いエネルギー論に取り憑かれる。烈しい激情ばかりが渦巻いて、本来の年齢とともに……の「枯れて行く最高の幸福」を見逃す。若作りで、老後を見誤る。充実し、濃厚であるべき筈の老境期を軽薄に過ごす。何も考えず、人生で最も濃厚であるべき筈の時期を、軽薄に過ごすことになる。
 この後に控えるのがなんだろう……。

 それは、怒りを買うことではなかったか……。
 更に、死を怖れる背景には、天の怒りが“ある日突然”という形で襲ってくることもあるようだ。
 その最たるものが事故死である。何かに巻き込まれる死に方だ。
 決して自然死に近い、善い死に方とは言えまい。濃厚な時期の大事な「秋
(とき)」を見逃した生き方だった。怒りに触れたのである。

 さて、「人が生きている」と言う現象は、肉眼でも確認出来る。
 同時に「人が死ぬ」という現象も、肉の眼で確認出来る。果たして、人間は生きているのか、死んでいるのか、どちらが本当の姿かと言う事になる。
 そこで、哲学的にはドイツの哲学者ハイデッガー
Martin Heidegger/キルケゴールの影響を受け、フッサールの現象学の方法にもとづき、人間存在の根本構造を関心すなわち時間性として実存論的に分析した。その著書『存在と時間』は特に有名。1889〜1976)が言うように、人間は「非存在なる生き物」と定義づけられるのである。
 ハイデッガーが言うように、存在は、自己矛盾的構造のもとに、決して姿を見せぬ根拠となろう。

 また肉の眼で見た場合と、肉の眼を超えて見た場合は、その存在意義にも大きな違いが出て来る。
 まず肉の眼は、外に向かって開かれている。眼で見たものは総て外に置かれている。この場合の「外に置かれている」という肉の眼の現象は、自分の外に置かれたと言う意味であって、“自分の外に置いた”とは、つまり、「自分ならざるもの」としたことである。これは自己も借り物と言う意味だろうか。
 生きている肉体は、生かされていると言う条件付きでの、しばしの借り物というふうにも受け止められる。

 更に追求すれば、生は偶然であり、死は必然と言うことになる。
 生命の生において、ある一定期間生かされることは偶然によって成り立ち、これは「非存在なる生き物」ということになる。そして、生こそ非存在的なものであり、死こそ存在の実体であり、そこに死の必然性があるとされている。
 つまり地上の生命は、一定期間条件付きで肉体を借用して生かされていると云うことになる。

 しかし、「生かされている」ということに多くの人は気付かない。自分自らの力で生きていると信じて疑わない。生かされている因縁など、考えもしないのである。
 科学万能時代、押し付けがましい西洋的な死生観を信仰している。その信仰がやがて、自らの生き方も生に固執して、押し付けがましい生き方を選択してしまうようだ。そして選択した手段や方法が、挙
(こぞ)って同一した選択肢を選択しているようだ。誰もが生に固執するのである。

 そもそも個々人の生き方は、個々人で自由であるべきである。それに枠
(わく)などない。手枷も足枷も無用である。
 ところが、本来自由であるべき筈の生き方に、多くの現代人はありもしない手枷足枷を自らに嵌め、制限された、外部から制御され、管理される生き方を選択しているように思うのである。
 昨今の健康への関心やそれに伴う関連サプリメントの大繁盛は、管理・監督される生き方を自らで、手枷足枷にしているように思うのである。現代人は管理・監督されて愚にも付かない病院の宣伝である奇妙な“健康診断”なるものに踊らされている側面があるようだ。

 早期発見・早期治療……。
 この脅し文句は医療関係者の巧妙に仕組まれたスローガンのようにも聴こえて来る。そして、その根拠を映像で見せ付ける。見せて関心を抱かせ、個々人の自由であるべき生き方を制御し、操作してしまうのである。

 眼で見たものに注目させる。それのみに焦点を当てる。
 斯
(か)くして眼に誘惑され、遂には信じ込んでしまう。隠れた部分のあることは知らせないし、見せないのである。自己と、自己のことが眼に映った映像で切り離されてしまうのである。
 早期発見・早期治療……。
 これは自己とは無関係ない他人を移した映像である。斯くも自己に存在するかのように眼に錯覚を与える。その錯覚が、死を歪め、恐怖する対象にしてしまったのである。



●生かされる因縁

 どんなものでも、眼で見た時には、自分と離れたものであり、“自分でないもの”とは、「自分の外のもの」にされたということである。
 この場合の「自己」というものは、肉の眼で見た時には一個の物体となり、まさしく「自分の外に置かれたもの」となり、“自分でないもの”にされている。肉の眼に映る総てのものは、現象の反映であって、自分でないものになり、それはちょうど、鏡で自分の顔を見た場合などがこれに当る。
 これは肉の眼で見える現象を捕らえた場合に顕われる。つまり、この状態にあって、肉の眼で見ることから起る誤りが生じているのである。

 則
(すなわ)ち、「本当のものは肉の眼に見えない」という真理であり、「生の働き」というものは肉の眼で見えないと言うことである。したがって事象に起る総ての働きと言うものは、肉の眼で見えないと言うことになる。
 つまり肉の眼に見えるものは、「働く物」という物体であって、これは“働き”という、そのものを見ているのでない。その最たるものが、心は肉の眼に見えないと言うことである。

 換言すれば、心は働きそのものである。
 人間の行動や行為には、心は常に働いている。肉の眼に見える物は、「心が働いた跡」とか、「働いている相
(すがた)」だけである。「跡」や「相」は働きそのものではない。肉の目で見える物は、形が伴った「物」である。

 肉の眼で見ることを典型とした人間の思惟
(しい)も同じように、総ての何らかの形を姿にして摺り替えただけの物であり、概念、判断、推理の作用などであり、これを「知的直観」というが、それは何かの形にしただけのものである。

 この事は、人間が肉の眼に頼っていては、何も本当のことは分からないと言うことである。心の働きの、心の真相など、肉の眼には全く見えないからである。
 知的直観は、知性の働きである為、思考が関与し、行き詰まりを見せると「それまで」である。

 ところが、「生」は行き詰まりを見せない。それは「存在」しているからである。
 非存在なる物が存在し、「生」を全うしている間は、行き詰まった他行き詰まったで、臨機応変の智慧
(ちえ)が飛び出してくる。
 この場合の「生」は、自分の力で得ている物ではない。これに関与しているのは、天であり、天命である。つまり「生かされる」のだ。生かされていることこそ自然であり、それは因縁によって生かされているのである。
 そこに打開策の妙案が生じたり、活路を見い出すことができるのだ。

 逆に、生かされているからこそ、何ものかが自分の力を動かしているといえる。それを自分自らの力から出た、概念、判断、推理の判断から出現した結果と見るは愚かである。
 現象界は自分以外の何ものかが、自らに関与しているのである。それが影響を与える。
 而
(しか)して「自分の知性から派生する人知」というものは、“自分で、独力で、生きていると思う思い上がり”であり、この逆転を「迷い」というではないか。
 迷いの中には、往々にして自らの思い上がりが災いするようである。そして、この種の災いを被る人は、自らが生かされていることを知らないからである。

 人間に生ずる「迷い」というものは、自分の知の思考が行き詰まるので、「生」までが行き詰まったように思うのである。一種の錯覚だ。
 この錯覚に人は振り回されているのである。また、錯覚があるからこそ、何か頼りになるものを求める。

 本当の生き方と言うのか、何も頼りにせぬところにある。何も頼らず、頼りにするものをもたず、「虚」でいくところに生きる根本があったのではないか。
 そして、何かに頼ろうとしたところに、種々の哀しみが生じ、また迷いが生じたのである。迷いに悶え悲しんだのである。それは、頼るものを思い込みから作り上げ、それに凭
(もた)れたところに元凶があったのではないか。その結果、行き詰まったのである。

 しかし「生」に行き詰まりはない。
 行き詰まっても、その時のその場に応じての「奇手
(きて)」が出て来るものなのである。この奇手が出るからこそ、窮地(きゅうち)に追い込まれても、そこから脱出することが出来、最悪のピンチすら抜けだせるのである。その根本に「虚」があった。何も致さぬことである。任せることである。任せるから「虚」が出て来る。虚は、また「奇」でもある。

 「奇を衒
(てら)う」という言葉がある。
 これは一風変ったことをしてみせることをいう。
 つまり尋常
(じんじょう)ではないのだ。
 これは正攻法を捨てることである。奇襲に賭
(か)けることである。切羽詰まった状態に至れば、尋常な正攻法では勝てない。正面攻撃を避け、いまこそゲリラ戦を展開させてむせるしかない。奇襲して敵を混乱させる以外ない。
 だから奇手は、「詭道
(きどう)」なのだ。人を欺(あざむ)くような展開をしなければならない。
 この詭道の「手」こそ、奇手である。これは人知の及ばないところにある。人知では計り知れない。

 この場合に、どういう“手”が出るかと言うと、どういう考えが、その時その場で必要かという、常識を度外視した「奇手」である。
 その現象として、それは自分の知に関与して奇手が出るのか、自分に働く力に関与してそれが奇手として顕われるのか、こうした現象を起こすのは、「因縁が導いてくれる」ことである。因縁が示唆してくれることである。

 因縁が生かしてくれるのだから、また、因縁が「生きる手」を教えてくれるのである。この導きが「奇手」というものだ。これこそが肉の眼に見えない、自分の力や自分の知によらない、「虚」であり、この虚の正体こそ、「天命」というものであり、その天命には「天の力」が働いているのである。

 天の力、すなわち天命がうまく働いてくれる為には、総てを投げ出すことである。「わたくし」を捨てることである。
 個人的な計算や勘定を捨てることである。肚
(はら)積もりや、肚構えを捨てることである。空にすることである。任せればいいのである。
 この状態を「虚」という。虚によって、天命はうまく働くようになる。

 特に老後の生き方は、虚をもって天に任せるという行動がとれないと、どうも未練をこの世に引き摺って、死に態
(ざま)を悪くする場合があるようだ。
 作為や人智に頼ったり、無理に死に抗
(あらが)ったり、天に任せることを拒み、欲に動かされたりすると、死に態を悪くするばかりでなく、臨終に失敗する危険性が大になる。
 そして人間は、晩年の行為や行動は、その人の死に態を決定するようである。
 この死に態が臨終と密接に関係があるのである。



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