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うまく死ぬ法 15

人間が死んだら、その後に、霊魂が残ったり、あるいはその霊魂が、“あの世”と言う世界に行ったり、“来世”に生まれ変わることを徹底的に否定し、絶対に存在しないと定義するのが唯物思想である。
 これは、ただ物質のみが真の存在であるとして、これを重視することであり、精神に対する物質の根源性を主張する立場の論理を「唯物論」と言う。

 更に唯物論者の言を借りれば、「あの世」「来世」「生まれ変わり」「輪廻」「転生」という、掴みどころのない抽象的な言葉は、総て幻想であり、錯覚であり、妄想であると扱
(こ)き下ろす。こういうものは、人間の思考が、勝手に作り上げた幻想だ……、と言うのである。

 その根拠として、現実世界の他に霊界がある……などと言う考え方は、宗教が作り出した妄想であり、もとは死後にも、生き延びたいと言う“願望”と“妄想”が作り出した心の苦しみの願いが、妄想へと変化したとする。
 畢竟、現実世界で存在しない幻想が、こうした物を作り出し、現実世界のこの世を「表」とし、霊界のあの世を「裏」として、人心を惑わせているという論理を展開させている。

 この考え方は、脳科学に基礎を置く現代の創発的唯物論に至るまで、様々な形態をとって、宗教のみならず、哲学史上、絶えず現れている論理である。
 したがって、物質から離れた霊魂・精神・意識を認めず、意識は高度に組織された物質
(脳髄)の所産と考え、認識は客観的実在の脳髄による反映であるとする考え方である。これにより、霊魂の存在は徹底的に否定される。

 しかし、その否定は正しいのだろうか。
 果たして、自然科学は物質の肉の眼で見ただけの思考力で解決できるものだろうか。
 敢えて、短見と言う他ない。短絡的思考である。表だけを観て、裏を観ないという安直で皮相的な物の見方である。

 何故なら、既に論じたように、生を得て顕在エネルギーが存在するのなら、死を得て静寂の中に存在する潜在エネルギーが同時に「有る」からである。現象界の事象に、肉の眼で確認されるものだけが事象及び、現象を起こしている訳でない。そして潜在エネルギーが存在する次元こそ、「中有」であった。潜在的な意識が存在するところが中有の世界だったのである。
 更にである。

 物質としてプラスのエネルギーが働けば、その逆に「重力」と言うマイナスのエネルギーが働くからである。
 物質には形態だけでなく、それを形作るには重さが働き、動かそうとすれば、それ相当分のエネルギーが必要である。則ち「重力」と言うマイナスのエネルギーである。そして、重力こそ、マイナスのエネルギーである。
 物質には、物質の持つ正のエネルギーと、重力場の負のエネルギーが、それぞれに打ち消し合い、その総和は「ゼロ」なのである。

 そして、深部には「バランスの法則」があり、この法則により均衡が保たれ、また一方で「相似の法則」があるからである。この根拠は如何なる論理も、否定できない。認めざるを得ない。
 現に、事象や現象に対しては、一方的な力は働かない。
 均衡と言う形で、相補性が起こり、拮抗を保とうとする。

 更には反対側の、同じ量だけの存在が働き、作用に対して反作用が起こる。相対界の掟である。
 その掟により、この世のバランスは保たれている。そしてこのバランスこそ、自然界の大秩序であり、調和である。
 この調和により、自然界は新たに生成し、生命は生まれ変わるのである。


●動的平衡

 身と言う「物質」と、心と言う「非物質」を兼ね備えた人間は、双方を同時に所有して、同次元の中に反映させ、人間の生存を賭(か)けて、人生を経験して行く。そして“生存”の中にこそ、生活があり、営みがあると信じて疑わない。

 また、人の一生は、この中に内包されていると信じ込み、これが人生観を構成している。
 人間の生き方は、人生観を通じてその有する意味や価値の理解・解釈・評価の仕方を人生に対する観念と考えているのである。あるいは思想上の態度であろうか……。

 その生は現象であり、また、その死は現象が無くなって、原子や分子のベレルに戻ることをいう。
 したがって、生死は繰り返されるのである。つまり、繰り返されるが、原子並びに分子の組合せが変わるだけなのである。

 生命の根元を探求して行くと、それはエネルギー量と密接化関係があり、ただその時点では質量化されない潜在エネルギーだけである。
 ところが、一度宇宙の意志
(心あるいは意思、思し召し)によって変化を起こし、質量化されると、忽(たちま)ち「生体」となるのである。肉体と言う物質化した生命力を帯びることになる。

 人間がこの世に生まれると言うことは、宇宙の意志によって潜在エネルギーが働き、その質量化されたエネルギーにより誕生することで、また逆に、生体が死んで、この世を去るということは質量化された生体の生命の火が鎮火して、これも宇宙の意志に従い、再び元の潜在エネルギーに戻ると言うことである。
 これは死んで肉体が焼却されたとしても、物質としては原子や分子の形に分散するだけで、意識体としての潜在エネルギーがそのまま意識として残るのである。

 則ち、物質で構成された肉体としての存在を継続させるには、「エントロピー増大の法則
【註】熱平衡にある系で、準静的に加えられた熱量をその系の絶対温度で割った値をエントロピーの増加分とし、可逆変化ならエントロピーは一定、不可逆変化では必ず増大する。熱力学第2法則)」により、これが崩壊しないとも限らない。エントロピーは、可逆変化では不変、不可逆変化では増大するという法則である。
 つまり、この法則は老化と言う形で壊されていく。生・老・病・死の過程を辿るのである。
 生命は永遠に維持されるとは言えないのである。生まれたものは、老いて、病んで、死ぬのである。
 そこで次ぎなる手段が出て来る。
 生命が肉体を構成する手段である。そして、これが生命の動的平衡の秘密である。

 だが、この秘密は効率が100%という分けにはいかず、生体は永遠に生き続けると言う分けにいかないから、そこで意識体は意志を伝達する手段として「生殖」と言う方法を用いて、わが意志を後世に伝達しようを企てる。
 何故なら新しい子孫を残すことにより、エントロピーが最小であろうとするからだ。
 つまり秩序の「固まり」である。精髄である。物事の本質であり、エッセンスである。
 生きている肉体等の物質は、生命度の高低によって進化を遂げた足跡を残している。この過程には、鉱物・植物・動物そして霊長類とされる人間と進化したと考えられている。

 この論に従えば、生命度の高い順に生存が維持しようと企て、それだけエネルギーは増大化していく。つまり、エネルギーを多く消費するために、他者を啖
(く)うという行為をする。他者を喰って自分は生き残ろうとする。これこそ生存競争の食うか食われるかである。これが食物の摂取である。自然界では食物連鎖の関係で説明されている。
 啖うと言うことは、つまり他者を喰って、自らは生き残ることなのである。

 万物の霊長である人間は、自らの生命を維持するには、大きなエネルギーが必要になる訳である。その霊妙さは、エネルギー摂取の総量に比例しているという。
 そして皮肉なことに、食物と言うのは他者の生命度の高いものでなければ役に立たない。
 この食思想と生命度の関係は、科学的体系による西洋科学だと、人間は動タンパクを必要とし、況
(ま)して人間の性(さが)に極めて近く、エネルギー量が高い動物でなければならないとする“アミノ酸論”である。
 人間が、同じ哺乳動物の肉を啖う理由は、此処にあると言う。

 アミノ酸論が公然と持て囃
(はや)される一方で、生物としての他者の肉を喰らい、自分の肉体が効率よく維持できると言う考え方が生まれた。更に哺乳動物の肉こそ“スタミナのもと”という気違いじみた発想まで生まれた。
 その一方で、肉は酸性食品であるからよくない……。コレステロールを殖やすからよくないなどと言われつつも、肉の需要は依然と減少せず、多少マイナス面はあるにしろ、美味いものは美味い、更にはスタミナを付ける方が先決……という矛盾まで生じさせ、生体の秩序を破壊する思考で汚染されてる実情が現代社会の実態である。

 人体と言うのは、一つの秩序によって生命活動が行われている。
 したがって肉を喰らい、血液を酸毒化させて、コレステロールを増大して動脈硬化を引き起こす一方で、躰にスタミナを付けるという矛盾した作業は、そもそも人体機能にないのである。
 スタミナアップが図られる条件は、血液が生理的中性という弱アルカリ性の状態に限り、動脈はしなやかになり、また、この安定が維持されている状態に限り、スタミナのアップが図られるのであって、単に散々肉を喰らい込んだだけではその向上は望めないのである。

 本人はたらふく肉を喰らい込み、スタミナアップが働いていると思い込んでいても、躰の方が悲鳴を上げているのである。その証拠に、肉常食者の半病人的な病状としては、頭重、イライラ、怒りっぽい、顔色がどす黒い、しみが出る、ニキビや吹き出物が出る、脂ぎっているなどの表面上に異常に比例して、内部では腎臓病や肝臓病、心臓病、不妊症、分裂気味のノイローゼなどが派生していて、肉常食の弊害が出ているのである。こうしたものは総てアミノ酸信仰に元凶があった。

 アミノ酸信仰はどのようにして捏造されたか。
 それは現代栄養学者らが、食肉成分に含まれるアミノ酸に目を付けたからである。そしてこれを最高のスタミナ食と現代栄養学では定義付けてしまったのである。
 更に肉類を初めとして、鶏卵や乳製品なども、動タンパク食品は躰には必要不可欠な“タンパク源”と祀り上げてしまったのである。

 ところが、実はそれらの動タンパク食品こそ、各種の有害腐敗産物
(アミン、アンモニア、フェノール、硫化水素、尿酸、リン酸、硝酸、塩酸など)の元凶であった。当然、血液はこれらの有毒類を中和させるために体内のミネラル分であるアルカリ物質を大量に消費していく。そして、便秘などや腸内での腐敗を招く酸毒類だったのである。
 だが現代栄養学では、肉のタンパク質の構成要素がアミノ酸と言う理由付けにより、肉食奨励論の立場で吹聴したのである。肉食礼賛の状況を現代社会に定着させてしまったのである。
 更には、動タンパクと言う哺乳動物が持つエネルギー量である。

 特に人間の場合、自らの肉体を維持するには、他者として大きなエネルギーを持つものでなければならないとした。そのために動タンパクほどいいとなった。そして人間と性を同じにする哺乳動物ほどいいとなったのである。考えれば悲劇は此処にあった。

 現代社会は動タンパクを大量に摂取する。
 動物を啖う時代である。
 生産と云う言葉を用いて、あたかも物体を人間が創出するかのような傲慢により、牛を生産し豚を生産し、畜産と言う形をとって、動タンパクを大量に接する時代である。
 現代人は、牛肉に舌鼓を打ちながら、人間に喰われる魂のことを考えない。同じ性の動タンパクを有し、哺乳動物としての形体を採っている牛や豚に対し、共食いをしていると言う罪悪感がない。同胞を喰っているという意識がない。無意識で、現代のアミノ酸信仰から、同じ性の哺乳動物を啖うのである。

 果たして同じ性を持つ動物を喰いながら、現代人は何を考えるのだろうか。
 美味そうに焼き上がったミディアムの肉を食べながら、現代人ならば科学的に考えて、「いま自分は牛と言う哺乳動物を食べている。自分が長らく生きて、自分の肉体が死んだとしても、その後、火葬され、わが身は主要構成要素である炭素が燃えて、それが炭酸ガスとなり、煙りとなって火葬場の煙突から空に舞い上がり、その一部が光合成に作用によって植物の栄養素に出もなる……」などと思っていないだろうか。

 更に言及して、その植物が牛に食べられる……などと思っていないだろうか。
 このサイクルの輪の循環を追って、自然科学愛好者らは、食べられる植物に思いを馳せて「いま私が食べられる……」などと、自然科学的な観測をするとしたら、これは大変な誤りであろう。
 大自然の意識体としての働きは、そのような自然の観測で測れるものではないからだ。

 ある科学者の言によると、人体を構成する化学組成は、炭素が18%を占めていると言う。
 したがって体重が70kgの人は、12.6kgの炭素原子があることになる。
 この人が死んで、火葬場で焼かれると炭素は二酸化炭素になって放出される。

 この放出量はアボガドロの法則
【註】等温・等圧において同体積の気体は同数の分子を含むという法則。この法則は、アボガドロの仮説として現在は定着し、気体分子運動論の立場から実証されて、分子の実在の証拠の一つとなったと言われる)により、分子量に等しいグラム数の分子にはアボガドロ数に相当する数の分子が含まれると言う。
 これは“質量数12”の炭素の同位体12g中に含まれる炭素原子の数で、則ち1モル
【註】等質量数12の炭素12g中に含まれる炭素原子と同数(約6.02×10の23乗)の単位粒子(原子・分子・イオンなど)を含む系の物質量を1モルという)の物質中に含まれるその物質の構成粒子の数を言う。

 70kgの人が死に、火葬場で火葬されたとする。
 その場合、焼かれることにより、炭素は二酸化炭素になって大気中に放出される。そして、これが地上10kmまでの大気中に均一に広がったとすると、地上では1リットル中に二酸化炭素分子は約十二万六千個があると推定される。自らの肉体を構成していた原子は、自己の死によって、死後も二酸化炭素になって存在することになる。

 人間は六十兆個の細胞で構成され、約一年間で身体の細胞は新生するといわれている。
 また、胃の内壁は5日間で、皮膚は5週ごとに、骨は3ヵ月ごとに総てが入れ替わると言う。
 更に食事ごとに食べた物を分解し、食の化身である肉体は新たに自分の細胞として作り替えられ、古い細胞を「作り替え」により置き換えていく。思えば、壮大な輪廻転生が此処にあるのである。

 私たちの躰は一見外部と隔てられているように映る。個々人は独立した実体として存在しているように思い込まれている。
 ところがこれはミクロレベルで見ると、そこに存在しているものは密度の高い分子の集合体が存在しただけのことであった。
 身体を観察すると、そこには常に置き換えが行われている。則ち、見ているものは肉の眼に頼った近視眼的なものであった。微視的な、細分化された局所しか観察が出来ないものであった。斯くして全体像を見逃してしまうのである。

 身体のありとあらゆる部分は、生きている限り絶え間ない分解と合成が繰り返され、それ自体がダイナミックな流れの中にあるのである。全体像とは、マクロ的な動きをもって、ダイナミックにうねっているものである。

 生命体は、換言すれば密度が高まっていく分子の「澱み」と考えられる。澱んでうねり、螺旋状に渦巻く巨大なうねりの中に生命は存在している。
 そしてこの澱みは、高速で入れ替わり、置き換えられていく。生命は新陳代謝を繰り返すからである。
 このダイナミックな流れの中にあって、運命を経験し、人生もそこに内包され、時代を側面に見ながら、自身では「生きている」と自覚するのである。総ては巨大な秩序の輪の中に存在していた。ダイナミックのうねりの中に在
(あ)ったのである。

 ところが肉の眼での観察では、何も変わっていないように映る。そして、その人個人では完全に保存されているように見える。秩序は保たれている……とそのように実感する。
 だが保存され、秩序が守られると言う条件を維持するには、その一方で置き換えが起こっているのであるから、古いものは絶え間なく破壊されなければならない。そうしなければ秩序は保つことが出来ないのである。

 ゆえに、エントロピー増大法則に逆らって生きて行くには、やがて崩壊する構成成分を先回りして分解し、かつ乱れが生じる前に、光速よりも早く再構築できれば、結果的には増大するエントロピーを、系の外部に棄てることになる。これが「置き換え」である。
 生命とは置き換えにより、動的平衡を維持しつつ、「流れ」の中に生が齎されているのである。

 構成分子は常に入れ替わり、置き換えられている。
 この実情を、当の本人は意識せずとも、個の独自性と継続性において、宇宙の法による秩序が働いているからであり、そこに個々人の心が存在すると言えよう。その意志は宇宙と共有していることになる。

 つまり、心は宇宙の巨大な輪の中で繋がり、かつ宇宙全体の秩序として保たれているのである。そして生命自体も動的平衡の上に成り立っている。
 それは時間を考えても明確になる。
 何故なら、時間とともに刻一刻と変化しているからである。ここに動的平衡の流れがあるのである。何かが足らなければ、何かが補う。補填する。均衡をもって拮抗を保とうとする。
 それは死生観を超越した次元の高い境地に安住するのである。



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