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うまく死ぬ法 14

世の中には、不可視世界を覗く事のできる小数の人間がいる。
 こうした人間は、過去をズバリ言い当て、未来を易断してその予測を明確にする。
 そして、未来予測の恐ろしさは、病気を悉
(ことごと)く治すことである。

 「病気治し」といえば、実に聞こえがいい。有難いように聴こえる。
 しかし病気は、自分の不摂生の上に降り懸かった「因業」であるから、因縁論で云う場合、この因業は、最後の最後まで病気を背負った人間が抱え込むことであり、簡単に取り除いてはならない。逃避してはならない。また他人任せでもいけない。自らの業
(ごう)である。
 受けて立つ以外ない。病んで、苦しんで、辛抱強く昇華していく以外ない。

 耐えればいいことである。
 最後の最後まで、病気と共棲
(きょうせい)することにより、因縁は解消し、昇華するのである。


●無相

 釈尊は宇宙の真なる姿を『諸法実相』という言葉で著している。
 これは法華経の方便品
(ほうべんぼん)において次のように記されているからである。
 これにようると十二因縁
【註】生存の苦の原因を順に12段階を立てて説明したものであり、則ち無明・行・識・名色(みょうしき)・六処(六入)・触(そく)・受・愛・取・有(う)・生・老死の12項であり、これは初期仏教の中心となる重要な教説である。後に、前世から現世、現世から来世の三世に亘る輪廻の因果関係を説くものと解されるようになった)の「有」の中で、諸法、則ち諸々の事象や現象について、どのような性質を持ち、どのようにして生起したかの根本的なる法則を明らかにしている。
 これを次のように説明する。

 唯(ただ)、仏と仏とのみ、乃(すなわ)ち能(よ)く諸法の実相を究め尽(つ)くせばなり。謂(い)う所は、諸法の如是(にょぜ)相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等(ほんまつ‐くきょう‐とう)なり。

 釈尊曰
(いわ)く「ただ仏と仏のみが、万物の真実の相(すがた)を究め尽くしている」とし、これは則ち「諸々の存在並びに現象には、ありのままの相である姿があり、この有様が性質なのである」としている。

 更に言葉を繋いで、「それら諸々を併せた、この有様の体である、主体や物体こそ、ありのままの力を発揮し、この力によってエネルギーが起こり、エネルギーのままに作という作用がある」と述べ、「これら諸々は現象や事象を起こし、これが有りの侭
(まま)の直接的なる因(原因)であり、これが縁によって間接的なる機会や条件となり、この有りの侭が、則ち果(結果)を齎し、この有様が報(影響)である。更に、この有りの侭が本相から末報まで、究極では宇宙の法則である」と論じている。
 これを「十如是」という。

 十如是は天台宗で、法華経方便品の文に依り、一切存在の真実の在り方を相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等の十方面から説いたものをいう。

 仏道には根本をなしている縁起の理法が説かれている。
 この理法によれば、万物は縁起の法則によって生じ、移り変わり、滅して行くものと説かれている。したがって、決して「そのもの」という実体はなく、また万物は永遠に存在して行くと言うものでもないと説く。

 万物は因と縁によって、一時的に要素同士が結合しているだけに過ぎない。したがって、因と縁が無くなれば以降は分解する。つまり元の空に戻って行く。
 これは恐らく仏典翻訳者と言われる鳩摩羅什
くまらじゅう/中国南北朝時代の訳経僧であり、インド人を父とし、亀慈(きじ)国王の妹を母として亀磁に生まれる。401年長安に到り、『法華経』『阿弥陀経』『中論』『大智度論』『成実論』など35部を漢訳した。そのほか維摩経の注釈、慧遠(えおん)との往復書簡集『大乗大義章』が遺(の)こる。生年には諸説あり、344〜413。また一説には350〜409頃)が仏典の枠を超えて「縁起の法則」を追加したものと思われる。

 また『諸法実相』によれば、諸法は総て生まれの「生」を維持して「住」となし、変化して「異」をなし、やがて滅するとある。
 然
(しか)もその変化においては、瞬間ごとに起きており、即時・刹那に生住異滅しているのである。更に諸法は、過去・現在・未来に亘り、総て同一のものであり、それは平等であり調和のとれたものである。
 然るに、諸法は唯一つの真理から生まれている。
 この真理こそ、「無相」なのである。無相は差別が無いもので、それを「実相」とも謂う。

 中国・天台の第三代の祖である智
ちぎ/天台大師とも。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』の法華三大部など著作多数。538〜597)は小釈迦ともいわれ、慧思(えし)に師事し、のち天台山に籠(こも)って法華経の精神と竜樹の教学とを独自に体系づけ、隋の皇帝の帰依を得たことで知られる高僧だが、如是相を「是(かく)の如くの相」と読むのでなく、「是の相も如(にょ)なり」という意味があることを知り、それゆえ「如(にょ)である是の相」と読むことも出来るとしたのである。
 こうすると、「如」は「真如」という意味を持ち、真如は、一切の存在は真の姿を表している意味であるから、この世における普遍的な真理を顕していることになる。顕界では、真理の顕われとする。

 更に、日蓮上人の『御義口伝』において、教典の最初に出て来る「如是我聞
(がもん)」の説明を「如是とは法体である」と論じていることから、如是相は不変真如であり、また随縁真如であり、その事とも一致している。
 ゆえに「如是相」とは「絶対的真実である是の相」という意味になる。
 ここで説かれている「相」とは、姿や形のことであり、諸法万物は、それぞれに異なった形をしており、それは個々人の眼・耳・鼻・舌・身の五官で感じることであり、更には「性」においては、それぞれの性質を指し、諸法はそれぞれに異なった性質を持っていることを言う。そしてこれらを総じて感じるのは、「第六感」ということになるのである。

 五官と第六感の二つを併せもった“かたち”により、万物は体
(主体、物体、肉体)として存在していることになる。
 更に、体としての物体は、エネルギーの根源である「力」を持ち、他の物体に作
(作用)を齎すことが出来る。そして、この場合の「作」と「力」は物理学で示している現象と一致している。
 また、ここまでは諸法の存在する形態を、それぞれが総て真実であり、これを「空」と教えている。



●均衡と相似

 さて、宇宙の創生、則ち物質の創造はどのように始まったのだろうか。
 何もない状態を真空とすると、その真空は潜在的に無限大のエネルギーを秘めていたことになる。これは恐らく磁性である電磁的特性が根源に内蔵されていたためであろう。
 そもそもの因となるべきものは不明だが、この時点において纔
(わずか)な「ゆらぎ」が生じ、それが回転して反応を起こし、回転に伴い反作用が起こって、此処に作用のエネルギーが発生したと考えられる。
 現代物理学では、一回転ごとに発生する電圧値はプランク定数
(量子力学に現れる基礎定数の一つ。20世紀初頭、プランクが導入。その大きさは6.62607×10(−34乗)ジュール秒)に当たることが発見されているから、そのエネルギーの最小の物質が素粒子になったと考えられている。

 宇宙の創生は、現代物理学ではインフレーションとビックバンで説明されており、現在ではそれが定説になっている。
 則ち、はじめにインフレーションが起こり、宇宙は一秒の百億分の一の更に百億分の一以下という極短時間に、数十桁も大きさが増大し、インフレーションを終了して時点の刹那、それを齎したエネルギーが、現在の宇宙の総ての物質と光りに変わったとされる。その結果、灼熱の宇宙となって膨張したのがビックバンと言われている。

 だが、「空」である潜在エネルギーがプラスエネルギーの「物質」と、マイナスエネルギーの「力」に別れるとき、物質が存在するためには「形」として同時に「宇」の空間と「宙」の時間が生まれたと考えられている。つまり、物質がないのにエネルギーが充満した真空
(空間)が膨張したとする説明は、何故かじっくりとこないからである。
 斯
(か)くして、インフレーションもビックバンも、空間と時間が生まれたことも総て同時であったのだろうか?……。

 「ヒッグス粒子」の提唱者ヒッグス(
Peter Ware Higgs/ヒッグス機構を1964年に提唱。自発的対称性の破れの考えに基づいた一つの理論。1929〜)はゲージ対称性の自発的破れに関する理論を打ち立てた。
 この理論は素粒子のゲージ理論における基本粒子の一つである素粒子の質量は、理論上、この粒子との相互作用から生じるとされてこれまで未発見であったが、2012年
(平成24年)に光から物質が生み出したとするヒッグス素粒子が発見されてそのニュースで持ち切りだった。
 しかし異論がないこともない。
 何故ならヒッグス素粒子は陽子の百三十倍の質量を持っていると言うが、質量を生み出すものが既に持っている質量を持っていたとする点である。これは些か不可解である。

 現象界で、一貫した真理として貫徹する法則が二つある。
 一つは「均衡」と、もう一つは「相似」である。
 均衡は釣合をいい、欠けている不足分を相補と言う形で補い、埋め合わせをすることで、必ず反対側のそれに相当する質量だけが存在して補いことで、相つり合うのである。したがって、双方を併せればゼロになると言うことである。

 これは換言すれば、反対側の存在がなければ、存在と言う概念は無くなり、崩れると言うことであり、例えば悪に対する「善」とか、また影に対する「光」とか、更にはこの世に対する「あの世」という世界であり、現象界では総てが相対的な仕組みから出来上がっている。
 そして“絶対的なもの”となれば、ただ「法」があるのみである。つまり真理である。
 これは単に人間が考える概念的なものでなく、人間の範疇
(はんちゅう)を凌駕(りょうが)した大自然の法則である。

 法の、法則による真理は、本来ならば姿も形もないものであり、「真空」という言葉が適切であろう。
 真空は、一見すると何もない状態に思えるのだが、此処にはプラスとマイナスのエネルギーが同時に存在しているのである。一方だけによって現象を起こすものでなく、エネルギーは同時に存在し、かつ発生させ得る潜在的な威力を秘めている。然も、両方のエネルギーは掛け合わせるとプラス・マイナス=ゼロになり、そのエネリギー総量は「無限大」である。人智では推し量れない。人間の知る所でないのである。
 そして、法にはバランスがあり、然も均衡しているのである。常に釣り合っているのである。双方、平均するのである。

 更に探求すれば、仮にプラスのエネリギーを持つものが発生したとして、この物質量は相殺するために重力が生じた。作用に対する反作用であり、物質には重さがあるため、これを動かそうとする力が働く。このエネルギーは働きの応じた重力こそが、つまりマイナスのエネルギーであった。
 あたかも生に対する負のエネルギーが、「死」と言うもので、生まれるものは、やがて死に向かうということで、死生観が成り立っている。生死は同根であり、また生死は表裏の関係でバランスを保っている。つまり均衡しているのである。そして、この均衡こそが、現象界の秩序であり、この秩序の許に総ては調和しているのである。

 その調和の中に現象人間界もあり、人間のみは生物の中で知性が著しく発達し、この世のことを考えたりその仕組みや構造を研究したり、これらを包含して、この世と言う現世に「生」に対する“何か”の存在を認識する面でのプラスのエネルギーは働いているのだが、残念ながら肝心なる「負のエネルギー」となると、もうお手上げて、それを考えようともしないのである。マイナス面を悉
(ことごと)く嫌うのである。
 したがって、人間の持つ知性面が悪用されれば、この世の均衡は忽
(たちま)ち乱れ、秩序と調和に歪(ひずみ)みを生じさせてしまうのである。

 人間の知性面が生み出した悪の数々は、現在、地球環境に破壊的な“環境破壊”を生み出している。
 また、人間の奢
(おご)りは益々エスカレートして、特に昨今の経済優先政策は、持てる者と持たざる者との経済格差を生み出し、あたかも“猟る者”と“猟られる者”との両者を作り出したのである。均衡を破壊しようとした結果からである。
 この世に、“猟る”という狩りの行為が歴然と行われているのである。それは持てる者の趣味のレベルで、他の生き物を“猟る行為”に酷似している。

 金さえ出せば、何でも出来るという思い上がりが、必然的に招いた結果だと言えよう。
 便利のために物々交換より、マネーと言う物に変わる貨幣が生じた原因を起点に、今ではそれがあらゆる犯罪に遣われ、表裏を含む現象界において、この種の犯罪に手を染めているのは人間のみである。
 常に遣われる、便利で豊かで快適と言う文明生活の裏には、この種の犯罪要因が潜んでいる。

 さて、素粒子同士は重力によって引き合い、かつ集合する。そして最終的には、マイナスの電荷を持つ電子と、プラスの電荷を持つ陽子とが、そのぞれに中性子などが構成された。
 つまり、それぞれの組合せにより、原子が出来、分子を構成した。

 斯
(か)くして、原子・分子はぞれぞれの密度により、気体となり、液体となり、あるいは固体となって、徐々に集積度を高めたのである。更にそれが機能的に複雑化した。この複雑なる有機的な繋がりによって、ついに生命が誕生することになる。有機生命体の誕生であり、宇宙の大本の一雫(ひとしずく)から、生命体である微生物が生まれ、動植物まで誕生させ、また「人間」なるものも、他の生物に混じって地上に登場したのである。

 一般的に“素粒子”などというと、物質の構造を分子、原子、原子核と分けて階層的に見たとき、原子核の次にくる粒子をイメージして、極めて微少な粒子を連想してしまうのであるが、素粒子は「波動」として考えた方が適切であろう。
 素粒子物質
(elementary particle)は相互転化を基本的特徴とし、個々には質量・電荷・スピンなどの量子数で指定されている。

 また素粒子の相互作用には相互転化を引き起こす、強い相互作用、電磁相互作用、弱い相互作用、重力相互作用に分類される。そして、粒子間の相互作用を媒介するゲージ粒子がある。
 それは光子、ウィーク・ボソン、グルーオンなどで、それぞれ電磁相互作用、弱い相互作用、強い相互作用を媒介することで知られる。
 つまり、これらは粒子性と波動性の両方を具えているのである。

 例えば、光は電磁波に一種であるが、その元は素粒子である光子から出来ているのである。したがって、ある時は光電効果を齎し、粒子としての性質を発現する。
 そして原子は、それぞれ固有の波動を発生させており、これを物理学では「原子波」という。
 原子は安定性を増幅するために分子を作り、分子は「分子波」を発生させる。
 例えば、ある分子は他の分子と化合すれば、条件によっては全く予期しなかった新しい特性を所有することになり、それぞれの分子が持っている分子波の相互間で「唸り」を起こす波を生じさせる。

 これは例えば、水素と酸素が化合して、「水」という予想できないものがそれである。
 物質は化合を繰り返すことにより、次々と唸りの波が波及して合成され、最終的には複雑なる構造を持った有機的生命体が誕生するのと似ている。
 宇宙に存在する原子は、常に原子波を出し、他の原子に影響を与え合っているのである。その影響度は、距離の二乗に反比例しており、遠く離れた原子同士でも影響はし合っているのである。それは極小であるが、遠く離れているからと言って、影響が皆無と言う訳でない。それでいて、その伝搬速度は光速よりも早いのである。

 この関係からすると、宇宙に存在する生も死も、他の総ての“何か”が影響し合っていると考えられる。
 原子から発生する原子波を同時に受け止め、その影響度合いを総合的に測定すれば、事象は時間の経過とともに刻一刻と顕われ、然
(しか)も絶えず刻一刻と変化していることが分る。それは総ての分子にも同じように存在しているのである。



●心の働き

 石ころのような静物
(鉱物)にも、他の動植物にも、また人間にも、総て同じように働いている。
 この働きの中で驚嘆すべきは、過去に発生した唸りの波は、減衰することなく、現在でも存在し、また未来でも存在している。
 例えば、生体が死んで火葬されて灰になったとしても、一度派生した唸りは消滅することなく、永遠に存在し続けるのである。そして、その存在が他者へと影響して行く。
 つまり、自身が「いまこの世に存在している」ということは、宇宙の総ての存在から影響を受けて存在し、彼のの総てからの存在も影響を受け、それが未来の総てに影響を及ぼすことになる。その影響による波の唸りは凄まじく、光を超越する高速度で、刻一刻と変化し続けているのである。

 霊魂を、意識体と言う。
 意識と言う「心」の働きから生じたものである。
 では、「心」とは何であろうか。
 いま「私」という存在について考えてみよう。
 この「私」は、身である物質と、心である非物質の存在から構成されている。

 宇宙に物質が創生されて、鉱物・植物・動物の順に生命体が発生し、然もそれは有機的生命体であった。見えない隠れた部分を含めて、あたかも藕糸
(ぐうし)の繋がりと連鎖をもって、有機体を構成した。あたかも「藕糸の絶えざるが如し」であり、この繋がりと連鎖の輪は、総て繋がったものであり、断片的な存在は一切存在しなかった。

 藕糸の譬喩
(ひゆ)は、あたかも蓮華(はす)の糸筋が途中で途切れることなく、隠れた地下の茎の流脈まで繋がっていることを言う。
 これは科学的体系と言うより、有機体そのものが、まさに「有機的体系」と言えるのである。

 生命とは、有機的生命体の大きな輪のことである。
 則
(すなわ)ち、昨今に謂われている“科学的体系”とは、西欧から齎された自然科学の「組織的体系」をもって褒(ほ)めそやす、それではなく、また、一定の原理で組織された知識の統一的全体をもって言うのではなく、肉の眼で確認できない、即ち、隠れた見えない部分を含めた有機体的な繋がりこそが、真なる大生命の巨大体系というものである。
 つまり、“それ”は西洋的崇拝者の暴力的思考であり、また貧しい発想である。

 動物が進化した。その結果、人間が誕生した。そして人間は万物の霊長として動植物の頂点に立った。
 だが、心と言うものが明瞭かされずに、万物の霊長とは謂えないであろう。
 心は、他の動植物にもあるからだ。更には動かない鉱物にもあろう。
 ただ鉱物の心は、太古の人間の心的感性とは異なり、現代人の退化してしまった心性では、確認できないだけのことである。現代人に、物に心が存在することを確認できるだけの感性を持たないだけのことである。
 斯くして、物には心など存在しない……となる。

 更に心的作用に対し、体系的科学力を総動員したところで、何処からが生物で、何処までが非生物であるか、人智では判別できないであろう。現代人に、心的作用を観察する機能など、とうの昔に退化している。肉の眼で見えることしか判定できないのである。
 ところが、実際界の現状は異なる。肉の眼で確認できない現象は、確認できない処で、ある種の作用が起こっている。

 例えば、ウイルスは永遠に無生物のように映るが、これが生体の内部に入ると、自らも生物のように増殖を開始する。更に洞察を深めると、そもそも生命体のエネルギーが物質に変化したときが生命体の活動であり、これが生命の誕生である。
 このように探求すれば、最も極小の素粒子と雖
(いえど)も「生きている」と言えよう。

 人間の持つ心とは、実は「生命」と同じものであり、その働きは「波動」によるものである。
 心を波動的に考えていくと、原子の場合には原子波そのものが原子の心であると言え、分子の場合は分子の分子波が分子の心なのである。
 例えば、数種類の分子が化合・結合して石のような鉱物が出来たとしよう。
 この場合、石も生きているということになり、同時に心を持った生き物となる。
 石を構成している物質波こそ、実は石の心であったのである。

 しかし、石では他の生物のように生きているという生命度が極めて小さいから、生存かつ存在を示す波動は極めて小さなエネルギーであるから、生命度の大きな人間側からすれば「生きている」という観測が、過小評価したように小さく映るのである。
 逆に言うと、人間のような存在する波動の大きな方のエネルギーが、他に及ぼす影響力が大きいのである。

 総ての存在には「心」がある。
 心は、人間だけの専売特許ではない。
 藕糸は絶えざるが如しの巨大な輪の連鎖から考えれば、総ては繋がり、そこには常に心が働いていることになる。
 したがって地球にも心はあるし、宇宙にも心があることになる。そして、宇宙の心こそ、まさに「法」であり、仏道的に言えば、真如であり、仏性なのである。
 換言すれば、この法は人間の心にも反映されており、宇宙の心も、人間の心も同質のものなのである。



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