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うまく死ぬ法 12

夜の賑やかな喧噪の中は、一見平和に思える。
 日常は何事もなく過ぎて行っているように感じる。現代人は平和の只中に居るように映る。

 ところが、自答は意に肉体をもって棲んでいる人間は、霊的なものに反応し、誘惑される脆
(もろ)さがある。
 眼に見えないものを科学的と云う言葉で一蹴
(いっしゅう)し、軽視しているが、本来は「霊」と「躰」は表裏一体をなしているため、双方が拮抗のとれた和合一致でない場合は何れかに偏り、傾いてしまう。

 更に、霊的なことや宗教的なことに興味を持つ人は、地上界における常識や知識を無視しがちである。
 また一方、知識力もあり教養もあり、世間的には優秀と持て囃
(はや)されている人は、肉の眼で確認できないことを軽視し、とかく無視しがちである。
 霊肉一体の表裏の関係を知らないからである。
 「霊」と「躰」は何れも疎かにするべきではない。双方の存在を正しく認識することこそ急務である。

 私たちの住む地上界は、神
(造物主)の大地の上に間借りして棲んでいるのである。大地は人間の所有物でない。そこを借りているだけである。この認識がないと、見通しを誤ることになる。
 また傲慢
(ごうまん)にもなる。
 特に物質至上主義や唯物科学万能主義が持て囃
されている現代、傲慢の愚に陥り易い。

 更に、古来から受け継がれた日本の伝統や風土ならびに精神は、戦後急速に失われてしまった。
 人々は金銭で、総ての価値を計る物差しとして物質的な豊かさのみを完全に偶像かしてしまったのである。その結果、弊害も発生した。背景に精神が病む実情が生まれた。
 昨今の精神障害の急増は、これを如実に物語っている。


●気と格

 いま、霊の世界における動きは著しい。この世界は顕界(げんかい)の先を行く世界である。
 現世と言うこの世は、二十一世紀に入って一段と動きと変化が激しくなり、世界情勢などは風雲急を遂げるように極端な変化を来たしているが、これは霊的世界とて同じである。この世の急激な動きは、また霊的世界の反映でもある。
 そのため動きの速さに加速度がついている。

 昨日と同じような状態で今日は顕われず、また今日と同じ状態で、明日が遣って来ると思い込むのは短見である。何が起こるか分らないのである。一寸先は闇である。
 闇は不可解な動きをする……、これが近年の現象である。
 近年は、闇が加速度をもって奇妙な動き方をしている。顕界と言う人間界にも、不可視世界のこの奇妙な動きが反映される。

 人間の世界は、霊の世界の反映である。
 霊的世界の事象が、時間差をもって顕界に反映され、その転移・転写が行われているのである。
 昨今の世界の動向は、霊的な見方からもそれを探る必要があろう。表のみならず、表裏でその動向を探る必要がある。
 非存在なる人間が生きている、顕界について考えてみよう。

 私たち人間は、地上界に肉体を有する存在である。肉体をもって、日々の日常生活を営んでいる。
 本体は意識であり、意識体であるのだが、この意識体は意識だけでは物理的な作用を発揮することが出来ない。
 意識体、すなわちこれは霊であり、霊は元来、超時空の存在である。本質は「意識」なのである。あるいは意志である。
 これは肉体を持たないところに特長がある。
 したがってそれ自身では物理的作用を及ぼすことが出来ない。

 そこで、生きた人間の肉体を借りると言うことになる。借りて、そこに意識を住まわせるのである。肉体は意識の乗り物。そして乗っているのは意識。更に乗り物の肉体を、乗っている人間の意識を繋ぎ止めているのが、「心」というシートベルトである。この三者が緊密に結ばれていれば安定と正常が保てるのである。
 こうした正常状態である場合は、精・気・神の三者の関連で顕すことが出来る。

 さて、生きている人間の魂と結んで、「神
(しん)」に宿り、肉体をコントロールしようとする。
 この場合、「神」と「気」が固く「精」と結ばれていれば、「神」は霊と協力・協調して神通力なるものを発揮できるが、これは鍛練を要していないと出来ることでない。
 したがって、「気」が弱く、「神」と「精」がバラバラで分散していては、生きた人間の「神」は眠らされることになる。
 「神」が眠らされれば、肉体は霊に支配されることになる。
 この支配状態が極端化すれば、この状態に霊障
(れいしょう)が起こる。

 現代は肉体と精神の乖離
(かいり)が進んでいる社会状態であり、病気も単に肉体的なものだけでなく精神まで病む状態に至っている。そこに苦悶が生まれる。
 更に時代の加速度的な動きの中で、これに蹤
(つ)いて行けないと、精神まで病むようだ。病んで、全身をのたうたせる。
 また心の鍛練がなされず、心が蔑ろにされる現代社会にあっては、病気も、霊障絡みのものが殖
(ふ)えている。邪が入り込んだ状態である。

 そして霊障絡みに至っては、縄文よりの太古の霊的能力を少なからず現代にも引き摺っている人は、その意識の中に、先祖霊に近いものを共有し、あるいはその中に“浮ばれない意識”を抱えた意識体が居る場合、その意識の反映もあって、それを自らが引き摺
(ず)り、苦しんでいる人も少なくないようだ。
 こうした人の多くは、少なからず「霊媒体質」である。
 この体質は、必ずしも喜ばしいことではない。放置すれば危険な体質である。精神性を向上させ、制御が必要な体質であるからだ。

 霊媒体質の人は、その能力を安易に眠らせるのではなく、心の鍛練によって有効に利用しなければならないのである。これを放置すると、極度に精神を病む人も少なくないようである。
 霊媒体質の人で、「気」が見える人も少なくないようであるが、大抵の人は見えないのが普通である。

 「気」が見えるというのは、一種の過敏であり、また異常である。放置すれば、異常は益々拡散して来る。それも異常なだけに、見える「気」が歪む場合がある。見えるのは邪悪なものを見ている場合もあるからである。
 但し条件付きで、「気」が見えると言う場合は、鍛練によって神通力と言われる超常現象を起こし得るが、これは安定させなければ単に暴走するだけである。コントロールが非常に難しいのである。

 これを安定させるには、心の質を高めることは勿論のことであるが、それよりも先ず、人間的な「格」を高める必要がある。人格向上が急務である。
 この向上を怠った場合、霊の暴走は止めることが出来ないから、あたかも“荒らぶる神”の再現の如くなり、性格粗暴者になったり、性格異常者の類
(たぐい)となってしまう。心の鍛練を怠ってしまったためである。

 超常的な能力は、怠慢にして放置すれば、その能力バランスは歪
(ひず)むだけである。安定状態にないからだ。常に不安定で、浮遊状態にあるからである。そしてこの状態には、躁鬱(そううつ)の激しい起伏が起こる。制御することが未熟であるからだ。

 勿論、鍛練無しに最初から安定した精神を有している人もいる。聖人のような人がこれである。
 こうした人は天性からその素質を受け継いでいるため、鍛練無しに心の修養が出来ている人もいる。ところがそれは、地球上でも限られた人である。そう言う人は数百万人に一人である。

 普通は修行無し、鍛練無しではその能力をコントロールは出来ない。
 最初なら何ら素質がなく、凡夫
(ぼんぷ)として眠ったままの人生を歩くのであれば、その人生は波風を立てず、身の安全だけを案じ、家畜化されて動物的な、平穏な人生が送られるであろうが、不運にして霊媒体質であったり、精神的に粗暴なる面が顕われる人は、この抑制のために、常日頃から心の鍛錬をしておかねばならない。
 この鍛練を怠ると、精
(いのち)が結晶して、体内から抜け出し、腑(ふ)抜けのようになって無気力になったり、感動するものを見ても殆ど感じなくなるからである。

 気は見えない。本来は見えるものでない。
 見えないが、万物の霊長と言われる霊的分野が具わっている人間は、ある種の鍛練をしておく必要がある。心の鍛練であり、心の修養である。
 これにより、気を体感し、またそれを少なからず制御できるようになる。鍛練次第である。
 更に鍛練を重ねると、自らの気の質も高まって行く。そうなると、人それぞれの「気」の質の違いも識別できるようになる。人間の「格」と言うものが分って来る。
 人間には「気」の質の違いと、また「格」の違いと言うものがある。

 それらの違いは、ふつう身近な人の態度や行動や言動でも判断できよう。
 また、その人の言葉から出か文章を読んでも、その「気」や「格」の違いは明確になろう。
 更に、その人特有の「匂い」である。肉体から深層部の裡側
(けがれ)の穢れが漏れ出しているのである。
 人は「霊臭」を出している。
 この霊臭の違いでも、その人の「気」や「格」の違いは明確になる。
 心の鍛練をし、ある程度向上して来ると、「気」や「格」の違いから、霊臭は無臭に近くなる。

 ところが、普段から心の鍛練がなされず、暴飲暴食を繰り返し、食に慎みのない人は、異様な霊臭を放っている。霊臭も、一緒独特の匂いがあって、「気」や「格」の低い人ほど、匂う。とにかく臭い。
 どう言う臭さか。

 実に「うんこ」臭く、それが異様なのである。鼻を摘
(つま)みたくなるような大便臭を放っている。この便臭が強い場合、その人の「気」や「格」は異常に低いのである。
 霊的神性を曇らせる食事をし、日常習慣的な暴飲暴食をして不摂生を重ねているからである。
 逆に「気」や「格」の高い人ほど、霊臭は匂わない。霊臭がないと言える。

 「気」や「格」の識別力には、匂いの識別力もあるのである。
 「精」も「気」も「神」も、一人の人間の生命力に宿っている。
 「気」は内気として体内を廻
(め)っているが、意識的に個別に取り出して、外気として作用させることができる。
 「気」や「格」を感じることが出来る人は、またその個人差別の霊臭においても嗅ぎ出すことが出来、そこの顕われたものは、単に霊的存在を採
(と)らずに、肉体的な意識としても顕われているのである。

一見食欲をそそる動タンパク食品は、霊臭を匂わす元凶となる。そして昨今は「和食」というなの日本名を借りた動タンパク食品が出回り、結局こうした食事も霊臭を酷くする邪の一面が巣食っている。

 老いれば、こう言う霊臭をきつくする動タンパク食品からは卒業していなければならない。胃腸の状態も粗食少食に訓練しておかなければならないのである。
 そして食に慎みを持たせるのは、食の誘惑に打ち勝つ、心の鍛練に結果による。

 美食への誘惑は、同時に不幸現象にも魅了され、自ら不幸の中に墜
(お)ちて行く現象である。

 特に昨今のように、欧米化の食生活が日常茶飯事となり、動タンパクを摂取することに何も疑いを抱いていない人が多い。
 食肉や乳製品の摂取が多くなっている現代日本人の食生活は、以前にも況
(ま)して霊臭が強くなり、常に自分では気付かないが、便臭を漂わせている人が以外にも多いのである。
 食に慎みがなく、美味い物と聞いたら、何処までも出掛け、追い掛ける。あるいは行列のできる店の前で何時間も並び、美食にありつこうと考えている人は、たいてい霊臭が強いようである。
 霊臭の強い人は、またそれだけ欲も強く、煩悩に煽られっぱなしの人生を送っていると言えよう。

 肉体には、欲の顕われとして霊臭にも大きな作用をしているのである。
 「気」や「格」は、その人の人格を司るものだが、それは表現形態として肉体にも顕われるのである。
 したがって、老いれば霊臭すら整理をしておく必要があり、霊臭を無臭の位置まで戻し、心身ともに浄め、自己完結性を自らに課せることも大事である。

 よく「老醜」などというが、これは「老臭」でもある。
 老いて動タンパク摂取が多くなると、老醜に併
(あ)せて老臭もきつくなるので、年取ってからの肉食や乳製品、また鶏卵類は年寄りには要注意食品である。

 この種の食品は肉体に溶解することを忘れてはならない。そして肉体に溶解すれば、精気は乱れる。更には霊的波調を狂わせ、霊的神性を眠らせてしまうのである。
 また、気の根源である宇宙の玄気
(元気)は曇ったものとなり、神気すら狂わせ、意識の本質である霊が病んで、その訴えが精気の及ぶ。この状態が霊障であり、斯(か)くして精神は病むのである。

 昨今は心身症が激増している。
 心身症は「気」が傷付いた状態にあって起こる障害である。俗にいう精神病の類である。
 これに罹病すると、「神」の冒された状態が起こる。

 「気」の形態として、第一層は肉体を癒着している精気であり、第二層としては心情と癒着している玄気であり、第三層が霊と結びついた神気である。
 更に神気まで及んで、この第三の深層部が病むと「神」が冒されるため、気が狂うとか、気が違うとか、気がふれるという精神障害が起こる。

 この「ふれる」は特に注視する現象であり、普通でない状態を指し、“ふれる”と読んで「狂
(ふ)れる」と書く。
 これは、気が常軌を逸して、自分でも制御できない状態を指す。そのため、表現型としては“荒ふる神”の如きである。その場合、烈しく荒れて痙攣
(けいれん)が躰を襲うこともある。前後不覚の錯乱現象が顕われるからだ。
 それは深層部に醜怪な二重的な容貌が隠されているからである。正常が眠らされ、異常のみが表出する。
 性格が粗暴になって、阿修羅界の影響を受け、乱暴者のような行動を採るのである。

 この状態をよく観察すると、精と神とを結ぶべき「気」が萎縮
(いしゅく)し、感情を失った状態であることが分る。
 こうなると人格を失い人間関係をうまく調節できなくなるのである。
 そして「神」は「精」から孤立してしまう。

 孤立した「神」は、身体を持たない霊が外から忍び易い状態を作り出す。忍び込む霊の多くは、外邪である場合が多い。
 俗に言う「乗っ取られた」は、自分で自分を破壊し、人格を喪失させ、また周囲の人間関係の環境すらも破壊し、孤立してしまうのである。
 外邪から自分の肉体が乗っ取られてしまうのである。そして自分は深いところに押し込められる。
 これが「沈んだ自己」である。



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