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生死の循環・中有思想 4

この世の真理は、「捨てていく中」に真理がある。
 現世と言う人間が構成する現象界は、表面上は人間によって運営されているが、その深層部は人智で動かされているものでなく、人智が及ばない、不可視世界の現象で、それが可視世界に反映されている。可視世界だけで人間現象界が動かされていると考えるのは大間違いである。

 つまり「人間の肉の眼で見えないもの」が、人間を検
(み)ていると言うことである。善も悪も綯(ま)い交ぜで、清濁併せ持つこの世界のものを、「人間の肉の眼で見えないもの」が、じっくりと検ていると言うことである。
 よく「天が見ている」というが、それである。

 したがって、「人間の行為の一切は観
(み)られている」ということになろう。
 人間を観るは人相も含めて、可視世界では眼力のある人間だが、行為や行為や発言などの言動は、如何なる場所や時間帯に居ても、それを観るのは、人間以外の「天」である。
 「天」は、人間を観ているのである。天から検られてるのである。


●生死の場所の激変

 現代の時代、死に逝く者は人生舞台から引き摺り降ろされ、もはや死は主役の座から取り除かれてしまった。医療技術の躍進により、また衛生観念の進歩により、死は何処まで追求しても失敗の実証例の如くである。
 現代の、死者を火葬すると言うことも、死を衛生観念から考えた手法なのであろう。
 死とは、生と同居することが許されない時代となってしまったのである。死者を想うことを隔離してしまったのである。神仏不在もこうした一面にあるようだ。
 ゆえに死は何処までも醜く、穢らしい存在にならざるを得なかったのである。

 現代は穢れた一面が公に出来ないタブーの中に隠されているように思える。
 あたかも「穢土」である。
 穢土とは、三界六道
(さんかい‐りくどう)の苦しみのある世界で、凡夫(ぼんぷ)の住む娑婆(しゃば)を「この世」という。浄土とは正反対のところである。

 では、死をタブー視し現代のように隠すようになった背景は何処にあるのか。
 かつては、死に逝く者の死に場所が変わったからである。これは生まれることについても同じだろう。

 昭和30年代頃まで、わが家で生まれて、わが家で死んで逝く人の方が多かった。
 ところが現代は、病院で生まれて病院で死んで逝く。老人にとって、病院に入院すると言うのは治療を受けて治るために入院するのでなく、死ぬために入院するのである。
 病院で生まれ、病院で死んで逝く。更には、月の影響下の潮の満ち引きとも無関係になった。

 昔から「潮の干満」に関係があると言われて来た。長らくそう信じられて来た。月の影響を受けていると言われて来た。古人は、この事を疑わなかった。
 だが、こういう言い習わしも、今日では必ずしも本当ではないと言う。人間の生死は、潮の干満や月の影響を受けたものでないと言う。現代では科学的根拠はないと言う。

 しかし、である。
 潮が満ちるときに一つの生命が生まれ、また潮が引くときに一つの生命が失われる……という古代人の観念や考え方に、共感を惹
(ひ)くものがある。
 古代人が信じていたこうした感性が、現代では必ずしも科学的でないが、月の影響下の潮の干満に生命が誕生した痕跡も完全には否定できまい。

 現代人の誕生場所は、まず病院で始まる。
 産婦は出産の前に病院に入院し、陣痛を待ち、生まれる日を待つ。いよいよ陣痛が始まり、突如生まれ出ると、呱々
(ここ)の泣き声を挙げて赤児はこの世に躍り出る。
 この光景を、潮の干満と重ね合わせてしまうのである。

 一つの生命が誕生する。それはまさに神秘の一瞬ではないか。
 この世に波動がある以上、潮の干満もそれに絡もう。生命が生まれでる場面にもベクトルの波が密接な関係をもって大自然の摂理に繋がっているのである。



●死の必然

 生まれて死ぬ。これが偽らざる人間の実体である。これこそが「死の必然」である。
 生まれる時と死ぬ時も、人は平等の生、平等の死が与えられている。現世で唯一つ、「平等」なるものがあるとすれば、「生まれる時」と「死ぬ時」に限り、唯一、「平等である」と言える。

 命ある者は必ず死ぬ。これは死の必然である。
 どんなものでも永遠のものはない。永遠どころか、千年、万年のものすら少ない。百年のものでも非常に珍しいと言える。これは生物だけではない。政治でも、思想でも、芸術でも同じである。

 幾ら完全な思想であっても、時代が変われば、それはやがて過去のものとなる。ひと時代を経て繰り替えされるのは、古典に過ぎない。古典は新しい時代の、新しいものではない。どこまでも古典である。過ぎし日の残像である。新しい時代には、新しいものが生まれる。況
(ま)して、その他の功績の顕著な事業などは、その時代のものに過ぎない。

 政治でも法律でも、あるいは流行やファッションでも、こうしたものはその時代だけのものであり、歴史的なものに過ぎない。世の中が変われば、偉大とされた功績など、何の値打ももたない。総
(すべ)ては「一時のもの」に過ぎないのである。

 だが人は、この「一時のもの」に固執する。汗水
(あせみず)垂らして、この「一時のもの」を必死に掴もうとする。そしてこの掴もうとする背景には、「たった一度の人生」という不確かな真理が、「一時のもの」を掴もうとする原動力になっている。
 しかし「一時のもの」は、時代と共に変化するのであるから、虚
(むな)しい功業に捧げてあくせくするのは、自分の吾(わ)が人生における生涯を、虚しいものに投じて、虚しいものにしてしまうのと同じになる。

 幾ら手広く事業を展開し、大金を掴み、大儲けしても、その優越感に浸れるのは、結局、自分が生きている間だけである。しかも短い間の享受に過ぎない。人間の人生は、他の生物と比較しても、長生きして高々百年程度である。大自然に比べれば、余りにも短い束
(つか)の間の人生である。それは単に短いだけではなく、やがては滅びるのである。どんな強健な肉体でも、やがては滅びるのである。そして最後は「死の必然」が待っている。



●死に方に、死相はあるか

 釈迦は輪廻
(りんね)を説いた。
 輪廻があるという事は「生まれ変わり」があるという事である。人間は闇の彼方からやって来て、また闇の彼方に還
(かえ)って行く。少なくとも、魂はこうした進退を繰り返す。あるいはそのように見える。これは輪廻転生(りんねてんしょう)の暗示であり、死ねばそれっきりという分けではないことを物語っている。

 「不増不減の法則」から、霊魂は不滅であり、何度でも、生まれ変わりを繰り返す。この生まれ変わりの第一段階が「臨終
(りんじゅう)」である。
 そしてこの臨終に失敗するのが、横死
(おうし)という不成仏の死に方である。

 横死とは一般的に言って、不慮の死や非業
(ひごう)の死を指し、事故・殺害など、思いがけない災難で死ぬことを言いが、この横死は、単に事故や災害に遭わなくても、床で死ぬ場合も、こうした横死の現実はある。これは死に切れずに死ぬ、死に方で、現世に未練を引きずりつつ死ぬ場合にこうした横死が起こり、臨終に失敗した時機(とき)の死に方なども、横死に含まれる。

 こうした死に方の予定は、生前の善行など一切問題にされず、激痛と衝撃と悶絶
(もんぜつ)が、臨終にあたり、待ち構えているという事を忘れてはならない。
 《予定説》から行くと、死に態
(ざま)が生き態に影響を与えている、と言えよう。
 これはまさに予定説そのものである。

 臨終とは、人が、今まさに死なんとする時、一挙に「死相」という形相
(ぎょうそう)が形作られ、これこそが善業と悪業の総決算の時であり、空(くう)の世界に向かう来世の第一歩なのである。だから臨終に際しての死に方は、堕地獄に落ちるか、否かの形相を、「死相」という形で、その遺族に訴えてくる。

 そもそも「臨終」とは、何であろうか。
 一般的には臨終を「死にぎわ」とか「まつご」とか「いまわのきわ」などと言う。また「死に臨むこと」を臨終とも言う。

 臨終に纏
(まつわ)る言葉に、「臨終正念(りんじゅう‐しょうねん)」とか「臨終仏(りんじゅう‐ぶつ)」とか言って、死に臨(のぞ)んで心乱れず、往生を信じて疑わないことを臨終正念と言い、また念仏行者の臨終の際に来迎(らいごう)するという、阿弥陀仏(あみだぶつ)およびその聖衆あるいは臨命終(りんみようじゆう)の仏を臨終仏と言う。

 こうして臨終を定義していくと、その死の刹那
(せつな)に「死相」というものが存在し、死に際して、それぞれの形相を作り、死に就く「死に方」の明暗を分けているのである。つまり、「死相」とは、成仏だったか、不成仏に終ったかの判定が、死の「今わの際(きわ)」に、幽(かす)かに顕われる最期の人間の表情と言えるのである。

 「中有
(ちゅう‐う)」の思想に立ち返れば、「死相」は存在しなければならない。「中有」とは、四有の一つである。人間が死んで次の生を受けるまでの間を「中有」という。期間は一念の間から七日あるいは不定ともいうが、日本では「四十九日(しじゅうく‐にち)」である。

 四十九日とは、人の死後49日間を指す。前生までの報いが定まって、次の生にうまれ変るまでの期間をいうのだ。俗に、この間死者の魂が迷っているとされる。何故、迷うのか。
 それは多くの魂が「不成仏」であるからだ。人の死後49日目に当る日、すなわち中陰の満ちる日を指す。この時、死者追善の最大の法要を営む。七七日
(しちしちしじゅうく‐にちにち)といい、また「なななぬか」などともいう。満中陰(まんちゆういん)に当たる。
 「しちしち・49」の盤面の縦と横なのである。七日事に、交叉するのである。

 この間、七日ごとに法事を行う。これこそ自体、この儀式自体、中有の思想を肯定するものであり、中有が存在すれば、当然「死相」は各々に出る。則
(すなわ)ち、多くは不成仏であるからだ。
 これを非科学的な発想と一蹴できるだろうか。もし、これを一蹴できる人がいるならば、その人は、自らの葬式も挙げてはならず、別れを惜しむような告別式ですら無用であり、無神論者は最後まで無神論者で通すべきである。また、無神論者は、「祈り」すら必要ないであろう。


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