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生死の循環・中有思想 2

一見すれば単なる断片も、断片そのものが有機の裡(うち)に含まれており、断片と断片は実は有機的な繋がりを持っているのである。
 譬
(たと)えそれが矛盾に満ちていたとしても、根底には有機体系を成す内蔵機能があり、背後には沈黙した全体性が隠れているのである。つまり、これこそ「真なる体系」あるいは「有機を蔵した有機体」と言えるものである。分類・分解をされない集積であった


●駱駝が針の穴を通るより難しい

 滅亡は、何も人の頭上ばかりに顕われるのではない。国家にも、民族にも、また組織にも滅亡というものはある。それは、まるで肉体が崩れるように襲って来る。
 時の流れは、決して人の都合を待ってくれない。歳月は人を待つ事はないのだ。
 こうした変化の兆候は、人間に絶えず忍び寄っている。それを本人は知らないだけである。
 若い肉体は、やがて老化しはじめる。朽ちはてる運命にある。
 肉体は時間とともに酸化して古くなって行くからである。
 若かったときの強健な肉体も、歳月と共に老醜を帯びてくる。それが老醜というものである。老醜は、また一種の匂いを生じ、それが「老臭」となる。

 人の「死」の予兆としては、「老臭」の汚臭とともに、失明、発汗、落花、更には絶望と言うものが顕われる。輪廻転生
(りんねてんしょう)の法則により、人は寿命が尽きれば、その身に「五つの衰え」が顕われるのである。命あるものは、「死の法則」から逃れる事は出来ない。それは神においても同じである。神すらも、寿命が尽きれば、死ぬのである。

満つれば欠く。月には様々な表情があり、意識がある。そして月の意識とその影響を拒否すれば、人間の生活は実に貧弱なものになる。

 また一方で、太陽の意識と、その方向性を示す働きがなければ、月の意識は無秩序になり、暴力や狂気で覆われてしまうもとになる。
 したがって、古人は月を祀り、月の示唆に基づいて、日常生活を営んでいたのである。

 「満つれば欠く」という言葉がある。
 『史記蔡沢伝
(しきさいたくでん)』には「月満つれば則(すなわち)(かく)」とある。何事も盛りに達すれば、やがては衰え始めるものだ。此処にこそ、栄枯盛衰の原則がある。栄えることと、衰えることは同じ数直線上にあるのだ。隆替は同義である。
 この言葉は、物事には必ず盛衰があるという意味で、「月盈
(み)つれば則(すな)ち食す」とも言う。
 月は満月まで満ちて膨らむが、十六夜
(いざよい)ともなれば、欠け始めるのである。陰暦十六日の夜は「欠け」の始めである。美しい十五夜が見られるのは、三五(さんご)の夕であり、僅かに一日である。

 こうした月の満ち欠けは、人間の「魂」の循環にも置き換える事が出来る。
 大自然は循環するように出来ている。季節は移り変わるのである。人間も、これと同じである。人間は大自然の中にあって、そこで新しき肉体を受け取りつつ、四期
(四季に準えて四期の生・老・病・死を指す)を経験して、再び繰り替えし、魂は循環し続ける。魂の向上と昇華を目指し、人間は人生を経験する事で、魂は長い時間をかけ高次元へと進化して行く。何代も受け継がれて……。

月光菩薩像。薬師如来の右脇に侍する菩薩で、日光菩薩と共に薬師三尊をなす。

 この場合、厳密に云うなら、人間の人生は一種の魂を向上させて行く為の手段であり、魂が進化向上するというのが、本来の魂の目的なのである。
 栄枯盛衰
(えいこ‐せいすい、満つれば欠くという循環を繰り返しながら、魂は進化向上の方向に向かって行くのである。したがって人間の死は、生の終着点ではなく、新たな旅立ちの出発点であると言えよう。死を以て、新たな旅の門出(かどで)と言えよう。

 ところが、新たな門出に、拍車を掛けるものがある。それは「老醜」であろう。
 老醜は歳と共に醜くなる。
 この「醜さ」に気付く晩年層は以外と少ない。歳を取って益々盛んになる、煩悩の火を抑え切れない者がいる。これが「老醜」である。自分の老いに気付かないからである。それがまた、人間の生活を歪
(ゆが)めて行く。これにより如何ほど多くの人間が不幸と、精神の貧困を齎していることか。
 このことについて多くの人は、悲しくも僅かにしか考えていない。斯
(か)くして、醜さの中に老いが潜んでいることに気付かないのである。

 現象界は栄枯盛衰の法則で動いている。常に新旧交代が行われている。
 「満つれば欠く」の理
(ことわり)を知らない者は、人生の後半の、殊(こと)に物質に関する「見直し」が出来ないのである。
 これは「駱駝
(らくだ)が針の穴を通るより難しい」に俚諺(りげん)でお馴染みである。物質界の欲に追われる者への勧告である。歳を取っても、なお、あれも欲しい、これも欲しいでは、死際に平穏は訪れない。歳を取ると、「死に欲が出る」とういう。
 死に欲が出ると、却
(かえ)って人間が物質に固執するようだ。だから、「駱駝(らくだ)が針の穴を通るより難しい」のである。これこそ、臨終を悪くする元凶となる。こうしたことは、世間一般ではよく見ることである。
 臨終をしくじる現象である。

 人間の老年期というのは、明らかに青年期や壮年期の行動あるバイタリティーとは異なる。
 活力や生気は失われる。そのくせ物にこだわる老人がいる。それにこだわって固執する。拘泥
(こうでい)の醜さの最たるものだ。
 本当は、物に頼る時期ではないのだが、「死に欲」が出て、これに振り回される人がいる。惜しいと思う気持ちである。だが最早、そこに成功致富の夢にその力を見出すことは出来ない。

 若い時分ならば、物質に左右され、金銭や色に振り回され、魅せられもしよう。
 しかし、老人はどう転んでも、これからは卒業していなければならない。
 また、老人のそれから先の人生は、右に転んでも、左に転んでも、大して大差はない。過ぎた年齢であるからだ。
 何しろ、時間がそんなに長くない。仕事もそんなにないし、年金生活者がやれることは高が知れている。

 しかし、本当に遣り残している仕事は、老人にはまだある。それは欲から離れるということである。
 特に物質欲から離れなければならない。老後の人生で大事なことは、欲から離れることなのである。老人に残された仕事は、自己の内面的な最終仕上げだけである。自己の完成に向かって、心置きなく死んで行く準備だけである。これこそ、晩年の最大の仕事であり、重要な任務なのである。

 「満つれば欠く」の理だけは、何とか修得したいものである。青年期を過ぎ、壮年期にバリバリ働いて、老齢に達し、晩年期に入ったということは、「そろそろ死ぬ準備」を始めなければならない。「そろそろ死のうか」という心構えに目覚めなければならない。

 人生は、「目覚める」ことの連続である。
 しかし、これを全く自覚していない老人が多過ぎる。自分だけは無関係だと思っている安穏とした老人が多い、だから、惚
(ぼ)けるのである。惚ければ、過去の如何なる栄誉も、功績も総て御破算(ごはさん)になる。

 人間が死ぬ時に臨終は、前もってリハーサルは出来ないが、その心構えは前もって作れよう。死は、多い先の出来事だと思わないことだ。
 死について、若い時はから考えておく必要がある。人間は、みんながみんな老衰で死ぬわけではないからだ。

 死に方が変わり、死に場所が変わったからである。多くは病気で死んで逝く。病気で死ぬと言うことは、自然死とは異なる事故死の一種である。そしてこの種の事故死の裏には、この死の意味が、「肉体が死ねば何も残らない」とする科学的知識で誘導される考え方の基づいていることである。これを現代人は“科学的”という言葉に振り回されて信心しているのである。
 斯くして、死は現代では忌み嫌われるものになった。

 その反面、死ぬと言う現象がこの世から無くならない。相変わらず、何処かで、何事かに巻き込まれ、あるいが天災や人災で、現代人は死んでいる。
 若くして、自己や事件に巻き込まれて不慮の死を迎えることもある。死を考えずに死ぬのは惨めである。
 ゆえに死の準備は、若いから無関係だとは思わず、非存在であるはずの人間は、この心構えだけは、しておくべきである。

 人間は若い時から某
(なにがし)かの夢を抱き、それに向かって努力して来たわけであるが、これを必ずしも自分の手にした人は少なかろう。誰もが、棒ほど願って、針ほども適(かな)わなかったはずである。奔走したが、「一敗地に塗まみれた」というのが多くの人の感想ではあるまいか。再び起つことが出来ないほど大敗したというのが、実情ではあるまいか。
 諦めとなって、誰もが老後に辿り着く。
 しかし、こうした老後でも、まだ戦いは終ったわけではなく、仕事は決して終っていない。まだ残された仕事がある。それは
自己を完成させると言う仕事である。臨終に向かって、自己を完成させなければならない。

 金の為に働き、金持になる為に働いたのかも知れないが、金持にはなれなかったというのが、大半の日本人の抱く感想ではあるまいか。
 しかし、「まあ、中流にはなれたのだから」ということが、大半の日本人の慰めではないだろうか。自分よりも下の人間がいることに、何となく安堵
(あんど)を感じ、そのことで諦めを付けようとする。慰めに充(あ)てようとする。

 日本人の抱く「中流の意識」は、あくまでも物質に関しての中流意識であろう。「まあまあの中流」であろう。
 しかし、人間は物質のみで生きているのではない。これこそが、歳を取り、死ぬまでの時間が短くなった老年期の人々にとっては、まさしく有益な生涯の総決算となる。この総決算時期に、人間が何をするかでその人の価値が決まるようになっている。だから「総決算」なのだ。

 人生の教えるところは、この時期を「有益に過ごせ」と教えている。それは、まず、自分が此処まで易化されて来たことの「感謝」であり、その感謝をもって、今度は人々に還元して「与える」ことなのである。感謝し、与えることが出来てこそ、人間は死に際して「最高の有終の美」を迎えることが出来る。
 人間のおける老後の余生とは、「有終の美」に向かって自己を完成させることである。ここで「息切れを起こす時期」ではないのである。今、一層に奮闘しなければならないのである。

 しかし、多くの老人は此処で萎
(な)える。気力も衰え、「惚(ぼ)けの世界」に半分片脚を突っ込んでいる人が少なくない。「まあまあの中流」で安堵(あんど)したからだ。

 駱駝が針の穴を通る以上に難しい難問が、老後に控えているのである。
 この時期に安堵など以ての外だ。
 人間が、それぞれ一人ひとりがに与えられた課題と使命を背負わされて、生まれて来たのであるが、今度はその点検が、臨終を控えて待っているのである。使命は成就しただろうか。
 しかし、そう容易
(たやす)く成就したとは言い切れまい。そこに現代人の臨終間際の失敗がある。



●生と死が倒立した異常な時代

 現代人にとって、死ぬことは底無し沼のような井戸の底を覗き込む如きの恐怖であろう。
 この恐怖は、「死ねばそれでお仕舞いよ」という考え方と思い込みから始まっている。
 そして、このように思い込んでしまったとき、死を総ての終わりと考えているのだから、肉体が死んだ後、「何処に行くのか」と訊けば、この問いに答えられないし、また回答すら必要ないのである。
 現代では、人間は何処から来て何処に行くのかの質問は愚問なのである。

 生きている間だけが、花であり、“死んで花実が咲くものか”の考え方に毒されてしまっているのである。
 この思考図式は、生イコール幸福の可能性あり、また死イコール不幸という考え方である。死して命を失うことが愚なのである。死んではつまらないのである。生きていなければならないのである。
 現代人は、死を蔑
(ないがし)ろにした異常な時代に生きていると言えよう。

 先の大戦の敗北は、日本が神国から、自然科学的思考
P/ソルボンヌで歴史学を学び、フランスの中世社会研究を主とする歴史家。特に家族、子供、死をテーマとした。1914〜1984)は、独自の歴史研究の中で現代を「倒立した時代」と行った。

 現代人の日常生活の底に流れる感情ならびに生と死に関わる態度などは、これまでの人々が目を向けようとしなかった領域に目を向け、歴史学の分野ではなかったとしている。
 彼は家庭と子供に関して、その時代の感情を観察しつつ、かつて子供は、長い歴史の流れの中で、独自のモラルや固有の感情をもつ実在として見られなかったとして言っているのである。それゆえ、死の捉え方も違ってくるのである。
 死すら、生と死が逆転して倒立に至ったのである


 この社会歴史学者は旧人と称される、原人と新人との中間に位置するネアンデルタール人の頃から現代に至るまでの、人間の死生観に対して、死の捉え方の変化に注目した。
 アリエスによれば、旧人の死は、人々の身近に死があり、死と慣れ親しんでいたと言うのである。
 此処に古代人の死は、生と死は表裏一体であり、それを現代のように白か黒かで明確に区別しかなったというのである。
 ところが、近代科学の著しい発展で、死を人間現象の当然の自然行為と認めずに、醜く、穢らしい、忌まわしいものにしてしまったというのである。

 これは現代の医療を考えても、生と死の克明なる区別は明確となる。
 医療側では、死は明らかに医療ミスなのである。
 治療を受けた患者が死ねば、医療業界では商売上の過失になるのである。生を繋ぎ止められなかったことは医療の失敗なのである。
 そして現代は、長く生を維持し、死なないための、死の管理をすることのみに、医療従事者は生き甲斐を感じ、それを自らの信念にしているのである。



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