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うまく死ぬ法 10

人の死とは、死んだということがそれ事態で、全体的に死んだと言えるのであろうか。
 総てがお仕舞と言うことなのだろうか。したがって死が、人の最後なのだろうか。霊魂の最後なのだろうか。
 そして霊魂を司る意識体の意識は、肉体の死とともに、一切が潰えてしまうのだろうか。

 確かに人間は生物としての細胞を結合させて、人間という個体を成すわけであるが、人間でも動物でも、個体としての死は、その個体を形成する細胞群の死によってはじまる。

 この場合、一細胞群の死滅は他の細胞群の消滅を連鎖的に引き起こし、それらの細胞群の消滅は伝染的な連鎖反応を高める。これによってあらゆる諸器官は活動を停止し、躰全体は死へ向かって作用を開始し、やがて加速度を得て驀進
(ばくしん)する。
 そして、諸器官の中でも心臓の停止は、死の直接的な原因になって、死を決定的なものにする。

 死の定義は、要するに個体としての生命活動への停止であり、肉体が五官と共に反応し、「生きている」という事の停止でもある。それを最後として、現代は「死ねばそれで総てがお仕舞いよ」という生体の言い分だけを掲げている。


●地獄道……その2

 想念から紡ぎだした地獄絵は恐ろしい。
 八つの灼熱の業火
(ごうか)から派生した熱地獄は恐ろしい。
 現実にはありもしない。
 脳の粗い心が齎した想念映像である。その地獄絵を気の遠くなるような長い時間に亘って第八の熱地獄で、意識体は業火の恐ろしさと苦痛を味わい続けるのである。

 長い時間を経て、一旦は解き放たれる。それは地獄から解放されたように錯覚する。
 ところが、錯覚は飽くまで錯覚に過ぎない。解き放たれた後も続きがあるのである。
 解放されたように錯覚した住人らは、次は四方にある近隣の地獄に近付いて行く。
 この地獄では火灰の原野があり、屍糞
(しふん)の沼があり、刃の草原や剣の森が密集している。この密集地帯を超えなければならないのである。
 やっとの思いで無間地獄を解放されたと思ったが束
(つか)の間、今度は近隣の地獄を抜けなければならないのである。

 そこで住人らは遥か彼方に灰色の原野が広がっているのを見る。それを見て、一瞬小躍りする。そして、そこに駆け込む。
 ところが、そこは熱した火灰の原野だった。とにかく熱い。灼かれる思いが大である。それでも住人らは何とか火灰の原野を抜ける。すると、遠くに素晴らしい湖が映る。これを見て喉の渇きを覚える。長い間、水を飲んだことはなく、喉はからからである。大喜びして、一斉にそこに大勢が駆け寄る。
 駆け寄って近付いて見ると、この湖には人間や動物の腐乱死体が浮いて、汚物の悪臭で充満した屍糞の沼池だった。

 この沼池には鉄の歯を持った虫が棲んでいる。近付いた途端、沼の中に引き摺り込まれ、この虫に住人の肉は喰い千切られる。至る所の肉を喰い千切られ、骨が見えるほど無慙
(むざん)な躰(からだ)となった。それでも傷む躰を引き摺りそこを抜け出すと、遠方に豊かな草で覆われた草原が眼に飛び込む。住民他はそれを観て大喜びする。今度こそ、巧く抜け出したとを思うのである。喜び勇んで駆け込んで見ると、その草は刃の草であった。触れただけで鋭く切られてしまう。歩くとその刃が足の食い込み足の肉を削(そ)いで行くのである。その度に激痛が疾る。

 それでも、何とか刃の草原を抜け出す。そして次に待っていたのが、剣の森だった。
 この森は遠方から見る分は、気持ちよさそうな森に映った。ところが森に入ると実情が違っていた。急に風が起こり、剣のなった木の葉がサラサラとなり、枝は風を切って弓鳴り音を響かせるのである。その度に剣と化した葉が、住人達を切り裂いて行くのである。

 近隣の地獄は東西南北の四方に四つずつ存在する。合計で十六の地獄がある。
 そのうえ東南の境、西南の境、西北の境、東北の境には巨大な卸し金で出来た山が聳
(そび)えている。
 この山は一見、見た目には綺麗に映る。しかし、よく見ると山の頂上には自分と一番仲のよかった仲間が立っていて手を振り、手招きをしている。

 それを見た住人は「やつも此処まで来ていたか。もう一息だ、頑張ろう」を自らを叱咤激励する。喜び勇んで山を駆け登ろうとする。山自体は鋭い卸し金の刃である。その刃が上る住人に躰をゴリゴリを摩
(す)り卸して行く。激痛を我慢して、何とか頂上に辿り着く。
 頂上には恐ろしい禿鷹が空を舞っていて、住人を見付けると恐ろしい早さで急降下し、目玉をつつき始めるのである。激痛を堪
(こら)えて、ふと下界を見下ろすと、仲間は今度は麓にいて手招きしているのである。

 「何だ、これは……」と思う。
 やっとの思いで頂上まで辿り着いたと思ったら、今度は踏むとかと思う。
 住人が唖然とする。絶望が込み上げて来る。
 頂上にいては禿鷹に襲われるので、麓に降りようとする。そして、やっとの思いで麓に降りると、そこには恐ろしい魔物が住んでいて、住人の頭から被りつこうとするのである。
 一難さって一難で、恐怖の連続を味わうのである。その恐怖が激痛を伴う恐怖なのである。

 第八の灼熱地獄は、想像を絶する恐ろしいところである。阿鼻叫喚の恐怖と苦痛が蔓延
(まんえん)するところなのである。
 そして、そこに墜ちなくてよかったと安堵
(あんど)するのでなく、この光景を確りと想い描いて、地獄の住人と同様の気持ちを抱くのである。可哀想と思うのである。そう思うことで、あなた自身はこの無常の中で幽(かす)かなる慈悲の心が生まれないだろうか。
 この幽かなる慈悲の心こそ、実は「密なる細やかな優しい心」なのである。

 地獄道で苦しむ人の恐怖と苦痛を思って、同じ苦しみを味わう同等の想像力を駆使して「痛ましい」と同情の念を向けるのである。
 その念が通じたとき、現世に生きる人間は、ほんの僅か「密なる心」に近付いたと言えるのである。慈悲が芽生えたと言えるのである。
この地獄は一番上の等活地獄より始まる。地獄の構造は、下に行くほど苦しみが多くなる。
 人間の脳に巣喰う「粗い心」が描き出した悪想念は、実
(げ)に恐ろしき八つの地獄絵だった。阿鼻叫喚の地獄の凄まじさだった。

 この恐怖に戦
(おのの)き、恐ろしい程の苦痛に震え上がり、進退窮まって苦慮しているのは、実はあなた自身であり、また、かつての父母や、既に死んだ祖父母かも知れない。同じ血の縁者だったかも知れない。
 そう……。
 ここで苦しんでいるのは亡き父であり、亡き母であるかも知れない。そして、その恐怖と苦痛を理解してやらなければならない。この理解が、実は慈悲の心なのである。



●慈悲の心

 地獄道に再生する過ちは、粗い心から発した瞋
(いか)りが最大の原因になっているのである。
 ありもしない地獄絵の妄想を、人間は生きながらにして見せ付けられる。それが脳の片隅に粗い心と共に内包している。

 熱地獄の光景が、死後の中有時期の再生時に、その元凶を作り出してしまったのである。
 この悪想念を抱いたまま死した人間は、地獄道に再生する元であった瞋りに基づく誤った行為が、この光景を作り出したのである。
 阿鼻叫喚は、実はありもしない妄想であった。それが悪想念の行為と結びついてしまったのである。

 悪想念は、斯
(か)くもこのように凄まじい地獄を作り出してしまうのである。
 自らの行為を根本から見詰め直すことであろう。生きているうちに、悪想念を駆逐する作業をしておくべきだろう。
 粗い心を、密なる繊細・微少な想念にしておくことだろう。そうすることによって優しさと労りが生まれる。これが慈悲である。

 そして地獄道の恐怖と苦痛を今一度想像して、地獄の住人の恐怖と苦痛が自らに理解できれば、そこには当然、同情の念が起こるだろう。その、想像を絶する苦痛に共感できれば、住人らに対して、深い慈愛の心が生ずるだろう。
 その心こそ、生きながらにして即身成仏になり得る「密なる心」の鍛練法なのである。



●地獄道……その3

 地獄は何も八つの灼熱地獄だけでない。
 更には八つの極寒地獄も存在するのである。
 極寒地獄は見渡す限り雪と氷だけの地獄である。
 この地獄は一番上の「水膨れ」の地獄より始まる。地獄の構造は、下に行くほど苦しみが多くなる。
 では、その苦痛と恐怖は、どれだけ続くのか。
 下記の表で内容と、その期間を顕してみた。

地獄名 地獄の内容 恐怖と苦痛の期間
第一寒地獄 個の極寒地獄は水膨れと言う寒気の吹き荒れるところである。風雪に震え上がり、寒さで肌が斑(まだら)になる。躰中に凍傷ができその部分が水膨れとなる。 胡麻をぎっしり詰め込んだ大桶二百個の詰まった蔵から百年ごとに、胡麻一つを取り出す遣り方で、大桶二百個が完全にからになるまで続く。
第二寒地獄 この地獄では躰に出来た水膨れが、余りの寒さに破れて来る。凍傷を起こした水膨れは極寒で遂に破れてしまうのである。 此処では第一の寒地獄20倍の期間を要する。
第三寒地獄 此処では極寒のために歯がガチガチと鳴る。余りの寒さのために身も心も震え上がるのである。 此処では第二の寒地獄の、その20倍の期間を要する。苦しみの期間は下層に行くほど比例して長くなる。
第四寒地獄 此処は悲鳴を張り上げるほど寒いところである。 第三の寒地獄の、その20倍の期間を要する。
第五寒地獄 この地獄は呻(うめ)きと言われる。 第四の寒地獄の、その20倍の期間を要する。
第六寒地獄 この地獄は余りの寒さに皮膚が、赤く爛(ただ)れて膿んだようになり、更に四弁が開いた蓮華の花のように裂け始める。 第五の寒地獄の、その20倍の期間を要する。
第七寒地獄 この極寒地獄では躰がどす黒く変色し、皮膚は八ヵ所の部分が蓮の花のように裂け始める。 第六の寒地獄の、その20倍の期間を要する。
第八寒地獄 極寒地獄では最も寒いところである。皮膚や肉は、あたかも分裂するように、16、32と弾けて、大輪の蓮の花が開くようになる。更に此処では鉄の歯を持った虫が群がり皮膚を、肉を喰い千切る。 第七の寒地獄の、その20倍の期間を要し、まさに無間を思わせる。

 この地獄での苦しさと辛さを通じて、自らは此処の住人の恐怖と苦痛を思い、想像力を通じてこれを感じなければならない。その想像を逞しくするほど、その筆舌に尽くし難い苦悩がリアルになって来る。これを他人事と考えてはいけない。
 今わが身に降り懸った災難と捉え、慈悲とともに瞑想を繰り返すことである。裸で極寒の地に生きなくれはならない動物までも想像することである。

 自分が裸で極寒の山中にいることを想像して見るがいい。雪山に一人で放り出されて遭難した時の恐ろしさを考えてみるといい。人間の棲む地球上には至る所には幾つもの小さな“独り地獄”があるのである。孤独の世界である。
 孤独の世界は、死後の自分の意識と酷似する。これこそ“独り地獄”である。寒々しい処である。そこへ放り出されるのである。

 死後、肉体を離れた粗い心の意識は、誤って雪山を彷徨うが如しである。
 そこを彷徨って、迷路に迷い込み、もし前方に木があり、錯覚から木の中に入り込んだりする。自身を木と思い込んでしまうのである。雪山の木になってしまうのである。意識は木と一体化してしまう。
 そこへ樵
(きこり)が遣って来て、この木を切ろうとしたらどうなるだろうか。
 木は切られる。伐採される。その時の意識はどうであろうか。
 わが身に置き換えて考えてみればいい。切られることに大変な苦痛が伴うだろう。

 意識は植物に入り込んだり、また鉱物や水などにもなってしまう。地球上のあらゆるものに意識が誤って、あるいは迷って入り込んでしまうのである。
 この意識の転移をチベット仏教では「死者のポワ」と言っている。
 死者の意識は迷い、過ちを犯せばとんでもないところに入り込んで行くのである。これが“独り地獄”の怕
(こわ)さである。

 瞑想を通じて意識は死後、様々な体験をする訳だが、その強烈な痛みと恐怖を、生きているうちに体験し、煩悩から起こる欲の数々を弱めておくことは、一歩ずつ即身成仏の状態に近付いていることなのである。
 快楽や享楽、物資に囲まれた幸福などは一時的なものである。永遠に持続はしない。そう言う一時的な相対物に眼を奪われて心を動かすと、その心の想念は益々粗いものになって行く。その粗い心が、自らを苦しみや悩みや迷いの中に誘う込むのである。

 生きながらに即身成仏をするとは、単に仏教に帰依することでない。また何れかの宗教に属し、そこで多額の金銭を払い、自らは肥やしとなって無料奉仕をすることでない。慈善事業に精を出すことでもない。
 宗教とは無関係である。そういう見掛け倒しに惑わされてもいけないのである。

 ただ瞑想するだけである。
 地獄の瞑想によって、そこの住人が想像を絶する苦しみの中に居て、もがく様を悲しみ、慈悲の心をもって哀れみを懸けることである。その慈しみが、自身の霊的感覚を研ぎ澄まし、それを感じ、その感覚から、最早耐えら寝なくなるという次元にまで至らねばならないのである。
 そこに至って、始めて
慈悲の心が開花する。これが木目の細かい心、あるいは密なる心なのである。



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