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うまく死ぬ法 9

宵のひとときを過ごす中にも、憑衣現象が起こる。
 寛げば寛いだで、背後から“邪”なる者が忍び寄る。

 カウンターに両肘を着き、背中を丸めて、手酌
(てじゃく)でチビリチビリやっていると、外邪がいじゃ/多くは水死霊や横死霊でしかも生前に大酒呑みだった)が、この人の体内に潜り込もうとして、背中の真中寄りの「風門」ふうもん/東洋医術で言う足之太陽膀胱経の経絡線上にある経穴)よりスウーッと侵入する。
 外邪が潜り込むと、まず、背中がゾクゾクとするような軽い悪寒が疾
(はし)る。憑衣の瞬間である。次に唖門宮あもんきゅう/この宮は精気を呼び込む場所として行法者に知られ、閉じたり開いたりする)へと上昇をはじめる。背から首裏である。

 唖門宮は東洋医術では「唖門」と言う名前で知られ、督脈
(とくみゃく)の経絡線上の経穴で、ここは後頭部の温中枢(おんちゅうすう)や冷中枢(れいちゅうすう)を司さどる処で、ここに邪気・外邪が侵入すると、体内の温度調節をするサーモスタットを破壊してしまう。
 この破壊されたときの感触が、ゾクゾクとする一瞬の寒気なのである。悪寒である。
 そしてこれが邪の取り憑かれ、自分が乗っ取られた状態である。邪に憑衣された瞬間である。密なる心を養成する鍛練を怠っている霊媒体質者ほど、この霊障が出易いと言われる。


●何に生まれ変わるか

 再生する場合、誕生の仕方には四つの方法がある。
 人間は胎生
(たいせい/あるいは「たいしょう」)によって生まれて来る。
 この“胎生”は、生物学で云う胎生である。子が母体内で養分を受け、ある程度の発達を遂げたのち生れることで、単孔類以外の哺乳類にみられる胎盤が発達する真の胎生と、卵胎生とがある。
 人間はこの中でも、水冷式哺乳動物に分類され、胎生をする動物であり、単孔類を除くすべての哺乳類は胎生の形式を取る。

 そして仏道では、胎生を「たいしょう」と呼び、四生
(ししょう)の一つを云う。人や獣のように母胎で成熟して生れることを指すのである。
 ちなみに「四生」とは、生物をその生れ方から四種類に分けたもので、則
(すなわ)ち、胎生(たいしょう)、卵生(らんしょう)、湿生(しつしょう)、化生(けしょう)である。

四 生 胎 生 人や獣のように母胎で成熟して生れること生き物を云い、また、生れた「生きとし生けるもの」を指す。この中でも人間は“現象人間界”の生き物である。
卵 生 鳥などのように卵から生れるものを指し、神話的存在や特殊の人物も含まれる。天狗などもこの中に入る。
湿 生 湿処から自然に発生する生物のこと。また、そのもので、湿地で生まれる蚊など昆虫の類を指す。
化 生 母胎または卵を通過せずに、超自然的に突然生れでること。また、そのものを云い、仏や菩薩または天界の衆生の類を云う。そして救済の為に、仏・菩薩が衆生を救済する為、人の姿をかりて現れることで、化身や化人などという。

 中有
(ちゅうう)に入った心の意識は、女性の胎内で結合した血液と経血によって、それが入り込むことにより、その出発点となる。そして中有が、その心の意識を所有して生まれて来るかどうか、その意識の過去の行動と行為によって決定される。

 心の意識は、何に生まれるかの意向となり、胎生あるいは卵生、また拠
(よ)り所無しの忽然(こつぜん)と産まれる湿生や化生として産まれることへの意識となって行く。そして四生のうち胎生と卵生は似ている。

 六道輪廻は生成の「輪」である。人を導く輪である。
 しかし、この輪は全体が死神によって抑えられている。
 輪廻の輪の中には再生を試みる生命があり、どの世界に生まれても心が解脱できない限り、苦しみが付き纏うようになっている。この輪は死神が支配しているからである。
 死神が支配する限り、生死を繰り返す苦悩に満ちた存在であることを分らせる。意識まで死神が支配するからである。



●心の連続性

 瞑想によって、本来は安らぎを得るのであるが、巧妙に安らぎを覚えない場合、四生の何れかに再生への誘惑を阻止できなくなる。死者の意識は彷徨い、再生への母胎を探し、その中に入り込もうとする。これは苦海へ、再び再生することに他ならなかった。
 死の実際を知らないからである。
 人に死を火が消えて行くようなものとか、水が蒸発するようなものと考えてしまうと、これは大変な間違いをしていることになる。

 人の喜怒哀楽は確かに日常に存在する。しかし喜怒哀楽の実体は、物質的なものでない。心の意識の顕われである。したがって空虚な無ではないのである。
 そもそも心には始まりもなければ終わりもないのである。
 心は生き物の死を超えて流れ続けるものなのである。そして心の流れこそ、心の連続性であった。
 では、生き物が死んだ後、心のは何が残るであろうか。
 繰り返し述べた通り、心には生前と死後とではその状態が異なる。生前の心は粗く猛々しく、死後の心は細やかで密で優しい。粗い心と密なる心の近いである。
 粗い心は生きている間に機能し、死ぬとこの心は停止される。
 一方、密なる心は死後に覚醒する。そして覚醒後、中有の状態に入って行く。

 中有の進む途
(みち)は、生きていた時の行った行為によって決定される。
 まず、善悪よりも、心の鍛練による修行の生むである。ここでいう善悪は人間側に判断する善悪で、必ずしも死後の中有に問われる善悪とは限らない。

 生前、慈善事業などをして、ボランティアも積極的に参加し、いい因縁を積み上げたと思い込んでいても、それが売名行為である場合は、悪と看做されるし、意識的に善いことをしようと思わないでも、無意識の行為自体に陰徳の功績があれば、それはまさしく善行となる。
 人間の見ていない、影での行いが人間の眼に触れない位置から、そこを検
(み)られているのである。天はそこを検ているのである。

 「行い」という行為の持つ潜在的な力は、花の香のように、あるいは匂いのように、心には染み付くものである。これは再び輪廻に再生する動機を与える。
 輪廻は大きな車輪と思えばいい。この輪が永遠に廻り続けるのである。同じ処を繰り返し回るのである。

 心は輪廻の中に取り込まれた意識である。捉えられた意識である。これが輪の中にある限り、永遠に出られない。心を昇華させ、解脱しない限り、この輪の中から抜け出すことはできない。

 輪廻の輪に取り込まれた心は、天界に生まれようと人間界に生まれようと、阿修羅や畜生や餓鬼や地獄の住人に生まれようと、同じ輪の中にいてそこから一歩も外に抜け出すことはできない。
 始まりもない遠い過去から、生きとし生けるものは、この輪の中で永遠に旅をし続けるのである。

 生きとし生けるものは、様々なものに再生を繰り返して来た。次々に生まれ変わった。輪廻して顕した生き物の数は夥
(おびただ)しく、また気の遠くなるほど天文学的な数に上り莫大であった。
 地球上では象や鯨のような巨大な生き物から、虫や微生物に至るまで、その数を数えれば、ただただ莫大と言う他ない。この生まれ変わりをして、輪廻に生まれ変わることが幸せならば、それはそれで結構なことである。

 だが、輪廻の本質は苦しみである。
 莫大な生まれ変わった分だけ、苦しみも存在した。
 苦しみの根源には貪
(むさぼ)りや瞋(いか)りや愚かさに犯された心があった。この心が連続性を為して、地獄の住民となったり、餓鬼や動物、あるいは天界に棲んだり、阿修羅に姿を変えたり、更には人間となって六種のタイプの生き物に再生して来た。

 仏教的世界観は、意識である心の体験領域を六つの異なった世界に置き換えているのである。そして、この中で人間だけが貪・瞋・愚を滅し、輪廻を抜け出て心の本然の在り方に辿り着く可能性があると説いているのである。
 そのためには人間は人間として再生せねば、せいぜい生きて僅か百年前後の生を得ている時間に、本来の喜怒哀楽の感情を超感情になるまで昇華させることは難しいことになる。

 自身を顧みて、いま人間に生まれて来たという自覚をひしひしと噛み締めれば、これ自体が幸運に恵まれたことになる。此処に辿り着くまでに、遠い過去から今日まで、人間の生を得るために、自身を此処まで導き、育て、慈しんでくれたものに対して深い感謝を捧げなければならない。恩人に対しての感謝である。
 では、此処まで導いてくれた恩人は何処にいるのだろうか。

 実は、自身が体験した輪廻の輪の中に居たのである。この輪の中に居る生き物総てが、実は自分の恩人だったのである。
 人は生かされるから、生きられるのであって、自分の力だけで生きているのではない。
 そもそも人間は非存在なる生き物である。生と死が表裏一体となり、本来ならば死ぬべき存在が生きているのである。これは、思えば奇蹟である。人間は生きていること事態が奇蹟の連続を体験しているのである。
 これこそ「生かされている」という実情である。

 では、何から生かされているのか。
 人間を生かすのは天であるが、天の仕組みが創造した総ての生き物から人間は生かされているのである。その生き物達は、自分を慈しんでくれたから生かされたのである。
 例えば、稲が実ったとしよう。その実りを稲は人間に捧げたのである。野菜にしても、魚介類や貝類にしても、自らの命を人間に捧げたのである。
 自分を生かすためには、大勢の命が関わっているのである。食物連鎖を思えばいい。そして、この命は巨大な輪廻の輪の中にあった。そこで迷い、その繰り返しが廻る。

 この輪の中には、他の生き物が再生を繰り返し、かつては一度ならず父母として自分を大切の育ててくれたのかも知れない。それゆえ輪廻にある生きとし生けるものは総てに共感し、その苦しみに深い同情の念を示さねばならないのである。その念を示すことで、自然と感謝の心が湧いてくるのである。

 この念をもって、感謝をすればするほど、生きとし生けるものが他人事ではなくなってくるのである。こういう命に対して一番最初に共感がなければ、自らの心の連続性を理解することも出来ないし、粗い心を密なる心へ変化させて、普段の感情を昇華させ、超感情にまで向上させることは出来ないのである。



●地獄道……その1

 六道は衆生
(しゅじょう)が、善悪の業(ごう)によって赴き住む六つの迷界である。
 則ち、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六ヶ所のである。
 その最下位が地獄である。
 仏道的には地獄は十八種類あるとされる。
 此処は現世に悪業
(あくごう)をなした者がその報いとして死後に苦果を受ける所で、贍部洲(せんぶしゅう)の地下にあり、閻魔(えんま)が主宰し、鬼類が罪人を呵責(かしゃく)するという。八大地獄・八寒地獄など、多くの種類があるとされる。

 八熱地獄はとにかく熱い。
 猛烈な熱風に煽られ光熱の焔
(ほのお)で灼(や)かれる。此処は灼熱である。激しい熱風に襲われるが、それでも死なない。死なずに苦痛の意識の中を彷徨う。そして、この地獄は一番上の等活地獄より始まる。地獄の構造は、下に行くほど苦しみが多くなる。
 では、その苦痛と恐怖は、どれだけ続くのか。
 下記の表で内容と、その期間を顕してみた。

地獄名 地獄の内容 恐怖と苦痛の期間
等活地獄 此処に墜ちるものは瞋(いか)りにまかせて争いを繰り返した者達である。
 此処の住人は、かつて敵対者であった仇敵を交えて再び武器を持って抗争を繰り返す。殺されては息を吹き返し、再び闘い始める。地獄での生は戦いの繰り返しである。
四天王界の神々の一日は人間の五十年に当たる。これが365日集まって神々の一日となる。その神々の一日が地獄の一日に当たると言う。その神々の五百年がこの地獄の一日である。こういう日々を住人達は五百年送るのである。
黒縄地獄 この地獄は灼熱地獄とも言う。
 閻魔王の獄卒らが住民達を束にしてその躰に4本、8本、16本、32本と線を引き、その線に沿って焼けた鉄きり鋸で切り刻む。此処まで切り刻まれるのだが、住人はそれでも絶命しない。苦しみだけが残留する。
此処の住人は等活地獄の住人より長生きをする。
 三十三天界の神々の一日は人間の百年に当たる。それが千日集まって黒縄地獄の住人の一日に相当し、ここではその日々を千年過ごすのである。
 
衆合地獄 夥しい数の生き物が焼け爛(ただ)れた鉄の臼(うす)の中に入れられる。その臼に向かって巨大な杵(きね)が振り下ろされる。入れられた者は杵の一撃で叩き潰され殺される。
 次に杵が持ち上がり、叩き潰された者は再び生き返る。住人らは叩き潰される恐怖と生き返る苦痛で気の遠くなるような感覚を長期に亘って味わう。
夜魔天に棲む神々の一日は人間の二百年に相当し、それが二千年集まって此処の地獄に一日となる。住人達は此処で二千年過ごすことになる。
号叫地獄 此処の住人は大声で叫ぶことから始まりこれを号叫(ごうきょう)という。
 住人達は扉も窓もない鉄の部屋に押し込められる。
兜率天に棲む神々の一日は人間の四百年に相当し、神々の四千年が集まって此処の地獄に一日となる。住人達は此処で四千年過ごすことになる。
大叫地獄 この地獄では、住人らが二つの焼け爛れた鉄の部屋が入れ子上になっている中に押し込められる。この部屋に入れられた住人は逃亡を企てても無駄である。
 入れ子状構造は、逃亡した先に別の同種の焼けた鉄の部屋が用意されている。
 逃げても逃げても同じ構造であり、結局逃げ場がないことを知る。これにより深い絶望を味わい、今までにも増して大きな苦痛を味わう。
楽変化天に棲む神々の一日は人間の八百年に相当し、神々の八千年が集まって此処の地獄に一日となる。住人達は此処で深い絶望を味わいながら八千年過ごすことになる。
炎熱地獄 この地獄の構造は宇宙全体を覆うほど巨大な鉄の鍋に、焼け爛れどろどろに溶解した鉄が満たされている。
 この鍋の中に住民らは叩き込まれる。激痛の余り鍋の縁から這い上がろうとすると獄卒が鉤で押さえつけ殴りつけ再び落される。死ぬにも死ねないからその苦痛は計り知れない。
他化自在天に棲む神々の一日は人間の千六百年に相当し、神々の一万六千年が集まって此処の地獄に一日となる。住人達は此処で深い絶望を味わいながら一万六千年過ごすことになる。
大熱地獄 この地獄では強力(ごうりき)の獄卒が手に三叉(みつまた)の戟(ほこ)を持っている。これで住人らを刺し貫いて苦しめる。三叉の鋭い尖端は、まず両足の踵に両足の二つが当てられて突き刺し、真中の中央は肛門に当てて、これが一気に頭と方に突き抜ける。筆舌に尽くし難い苦しみである。 では、この苦しみがいつまで続くのか。
 余りにも長過ぎカウントは不可能に近い。
無間地獄 焼け爛れた灼熱の家に生き身のまま押し込まれる。
 灼熱の飢えは絶えずふいごで火が吹き付けられ、火も躰も見分けがつかないほど焼け爛れる。
 仏道ではこの地獄に生まれてくる者は父母殺しや、五つの大罪を犯した者、密教修行者が師の教えに背いた者とされる。
この無間(むげん)という。制限無しのことである。気の遠くなる期間と言うより、無期である。
 仮に解放されて説く放たれた後も、此処の住人は四方にある隣接の地獄
(火灰・屍糞の沼・刃の原・剣の森)に落される。無間である。

 本来、地獄などない。
 地獄は人間の想念が作り出したものである。その悪想念によって、ありもしない地獄を心の中で見るのである。地獄を見せるのは脳に巣食う“粗い心”である。
 この心の残留物が、ありもしない地獄を作り上げ、その幻影を見せるのである。そして戦
(おのの)く。
 怯
(おび)えて驚愕(きょうがく)するばかりである。

 地獄は自らの外にあるものでなく、自身の裡側に悪想念の地獄を作り出しているのである。
 それが悪想念である限り、妄想が作り出したものと、頭で理解しようとしても、想念が悪である限り、この幻影は消えることがない。心の描いたものは幻
(まぼろし)を作り出す。これに脳が灼(や)かれ狂う。狂って阿鼻叫喚(あび‐きょうかん)を見る。
 幻影を観るのは、脳の粗い心が地獄を見せるのである。



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