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うまく死ぬ法 8

「現在」と言うのは、過去から未来に続く数直線上の、単なる「通過点」の《一コマ》の現象に過ぎない。



●死とは、またとない機会

 昨今、日本では多くの日本人は病院で、死を恐れつつ、恐怖とともに死んで逝く。
 この死に、希望などありもせず、ただ惨めなだけである。
 この惨めさはいったい何処から来るのか。
 それはおそらく、戦後の日本に死を平和に、平穏に受け入れる思想と、かつての習慣が失われたためであろう。そのために死に態
(ざま)が無慙(むざん)なものとなる。混乱し、怯(おび)えて死んだ死相すら感じられるのである。いい死に態ではない。無慙の一言に尽きる。

 特に末期ガンなどで病死した場合に、最後の苦しみの跡が見て取れる。苦しみとともに、生に固執した苦しみの跡である。死ねば確かに病死だが、これ明らかに事故死であり、一種の横死であろう。断末魔にもがいた跡が残されている。
 もし、こういう時点で、混乱して怯える代わりに、心に澄明
(ちょうめい)の灯(あかり)を灯すことが出来れば、死に態と死相は違ったものになっていたであろう。

 意識を司る心は連続する。心は連続姓を持つ。
 この連続性は生とも繋
(つな)がり、また死とも繋がっている。断片的でない。生と死は断片的に存在するのでなく、双方は連続姓をもって連結されているのである。大きな連鎖の輪の中にある。
 そして、過去世
(前世)と現世(今世)、現世と来世の間には、中有と呼ばれる状態が存在する。
 この中有は、バルドとも呼ばれ、中間を顕す意味を持つ。
 つまり、生と死の間には中間があるのである。その中間を中有と言う。

 人間の場合、中有の期間を得るのは、肉体を所有した前の生が、再び次の肉体を持った生に繋がって行くことである。この生の間に、人間の心は連続性を持っているのである。
 心の連続性は、心自体が粗い心であろうとも、あるいは浄化された密なる心であろうとも、間違いなく連続しているのである。
 これを、人が受け入れようと受け入れまいと、また信じようと信じまいと、意識体の中に中有の状態は存在するのである。

 その正体を知り、それを認識し、それに応じた心の鍛練をすれば、死は恐れなくても済むのである。心構えと、その準備の大事を説くのである。
 ゆえに心の鍛練が出来、死に対する心構えを完了しておくと、来るべき死に際しても、その恐怖と苦痛を減ずることが出来るのである。これを怠らないことである。

 では、死の準備が何故必要か。
 例えば、ある悲劇的な出来事が起こったとしよう。
 この場合、その出来事に対して一方向からだけ見て判断するのと、多角方向から見て、観察するのとは結果が大いに違って来る。

 一つの角度からしか見なかった場合、それ自体にしか眼が行かなくなる。視野が狭く、短見的な見方しか出来ない。そして却
(か)って、自分の手に負えない大問題のように思い込んでしまう。此処の墓穴を掘る要因がある。
 墓穴を掘るのであるから、一方向からだけ見た観察は、堪え難い苦しみとなって顕われ、混乱と怯えを来してしまうのである。

 ところが、同じ出来事を別の角度から、方向を変えて多角的に見て行くと、これが実に大きな問題だったとしても、問題自体の幅が縮小される筈である。
 一方向だけから見ると、固定観念と先入観で、ありもしない陰翳
(いんえい)に怯え、疑心暗鬼に陥り、小さな問題でも増幅させてしまうのである。
 まさに現代人は、死をあたかも陰翳に怯えるように見ているのである。

 したがって同じ悲劇でも、陰翳を巨大増幅して見ているのである。愚かである。
 ゆえに心構えが大事であり、心の鍛練をすれば、心構えの間口が広くなって、事象を広角度で捉えることが出来るのである。恐怖が半減するのは、こうした処に根拠がある。

 これは死についても同じだろう。
 死は、人生の一部である。また生と死は巨大な輪の中の一コマに過ぎない。
 自然は本来、生も死もない。大小も、盛衰も、強弱もない。
 ところが、自然を荒々しい弱肉強食の世界で、矛盾に満ちた相対界と騒いでいるのは、科学だけしか信じない科学信者の言うことである。
 また本来、自然は善悪も、正邪もないのである。こうした境界線を引いて区別したのは人間の仕業だった。斯
(か)くして相対界の迷路に迷い込んだのである。

 だが、自然は生も死もないから、立派な大調和を保ち、巨大な輪の中で、無為にして種々の生命を育むのである。人智の及ばない次元で、終わりなき一体化の立体的有機的因果関係を作り出しているのである。
 これは極言すれば、部分的に検
(み)れば原因があって結果があるように映る。

 ところが、全体的に検れば原因も結果もなく、何処が始まりで何処が終わりか、そういうものは存在しないと言うことになる。
 これはもはや一個の円環であり、また球体のようなものである。永遠と繰り返されるだけである。ゆえに生もなく死もないのである。巨大な輪の中を有機的活動として循環するだけである。ここに心の連続性がある。

 つまり、生の連続性を受け容れたなら、死は一つの出来事であり、循環の中の一コマに過ぎない。死は、肉体の古びた衣服だった。汚れて擦り切れて丈の合わなくなった衣服であった。こうした衣服は着替えるしかない。
 次に新しい衣服を借りて着替えるしかない。
 古い肉体を脱いで新しい肉体を受け取るのは、あたかも衣服を着替えるのと変わらない。
 そもそも肉体は造物主からの借り物である。
 宇宙間の万物を創造した神からの借り物である。その借り物を、あたかも衣服を着替えるように借りて新しいものに着替えるのである。

 古びた肉体は老朽化して、もはや正しく機能しない。そう言う場合は、再生という「着替え」をする以外ないのである。
 人の死が老朽化した肉体と知れば、次に新しいものに着替えねばならぬ。
 こういう心構えを抱けば、死は単に人生の一部であると言うことが分ろう。そして、これは深い経験を積み重ねる、またとない機会になるのである。



●光明

 死を、またとない機会と捉えることが出来れば、死ぬことは死ぬことで、ワクワクするような期待感が生まれる。またこれが来世への希望となる。そして死を通じて、再生のための修行をさせられていることが分る。
 再生期間を中有と言う。
 中有には、生有・本有・死有それに中有を併
(あわ)せて四時期がある。
 衆生が再生するとき、その期間に四つの四有
(しう)を経験する。

 人間は死ねば、先ず脳の機能が停止する。脳が完全停止をすれば、脳にあった粗い心とは別の種類の心が動き始める。
 この心を、脳にあった心とは別の「密なる心」が覚醒し、動き始めるのである。この微細なる小さな微少な心が、則
(すなわ)ち「光明」である。闇の中を照らす一条(ひとすじ)の灯である。

 光明は誰にでもある。
 これは深層心理の最も深いところにある、微細な心のことである。
 心の鍛練をしない一般人は、この微細な心にまで生前は殆ど到達できない。
 また、死ねばそれでお仕舞と死後の世界を一笑に付している人も、この微細な心に気配や存在は知る由もない。

 臨終を迎えるまで、臨死体験もなく、死と向き合うこともなく、死に対しての心構えを準備できなかった人は、この光明の一筋の光すら分らずに死に、死に際と、死の刹那
(せつな)の臨終にしくじるのである。
 生前、死から逃れることだけを追い求め、長生きばかりを企てた人は、一条の光明すらも見出すことが出来ない。

 さて、木目の細かい微細な心は、肉体を離れることが出来、事実上は肉体とは独立した密なる心である。
 これは『陽明学』でいう「良心」に限りなく近く、此処から出て来る智が「良知」である。「仁」の源泉である。そして良知は「まごころ」の顕われで、光明で言う一条に光こそ、他のあらゆるレベルの根本的な種子になるいる心のことである。
 心の発露は、この種子が発芽することによって、無から有が生まれてくるのである。
 また、この心は有の表形として「幸せを齎す心」である。更には「安らぎを感得させる心」である。

 この心の存在を、人間は生きているうちに知らねばならないのである。
 誰でも、人間に心が存在していることはご存知だろう。
 しかし、この心は「粗い心」である。粗なる心である。したがってその発露は戦闘的で、攻撃的で、格闘的で、荒々しい。怒りを感情の中に包含する心である。
 他と抗
(あらが)い、争う、殺伐とした阿修羅的な心である。決して柔らかで、木目細やかではない。密でもない。ただ猛々しい。

 人間はこの心を日常生活の喜怒哀楽の中で、喜び、怒り、哀しみ、楽しむと言うように、一日のうちでも、極楽と地獄を行き来しているのである。定まりのない、安定しない、安住を得ない心である。その心を脳に納
(おさ)めて普段は機能させているのである。そしてこの心は、常に固有の苦しみと哀しみと、迷いと悦(よろこ)びとを有しているのである。
 また、この心は肉体の一部である。つまり脳によって反映され、肉体の体験を通じて機能するようになっている。

 したがって、光明による密なる心とは種を異にする。
 脳に存在する粗い心と、密なる心の両者を比べて見ると、後者の方が心によっている体験の方がずば抜けて優れている。
 比較例を上げれば、脳に存在する粗い心は、平静で安らぎ状態であれば、肉体的苦痛に対しても比較的楽に堪え忍ぶことが出来る。ところが逆に、心が波立ち、苛立っている時は不安定な状態となり、大きく乱れると言うことである。錯乱なども、心の荒れている時で、この「荒れ」は粗い心から出
(いず)る。

 平静時には落ち着き、安定して申し分ないのだが、一度感情の中で忿怒
(ふんぬ)が生じ、怒り心頭に来れば忽(たちま)ち安定を失う。したがって、肉体自体は健康で良好状態にあっても、こうした粗い心のままでは常に不満や不平が生じ、結局、幸福になるどころか、寿命すら縮めてしまい兼ねないのである。そして、こうした状況下では、肉体に病気を齎す結果を招く場合もある。
 病気と心に安定は密接な関係があるのである。

 確かに豊かで便利で快適なる物質的な環境が整っていれば、肉体的には楽になる。
 しかし、金銭も、また快適を齎す便利なる機械も、心の安らぎまでは提供しないのである。肉体止まりである。心までは及ばない。

 本当の心の安らぎは、個々人が自ら探求し、見出し、培って行かなければならないのである。他人に頼ったり、物に頼ったりして幸福なる安らぎは得られるものでない。
 外的な事象は、内面的には決して安らぎは齎さないのである。
 光明は自ら自己を掘り下げて、その裡側から見出す以外ないのである。



●再生する胎の選択

 さて、現代の特長の一つを上げれば、阿修羅的なものが大流行している。
 荒々しく、拳や足蹴りなどの攻撃的で、好戦的なものが巷
(ちまた)では多く持て囃(はや)されている。冷徹で非情な内容のアクション映画などもこの類(たぐい)である。

 格闘技でも、武道でも、その競技においては阿修羅的なものである。殺伐とした暴力三昧
(ざんまい)が、ある種の階層に支持を得ている。
 これに現
(うつつ)を抜かすファンや愛好者は、その考え方にしても行動にしても、また言動にしても、攻撃的で、かつ暴力的である。傍若無人が態度に顕われている。
 虚無的であり強持
(こわ‐も)て指向であると言える。

 そして、このような心に惹
(ひ)かれると言うのは、中有の時期に再生する「胎」の選択から始まったものと思われる。
 胎は解字から判断すると、「月」
(=肉)+音符「台」であり、意味としては「きざし」とか「始まる」を指し、母胎に宿った「はらご」の状態から、過去世(前世)のカルマ(業であり、三つの行いである三業、すなわち身(身体)・口(言語)・意(心)の三つの行為を指す)に於いて、生まれ変わりの場合の胎を、阿修羅的なものに選択したと言えるだろう。

 また背景には、心の鍛練より、肉体信奉に入れ揚げ筋トレ酷使したために、命体構成が「体主霊従」の構造となり、心の迷いから選択を誤った再生を望んだものと思われる。

 命体構造には二種類ある。一つは現代人に多い物質主体の生活が突出している場合は、体主霊従になる。物質である肉体を優先に考える生き方で、自身に霊魂が存在していることに気付かなかったり忘れた死している場合は、この構造を採る。
 そして、もう一つは物より心に重きを置いた霊主体従である。
 前者は肉体が精神を従えた状態だが、後者は精神が肉体を従え、コントロールしていることになる。

 普通、物心がついた時期から、物に心を動かされ、物欲と言うものが生まれる。肉体に固執するのも一種の物欲である。この物欲旺盛なる時期は幼少年期から壮年期を経て退職する65歳までと考えられる。この間の命体構造は大半が体主霊従である。
 ところが、この年齢を超えた以降、命体構造は徐々に霊主体従に傾いて来る。自らに心の鍛練を養成する気持ちが旺盛になって来る。肉体からの卒業で、心中心の生活に移行し始めるのである。したがって煩悩の一つである物欲も小さくなって行く。この極小化が人生晩年の命体構造である。

 ところが、晩年期に物欲の極小化を怠った者は、記憶の片隅に肉体信奉の粗い心を引き摺ったまま老・病・死の段階を踏んで臨終へと向かう。肉体に固執したまま死んで逝くのである。
 霊魂は意識体である。意識の中には生前の願望が巣食っている。意識体はこの願望を抱えたまま中有の時期を過ごすのである。
 この時期に種々の選択肢があり、その中で六道を輪廻転生するのである。

 それは六道で言えば、生まれ変わる選択であった。何処に生まれ変わるか、中有の時期に決定される。
 天上界に於いて、高層の美しい寺院が眼に映れば、そこの住人になることが出来る。そして攻撃的で戦闘的なる生まれ変わりを望むのなら、阿修羅的な心を持つ。その心が阿修羅界に生まれ変わろうとするのである。

 まず眼に見えて来ることは、美しい林であり、また回転する火の車輪が眼に見える。それに魅了され、誘惑されれば、絢爛
(けんらん)なるものに蠱惑(こわく)され、足を一歩踏み入れた途端、立ち去ることが出来なくなる。魅せられて呆然(ぼうぜん)となる。惑乱されるからである。そして惹き付けられる。

 阿修羅道は、六道の一つで、阿修羅の棲む、争いの絶えない世界を言う。
 此処は天・人と畜生・餓鬼・地獄との間にある。修羅道とも言う。

 もともと阿修羅は、古代インドの神の一族であった。
 後にはインドラ神
(帝釈天)など天上の神々に戦いを挑む悪神とされる。
 仏教では天竜八部衆の一つとして仏法の守護神とされる一方、六道の一つとして、人間以下の存在とされている。
 絶えず闘争を好む。
 好戦的な性格を持っている。何かにつけ争う。闘争を好む。闘争を求めてストリートファイター如きの振る舞いをする。ただ猛々しいだけの存在となる。心が求めた事象である。

 仏道の教えとしては、再生する胎の選択として、「此処には立ち止まらず、絶対に一歩も足を踏み入れることなく早々に立ち去れ」とある。此処で足を止めて見入ってはならないのである。見入れば、逆に魅入られてしまうのである。
 仏道では胎を選択する中有に向かって、「もし、あなたが動物に生まれ変わるのであれば、岩の洞窟、地面の孔
(あな)、藁葺きの小屋などが霧のかかったように見えるであろう。しかし、弱肉強食を望まないのなら此処に入ってはならない」と諭している。

 また、「餓鬼として生まれ変わるのであれば、朽ち木や毀
(こわ)れかけた洞穴、更には小さな黒い空地が眼に入るであろう。そこに入りたければ餓鬼として生まれ変わる。そして渇きと飢えに苦しめられ、種々の苦しみが襲うだろう。したがって、それを拒むのなら足を一歩も踏み入れず断固拒み続けよ」とある。

 更に、「あなたが地獄道の中で生まれ変わるのなら、邪悪なる業を背負った者達の歌が耳に入る。あるいは抗う術もなく無理矢理引き入れられてしまう。赤と黒の家々が、黒い孔と黒い路
(みち)のある暗黒の世界に迷い込んだ感覚を覚える。そこの入れば地獄界である。灼熱で灼かれ、極寒の寒さで震え上がる。堪え難い苦しみに包まれる。一旦そこに踏み込めば、もう逃げる術はない。此処には絶対に入ってはならない。用心して避けるようにしなければならない」とある。

 繰り返すが、阿修羅界は天・人と畜生・餓鬼・地獄との間にある。
 阿修羅界の門の前に立つと、順に畜生界、餓鬼界、地獄界の入口に立たされるということが分る。中有時期から再生に向かう場合、胎へのそれぞれの入口があり、その入口の何処を選択するかで最終段階の決定が下されるのである。



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