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うまく死ぬ法 7

俳諧紀行を著した松尾芭蕉の『奥の細道』には、「月日は百代(はくたい)の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり……」とある。

 何れも人生が「旅」と説いている。人は、人生を旅する旅人である。
 人は生まれて、人生を生き、やがて老いて病んで死んで逝く。死んで逝くことが、一種の連鎖であると印象づけている。

 さて、人は死んでどこへ行くのか。
 同時に、人は何処から来たのか。その生命の起こりは何処にあったのか。
 人間の生命は太陽が沈んで、再び上るようなものである。その中で連続し循環運動するのである。

 人間の人生を載せる悠久の天地は、生々流転としている。止まることを知らない。その大いなる天地を人は旅するのである。


●本当の人生とは何か

 人間の課せられた人生の最大なる目的は、死ぬために準備されたものである。
 何故なら人は、最後は必ず死ぬからである。
 人生は死ぬために準備されたもの……。
 このように人生を定義すると、釈然としたものが顕われて来る。死こそ人生の最大の課題であった。死は真摯に直視するものであった。

 一方、死から逃げ回ったり、死を恐れたり、生にひたすら縋
(すが)ったりすると、それは生に固執する感情に振り回されて、逃避ばかりを繰り返すと、「怖れるものは皆来る」の法則から、非業なる死を招き寄せてしまう。わが身に、横死と言う死に方が押し付けられる。
 死から逃げ回る逃避行を止めるべきである。

 そうすれば、死を恐れたり、ひたすら怕
(こわ)がったり、怖れを抱いたりしなくて済む。
 素直に死を受け入れ、最終的には誰もが死ぬということが分れば、それは同時に、総ての命ある物に対しての慈悲の心が顕われてくるのである。これを仏道では、「仏性」と言う。
 そして、心の中には直視できない何かがあることを覚
(さと)る。

 ところが、現代は「直視できない何か」を考えないように、眼を反
(そ)らして来たのである。現実から、また真実から眼を反らし、死を曖昧(あいまい)にし、死ぬことを考えないようにして来た。
 しかし、この「考えない、眼を反らした行為」が、最終段階の死に直面したとき、突如として浮上してくるのであう。死から逃げ廻ってばかりいると、死に直面した時に、自らのより善き死に方を困難にするだろう。斯
(か)くして、死は恐ろしいものとなる。
 そして益々、この世に執着するような生き態
(ざま)を招き、死後の世界を否定してしまうのである。

 自然科学的思考法は死後の世界を認めない。霊魂は存在しないのだと一蹴する。ここに科学的とする考え方に傲慢
(ごうまん)が存在する。
 そして科学的を信仰する大半は、生に執着し、その執着心から解放されることがない。生に固執し、こだわることが現代人のライフスタイルになっている。
 生にひたすら縋る生き方は、既に死を怖れると言う弱点を晒
(さら)した人生観である。逃げ回っているばかりに生き方である。

 しかし、死から逃げ回ってばかりでは、死について生きているうちに「死とは何か」ということを探求することは出来ないし、生きているうちに臨死体験と言う、その訓練すら出来ないのである。

 こういう死から逃げ回る時代だからこそ、実は死を真摯に捉え、探求する必要があろう。
 死について探求する……。
 それは瞑想によっても行うことが出来る。
 死とは何か……と考えつつ瞑想する。
 そうすると、自らの意識の可能性に気付く筈である。
 そもそも人間の精神領域は意識体である。意識を主体としている。
 意識が主体であるから、自らは肉体だけの存在でないことが分る。逆に、肉体だけの、肉の存在だけしか感得できないと、死は究極的には最大の悲劇を招く。

 生きているうちに自覚すべきことは、死によって傷付けられずに、存在し続けるものが何か、生きている時に見つけ出さねばならない。その「何か」を瞑想によって探求するのである。
 人間は、死んだらそれでお仕舞だと思ってはならない。意識体は死後も残り続ける。残るが現世と死後は波調が違うために現世の人がこれを感じることは稀
(まれ)である。
 死は、人生の最後に登場し、人間が経験すべき最大の課題である。
 死に際に恐怖を感じたり、烈しい苦痛を感じるのは、死の自覚が皆無であるからだ。
 そこで「悟り」と言うものが登場する。仏道の悟りは換言すれば覚悟の宗教であり、現実をあるがままに受け入れる教えを説くものである。
 瞑想で得られる最終的なものは「悟り」である。

 悟れば、恐怖も苦痛も消滅する。
 私は時々末期病で斃
(たお)れた知人の病棟を見舞う。この人は、もう長く生きれない。あたかも蝋燭が、今にも消えんばかりの生命の火を灯したような弱々しい生き方を晒している。
 しかし、この「弱々しい」は、私の錯覚であった。
 自ら徐々に生命の火を絞り込んでいると、その後わかったのである。私も近い将来、この御仁
(ごじん)と同じ末路を辿ることになる。
 末期の病に侵され、死を目前に控え、悟った人であった。

 「辛いでしょ」と訊いたことがある。
 「いや、いい気分ですよ」と笑顔で応えた。
 こう応えた“いい気分”は、何も強がりではなさそうだ。
 気分がいいとは、「今は快適だ」と言うことだろう。あるいは死を目前に控え、気分は最高だと言う意味だろうか。死を致す刹那の言葉としては、よくぞ此処まで悟ったものである。
 気分がいい……。
 この言葉から察して、人間は単に肉体だけの存在でないことが分る。
 肉体は物質である。物質は苦痛に対して傷
(いた)みも感じないし、その逆に、気分は最高などとも感じないだろう。これを感じているのは自らの意識である。これだけで、人間は肉体だけでないと言うことが分るのであろう。

 また、人間は脳以下、諸器官・内臓を要した機械でもない。その証拠に、機械は痛みを感じないし、また機械に張り巡らされた神経網の感覚を伝える連絡器でもないし、それを感じるのは人間の意識である。
 そして意識の中で、もっと深い意識に到達すれば、苦痛に対して、本質的な「何か」に繋がって行くのである。
 斯くして、その何かは深層心理である「阿頼耶識
(あらやしき)」へと到達するのである。

 阿頼耶識とは、人間存在の根底をなす意識の流れであり、輪廻を超え経験を蓄積して個我を形成し、また総ての心的活動の拠
(よ)り所になるものである。
 更に心的活動の根本には、そう感じる粗い心で無く、極めて微細な心的感覚が根底にはあり、深層部に存在する心である。
 心的鍛練によって、この心に出遭
(で‐あ)うのである。
 微少なる心ゆえに鍛練を必要とする。この心に出遭うには鍛練を要する。
 そして、死に際して覚醒時には機能していた脳で感じる粗い心は停止され、それに代わって微笑微細な心が現れる。この深層にある心を阿頼耶識と言うのである。臨死体験などで出遭いがあると言う。

 臨死体験をなぜ必要とするかと言うと、単に、肉体的に生死を分けて、あの世とこの世を彷徨うことではない。朦朧
(もうろう)とした世界を彷徨う体験を言うのではない。そもそもが死の訓練なのである。
 臨死体験とは、自らの命をギリギリのところまで追い込む。生死の境目まで追い込む。
 例えば斬り合いなら、斬るか斬られるかを架空に再現し、“あわや”という命のギリギリまで追い込み、死ぬのではないかという間一髪の極限までわが身を危険に晒すのである。死の瀬戸際まで行くのである。そして生きていること、命のことを考えてみる。更には、生かされている非存在である、わが身を振り返る。

 死の訓練には、この微細な心、微少な心に出遭わねばならない。この心は、脳で感じる粗い心に対峙
(たいじ)して、「密」なる心となる。粗に対して密である。
 そして臨終に際し、最も微細で密なる心は、光である。
 その過程においての最終段階で現れるものが「光明
(こうみょう)」である。柔らかい光である。この光の中に、智慧や慈悲を象徴するものが存在する。

 唯識学派では、人間の意識は分類して最も表層にあるものが「五感」と言われるものである。
 視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五つの感覚である。それぞれは眼、耳、鼻、舌、皮膚に働く。これを「前五識」という。
 その次に在
(あ)るものが「了別識」であり、一般に“意識”と言われるものである。
 意識は、物事を認識し、思考する心を持つ。
 これは感覚的知覚に対し、純粋に内面的な精神活動を行い、これを「第六識」という。感覚器官を媒介として対象を認識する六識である。
 また、十二因縁の一つとしては、前生の煩悩によって、現世の母胎に託された刹那
(せつな)の意識を指す。そして対象を識別する働きを持つ。

 更に第二段階の深層意識の八識へと続く。
 八識とは、意識は作用する八つの働きを言う。
 眼識
(げんしき)・耳(にしき)・鼻識・舌識・身識・意識・末那(まなしき)・阿頼耶識であり、唯識学派が探求した心理学的な分析と哲学である。
 ちなみに末那識とは、人間の個としてのエゴが生み出すこの意識は、自己愛の根源とされ、迷いの心とされる。第七識のことで、人間が生きている限り常に持続されるものとされる。

 末那識を更に深めれば阿頼耶識に到達する。これが総ての意識の根源とされる。個を超えて普遍的な生命へと繋がって行くのである。
 更に掘り下げれば、八識に、菴摩羅識
(あんまらしき)が加わり、これは清浄な真如の理体とされる。

 深層意識を探求した哲学は、心的活動面にも作用したのである。
 これらはまた「超感情」へと繋がっていく。
 つまり「空
(くう)」である。
 人間は死ぬと、その意識は、やがて中有
(ちゅうう)の段階に進む。
 中有は衆生が死んで、次の生を受けるまでの間を指す。再生のために、意識体はこの期間に入る。中有は四有
(しう)の一つである。
 四有は、生き、そして死に、次に再び生れるまでの間の四時期のことで、生有
(しょうう)・本有(ほんぬ)・死有・中有の四つを指す。

生 有 衆生(しゅうじょう)が死んだのち、次の生にまさに生れる瞬間を云う。
本 有 生れてから死ぬまでの間を云う。
死 有 衆生が寿命が尽きて、まさに死のうとする、その刹那(せつな)を云う。
中 有 生が死んで次の生を受けるまでの間を云い、期間は“一念”の間から七日あるいは不定ともいうが、日本では49日を云う。この間、七日ごとに法事を行い、中陰とも。
 「49日」は、人の死後49日間のことで、前生までの報いが定まって、次の「生」に生まれ変わるまでの期間を指す。俗にこの間、死者の魂は迷っているとされる。

 意識体は四有を経て、生命の再生へと向かう。
 空に至るのは現世での粗い感情を、細やかな微少なる「密なる感情」にするためである。
 この密なる感情を超感情と言う。

 空とは、種々の物事は縁起によって成り立っていることを指す。そして永遠不変の固定的実体がないということを言う。
 実際に実在するように見える現世の風景も、総ては意識によって成り立っている。しかし、これらの意識は形作られたもので、永久不変に固定化された実体ではない。如何なる堅固と思われる物でも栄枯盛衰の法則により、崩壊する時が遣って来るの出る。物質界のものは永遠でない。

 総ては、『般若心経』にある通り「照見五蘊皆空
(しょうけんごうんかい)、色不異空(しきふいくう)、空不異色(くうふいしき)、是諸法空相(ぜしょほうくうそう)」である。
 そこには怒りも憎しみも、妬みも恨みもないのである。苦悩すらない。迷いもなく、無知もなく、恐怖もないのである。こういう心の佇を超感情と言う。
 人間界の感情を超えた、真の自分の「まごころ」から出た感情である。

 超感情に至れば、自分の意識の中にある“邪”なるものを駆逐できるのである。“魔”も存在しないのである。此処に至るまでのプロセスに心の鍛練があり、この鍛練を完結できれば、則ち、これは即身成仏なのである。
 此処に至ると、如何なる顕われの中にも根源的な光明と仏性が顕われて来る。この意識の中の光の輝きを悟った刹那、人間は即身成仏になることが出来るのである。
 即身成仏が教えることは、自分を救済できるのは、自分に於いてないということである。

 即身成仏などと言うと、仏教に帰依しなければそれが叶わないのかと思われがちだが、これは宗教とか関係ない。自身の心の鍛練である。即身成仏は何も宗教色が懸からなくても可能なのである。宗教を信じようと信じまいと、そういうことは無関係である。
 自らの人生に自己完結性を齎し、人生街道に於いては、幸せな一生を送り、より善い生き方を模索するのであれば、心を鍛練してよき心を養うことである。

 現世に於いて、物質優先の政策がとられ、金や物を最優先する時代、この背景下では、心の安らぎなど得られまい。
 経済優先政策は心の安らぎを破壊する政策である。愚策であると言ってもよい。
 心の安らぎを破壊するものは、人間の持つ憎悪、極端なこだわりや執着、慢心、疑い、恐怖などである。更に自由恋愛が奨励され、不倫真っ直中、渇愛
(かつあい)と言う、あたかも渇して水を欲しがるように凡夫(ぼんぷ)が五欲(五官(眼・耳・鼻・舌・身)の五境(色・声・香・味・触)に対する欲望である感覚的欲望と、金銀物財・色情・美食・名誉や地位・長い眠りを貪るような睡眠を求める欲望)に愛着することである。
 こうしたものは本来、安らぎとは無関係である。

 人間である限り、心の安らぎなしで幸福な人生などあり得ないのである。
 幸福とは人生の実体験の中で養われて行くもので、心の鍛練を為
(な)した後に現れるものである。
 問題は即身成仏をなし得るために、如何に心を鍛練し、如何にして安らぎに到達するかである。心の安らぎは、金品で買い取ることはできない。億万長者と雖
(いえど)も不可能である。

 現代文明の粋を集めた科学力でも心の安らぎを買うことは出来ない。
 心の安らぎを得ようと思えば、物質以外の別の手段によらなければならない。
 それには心の鍛練をする以外ない。心の訓練をする以外ない。
 ただひたすら、善き心を発露させるように自己鍛練の方法を具えていなければならないのである。その方法は、外的に事象にはない。自己の探求による内面以外に存在しないのである。

 自らの取り巻きを外的な環境で固めただけでは、充分でないのである。
 死を最後に控える人間は心の鍛練や内的体験を培っておくことである。精神的な、特殊な儀法を取り入れることが肝要なのである。
 だが、必ずしも宗教的である必要はない。

 宗教と取り入れるか否かは、個々人の自由であり、宗派無しでも、人間は「幸福な人生」を全うできるのである。何れかの宗派に固執する必要はない。
 特定の宗派や教団に属さなくても、自らに信仰心があればそれでよい。某かの宗派に帰依する必要はない。神仏を敬う気持ちがあればそれでよい。
 そして畏れを感じる気持ちがあればそれでよいのである。

 現世のことのみを考えて、死ねばそれでお仕舞いよと一蹴するのは、実に短見である。
 心の鍛練や内的体験を怠った人間は、来世への再生準備が出来ていないことになる。
 但し、来世が有るか無いかは、また別問題である。
 死に具えて、心を鍛練をすることを促しているからである。

 内なる精神的な力を具えるためには、目的をもって、死と真摯に対面ことである。そして直視することである。
 そこから眼を反らしてはなるまい。死を忌み嫌ってはなるまい。ただ謙虚に向かえ合えばいいのである。何故なら、死は自らの裡側に内在されているからである。
 そのためには静寂な中で瞑想する必要がある。静寂な中にこそ、心の安住がある。安らぎがある。
 騒音に掻き乱されては精神を錯乱させるだけである。心を掻き乱してはならない。

 静寂な中に身を置いてこそ、瞑想が可能になり、この環境を得て、過去の追憶をすることである。瞑想を通じて、人間の裡側にもつ心に問い掛けるのである。
 そこに心の安らぎがあり、希望があり、意思があるのである。
 そして自己探求して、自らを掘り下げ、光明の光に出遭わなければならない。



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