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うまく死ぬ法 6

静かなる静寂の佇まい。水のせせらぎは、そのまま心の安住にと向かう。心はそれで安まり、寛ぐ。そして平安が訪れて来る。


●祖霊に加護を願う

 人間は生きている間に確りと霊的構造のことを理解していなければならない。
 あの世があるか無いかと言うことより、現世から肉の眼に確認できない不可視世界の存在を理解しておかなければならない。
 そして、自分が今、この世に生きていると言うことは、実は自分には神仏と呼べる祖霊が存在したからに他ならない。

 祖霊の存在無しに、今の自分は生まれて来なかったからである。
 では、祖霊とは如何なる存在か。
 祖霊は死者の霊からなる。それゆえ、遠い先祖の死者の霊は子孫を守る守護神となり、守護神は崇められる一方で、また恐れられる神であった。

 この神は、単に守るだけでなく、恐れられる神でもある。
 その恐れの一つは、人間に祟りを為
(な)す現象である。守るが、扱い方や敬い方を人間が誤ると、即座に祟りを為すのである。それでこそ、また神だと言える。
 礼儀を忘れた無礼者に対しては、神は即座に鉄槌を下すのである。神とは二面性を持った、二者は大きく相違する性格を宿し、二面性の実体は「魂魄
(こんぱく)」に由来している。

 魂魄の「魂」とは、霊のことで、霊は死とともに肉体から遊離した『霊』であり、一方『魄』は肉体に留まろうとする『霊』である。
 この『霊』は奇
(く)しくも作用と反作用に関係にあり、生命の火が燃え盛っている間が、魂魄の双方は拮抗を保って吊り合っているが、生命の火が消えて「肉体を脱ぐ行為」が始まれば、魂は肉体を抜ける行為を企て、魄は肉体に留まると言う行為をする。

 魂の文字を分解すれば、「云」と「鬼」からなる。
 云は「雲」の源文字であり、鬼は死者の霊魂であるとされ、亡霊であるため忌み嫌われる、つまり「隠
(おに)」という意味である。これは地上の悪神や邪心に対峙する「天(あま)つ神」の対語であると思われる。
 また一方で「護国の鬼」という言葉もある通し、守り神になる場合もある。ゆえに鬼は、煙りのような釈然としない曖昧な立ち昇る亡霊の意味である。立ち昇るゆえ、「陽」の霊魂であることが分る。

 生命の火は「焦
(しょう)」によって、焦げることから始まるから、人間は誕生とともに、「阿吽」の「あ」のオギャーと呼吸して臍の緒を切り成長していくのであるが、この場合、下焦(かしょう)で大小便をする。これは生まれるプロセスである。
 しかし肉体は寿命まで生きて、やがて老朽化して死ぬ。生・老・病・死の順を追って人生を経験する。
 自然死の場合は、まず下焦の会陰
(えいん)が閉じられる。生命力の火は中焦の神闕(しんけつ)を経由して上焦へと昇り始める。
 陰と陽の順を追う。

 また、魄の文字を分解すれば、「白」と「鬼」からなる。
 白の持つ意味は白骨化することを顕し、それは形骸化された躰で、肉体が生命の火で燃えている時は肉体に宿って活力を顕すものである。
 ところが、肉体が死ぬと白骨化に至るプロセスが顕われる。

 まず、死んだ肉体は腐敗が始まる。腐敗のよって蛆
(うじ)が湧く。
 蛆に啖
(く)われる状態が起こる。骨が白骨化するまで啖われ続けるのである。
 骨は、啖われ続けながらも、しかし肉体の一部をこの世に留める。その場合、死者の霊の留まった箇所が「魄」である。
 死は生まれる、逆のプロセスを辿る。
 これはこの世に留まる「陰」の霊魂であることが分る。陰の霊魂こそ「魄」の実体だったのである。

 陰の霊魂……。
 それは意識であり、意識は「心」と解すれば、更に釈然として来よう。思考や思索の原点でもある。
 心は肉体あっての物理現象で行為や行動を働くものであり、心無しでは「行」の起点が不在となる。心はまた「行」と極めて一致した関係を持つものである。それゆえ、心に肉体が執着し、かつ肉体は心に固執するものである。更に、心に肉体が執着した場合、生命欲を齎す。生に固執して、いつまでも生きていたいと思う。

 この生の固執は、死した後も固執する意識が強い場合は、未練となってこの世に留まり、地縛霊となってその場に留まるか、地上を浮遊して未練の執着するところを彷徨うことになる。浮遊霊である。
 陽の霊魂の「魂」は肉体が死ぬと、上昇して上焦である泥丸部から外に出ようとするが、陰の霊魂である「魄」は死した後もこの世に留まろうとするのである。それがまた「心」という意識体である。

 肉体は生まれでるとき、陰陽の霊魂の合体が起こり、これは生命の火を灯すが、肉体は死ぬと生命の火は立ち所に消える。そして此処で陰陽の霊魂は分離を始める。生きている間が、魂魄ともに併せ持つが、死ぬと魂魄は分離し、魂は天に向かって外に出て、魄は地に向かって此処に留まろうとする。

 魂は浄化を求め高い地へと向かうが、それは低地とは異なる高地へと向かう。つまりこの高地が山である。魂魄は、比重的に検
(み)てどちらが重いかは、その人に人生の生き具合による。生き態(ざま)による。
 懸命に生きた人、人生を疾風の如く駆け抜けた人は、その人の魂は浄化し、昇華を目指すから魂の比重は断然大きくなる。

 ところが、魂が昇華も浄化も求めず、この世に未練を引き摺りつつ固執するような、何かに溺愛するような生き方を選択した人は、魂より、魄の方は断然比重が大きくなる。
 魂魄の何
(いず)れが大きいか、人によって違うのである。肉体に固執する気持ちが大きければ魂魄は共に肉体へと、未練を露(あらわ)にするだろう。意識体は、死した後にも心に結びついて生きることに執着を示すだろう。死者は浄化が望めないままこの世に未練を引き摺るのである。

 日本には「霊場」と言われるところが多くある。
 霊場は魂魄が集まるところである。それはまた死者の心が集まるところでもある。
 一般に霊場と言えば、神仏の霊験あらたかなる土地とされている。
 また一方で、神社・仏閣などのある神聖な地とされ、霊地とか霊境とか霊区などと言う。
 こうした場所には、背後に山があって、前方に川か滝が流れているところが多い。あたかも山水画の思わせる風景である。霊場は、また自然が作る一幅
(いっぷく)の名画を思わせる境地でもある。

 山水画の中には、『山水順逆の理』が説かれている。
 これは大自然の山水の流れから来ていて、この逆では霊魂が成仏できないとされているからである。背後に山を控え、川の畔こそ、あるいは滝
(滝は流れて「川」をなす)の畔こそ霊魂の安住の地であり、またそこが南向きになっていることが霊的パワーを最大値にすると云われているからである。

 「山」は三画で、陽の基本数であり、また「川」は四画で陰であり、陰は「死」を顕す。したがって死者を弔うには「山水の理」に適
(かな)っていなければならないのである。
 これは水によって魂と心が結びついていることを顕す。また、水によって分かれも持っている。
 しかし、魂と心がいつまでも結びついて分かれたくない場合はどうなるのだろう?……。

 死後も、魂と心が一体化されていて、その意識が存在しているとするなら、死者と生者を隔てる基本的条件は、ただ肉体が有るか無いかになってしまう。
 そうなると、これはどういうことか?……。
 人間が魂と心だけで肉体を形成することが出来るのなら……、人は死後も魂と心は固く結びついてある種の形をもって、この世に存在していたことになるが、この存在こそ「神」と云われた祖霊ではないのか。

 原初の人間に、死者も生者と同じように、この世に存在していた古
(いにしえ)があったのではないか?……そう思うときがある。
 古代人は、そうした澄んだ姿を有していたのではないか。そして霊的存在を生者でありながら、死者と同じ意識を持ち、伴に生活の中に取り入れていたのではないか。
 ゆえに先祖と言う守護神とともに暮らし、また先祖も子孫末代の守護神になり得たのではないか。
 それを克明に物語っているものが、生者が執り行う神祀りであった。神は現世ご利益を目論んで願掛けるものでなく、崇
(あが)めるものである。

 人は、深層部に霊魂を持つ。肉体の他に精神的実体である霊魂を持つ。魂などとも称される。
 それは人の体内に存在していて、精神及び生命を支配し、人格的、非肉体的なる存在とされる。
 したがって、病気や死によって、時として霊魂が身体から遊離した状態が、また霊魂であるとされ、他にも霊媒によって他人にも憑衣し、それは浮遊したり、あるいは地縛状態であるともされている。

 人の魂は、また高い山などに宿り、山は古代より神の住処
(すみか)だとされて来た。
 高山には神が居る。
 山こそ、神の宿る場所であり、また古代人は神を先祖霊などとも考えて来た。高山の岩に宿り、石にも宿るとされ、その実体こそ祖霊であるとして来た。
 死者の魂が高山の登れば、それは浄化され、昇華される状態とされ、これが遠い昔の祖霊であるとされて来た。祖霊は高山に登り、後世の子孫をその位置から見守るのである。



●先祖の涙と瞑想

 よく世間では「供養」と云う言葉を耳にする。
 この供養は、多くは先祖の供養を指す。そして苦闘と云う言葉を額面通りに受け取って、先祖供養を外に求める。
 ところが、先祖は外にはいない。自分の裡側
(うちがわ)にいる。自分の背後にこそ先祖は鎮座しているのである。したがって、外に求めて拝んでも意味がない。拝むなら、自らを拝まねばならないのである。

 今の自分の背後にこそ先祖は居り、また自身が血の中にその遺伝を受け継ぎ、先祖そのものと言えるかも知れない。
 外に先祖を求めるのでなく、裡に先祖を求めなければならない。

 世間の通例としては、先祖供養などと称して、どこやらの寺の坊主を引っ張り出して読経を上げて供養擬きをする。だが、これは少しも先祖の供養になっていない。
 裡側を蔑ろにして、外にばかりを追い求めているからである。
 そもそも先祖霊は、自らの裡
(うち)にいるのである。先祖霊を外に求めるのはお門違いである。このお門違いをしたところで、少しも供養にはなっていないのである。

 彼岸の命日には外ばかりに向けて供養するのでなく、自分の裡も供養する必要がある。自らは先祖の魂を背負って生きているのである。生かされているのである。
 いま自分がこの世に居るのは先祖が優秀であったからだ。
 先祖の魂が不良ならば、既に何代か前に血統は絶えている筈である。いま自分が居るというのは総て先祖の御陰である。
 外より内
(裡側)である。

 自分の裡側に眼を向け、自己を掘り下げることにある。自己を探求し、本当の自分と出会うことである。
 供養する先は、寺や墓にあるのではない。そういうものは便宜上の見掛け倒しの形骸である。したがって外にはない。

 むしろ、葬式坊主に成り下がった、この種の種属を金銭で富ませるばかりである。
 供養の儀式が立派でも、中身はちっとも立派ではない。供養・供養……と言うが、むしろ貧弱であり、「その程度」となる。
 昨今は法力を持った僧侶など、数えるほどしかいないのである。

 そこで裡にいる先祖と、どう向かい合うかである。
 人間の子供、特に幼児期の子供は無邪気である。この無邪気さは、邪がないことを指す。したがって一番、理想的な仏性に限りなく近いのである。それゆえ心に歪
(ゆが)みがない。無垢である。穢(けが)れすら知らない。

 だが、十年、二十年、三十年、四十年、五十年、六十年と生きて穢れ、その垢に塗
(まみ)れる。
 更に七十年、八十年と生きて、修行していない人は暗い固定観念と、思い込みから起こった先入観を引き摺っている。その中には先祖の性格をそのまま引き摺り、それが自己の一面をなしている。この性格こそ、先祖の遺伝情報であり、また過去世
(かこぜ)の習気(じっけ)である。これが自らの生き態(ざま)に混じり、先祖を背負った自らの生活スタイルになっている。
 自己の先祖が表現されているのである。考え方や行動律にも先祖が表現される。

 つまり自己とは、自らの生きた肉体を借りた表現型なのである。
 この表現の中に長年生きて来た俗世の垢が混じり、無意識のうちに先祖を表現しているのである。そして先祖の一面を引き摺っている。その場合、大半は先祖の恨みや妬みや嫉
(そね)みなどである。多くは悪想念である。

 これは何も高齢者だけとは限らない。
 情報過多の時代、もう若い頃からこうしたものを引き摺っている人間が少なくない。

 もう過去を消去できないくらい悪想念が纏い付いている。
 普通、こうした悪想念を放置したまま歳を取るのが大半である。

 だが、真摯に先祖の供養をしようと思うのなら、まず自らを謙虚にし、かつ空しくしなければならない。空
(くう)の意識を持たねばならない。この意識を育むことは容易ではない。
 難しいが避けて通れない。

 まず作業の開始は自らを空しくすることである。虚空に戻ることである。
 俗事の物事に妨げられない一切空の清々しさに立ち返り、一切の事物を包容してその存在を妨げず、「あるが儘」の心境に至ることである。
 これが作業開始の心の準備である。

 あるが儘の自分を瞑想によって感じ、この状態を維持しつつ、自分の過去に遡
(さかのぼ)ることである。自分の過去の調査である。自分の過去には先祖が絡んでいる場合が少なくないからである。
 過去を調べると必ず悪想念に行き当たる。自分の過ちに行き当たる。自分の過ちは、また親や祖父母かも知れないし、もっと以前の曾祖父母かも知れない。更に古くはそれ以前の先祖まで帰ることがあろう。

 自分の中に先祖がいる。
 自分の中の先祖に対して悪想念の原因となっている妄想を一つずつ解
(と)き解(ほぐ)して行くのである。これを瞑想によって行う。
 縺
(もつ)れた糸を丹念に解き解して行くのである。
 そうすると、自らの心の歪みに突き当たる。

 これは一種の自己反省によって行う作業である。この作業は妄想の追求である。自己の冥
(くら)い固定観念になってしまった心の歪みの修正である。その冥さの中には過去の恨みや妬みや嫉みなどが含まれている。これを取り払うのである。
 つまり心身の健康を復活させるために、自らの裡側を内観するのである。

 先ず自分の裡側に、昏
(くら)い翳(かげ)りとして籠(こも)っている過去を浮き上がらせて行く。過去を追想するのである。
 ひたすら記憶を辿り、過去へ過去へと戻る。
 もし現在50歳とするならば、この年より一ヵ月前、二ヵ月前、三ヵ月前、半年前、一年前と順に過去へ遡るのである。そして更に過去へと遡る。二年前、三年前、五年前、十年前と遡って行く。ありったけのことを思い出し、追憶するのである。
 そして瞑想を繰り返す。
 こうして過去へ過去へと遡
(さかのぼ)ると、壮年期から青年期、青年期から少年期、少年期から幼年期へと逆を追って遡って行く。

 就業するまでの学生時代に遡り、大学、高校、中学校、小学校、幼稚園の年代を区切り、その間における父母の記憶にまで遡る。
 更に乳幼児の頃まで思い出せるだけ思い出し、両親、祖父母の次元の、自分が世話になった想い出……。自分が他人に迷惑を掛けた過去の出来事……。
 若気に至りなどを出来るだけ克明に辿って行くのである。

 特に重視しなければならないことは、自分が世話になったこと。自分が恩返しをしたか否か。他人に迷惑を掛けたことの三点を出来るだけ詳しく振り返るのである。
 それは親、兄弟、姉妹に対しても同じである。また、祖父母や学校の教師、友人なども同じように顧み、職場では同僚、先輩、上司、部下も同じである。自分を取り巻いていた人の悉くに就いて調べて行くのである。

 こうした想い出は、思い出すとともに「若返って行く自己」に気付く筈である。
 益々若返り、幼児少年期に戻ると、子供の頃の素直だった自己を再発見する筈である。純真な心を持ち、素直で誠実で、正直で従順だった頃のことを記憶の中で探し出すのである。
 そして気付くことがある。
 それは自分が身の周りの人に対して、「如何に借りが多かった」ことに気付かされるのである。
 人間が生きている言うことは、それだけ他人に大きな借りを作って来たかと言うことである。その借りの中で、自分は生かされて来たのである。生かされている存在だったと言うことに気付く筈である。

 人間は自ら一人の力で生きているのではない。自力で生きていると思い込んでいても、何処かで他力に生かされているのである。
 この他力に生かされ、今の自分があると言うことは、則ち、自らが努力する「他力一乗」なのである。
 自分だけが誰の世話にもならず勝手に生きて来たのではない。そう思い込んでいるならそれは大変な間違いをしているのである。
 先ずは自分が生かされていることに感謝し、懺悔
(さんげ)の涙をこぼしてもいいのである。そして、この涙が自分の姿を借りた先祖の涙かも知れない。
 まず、此処に気付かねばならないのである。




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