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うまく死ぬ法 5

生命の火が、今まさに消えんとする時機、そこには死の兆候としての「死相」が顕れる。

 古人はそのように云った。解くに霊能力のある者は、人の死相を読むことが出来た。
 それは不可視世界の出来事としての死相の顕われとしては、眼等にその暗示が顕われ、経絡上の経路としては、太陰→少陰→厥陰→死の順に顕れる。古人はそのように感得していた。

 ところが、現代は違う。
 現代人は医学の進歩により、人間が「人の生命」までもをコントロールし始めた。そして人の生死まで左右する、生殺与奪の権まで握ってしまった。
 だがこれは人間の思い上がりであろう。科学的なる科学を信仰する現代人の思い上がりに過ぎない。


●過去世の支配

 人には“持って生まれた定め”というものがある。
 それは「習気
(じっけ)」という過去の習性を引き摺(ず)っているからだ。そして習気が、その人の性格を形作る。性癖を作る。
 また、性格によって欲しい物を手に入れようとする。そうしたことが通用する世界が、また現世という“この世”である。

 この世には人間が棲
(す)んでいる。
 人間の肉体はこの世でなければ棲むことが出来ない。この世に棲むことによって、人間はその人の人生を全
(まっと)うする。運命を全うする。

 人間の運命……。
 それは喜怒哀楽の中でダイナミックにうねり、時には蠢
(うご)くものである。あたかも腸の蠕動運動を髣髴させるが如きである。時には収縮波が起こり、移動する動物を思わせ、あるいが時に、突如うねりを起こす。大きく波打ち、波調の長い並みとなる。これは人生の中のダイナミックな運動となっている。
 そして、人間はこの運命の陰陽に支配されて、人生を喜怒哀楽のうちに過ごす。

 しかし、運命の齎す喜怒哀楽は人間の力ではどうすることも出来ない。遵
(したが)うしかないのだ。そして遵う以外、個人の力ではどうしようもないからだ。
 運命に任せ、あるいは運を切り開くと称して、結局は自力努力が報いられずに終わることが多い。運命の渦に巻き込まれ、その中で掻き回されて、多くは朽ち果てて行く。

 生・老・病・死……。
 人間はこの数直線上を辿るようになっている。
 特に、死ねばそれでお仕舞よ……と考えている者にとっては、まさにその数直線の先きが断崖絶壁であり、そこから意識体は死の谷に向かって顛落
(てんらく)して行く。

 死ねばそれでお仕舞よ……という発想と思考は、まさに「数直線上的」発想であり思考である。
 だからその先きがない。生・老・病・死は再び循環しない。
 何故なら、死ねばそれでお仕舞よであるからだ。

 この世に生まれ落ちて、生きながら老いる。老いて病気を患い、その究極に死が待ち構えている。そして死の先きは、数直線上の思考通り、断崖絶壁であり、循環しない、断絶された死が待ち構えている。
 だから“死ねばそれでお仕舞”なのだ。
 これこそ循環しない“生き態
(ざま)”である。永遠の死である。循環しない死であり、生であるからだ。永遠の六道の中に迷い込むことになる。死ねば、それでお仕舞いだからだ。それ以上に何もなく、それから先も何もない。迷える輪廻を繰り返すことになる。

 こうしたものは“1回限り”である。再生することはない。死ねば、それでお仕舞いだからだ。
 したがって、再生されない老いも恐ろしい。ボケてもそのまま悪化する。そのままの意識体で、もう再生しない。蘇
(よみがえ)らないのだ。

 老人の脳髄はそのまま退化して行く。再生しないからだ。再生しないので脳髄は萎
(な)える。つまり、「年を取る」ということは、そういうことである。
 潤いを失うのである。

 一方で、水気を失い、加速度的に萎
(しぼ)んでいく。
 萎んだ後の皺
(しわ)も、浮き出たかさかさの肌も、水気が全身を覆うことなく、また一方で脳髄も潤いを失って萎え、更に意思の力が消えて行く。

 絶え間なく、加速度的に拡散する意識を必死でつなぎ止めようとしても、潤いが失われ肉体を構成する随分も失われるのであるから、その喪失はやがて姿勢までもを奪って行く。そうした状況に追い込まれるのが老齢期であり、その種の死を目前に控えることとなる。
 執着し、こだわり、拘泥
(こうでい)することは、生き方は狭くなるばかりでなく、萎縮(いしゅく)してしまうようである。

 それから解脱するには、この世に余計なものを引き摺らないように身辺を整理しておく必要がある。綺麗さっぱり、簡素にして執着しない心構えとともに、心を鍛練しておく必要がある。
 他人にどう思われようと気にしない。
 他人を恨むことも妬
(ねた)むこともない。憎悪などは金繰(かな‐ぐ)り捨てる。みな掃き捨てる。
 そして負のエネルギーを貯え、来るべき死に具える。
 死んで逝くと言うのは、生のエネルギーである生命力を焦すことでなく、死ぬためにエネルギーの向かう方向を負に切り替え、マイナスで考えて行くのである。



●平穏な退屈を捨てる

 人間は死期が、三年前後に近付いて来ると、語るに墜
(お)ちた“愚痴”“厭味”“皮肉”などを言い始める。こういう発言が多くなると、死期が近いことを顕す。
 これまでの観察で、人間は死ぬ三年前後を考えれば、ここにこうした症状が現れる。人間の醜態はこの時に現れる。

 かなりの人物でも亡くなる日から逆算して、約三年前後に下手を打って失敗した生き態
(ざま)を晒(さら)すことが少なく無くない。それは自分の肉体の衰えに気付かないからである。また、頭のボケに気付かないからである。
 老いれば、判断が鈍り、そのタイミングを外してしまうからである。この時期に醜態を晒す。

 古道歌に、「死するべき時に死なざれば、死するに勝る恥辱あり」と教えているではないか。
 ただ長生きするばかりが能ではあるまい。

 高齢者ほど我が儘
(まま)になり、愚痴な小言などの、この種の言葉が多くなるのである。
 一旦は無私無欲に徹して人生を邁進した人でも、老後に金や物や色に執着する人がいる。こうした人の脳には、著しい老年性交替変化が見られる筈である。人格が一変したというな印象を与える。こういう場合は、間近に死があるのである。そのうえ昔とは打って変わって、人格が低下し、後退しているのである。
 斯
(か)くして周囲から嫌がられるようになる。

 こうした老いて嫌がられることは、老いが「孤独」であることを知らないからである。
 老いると言うことは、孤独に徹することである。孤独に徹することが出来ないから、その先に待ち構えているものが怕
(こわ)くなる。孤独に徹すれば何も怕くないのである。欲望も捨てれば、それから先は軽々と生きられる。老境人生は欲望を捨てて、精神に立ち返ることである。肉体に固執する老後を送ってはならない。

 更に、老後を退屈で過ごしてはならない。老境人生で遣らなければならないことは沢山ある。
 平穏な人生での中での退屈は種々の妄想を生む。そして人間は、退屈するとろくなことを考えない。
 思う通りに運ばないのが人生である。また、逆に思い通りに運べば、人生は退屈以外の何ものでもない。
 何事も思い通りにならない……。この意識があってこそ、退屈を除去する闘志が生まれるのである。

 人間は死ぬまで闘わねばならない。闘い続けなければならない。退屈を駆逐するためにも、始終闘い、行為を為
(な)して行くのである。
 しかし、老境人生に必要な闘志は、肉体を酷使する事でない。
 若い頃は、何らかの肉体的苦痛に堪えることで人間は成長する。
 ところが、老人はそうはいかない。肉体酷使でなく、心を鍛練して死の具えることである。死と向き合うことである。

 老いた肉体は、自力移動できる体力と、巧みな話術の話術力と、危険を防禦
(ぼうぎょ)できる防禦力と、更には元気に働ける躰と、学べる体躯だけを養っておればいい。若者同様に、酷使する必要はないのである。また、そう言う肉体は不要である。
 肝心なのは首から下ではなく、首から上なのである。
 そして思い通りにならない世の中と抗
(あらが)うことだ。
 それによって退屈が消える。頭を遣うから、退屈など消し飛ぶ。

 死と向き合えば、平穏な退屈は消えるのである。
 そして、老いても未だ元気なうちにしておかねばならないことがある。それは沢山ある。働くこともそうであるし、学ぶこともそうである。
 それと同時に、これまで以上に心を鍛練して、「我慢する力」を養っておかねばならない。

 人間の人生の経路は、生・老・病・死である。その中でも、老いと病は同じ処で同居している。老いとは病むことなのである。
 老いれば必ず病む。
 故に、我慢する力を養っておけば、近い将来、重病になって、その苦痛と闘わねばならない時期が遣って来る。病気との格闘に、我慢する力は大事なのである。

 末期病の多くは、薬の力も及ばない苦痛に見舞われることがある。その時に頼りになるのが我慢する力である。
 元気な時から苦痛から逃れることばかりを考えていたら、いざ、その時になって七転八倒しなければならなくなる。筆舌に尽くし難い断末魔を味わうことになる。それが困るのであり、恐ろしいのである。
 この恐怖に勝つためには、まず元気な時に我慢する力を養っておくべきだろう。心の鍛練である。

 こう言う薬があるのに……、こういう治療法があるのに……などの安易な口車に乗って、それに乗ると、結局最後は七転八倒しなければならなくなる。自らの意識体は断末魔を体験することになる。
 我慢する力を養うのは、より善き死を得るためである。

 老いて、病んで、この期
(ご)に及んで“手遅れになる……”などの要(い)らんお節介が、そもそも無用なのである。
 老いとは、もう既に肉体的には手遅れ年代である。ここから二十年前、三十年前、四十年前の若い頃の姿には戻れない。肉体構造が若い頃とは違う。老朽化したものが新品になる訳がない。
 どう若作りして見ても、酸化してしまった土台は繕
(つくろ)いようがなく、隠せようがない。土台が老朽化し、酸化してしまったからである。
 老いとは、肉体的から精神的へと移行した、病と同居する年代である。

 我慢する力……。耐える力……、そして誘惑に唆
(そそのか)されない力……。
 養っておけば、決して無駄な頑張りではないだろう。
 老齢期こそ、心の鍛練と修行に、またとない時期なのである。
 生きながらに即身成仏になる……、この修行は、実は心の鍛練と同義だった。



●即身成仏を考える

 先にも少し述べたが、生きているうちに仏となる。これを即身成仏と言う。

 さて、死を考えれば、死ぬことは誰でも厭
(いや)である。これは老若男女を問わず同じである。誰もが死にたくないと思う。

 死ぬことは怕
(こわ)く、然(しか)も恐ろしく、死後の世界は冥界(みょうかい)と言われるから、地獄を意味する。そういう恐怖が頭を悩ます。死を嫌う理由である。
 そして六道のうち、地獄・餓鬼・畜生の三悪道を指し、冥土とも言う。

 冥土……。
 何とも厭な言葉である。
 死者の霊魂が迷い行く道である。また、行きついた暗黒の世界を意味する。迷い込んだ挙げ句の闇
(やみ)の世界だ。
 また、冥界は迷界
(めいかい)ともいわれ、有情(うじょう)が流転する境界を指す。仏界とは正反対のところにある。そして、此処に顛落する者は多いと言われる。

 そのために心の鍛練として、生きながらに仏に成るという「巧い死に方」がある。
 生きているうちに鍛錬をして、心を修養し、成仏していたら、もやは死を超越した次元に達するから、死んでも少しも怕くない。
 そのために修養の道を志す。

 しかし生き態
(ざま)を能(よ)く活かし、死に態をより荘厳にする信仰というのは、世の中にそうざらにあるものではない。
 これは単に、何れかの宗教に帰依して、信心したとしても解決するものでない。他力本願を期待して、それで縋
(すが)れば成仏すると言うものでもない。しかし方法はある。
 生きながらに即身成仏する方法はある。



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