運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
うまく死ぬ法 1
うまく死ぬ法 2
うまく死ぬ法 3
うまく死ぬ法 4
うまく死ぬ法 5
うまく死ぬ法 6
うまく死ぬ法 7
うまく死ぬ法 8
うまく死ぬ法 9
うまく死ぬ法 10
うまく死ぬ法 11
うまく死ぬ法 12
うまく死ぬ法 13
うまく死ぬ法 14
うまく死ぬ法 15
うまく死ぬ法 16
うまく死ぬ法 17
うまく死ぬ法 18
うまく死ぬ法 19
うまく死ぬ法 20
うまく死ぬ法 21
うまく死ぬ法 22
うまく死ぬ法 23
うまく死ぬ法 24
うまく死ぬ法 25
うまく死ぬ法 26
うまく死ぬ法 27
うまく死ぬ法 28
うまく死ぬ法 29
うまく死ぬ法 30
home > うまく死ぬ法 > うまく死ぬ法 4
うまく死ぬ法 4

半世紀ほど前は帝王切開など無い時代だったから、難産の場合は大変だった。生まれでた胎児が死んだり、あるいは産婦が死亡することもあった。

 ところが、現代は難産でもないのに関わらず、帝王切開を受ける妊婦がいる。

 理由は、九星気学や四柱推命の占いによって、あるいは病院の方位の関係によってと、科学的と云う言葉を豪語する時代にありながら、実に非科学的な理由で、帝王切開を受ける妊婦がいると言う。
 これは難産の為でない。
 妊婦とその夫の指向の問題である。趣味の域の問題である。
 自然が見失われた時代である。


●人生のけじめ

 人は生きて死ぬ。
 ただそれだけの現象界で、人間が生きて、そして死んでいく。死に方はいろいろあるが、最後は必ず死ぬ。
 だが、死ぬ時に人間は生まれて来る以上にその死に方を問われるものである。

 生きている間、如何に生きたらいいかだけを考える。出来るだけ、楽に効率よく、人から幸せと羨ましがられるような生き方をしたいと考えるのが、人情と言うものである。
 常に他人より先んじる事だけを考え、他人の幸せなど二の次になる。
 人はみな自分が可愛い。自分を最も楽に、甘えさせようとする。

 だが、一方で自分を大事にしている者は少ない。
 何故なら自分を大事にすると言うことと、自分を甘えさせるという甘えの構造の中に身を置き、それを同義と思い込んでいるからである。
 人は自分に甘く、他人に厳しいものであり、また自分を過大評価して他人を過小評価すると言うのが人間の常である。
 この世に他人を甘く見たり、見下したりする者が何と多いことか。
 要するに自己への厳格と裏返しになったものが、自分への甘えでなかったか。

 単に甘えの中に居て、その迷宮で順路の道順を迷っていては、やがては死ぬ時の死に態
(ざま)を悪くするだろう。
 死に態をよくし、その間際、如何に死ぬかが難しい。

 生きるだけ生きたら、後は「お任せ」して死ぬだけである。死ぬ時は、天に任せればいい。死に急ぎすることもないし、執拗に生に縋
(すが)る必要もない。
 生きて死ぬだけ。後は任せるだけ……。
 そして死ぬ時が来たら、死から逃げ回ることもなく、ただ死んで逝けばいい。それでこの世での死生は総て解決する。

 死に際して、死神が顕われたら、黙ってその後を蹤
(つ)いて行けばいい。従えばいい。他に何処へ行くことがあろう。
 だが、この単純明快なる結論が、一度実践するとなると、それの何と難しいことか。
 何故なら、死ぬには大変なエネルギーがいるからである。人間は死のうと思って、簡単には死ねないのである。死ぬ時に多大なエネルギーを必要とし、そのエネルギーをもって死を致さなければならないからである。

 死を致すとはそのように凄まじいエネルギーを必要とし、この世の未練を綺麗さっぱりと断ち切って行かねばならないからである。これが生との訣別である。

 一口に「生との訣別」と云い退ける。
 だが、この訣別は人生の「けじめ」であるから、これを全うすることが実に難しいのである。

 人生のけじめ……。
 それは人生の総決算であろう。
 人生の貸借対照表の辻褄
(つじつま)を合わせ、帳尻を合わせなければならないからである。
 また生きているうちは、中々死と向かい合おうとしない。
 特に若ければ、そう言う気が起こらない。まだ先は長いと思う。
 しかしそれは思い込みに過ぎない。光陰矢の如しである。盛年重ねて来らずである。
 死は、人生の直ぐ先に控えているのである。

 現代人の多くは、誰もが死と無関係に生きているように思う。死は自分に関係ないと思っている。死があったとしても、それはまだまだ先のことだと思っている。
 それゆえ、生きる覚悟として死を意識しないのである。
 かくして「人生のけじめ」は疎
(おろそ)かになってしまうのである。

 一方、生を考えるのではなく、何によって死のうか?……と考えた場合、死と向かい合う目的が明確となって来る。
 死と向かい合い、死に対して瞑想する。
 その瞑想に、死の目的が歴然として来る。死ぬ何かが明白となるのである。

 また人は歳を取れば、つい残り時間を考えてしまう。
 死が、そんなに遠くないからだ。
 濃厚な時間は、決して無駄遣い出来ない。慎重に遣わねばならない。
 だから、無駄死になど出来ない。死に尊厳がなければならない。犬死には禁物である。
 歳は老いているとはいえ、残された時間を有効に使って、くたばらねばならない。愚行なる犬死には禁物である。確
(しか)とした死に態を全(まっと)うしなければならない。

 したがって、旅に出て行き斃
(だお)れとなり、そこで潰えるような死に方であってはならないのである。行き斃れでなく安らかに土に入りたい。死に方は、有終の美で飾る死に方でなければならない。死に方が輝いていなければならない。生きた証(あかし)が輝いていなければならない。願うばかりだ。運が良ければそうなるかも知れない。

 華々しい、勇ましい死で無くてもいい。ただ、必ず有終の美でなければならない。醜く死んで行ってはならない。無態に死んで行ってはならない。殺されてはならない。そう言う死に方は無残だ。
 確実に生き、確実に死ぬ……、そんな死に方でなければならない。

 恥多き、卑怯・未練や拘泥
(こうでい)を引き摺るような死に方であってはならない。この世にこだわり続ける死に方はいけない。
 そもそも生き方に「恥多き事柄」が充満していた。
 ゆえに死ぬ時こそ、恥は雪
(そそ)がなければならない。自分の死に納得したい。
 この世に思い残すことは何一つない!……という毅然
(きぜん)とした態度の、完全なる成仏の死に方でなければならない。
 間違っても、臨終をしくじって、不成仏に終わり、この世に居残って、地縛霊
(じばく‐れい)などになりたくはない。無神論者でないから成仏したい。

 一方で、土壇場に来て、死に方をしくじる人が居る。
 臨終をしくじる人が居る。
 この世に、未練を残して死ぬ人が居る。
 その未練は、金銭や財産であったり、権力や地位であったり、妻子であったり、食べ物であったり、あるいは妾
(めかけ)であったりする。
 こう言う人が死ぬとき、さぞかし後ろ髪を引かれる思いで死んで逝くだろう。心残りで、すんなりと死ねないだろう。

 こういうものに未練を残して死んで行く場合、大抵、死に方に迷いが出て、臨終をしくじるものである。臨終をしくじれば、そのまま不成仏とならなければならない。
 金・物・色が猛威を揮う現代の世では、不成仏となって死んで行く人は意外と多いようだ。

 確かに成仏したと思える人は少ない。現代では非常に少ない。
 不成仏の場合、この世に未練を引き摺るからだ。未練は地を這って、地縛となって縛り付けられる。
 人生の一番最後に迎える臨終は、単に息を引き取るだけの行為でなく、確かに死に、臨終に本懐を遂げることにある。

 「成仏」とは文字通り、“仏
(ほとけ)に成(な)る”ことをいう。
 煩悩
(ぼんのう)を断じて、悟りを開くことをいう。成仏道あるいは得仏をいう。
 また、成仏得脱という言葉がある。
 これは仏となり、煩悩
(ぼんのう)ならびに生死など総ての束縛から解放されることをいう。
 本当の自由をいう。

 一方、これに反して「不成仏」という言葉がある。これは仏に成れなかった魂のことだ。
 解脱出来なかった魂のことだ。現世の苦悩から解放されなかった霊のことだ。自由を失った霊魂である。
 絶対自由の境地に達することが出来なかった霊魂である。煩悩を断じて、絶対的な静寂に達しえなかった霊魂である。

 此処で論ずるのは、霊魂の有無ではない。霊魂があるかないかではない。この世への未練の意識である。成仏と不成仏について説いているのである。
 不成仏というのは、今まで地獄・餓鬼・畜生の所謂
(いわゆる)三悪道(さんあくどう)に堕(お)ちる仏のことを言う。堕ちた仏を不成仏という。浮ばれない魂である。

 では、何故臨終に失敗するのか。しくじるのか?……。
 日本人の心の裡
(うち)には、まず、“中途半端な無神論者”の陰翳(いんえい)があり、もう一つは“中途半端な神離れ”の陰翳を宿しているからである。両陰翳は複雑に絡み付き、中途半端な仏教徒やキリスト教徒や神道神事の影を宿しているからである。

 無神論者になるならば、徹底して無神論者になるべきである。徹底して、神仏を否定すればいいのである。
 この世に神仏など存在しない、と。
 こう断言した以上それを信じて疑わねばいいのである。

 本来の無神論者というのは、まず死後の世界を完全否定している。
 更に人間の生き死にについて、生きている時だけが華であるから、その霊魂についても完全否定している。

 一般に言う「死ねばそれでお仕舞いよ」などという、中途半端な無神論者の、そうした曖昧
(あいまい)な考えすら完全否定している。人間に霊魂などない。人間は肉体のみであり、生物体であり、物体である。それのみを確かなものと感得すればいいのである。
 したがって、死後に行く世界もない。生まれて死ぬだけ。それを人間の正体と検
(み)ているのである。
 ところが思い込みに過ぎない。思い込みによって冥界
(めいかい)に迷うことになる。迷って、それでいいとしている。

 だから、死もまた彼等にとって重要ではない。死よりも、生きることに問題があるのである。生だけを相手にしている。
 だから彼等の心に神仏もなく、霊魂もないのである。心は脳にあると信じている。
 則
(すなわ)ち、脳の死が、死である。そこで一切は消えてなくなる。

 生物上の自我が存在するだけである。生物学上で言う、サル目
(霊長類)ヒト科の動物である。地球上に“新人類”と呼ばれる、現存種のホモ・サピエンスで、約三万年前に登場したクロマニオン人である。
 その生物上の自我が、死とともに滅亡するのであるから、彼等は決して死ぬ間際にも、神仏に願わないし、死後の世界というものは一切頭から否定している。

 この否定が、また地獄とか、生まれ変わりも存在しないから、存在しない物は信じず、自分の墓も否定し、死後、それがメモリアルに残ることすら喜ばないのである。
 臨終間際の千仏来迎
(せんぶつ‐らいごう)すらも認めず、信じず、期待もしていない。端(はな)から否定しきっている。
 ゆえに死ぬ間際の断末魔すらも信ぜず、そこで苦しむこともなく、妻子や財産や生命への執着もない。執着しない者は、とにかく最後が見事である。だから臨終すら失敗することが存在せず、完璧な無神論者は、見事なまでの死に方をする。

 ところが、中途半端な無神論者はこうはいかない。
 “中途半端な無神論者”は、また“中途半端な神離れ”しか出来なかった人である。
 中途半端な無神論者は、地獄とか、浄土の世界も信じていないし、輪廻転生する生まれ変わりも信じていない。臨終の際の千仏来迎も勿論信じていない。この点は、完璧なる無神論者の考え方と共通点を持っている。

 しかし摩訶不思議。中途半端な無神論者は、中途半端な神離れをしたため、口では神仏を認めていないくせに、先祖の墓参りはする。盆、彼岸、命日には親戚一同を集めて、必ず香を焚き先祖供養をする。

 結婚式では神前にぬかずくか、あるいは教会のチャペルを行進し、クリスマスイブには俄
(にわか)クリスチャン、大晦日には除夜の鐘を聴くために俄仏教徒、そして一夜明ければ、俄神道に成り済まし初詣をする。何とも、この変貌の様が凄まじい。
 入試には神社仏閣に詣でて合格祈願をし、合格したらしたで、お礼参り。
 家を建てる場合は地鎮祭をし、これらの総ては、何から何までご都合主義に彩られている。
 ここが、最も危ういのである。
 ご都合主義かつ中途半端な無神論者が自らの死に態
(ざま)を危うくしているのである。

 胸を張って「無神論者だ」と答えた人でも、わが子が山で遭難したとか、外国旅行に出掛けて人質にされたなどとなると、どうするだろうか。
 無神論者である限り、「どうか無事に帰って来て欲しいなどの祈りは遣ってはならないことだ。何故なら無神論者であるからである。無神論者は神仏にも、天にも祈ってはならないのである。

 また無神論者は、自分が年老い、死期が近付いたことを悟ると死について考える“死に方信仰”などにも熱を上げてはならない。死に方の有無は無神論者には必要ない。胸を張って「無神論者だ!」と言い張ればいいのである。
 しかし、わが子が屋まで遭難した、外国旅行でテロに巻き込まれ人質になったなどの故事事件に対して決して「無事でありますように」と言う祈りを捧げてはならない。
 これこそが無神論者としての態度である。

 だが、神仏は信じないくせに、占い師や祈祷師のお告げは真摯
(しんし)に受け止める。この摩訶不思議。

 これこそが中途半端な無神論者の最たる実態。豹変も甚だしい。
 今や“中途半端な神離れ”が猛威を揮い、異常化と畸形化を招いているのである。これは今日の老若男女を問わず、大方の日本人の心の裡を巣食っている感情ではあるまいか。
 ご都合主義は、ついに来るところまで来てしまったのである。

 故に、無神論者なのか。
 だから、中途半端な無心論者なのか……。
 緩急があるとき、備える準備は機能しないように思える。
 しかし、不確実性に対処することこそ、死に方においても、これに対処するのが人間の本質ではなかったのか。
 不成仏とは、人生の最後の最後の土壇場で失敗することだったのである。臨終を失敗すると不成仏になるのだった。



●人間の自然性

 無神論者か否かに関わり無く、生まれて老いての、死に至るまでのプロセスには、必ず病気と言うものが絡んでいる。
 病気は、何も老人だけは罹病
(りびょう)するのではない。幼児でも少年でも青年でも想念でも罹病することがある。そして罹病することが人間の自然であるなら受け容れる以外ない。

 例えば老境に入って運悪くボケた場合である。
 ボケ老人になった場合、これをどう考えたらいいか。単に運が悪かったと諦めるのか。
 しかし、ボケが来るのが自然ならば、それは素直に受け容れる以外ない。
 受け容れて、思う存分ボケればいい。

 ボケることによって、少なくとも死の恐怖は忘れることが出来よう。これだけで死の恐怖は消滅し、種々の妄想・妄念から完全に解放されるのである。
 こう考えれば、恐怖が消滅したのだから幸福とも言える。恍惚
(こうこつ)の中に彷徨う幸福である。
 そしてボケることは、最後に神の下さった慈悲であるかも知れない。それが慈悲ならば、遠慮なく受ければいいのである。何も辞退することはあるまい。

 考えてみれば、この世には辛いことや苦しいことが多々あった。辛苦の連続だった。
 それに比べて、楽しいことは如何ほどあっただろうか。
 果たして十分の一、百分の一、あるいは千分の一かも知れないし、もっと皆無に近いものであったかも知れない。思えば、この世は底辺の下級層にとっては苦海にも思えた。苦海で苦しむ連続だった。

 苦楽の両方を量れば、圧倒的肉に苦の方が多い。楽は僅かだ。微々たるものだ。
 それでも老境に辿り着いたというのは、幸運であり、その幸運の中には「これまで耐えて来た」という、耐えた幸運が輝いている。それは誇っていいものだ。

 苦闘の経験は、最後の最後の土壇場で、「最期の苦しみ」を耐える上で幾らかでも役に立つ筈である。
 臨終の刹那、「最期の苦しみ」が襲って来るとするならば、その苦しみすら耐えられる筈である。耐えた幸運は此処でも輝いている。最後の臨終際に遣う切り札あった。
 それは、あるが儘に受け容れることであった。それが臨終に際しての覚悟と言うものである。そして臨終に際しても、人間の自然性は働いているのである。
 自然性は苦闘の経験者には、より善き死を齎すものである。



  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法