運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
うまく死ぬ法 1
うまく死ぬ法 2
うまく死ぬ法 3
うまく死ぬ法 4
うまく死ぬ法 5
うまく死ぬ法 6
うまく死ぬ法 7
うまく死ぬ法 8
うまく死ぬ法 9
うまく死ぬ法 10
うまく死ぬ法 11
うまく死ぬ法 12
うまく死ぬ法 13
うまく死ぬ法 14
うまく死ぬ法 15
うまく死ぬ法 16
うまく死ぬ法 17
うまく死ぬ法 18
うまく死ぬ法 19
うまく死ぬ法 20
うまく死ぬ法 21
うまく死ぬ法 22
うまく死ぬ法 23
うまく死ぬ法 24
うまく死ぬ法 25
うまく死ぬ法 26
うまく死ぬ法 27
うまく死ぬ法 28
うまく死ぬ法 29
うまく死ぬ法 30
home > うまく死ぬ法 > うまく死ぬ法 3
うまく死ぬ法 3

人は、生まれる時が来たら生まれる。
 古人は、よくこう言ったものである。人工的に陣痛など起こさなかった時代のことである。そのことだけ知っておれば、少々予定日が過ぎても苛立つことは無く、年老いた婦人の言に従っておれば、生まれる時が来れば生まれたものである。人はみなこうして生まれて来た。

 年老いた婦人たちは、既に自身の出産の経験によって、人間の肉の眼には知り得ぬ、大自然の摂理の大きな存在を知っていたのである。それが、人は生まれる時が来たら生まれる……という言葉だった。

 この言葉は、一方で人間の無力を悟る言葉でもあった。だから「お任せする」のである。大自然にお任せするのである。それは神仏にお任せすると言うことと同義である。


●妄想莫し

 老いれば、あとは死ぬだけの余生では情けない。これでは巧く死ねる訳がない。
 同じ死ぬにも、死に方がある。
 いいように、より善き死に方でなければならない。断末魔を感じて、悶
(もだ)え苦しんで死んでも、これでは死の態(ざま)が悪い。成仏できない。
 死に態を良くし、巧く死ぬには、まず騒音から解放され、静かな安らかな環境造りが大事である。

 安らかに死に就けるような環境を構築し、あとは一切を任せるという、大らかな自然に寄り掛る安堵
(あんど)と安住を得ることである。
 そして安住を得るには、種々の欲望から解放され、それを抑制する気持ちを持つことである。

 しかし、欲望を抑制することは容易ではない。このことが難しいのは承知の上だが、それでも欲望を徐々に減らすことは大事である。
 その第一は、生命欲である。生命にこだわる頑迷な拘泥
(こうでい)は捨てることである。

 死を研究し、死に臨むものが欲望に振り回されては話しにならない。未練を増幅するだけである。
 未練の増幅は、邪念に結びついてしまう。そこに邪智が忍び込んで来る。邪佞
(じゃねい)が蔓延(はびこ)ることになる。欲に諂(へつら)う気持ちが大きくなる。
 邪
(よこしま)な肉体欲を持つと、正常な死を狂わす邪道に踏み入れてしまう。
 先ずは妄想莫
(な)しの「莫妄想(まくもうそう)」に至ることが大事である。

 老いて過剰な肉体の欲を持つことは禁物である。
 死を悪と考える現代は、老いの謳歌
(おうか)を奨励しているように映る。
 諦念
(ていねん)を乱すのが「死を悪」と考える考え方である。
 世間では、若者に対して「老人のセックスに理解を持ちましょう」など馬鹿げた事をほざいている。こう言うことを若僧から論
(あげつら)われて、憤怒(ふんぬ)の気持ちを抱かない老人も老人である。
 現代の老人は、これほど馬鹿になってしまった。

 老人は馬鹿にされる対象である。長老としての権威がない。
 馬鹿にされるから、老人には権威が失せたのである。
 権威無しで、より善き死などありようがない。
 長老が、大樹が倒れるようにして死ぬ死は、老いてもなお、権威が存在する場合である。

 おいた老体に鞭打って、仕事をして働くなら未
(ま)だしも、「老人もセックスせよ」とは何事か。
 人間には「精禄」というものがある。

 精禄は老いるに遵
(したが)って涸(か)れるように出来ている。涸れて当然の作りになっている。
 この精禄は若者の場合、セックスと生殖のために浪費される。尤
(もっと)もなことである。
 ところが、老いては、精禄はセックスのためにも遣われないし、生殖のためにも遣われない。
 死ぬ準備をするために遣うのである。
 生命に焦
(こが)す火を絞り込み、その火を弱めるために遣うのである。

 人間は臨終間際、水を欲しがる。これを「末期
(まつご)の水」という。
 この水は、人の死のうとする時、その口中に含ませる水である。
 自然死は、先ず下焦
(かしょう)の会陰(えいん)が閉じられる。次に生命力(生命の火)は中焦(ちゅうしょう)に至り、任脈上の神闕(しんけつ)・水分(すいぶん)……建里(けんり)・鳩尾(きゅうび)……を通って上焦(じょうしょう)へと至る。更に上焦のブラフマ(ブラフマン/頭頂部の泥丸域)の開き口から生命の火は昇華を促され体外に出る。
 そして、人体における生命構造は、一般に「ツボ」と言われる経穴を連絡する経絡
(けいらく)と、「チャクラ」と言われる気道から成り立っている。
 また経絡が生命エネルギー的な役割りを果たしているのに対し、気道は生命の情報的な側面を通して、大きなエネルギーに関与している。

三焦の下焦・中焦・上焦の三段構造

 三焦は漢方で言う六腑の一つである。
 上・中・下に分かれ、消化吸収および大小便の排泄を司るどる。
 但し、その実態は概念的なもので、無形有用のものとされる。つまり形がなく働きがあるという概念である。
 『黄帝内経霊枢』には「上焦如霧、中焦如薀、下焦如漬」といい、また上焦は胸中に、中焦は腹部で臍の上に、下焦は臍の下に位する。


 誕生は生命力が焦げ始めることから起こる。死は、生命力が燃えて焦げるのを消すことである。生命の火を鎮火させることである。
 そもそも生命は、精液と言う水から起こった。水に起源する。そして生命は、生まれた瞬間から死に向かって歩き出すことである。

 最初、精液と言う水は生命力を生じさせ、この燃え盛る火は、やがて時を経て焦げが尽きるのに併
(あわ)せて「水」を必要とする。これが末期の水である。
 人間は中間地点の中有
(ちゅうう)から精液と言う水になり、この水が焦げるもとで生命が誕生し、生き尽くし焦げ尽くせば、次は末期の水で消して、再び中間の中有に戻って行くのである。

 精液……。
 それは精禄から発したエネルギーであった。この精禄のエネルギーこそ、最後の残しておかねばならない負のエネルギーの水であり、老いて、これをセックスに引用してはならない。

 況
(ま)して精禄をセックスのために遣うと言うのでは、それ自体が自殺行為である。そのうえ自殺は不成仏である。
 老齢期の精禄は遣い方を間違ってはならないのである。
 老齢期にあってはセックスも生殖も、とっくの昔に卒業していなければならないのである。
 肉体を持て余してはならない。

 また肉の欲望に取り憑かれて、死ぬ間際までに肉欲に溺れるから、“腹乗死
(腹上死)”などという無態(ぶざま)な死に方をするのである。
 “腹乗死”は一見、享楽三昧で結構な死に方だと思い込まれているが、これはとんでもない間違いである。苦痛の最たるもので、それはまさに断末魔で、「不成仏間違い無し」の無態な死に方である。
 人間の死の尊厳を冒涜
(ぼうとく)した死に方である。死期を、横死に導いた最悪な死に方である。

 いつまでも健康で……という肉体にしがみつくこだわりは、時として神仏をも怖れない傲慢
(ごうまん)な冒涜を働くことがある。
 老いて鍛えるのは肉体でなく、心の鍛練である。肉体を弱める鍛練である。
 その一方で心は充分に鍛錬をしておかねばならない。

 さて、肉体を構成する体力が低下すると、それに代わって精神の集中力が向上して来る。
 肉体の生命の火の焦
(こが)しを弱めつつ、欲にこだわる煩悩の火を弱めつつ、一方で霊的な力を高めて行く。心の鍛練は霊力を強めるものである。

 しかし、若い頃は肉体力が旺盛であるから、精神集中は煩悩に吹き曝
(さら)されて中々巧くいかない。
 老いて肉体力が弱まり、欲望が鎮火しはじめてから始めて霊的な能力が覚醒し始める。そして不可視世界の回路が開けるのである。
 それが霊的な物事の見方として、現象人間界をマクロ的に観ることが出来るようになるのである。

 体力が低下した以上、人間は老いれば低下した分だけ別の回路が開ける。弱った分だけ別のところで補おうとする。それが霊力の向上である。このためには肉体力を弱め、精神力を旺盛にさせなければならない。
 つまり肉体に代わる力を手に入れるのである。
 この力を「意識力」といってもいい。
 この強化を図るのである。これが心の鍛練である。
 意識体としての自己を強化するためには、まず肉体力を削ぎ落さなければならない。削ぎ落して意念の覚醒を呼び起こさねばならないのである。

 体力的に恵まれ、肉体だけが覚醒されていると、肉体に感じる苦痛は大きい。
 ところが、肉体の覚醒が弱まり、精神の覚醒が旺盛になると、若い頃に感じていた肉からの苦痛は弱まる。若い頃のぎらついた欲望は薄らいで来る。肉の力に頼らなくなる。

 この種の欲望が低下して行くから、豪邸に棲
(す)み、物財に取り囲まれるなどの高慢な願望が薄らいで来る。人を侮(あなど)る思い上がりも鎮火に向かう。これは金銭欲も同じである。
 金で、人の頬
(ほほ)を張る傲慢に間違いを認める。

 金・物・色の俗界の三欲は、邪欲である。邪佞
(じゃねい)である。
 邪佞は慎むことで、煩悩の火を少しずつ鎮火する方向に向かわせるのである。

 人間の子供は、乳幼児期は仏性を持った生き物に限りなく近い。この時期の子供は、みな仏のような貌
(かお)をしている。あどけない。無欲であるからだ。
 この無欲こそ、実は真実の自己であった。
 ところが、歳を取るごとに、段々汚れが多くなり、遂には世間の垢
(あか)に塗れてしまう。

 頭脳が知識という論理思考に汚染され、俗界の既成概念で充満して来る。
 知識は時として妄想を作り上げ、暗い固定観念を染め上げる。
 それにより、心まで歪
(ひず)む。この歪みが後遺症として長引けば、老齢期まで引き摺ってしまう。
 汚染されたままの脳で、この時期を過ごすことになる。
 昨今の幼児的な老人が殖えたのは、こうした歪みに犯された後遺症を引き摺っているからである。

 長らく生きた人間が老境に時期に入り、此処に至れば精禄の余剰は、生命の火を消すために、それのみに遣う、修行をしなければならないのである。
 外野の迷妄に振り回されず、精禄の水を涸
(か)れさせることに専念し、ますます学びて、修行を重ねねばならないのである。



●老いて朽ちず

 老人は最後に智慧を授ける仕事が残されている。
 老いて、皆が皆、老練とは限らない。練って老いた人ばかりではない。
 現代では、賢く老いた人は少ない。

 先の敗戦の後遺症を引き摺っての、団塊の世代に多く見られる“幼児的老人”が多く見られる。幼児的であるから、決して賢くない。
 しかし、賢い人間ではなかったにしても、自分の生涯に満足感を覚えるかと問われれば、満足だったと言って死んで行きたいものである。老いて、必ずしも聖賢君子になる必要はない。
 老いただけの、それなりの年輪を重ねていればそれでいい。

 未完成で不成功であっても、それを社会の所為
(せい)にはしない。己の怯懦(きょうだ)を正当化しないことだ。自分を人の所為にして誤摩化すべきでない。
 もし、子や孫に残して遣るものがあるとすれば、それは財産などではなく、人としての生き方、そして最期の死に態
(ざま)の上手さを残すべきであろう。
 上手に死ぬことこそ、人間最後の美徳であり、有終の美を飾る一コマである。

 老人にとって大切なことは、若者に対して教示できることは、年寄りの存在も必要不可欠であると感じさせる老人になることである。老人は不要物であってもならないし、有害物であってもならない。

 しかし、老人が必要と言っても、孫の子守りとか、若夫婦の出計らった跡の留守番程度のものであってはならない。日常の便利人間ではないのである。
 人生の先輩となる必要がある。
 人生の経験者として“いざ”というとき、いい智慧を出してもらえる、信頼できる智慧者であることを認めさせる老人になることである。

 人間は人生経験のより、長生きした分だけ、それなりの見聞をして来ている。幾多の危機を突破して今日にあるのである。
 長生きしたということは、危険を躱
(かわ)し、数々の突破口を切り抜けて来たと言うことである。
 ゆえに老人は、人それぞれに経験や体験から「秘伝」なる秘密を知っているのである。
 その秘密は老練であったり、老獪の手法であったり、それぞれに相応しい「何か」を握っているのである。その何かの秘伝を、老人は後進の若者に伝授できるだけの伝授法を考えておかねばならない。

 喩
(たと)え頑固であっても、信頼と尊敬を持たれる老人は、若者から一目置かれる。その存在を必要と思われる老人である。
 ところが、そう言う年寄りは少ない。せいぜい世間から「お年寄り」と言われるのが関の山である。

 お年寄りと云う言葉の裏には、何か悲しい響きがある。年寄りを萎縮させる、何かそうしたものが感じられる。「お」を付けてもらって、喜んではいられないのである。その「お」は敬語でないことは明らかであるからだ。
 況
(ま)して信頼も尊敬も含まれていない。無用物に「お」がついただけである。

 昨今の老人は威厳が失われた。弱き存在になり果てた。
 ゆえに「お」がつく。お年寄りと言われてしまう。何と悲しい響きではないか。
 弱き存在故に「お」が付けられたとしたら、如何にもわざとらしい無用な心遣いと言わねばならない。
 また“お年寄り”と呼称されて喜ぶような老人であってはならない。

 かつて老人に権威があり、高く聳
(そび)えた時代はいつのことだったか……。
 そして、権威を失墜させた老人は、お年寄りなど無用な心遣いで、わざとらしい不当な扱いを受けている。こう言う配慮こそ、無用と言うものである。

 これは偏に、現代の人間関係の歪
(ひず)みにあるのではないか。
 種々の年齢層に歪みを齎したのが現代特有の人間関係にあるらしい。現代こそ、年長者が尊敬されない時代である。年長者に対して敬語など一切遣われていない。一般人が遣う敬語の多くは、金持ちや有名人に限っているようである。

 昨今は人間関係に隙間風が吹く時代である。
 何処もかしも隙間だらけである。そして人間関係に、もはや自然さはない。
 故意に作った、人工的な笑顔と揉
(も)み手半分のお追従ばかりである。どこか、醒めている。
 お持て成しも、お接待も、金を出しての物種である。金銭と引き換えである。

 現代人の心から、親しみ易さや人間的な幅が無くなり、何かと言うと文句がつけられ、不平不満がその後に衝
(つ)いて出る。いちゃもんばかりが罷(まか)り通る。言った者勝ちとなる。

 文句をつけ、要求することばかりが主張されて遣り込められ、逆に文句を言われまいと、ハラハラ・ドキドキと緊張をし、言葉尻ばかりに配慮の癖がついている。揚げ足を取られまいとしての警戒である。言葉だけが慎重に選ばれはするが、実に中身のないものとなる。
 更に、年寄りに対して、無用な尾鰭
(おひれ)がつく。
 棲
(す)みにくい、気兼ねしなければならない世の中となったものである。
 それゆえ上手に死ぬことが迫られるのである。年寄りは、これを真摯し研究しなければなるまい。
 老齢期こそ、その研究期間ではあるまいか。



  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法