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うまく死ぬ法 2

死のドラマはいつの頃からか、主役の座は医者に奪われてしまったではないか。
 現代人は、病院で生まれ、病院で死んで行く……と云う、これまでの過去になかった生死が繰り返されている。いかにも不自然に生まれ、不自然に死んで行く。大自然の摂理とは無関係な生死が繰り返されている。

 その為に、本来主役だった生まれて来る者や、死んで行く者は、医者の小間使いに成り下がる。何とも奇妙なことである。
 死者が黒子に格下げされ、医者が主役に躍り出ているのである。
 何とも奇妙だ。


●老人長息

 そんなふうに死にたいか。どうしたら、老いて枯れて、巧く死ねるか。
 これは万人の肝心事であろう。
 そして願わくば、ある日突然、ポックリ予告無しに死ぬ。そう出来れば、もっとも理想的であろう。そう願う人は多い。
 ぽっくり病は急性死のことで、苦痛を感じないか、その時間が短いと信じられているからである。
 しかし、真の病因は未だに不明である。

 私の知っている90歳の老人に、家業は農家で、実に働き者で元気な人が居た。何処から見ても頑強で
健康そうな老人だった。

 死ぬその日のことである。
 早朝元気に起きて、朝食の御飯を三杯も御変わりして、いつもと同じように畑に出掛け、そこで土を耕し、汗を拭いて一服し、一休みしている最中に死が訪れた。
 この人は畑の真中で、大の字になって死んでいたのである。
 まさに理想的な大往生であった。
 ある日突然、ポックリ予告無しに死んだのである。実に幸福な死に方をした人であった。
 幸福な死に方が出来る、選ばれた数少ない人であった。
 しかし、実際にはそう言う人は、人が願うように殆ど居ないのである。
 ただ印象的なのは、この人は死ぬその日まで働いたと言うことである。

 また、同じ90歳に日本刀の研師を知っている老人を知っている。
 この研師とは、毎月の刀剣会でよく顔を合わせ、度々言葉を交わすのである。
 私よりも二十歳以上も年長である。日本刀のことは何でもよく知っている。長い経験から、巧みな智慧も持っている。

 私がこの老研師と最初に出遭ったのは、刀剣会の会場であった。刀剣会での売買
(名目は交換会)は函盆に入った刀剣小道具類が、下座から上座へと順に送られて来る。それを刀剣商が、出来と程度のほどを見立て、値踏みするのである。
 この値踏みの際に、刀身の刃や鉄地の出来具合を鑑
(み)るだけでなく、中茎(ながご)の状態などを検(み)て時代を推測する。つまり、古刀・末古刀・新刀・新々刀・現代刀の刀剣史の区分をして眼力のほどを試すのである。

 したがって柄に収まっている鞘物は、中茎を抜いて検
(み)なければならない。刃や鉄地を鑑みて、同時に中茎も検討する。それに保存状態である。
 中茎は、生
(うぶ)・磨(す)上げ・大磨上の三種に分れ、また銘の切り方である。刀剣はとにかく贋作が多い。偽銘だらけである。この真贋のほどを中茎と鉄地などの出来具合から判断する。眼力を利かすポイントである。

 このとき私は奇
(く)しくも「中茎抜き」という道具を忘れてしまったのである。
 手だけでは、何度柄を掴んだ手を叩いても、中茎は浮き上がって来なかった。柄にガッチリの嵌
(は)まり込んでいた。
 こうした私の苦慮している状態を、この老研師は、その辺に散らばっている鉄鐔の一枚を取って、意図も簡単に中茎を抜いてみせたのである。長年の経験から得た老研師の智慧であった。
 私はこの智慧を、偉大な智慧と検たのである。
 老研師は、九十を過ぎても、まだ研ぎの研究をしていると言う。その研究熱心に頭が下がる。

 そして老研師の話によると、朝は四時に起きて研ぎの段取りを始め、今日一日、何の研究をして遣ろうかと思いを廻
(めぐ)らせ、それから研ぎを始めるそうだ。
 この老研師は種々の研究をしていると言う。
 その一つに、刀の刀身部分の棟
(むね)に樋(ひ)を彫る場合、昔のように時間をかけて鏨(たがね)で彫って行くのでなく、グラインダーを遣って、一気に機械で、正確に彫ることを考え付いたそうだ。暫(しばら)くこの研究に没頭したと言う。

 しかし、グラインダーには欠点がある。
 普通、グラインダーを遣えば熱をもち、刀身自体が駄目になる恐れがある。そのため刀身の焼きが戻る。焼きが戻って鈍刀
(どんとう)になる。
 焼きが戻らないようにどうすればいいか……。
 それを研究に研究を重ね、熱を持たせず彫る方法を考えたと言う。

 そして、それが近年に完成したと言う。だが、此処に至るまでに何振りの刀を犠牲にして来たか。損を覚悟でそれを研究して来たか。
 研究とは、損を覚悟することであった。損をするためには、物凄い精神力がいる。研究には不屈の精神がいる。途中で投げ出さない。そうでなければ、今まで犠牲にして来た刀が浮ばれない。
 この老研師は研究することで、不朽の生き態
(ざま)を感じるのである。

 老研師は夕食を午後六時までに済ませ、夜は出歩かず、また殆ど深夜のテレビも見ず、夜九時までには床に就くと言う。そして翌朝は四時に起きると言うのである。
 この一日の周期に、何か特異なものを観じるのである。
 朝四時起きで、樋を彫るだけでなく、従来の研ぎの仕事を行う。毎日休み無しで研いでいると言う。
 90歳を過ぎてである。老いて、この働きである。凄いエネルギーと言わねばなるまい。
 この勢いだったら、この老研師は、死ぬその日まで、刀を研ぎ続けていることだろう。

 背景には、燃焼して死ぬという「生の昇華」があるように思える。生命の火を燃やし続けて死ぬという心意気がある。これこそ生命の火の完全燃焼である。決して燻
(くすぶ)っている不完全燃焼でない。
 では、完全燃焼をされる原動力は何処のあるのか。

 それは日々の生活態度であろう。
 太陽と共に寝て、太陽と共に起きる。これこそが巧く死ぬ秘訣であろう。
 巧く死ぬことが出来るのだから、死ぬためにエネルギーも具
(そな)わっているのである。

 また、老研師ほどではないが、長らく上場会社に勤務して、定年退職後、古物鑑札を取得し刀剣会に参加している老人が居る。
 この人は若い頃から日本刀や武具などが好きで、定年退職した後の、第二の人生を刀屋に向けた人である。そして刀屋家業の他に、刀の鑑定の勉強をしていると言う。
 月四回、各地の刀剣会に参加し、そこで「価格の尖端
(せんたん)」の勉強をしている。

 物には「価格の尖端」と言うのがあるのである。
 幾らで売るか、その値段があるのである。
 価格の値段……。
 一見簡単なようで実に難しいのである。
 価格を付け切るかどうか……。これがプロと素人の違いである。
 その道のプロは、物の価格に値段をつけることが出来るが、素人は価格の値段を知らないから、自ら値踏みをし、幾らで売るか分らない。価格を付けきれないのである。

 例えば、白鞘仕込みの長さ二尺三寸程度の末古刀の長物が、いったい幾らの値段を付けていいものやら全く分らないのである。
 つまり、素人は「これを幾らで買うか?」とは訊くが、「これが幾らだ」とは断定できないのである。
 則ち自分で幾らの価値があるか、その価格が付けられないのである。値踏みが出来ないのである。値踏みが出来ないから、仕入れ値も分らないのである。そして買う段になると、店頭価格で買ってしまうのである。
 店頭価格は、精一杯の値段か、それ以上に積んである。そういう物を買っても、利鞘の差額が生まれないから、儲かる訳はないし、商いにもならない。

 商売は、仕入れを安く仕入れ、店頭販売との利鞘が儲けなのである。したがって、仕入れが高くては儲けは薄くなり、仕入れ値を切ることすらある。
 したがって仕入れを幾らで仕入れるかの眼力が値踏みであり、安ければ買い、高ければ買わない。一見、至極当り前のことが、素人には分らないのである。

 物には値段がある。
 それも、その時、その場の時価相場と言うものがあり、それを「価格の尖端」と言う。
 この尖端が、素人は分らないのである。
 それゆえ素人同士の刀剣愛好家の立会では、今売り出されている時価相場が分らないから、自分が入手した店頭売りでの相場に輪を掛けた、自称“交換会”をして、悪い物を高く買わされているのである。
 本来プロは、いい物を、今の相場や仕入れ、時代や状況に併せて高く売るのであるが、素人は、古い店頭価格の悪い物を、時価相場以上に高く売買しているのである。ここがプロと素人の違いである。

 そしてプロと素人の決定的な違いは、物には如何なるものであっても「価格がある」ということを、プロは熟知しているが、素人はそれが分らない。それが分らない故に、素人は物を「タダで貰う」ということが大好きである。物をタダでせしめると言うのが素人の特長である。
 斯
(か)くして、こうした側面にも「人間を検(み)られ、値踏みされる」という人間鑑定の厳しい目が烱(ひか)っているのである。この鑑定の眼に適(かな)わねば、目上の引き立ては見込めない。この世界で生き残るには、運に併せて、目上の引き立てと言うのが大きく作用しているのである。

 こうしたことを知るためにも、学ばなければならない。人間学は大いに学ぶべき事柄である。
 学んだものは、実践に移して研究しなければならない。老いても、学ぶ努力は避けられないのである。簡単に朽ちないためには、老境に入っても学び続けねばならない。
 この「学ぶ」ということが、実は働くと言うことであり、学ぶことで常に仕事をしているのである。

 働く老人、そして生涯現役で仕事をし続け、死のその日まで働き詰めで死んで逝く。実にいいではないか。
 心を遊ばしてはならないのである。心は常に働いていなければならないのである。
 働くことこそ、大往生の途
(みち)なのである。

 だが、昨今の老人の中には若者と群れ合ったり、若者の真似をして自分の若さを精一杯青年同様に謳歌
(おうか)し、夜明かしをする、老いを認めない老人が居る。また、自分の若い証拠の証明に、深夜番組を見て夜更かしをする老人が居る。
 何故だろうと思う。
 果たして深夜番組は、無理して起きて、見るだけの価値があるだろうか。

 長生きをするためだけでなく、巧く死ぬには、早寝早起きの習慣と訓練が大事である。
 したがって、その習慣をつけるためには夜遅い食事もいかないし、深夜のテレビもよくない。
 太陽と共に寝て、太陽と共に起きるには、何よりも睡眠を優先させなければならない。
 深夜のテレビ番組に、果たして老人が視聴しても益になる番組が放映されているとも思えない。

 そもそも寝付きの悪いのは、正しい安眠法を知らないからである。
 寝床は出来るだけ薄い煎餅布団がいい。柔らかいベットは寝違いなどをして頸椎を傷める。
 枕は直接頸椎に当たるものがよく、寝ながら頸椎を矯正する。その際に硬枕
(こうちん)を遣う。断面は半円の、中は空洞の木枕である。
 硬枕の高さは、薬指の長さか、拳大直径のものがいい。
 仰向けに、天井を向いて寝る。仰向けがいい。
 左横向きでは心臓を圧迫して傷め、右側を横にしての寝相では肺呼吸を浅くさせる。老いれば寝相を考えるべきだ。

 老人の寝方は仰向けがいい。仰向けになって、まず「屍
(しかばね)のポーズ」を執(と)る。ゆったりとした大地に肉体ごと預けるポーズで仰向けになる。そして休息するのである。
 休息も、よく考えれば一種の自分で自分に整体術を施す「整体」なのである。休むことも整体であり、休むことで自らの歪
(ひず)んだ関節部の骨格を整体するのである。

 次に今日一日あったことを、総て忘れる。
 「忘術
(ぼうじゅつ)」を遣って、善いことも悪いことも総て忘れるのである。恨みも妬みも、また思わぬ喜びも、突然の悲しみも一切忘れてしまう。忘れることにより心が和らぐ。心を和らげて蒲団の上に横になり、静かに深く呼吸する。
 次に天井を向いたまま静に目を閉じる。

 気を集める意識をもって、丹田を意識する。そこに気を集中して行く。呼吸は静かに深くであるが、基本は腹式呼吸である。
 その時の感覚としては、まず吐納法において吐くことから始め、その吐く場合に鼻で呼吸し口は閉じる。吐納の出入り口は鼻だけである。口は開かない。
 息を吐く場合、鼻の孔
(あな)の2、3cmほど上に軽くて薄い鳥の翅(はね)のようなものが静止していると想起する。その翅を鼻息で吹き飛ばさないようにして、静かで軽く、然(しか)も長く約三百回ほど続ける。呼吸のリズムは単調でいい。心を休め、副交感神経の働きを促すのである。

 こうすることで、老いても呼吸法で健康が保てるのである。
 病んでいても、また故障箇所があっても、傍目
(はため)から見て健康そうに見えるのである。健康であることよりも、健康そうに見えることの方が大事なのである。


●上手に死ぬは秘訣がある

 無駄な物は排除される。不要物は粗大ゴミと見なされる。
 昨今の世の中は、一切無駄な物は即効性の無いゴミとして扱われ、切り捨てられて行く世の中である。
 老人もその中に含まれている。
 現代は老人の価値を認めないようである。

 では、老人の価値は何処のあるのか。
 そのように訊くと、では……となる。
 物質一辺倒に突き進む現代の世は、価値があれば認め、価値が無ければ切り捨てるよ言う社会の仕組みが出来上がっている。

 だが、この価値観は何処か訝
(おか)しい。
 そもそも老人は、長く生きて来たから老人をしている。老いている。
 若く死んだのなら、老齢まで達することが出来ないから、老人にはなれない。老人であること事態がそもそも価値があると言うことである。
 それだけに沢山の経験や体験をして来ている。よく老いて老齢期に達したのである。ここに長生きした価値のある「老練さ」が横たわっているのではないか。

 失敗したことや、成功したことも豊富に頑固な人生の中に内包し、怠けて老いた、怠け者の老人は、怠け者なりに歳を重ねている。その生きた実績を積んでいるのである。その間に見聞し、感得した某
(なにがし)かのことを集積しているのである。

 老人は長生きをして、人生の中で、もうする事がなくなったというような、余生を過ごす人間であってはならない。また、無用の長物として扱われてもならない。
 生きただけの価値を認めさせねばならない。
 「老いた」ということは、その年齢分、現世と言う、この世を見聞して来たのである。

 ところが世間では、老いを“老害”などと云う言葉が揶揄
(やゆ)している。
 老害とは、老いること事態が、有害と危険視される見られ方である。
 老人的なる視点は、硬直した考え方に固執するからだと思われている。
 また、高齢者が指導的立場を占めると活性化の機会が失われ、例えば組織ならば、活力が失われると思われているからである。そのために、老いていつまでも座に居座るより、後進に譲れと言うのである。それは確かに一利あろう。

 だが、見聞が多い分だけ、長老としての価値も見逃せない。老獪
(ろうかい)さもある。此処に老獪の価値がある。
 この価値を見抜くのは、むしろ後進者の方に問題がある。経験体験共に少ないからである。
 後進者が無能で、見抜く眼が無いならば、老人は有毒物質にしか見えない。不要なだけでなく、害をもたらすと思われてしまう。老練、老獪の意味が分からないからである。
 また一方、不要物は無用だけでなく、有害と採
(と)られれば、老人も語るに墜(お)ちた存在となってしまう。

 そこで老人には、最後の「一
(ひと)もがき」として挽回策が欲しいところである。
 有終の美を飾る晴舞台がいる。
 晴舞台に上がった以上、一もがきところか、二
(ふた)もがきもしてもらいたいところである。つまり「死のエネルギー」を身につけるのである。

 「もがき」とは肉体的に抗
(あらが)うことでない。体力に物を言わせることでもない。
 心の鍛練をすることである。
 老後の鍛練は、心の修養にある。心を鍛えておくことである。心を鍛えておくことこそ、老後に控える課題である。
 心の鍛錬をしておくと、「慎み」が出来る。自然を感じるようになる。

 老後の楽しみを、享楽や行楽に求めてはならない。
 美食を貪って、満腹にしたいとも思わないし、性の快楽に満喫を覚える歳でもないし、海外旅行や温泉地に出掛けて、御大尽を気取り、物見遊山を決め込む歳でもあるまい。
 そういうものは、死ぬエネルギーを養う、より善き死をあるための老境健康法でもあるまい。無駄に精禄
(せいろく)を浪費するだけである。

 任せるべき心を鍛練しておかねばならない。
 自分を自然に任せる鍛練である。
 ここで云う「自然」とは、「神」のことであり、また「天」のことである。
 老齢期から死期の移行する過程において、未練や執着なこだわりを捨て、迷わず自然の意志に従って、それに添うためには肉体を鍛練する筋トレほど邪魔になるものはない。

 死ぬその日まで、仕事を持ち働くことと、いよいよ死期が近付いたら「この世とは何と楽しいところであったろうか、あるがとう」くらいは言って、この世を去りたいものである。
 こういう言葉を言うためには、まず心を鍛練しておくことである。不動で肚を据
(す)え、ちょっとやそっとでは「ぐらつかない心」を養っておくことである。
 これが、こだわらない未練防止になる。老いて、未練を抱くのは愚である。欲から解き放たれ、煩悩の火を弱めなければならない。

 ところが、心の鍛練が不完全だと、折角の言葉である「ありがとう」が、最後の最後で、取って置きの切り札が、遣っても効力を失うのである。
 取って置きの言葉を用いて、静かにあの世に旅立つ者が、無用な点滴やら、心臓マッサージやら、強心剤などを投与されては、再び引き戻されてしまうのである。未練を募らせるだけである。
 このようなことをされれば、死んで逝こうとする者が、後ろ髪を引かれてしまうのである。
 何
(いず)れ死ぬには死のうが、これはより善き、いい死に態(ざま)ではあるまい。断末魔を招く。
 そこで、最後の最後の、土壇場で、もう一もがきも二もがきも出来る、心の鍛錬をしておかねばならないのである。



●邪欲を慎み

 より善き、いい条件で死ぬには、欲を慎むことである。欲をギラギラさせていたのでは、未練ばかりが濃厚になって、この世からの「この世離れ」が悪くなる。
 過保護な母親が、子離れの悪いのは、子に後ろ髪を引かれるような未練があるからである。固執するからである。
 母親の情が行き過ぎると、子離れの悪さを起こす。

 また、男が女に対しての未練も、単なる人間の情と言うより、狂った未練である。
 この種の未練を引き摺ると、男は女に慎みの悪い醜態を晒
(さら)してしまうものである。
 これが女が男に対しても同じである。嫉妬と憎悪が入り乱れているからである。
 「邪
(じゃ)」が絡むと、このようになり易い。

 この種の醜態が、この世に残存している限り、この世からの「この世離れ」が悪くなる。
 欲望を強くしないことである。欲望の強さが未練を露
(あらわ)にするのである。
 情も此処まで引き摺れば、見苦しいものになる。
 何故ならそこから起こる欲でも情でも、邪欲であるからだ。あるいは邪智であろう。智も邪を帯び、本来の自然の流れを逆流させるようである。

 邪智や邪欲の類
(たぐい)は慎まねばならない。自然の流れに逆らってはならない。
 大自然の法則に逆らわぬ生活をすれば、自然と安定を取り戻すものである。
 老いても、心身ともに老境での健康が維持できるのである。
 この健康が維持できれば、大自然と共に生きているのだから、娑婆にいても、側面には自然の摂理が働いている。それに順応し、遵
(したが)って過ごせばいいだけのことである。任せればいいのである。

 この「任せる」生活の中に、人間は自然の子としての行動をするようになる。
 若い頃は、若気に至りから傍若無人になったり、不摂生を繰り返して暴飲暴食を重ね、心身共に傷付けるような愚行をするが、老いて、幾多の多くの経験が集積すれば、静寂と落ち着きを取り戻すものである。
 つまり、慎みを知るのである。
 これを知らねば、老後の人生は若者以上に迷いの多い人生で苦しめられることになる。

 老いの自然に逆らって、無理な肉体強化の健康法に奔ったり、欲をぎらつかせて投資話の詐欺に引っ掛かったりするのである。そう言う欲望は、老いとともに強固にさせてはならない。徐々に弱めて行く必要がある。

 その弱める方法に、自然を想念し、想念の中から自然を感受し、それを素直に受け容れれば、自らの行動原理も釈然として来る。何をして、何に従うか理解できてくるのである。

 老人の健康法は、自然とともにあることだ。
 まず朝は早く起き、夜は早く寝ることである。素朴な生活をすることである。
 食事も出来るだけ粗食・少食の蔬菜
そさい/季節ごとの、旬の新鮮な野菜や掌サイズの魚介類であり、粗末な食事と言う意味でない)に徹し、衣類も粗衣で構わない。
 本来は死するべき存在の人間が、非存在としてこの世に生きているのである。生かされているのである。仮の姿を借りているのである。
 仮の姿の存在が、老いてもなお、何故美食に奔
(はし)り、豪華な衣裳や装飾品で非存在の借り物を飾り立てる必要があろう。自然のままでいいのである。素朴な生き方を取り戻せばいいのである。

 老後の日常は粗衣粗食に徹し、総て「六分でよし」とすればいい。それ以上は望まないのである。
 呼吸を整え、腹式呼吸の調息
(長息)を行い、腰骨の上に脊柱を垂直に、しゃんと立て、坐する姿勢を正すことである。これは起立しても同じである。
 こうして老人に相応しい肉体条件を確保しておいて、信ずる心を鍛練すればいいのである。

 また、老境に憑き物は病である。
 持病を抱えると言うのが、人間の老いと言うものである。それは仕方がないことである。肉体でも老朽化すれば至る所に故障が出て来る。
 だが肝心なのは、健康であると言うことよりも、老いてもなお、健康そうに見えることである。必ずしも健康でなくてもいいのである。健康そうに見えることが、鬼神
(きじん)もこれを避けるような迫力を生むのである。
 これが「老いの権威」というものである。これを精神力と言ってもいい。

 信ずるところに遵って心を鍛練して行けば、老いても安定した中庸が維持できる。精神を向上させ、それに反映して、生命の火を徐々に小さくして行くことも出来るのである。
 老境に至っては、生命の火を徐々に絞り込んで行く必要がある。小さくし、然
(しか)も未(ま)だ消えないという状況を作り出すのである。

 死ぬにはエネルギーが要る。巧く死ぬためのエネルギーが要る。
 それは生命の火の絞り込みからも分るように、「負のエネルギー」である。生命の火を大きくする正のエネルギーでない。
 「弱る」という負のエネルギーである。生命の火を弱めるエネルギーである。これが負のエネルギーなのである。

 死ぬに死ねない未練多き、プラス方向の正のエネルギーを、この期
(ご)に及んでぎらつかせていては、いい死に態(ざま)にありつける訳はない。苦しみ、もがいて死ぬ断末魔だけである。

 生命の火を弱めるには、負のエネルギーが要るのである。
 それは肉体が弱ると言うのと同義である。
 老いて徐々に弱って行く肉体に、決して気付け薬のような矯正剤は用いてはならない。弱った肉体を無理に覚醒させてはならない。弱ったままでいい。自然のままでいい。
 生に固執させてはならないのである。死を受け容れ易いように、負のエネルギーだけを旺盛にすればいいのである。

 静かに死んで逝ける負の環境を作る。それだけでいい。
 老境生活は、また生命の火を徐々に絞り込んで行く生活なのである。そして邪智も邪欲も捨てて行く。それらにこだわり、囚
(とら)われることを慎むことなのである。



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