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うまく死ぬ法 18

「気」は本来、人目には見えない。
 況
(ま)して肉眼で確認される事は殆ど無い。「気」が見えると言う人もいるが、たいていは見えないのが普通であり、これが見えると言うのは一種の過敏異常である。

 勿論、条件付きで「気」が見えると言う、超常能力を持つ者もいるが、これは人間によって格差があり、また特異な生活をして、聖人の域にまで達した人もいるが、常人・凡夫
(ぼんぷ)には及びもついかない修行をしなければならない。
 だが、生まれながらにして聖人ではあるわけがなく、一人の人間の生命体には、みな精・気・神は、予め宿っているものである。

 「気」は内気として体内を駆け巡っているが、意識的に、個別に取り出し、これを外気として作用させる事も出来る。
 但し、「精」も「神」も表象としての「気」の形態はとらず、肉体としての力の意識であるから、「気」としての転用を図る時は、「気」は溶融して、元の現状に戻り、「気」は「精」に結びついて「精気」となり、また「神」に結びついて「神気」となるのである。
 これからも分かるように「気」は、「精」とも通じ、また「神」とも通じるのである。

 こうした状態がより一層明らかになるのは、それらが傷付いた時である。そして病気にも、質の異なる三つの層がある。
 この三つの層のうち、第一の層は、「精」が病んでいる場合で、それは肉体そのものが病んでいる時で、治療の目的は肉体のバランスの恢復
(かいふく)におかれる。

 次に第二の層は、「気」が病んでいる場合で、経絡異常として顕われ、経絡治療が最も有効な手段となる。気の循環が悪い為に、気が滞り、屡々
(しばしば)心絡みの感情に異常が顕われる。心が絡んでいる為、感情が凝固し、潜在意識に潜んでいる気質を冒す病気が出現する。

 この種類の病気は、現代では心身症といわれ、心が絡んだ病態である。心身症は、治療として催眠療法などが試みられるが、これは直接、潜在意識に働きかけて、病根を溶かす方法が用いられる。

 第三の層は、「神」が冒された状態であり、これは心身症と似ているが、心身症は「気」が傷付いた状態であるが、第三の層に関与する病気は精神病である。つまりよく似ているが、質が違うということである。

 昔は、こうした病気を「気が振れる」
(あるいは何か眼に見えないものに触る。つまり「障り」である)「気が狂う」「気が違う」などと称したが、喩えば「振れる」の状態では、「気」が常軌を逸しているので、自分では修正できない状態を顕わしている。


●無の哲学

 現代は死に方が変わった。併(あ)せて、死に場所も変わった。
 かつてのような、自宅で生まれて自宅で死ぬと言うことは無くなった。青い畳の上で死ぬと言うのは殆ど見られなくなった。
 多くに現代人は、病院で生まれ、病院で死んで逝く。それは死に方が変わったからである。
 また、死に場所が変わった。大半は、青い畳の上で死ぬことはない。
 人の死に方に、急変する事態が起こったからである。現代社会の特長である。

 更に、そう言う死に方や生まれ方が生じたのは、管理する社会体制が齎したものである。
 その現状下に職業別分布も、何らかの関連があるようだ。
 それは第一次産業から第三次産業までの就業者の分布を観れば一目瞭然となり、大方の分類分布で行くと、第一次産業の農業・林業・水産業など直接自然に働きかける従事者は全体の約1%と言われ、また第二次産業の地下資源をとりだす鉱業と、鉱産物・農林水産物などをさらに二次的に加工する工業ならびに職人などの従事者は全体の24%と言われ、更に第三次産業の商業・運輸通信業・サービス業などホワイトカラー族を指す従事者が全体の75%と言われている。圧倒的に第三次産業従事者の方が多いのである。それは各業種で特殊性を持つことであった。
 そしてこの産業形態は、総てが組織化されて動いている。

 特に、企業と言う組織では、その組織体制が専門的である。
 ホワイトカラー族を指すサラリーマンの世界では、朝起きてから夜寝るまで、何らかの形で管理された状態にある。仕事を離れても管理されている監視があるように感ずることがある。そして如何にも人間牧場的である。
 この管理下では、眼に見えない檻
(おり)があるからである。

 極端なことを言えば、仕事終業後、同僚とともに居酒屋で酒を呑んだり、麻雀やゴルフに興じたり、また家庭で家族との団欒の時を過ごすことも、自分では気付かない“見えざる管理”の枠に嵌められ、それに脅されるように生きているとも言える。
 現代生活の何処かに無意識の脅迫観念が働いている。これでは、心底自由にはなれない。何処かに束縛感があり、蹂躙
(じゅうりん)されている側面が漂っている。解放感ゼロである。

 そうした意識は、恐らく組織人の宿命であろう。束縛されることを職業に選んだからである。
 また、その意識下にストレスが溜まるようになっている。ストレスも束縛されていると感じる脅迫観念も、更には“見えざる管理”の枠に嵌められている箍
(たが)の意識も、もとはと言えばこぢんまりと固まった先入観から起こったものではなかったか。
 そして、誰もが思い込みで、わが人生を歩いているように思うのである。しかし、それはそれでよしであろう。

 現代のこうした側面は、間接的には半世紀前、一世紀前に比べると、生きる生活態度もさることながら、死に方は不明確となり、またこれらの世紀に比べると死に場所が変わったと言うことだろう。
 その特長が、現代は病院で生まれて病院で死ぬという自然の摂理とは、些
(いささ)か掛け離れた現代特有の構造が働いているからである。
 かつてとは異なり、生まれる場所が自宅でなくなり、また死に場所も自宅から遠ざかったからである。

 特に、死に場所を考えた場合、畳の上で死ねないような現代特有の社会構造があるようだ。
 また、戦後日本に持ち込まれた食生活の変化である。食生活が欧米化された。これにともない肉や乳製品の需要も高まり、ガン発症のリスクが高まった。

 特記すべきは、WHO
World Health Organization/世界保健機関)が食品危険を指摘するような、ハムやソーセージと言った肉の加工食品は塩漬け段階でガン発症の病因を蓄積されるといった食品や、赤身の肉の直火焼きや、焼き鳥などの食肉類のガン発症のリスクが高い。そのように危険性を指摘している。
 そして、現代特有の食生活は、自然死から程遠い事故死の要因を招いている。

 現代の生活習慣病はこうした側面にも多方面に亘り点在しており、社会全体が物質流通の中で巨大なストレスを抱えていると言えよう。
 それでいて、現代人は食肉や肉加工食品、乳製品などの人間には不向きの食品を、かつての比べて多く摂取し、常食にしているのである。
 この背景には、激安肉の生産者から仕入れのカラクリや、巧妙な話術トリック
(煩く喧伝して捲し立てる販売手法)が潜んでおり、一般人は、これのまんまと搦め捕られて動タンパク摂取に奔走しているようだ。

 現代人が日常、無意識に摂取している肉・卵・牛乳・刺身・白砂糖・食塩
(精製塩)・水(カルキ入りの水道水や水商売などで出される自称ミネラルウォーター)などには、現代病や異常を引き起こす病因が多く潜んでいるのである。
 そして、無意識で食する動タンパクの危険は大きい。

 戦後の日本人は現代栄養学が奨励した「肉は良質のたんぱく質を多く含み、スタミナ源になる」の、この言葉に騙された。このお墨付きにより、食肉業者は大いに儲けた。この産業が未だに下火にならず、儲けが継続できるメジャー構造である。
 高度経済成長期と共に生まれた肉食信仰は、現代の奇病・難病を作り出した。日本人の肉類の摂取量は欧米人とほぼ変わらない。異常である。

 そもそも日本人は農耕民族で、その食性は穀物菜食主義に徹して来た。
 ところが、敗戦後、日本はアメリカ文化の導入で、食生活の根本が狂わされた。
 日本人は、その食の伝統から言っても穀物菜食の歴史を持つ。
 人種の違いとは、単に肌の色が違うだけでなく、腸の長さも違うのである。人種によっては、同じ動タンパクでも、それを摂取する場合、人種によってそれぞれに異なりがあるのである。
 ところが、この違いは無視されている。

 現代栄養学の言うアミノ酸信仰が、十把一絡げにいかないのは、このためである。アミノ酸の利点だけが挙げられている。
 日本人と西洋人の身体的構造は違う。
 したがって、狩猟民族である日本人は欧米人より腸が長い。
 当然肉を摂取すれば、肉が腸内に残留する滞在期間は長い。長時間体内に残留する。うまく消化されない分は、そのまま腸内で腐ってしまう。腐敗物質となる。

 腸内で腐った肉は、やがて便となり体外に排出されるものの、排泄は全部出されるのではない。何割りかが残留する。腐敗物質となる。
 腐敗段階で発生する毒素は、体内を血液に乗って廻る。
 肉の腐敗産物には、アミン・アンモニア・硫化水素・フェノール・インドール・スカトールなどがあり、これらが腸壁から吸収されて血管内に入ると、血液を汚染する。弱い部位に取り憑いて、諸器官に病変を起こさせ、アレルギーやガンなどを発症させる。
 自らの肉体を腐敗物質で汚染させたままで、どうして静かなる自然死を迎えることが出来よう。
 周囲が騒然とする病死と言う事故死である。ガン発症などの病変が起因する事故死で、現代人は、病院で死ぬ人が多いのである。
 現代は、死に態
(ざま)が以前に比べて極端に変化したのである。

 その中に「便臭」というものが浮上して来る。
 昨今の日本人の便臭は動蛋白摂取過剰のため、異常に臭い。便臭がきつい。
 そのきつさは、肉体表面にまで顕われ、外気まで汚染し悪しき「霊臭」となって、現代日本人には食肉類摂取過剰から、霊臭が漂いはじめた。動タンパクで大腸を犯されているから、霊臭も甚だしく、かつ便臭が強烈に匂う。体臭自体が“うんこ”臭い。

 人間と性
(さが)を同じにする哺乳動物の「肉喰った報い」と言われる。
 そのために便臭を隠すために、現代日本人は欧米人並みに、香水を愛用する男女が殖えていると言う。霊臭を一時的に消去しようとする企てらしい。
 霊臭は食肉や乳製品をはじめとする動タンパク摂取過剰に起因する。
 現代日本人の食卓は“脂だらけ”となった。動物の脂を喰らって痛痒を感じない。共食いしていることに気付かない。愚であろう。
 当然、死に態
(ざま)はよくない。臨終にしくじる可能性が高い。それは肉の焦げる臭いに惹(ひ)かれるからである。

かつて日本人は、「タンパク質が足りないよ」と言う昭和30年代のテレビコマーシャルのスローガンとともに、現代栄養学の「肉は良質のたんぱく質を多く含み、スタミナ源になる」の、この言葉に騙された。
 多くの日本人はこの言葉で騙され、この似非栄養学に信奉している。

 更に、「健康づくりの食指針」と銘打った第一項目に「栄養のバランスをとるためには、一日30種以上の食品を万遍なく取る必要がある」という、現代栄養学の「何でも食べよう」式の総花主義に入れ揚げ、それらの数字に狂奔することで、誤った固定観念を爾来、定着させてしまったのである。

 現代は美食主義やグルメ通が横行する時代、食品摂取の過食時代でもあるのだ。
 日本では、世界中のこれまでに存在しなかった海外の食品を大量に喰らい込み、連綿と続いた『身土不二』の掟を根底から覆してしまったのである。
 これに何ら報いがなく、何の禍
(わざわい)もなく素通りできるものだろうか。
 いや既に「臨終に失敗する」という現象が顕われている。

 また動タンパクには、食肉になった動物の重金属を人間がそれを摂取しているため、臭いがきつく、然も重金属であるため、排泄された大便が沈む。水に浮かない。
 便器を眺めれば一目瞭然である。
 動蛋白摂取過剰者の大便は、水に浮かず、便器の水底に沈んでしまうのである。これこそ、食に含まれた重金属の根拠であり、その重さは水銀量に比例すると言われる。
 こうした金属類を生体が吸収しながら、健康で居れる筈がない。異常を来すのが当然である。
 こうした食生活の危険も気付かずに、最期の死に態が自然死である訳でない。
 現代は自然死が出来ない環境にある。

 その一方で、組織化された組織人の生き態
(ざま)は、二十年、三十年前に比べると、総ての機関で専門化されてしまったことである。
 企業体として分業化し、得意分野だけを担当するというのが現代の特長であり、担当外には口を挟まないと言う管理社会の常識が支配するようになった。

 かつては自宅で死ぬにしても、その葬儀一切は家人が担当し、少なくとも初七日まで勤めたものである。専門業者に恃
(たの)まなくとも、家人一同の代表者が、人の死をどのように接するか、対処するか、どう処理を施すかを知っていた。大まかな手順も分っていた。貧しい家でもそれなりに弔ふ(ともらう)ことを知っていた。人の死を悼(いた)んで、喪に服することを知っていた。
 この意味では、生者も死者もいつも同一場所に居て、その存在意識についても共有していたと言える。
 ところが現代は、死者と生者が隔離され、別々の異なった意識下に棲むようになった。そして死者は生者から大きく引き離された。

 この分離に、科学の知識が働いていたこと明白である。科学知は生きている者だけを対象ししているからである。死者の意識など考えない。
 科学知は眼に見える物質や現象のみを対象にして出発し、物質によって構成している現実だけに眼を向け、客観的な事実として現象界で起こっていることを認識するということから発展して来た。
 一方、死後の智については、迷信と一蹴した。非科学の最たるものと決め付けた。
 生成する、生きる原理のみに重点を置いて来たのである。死の問題は蔑ろにされた観が強い。

 そして死者は、単なる物体に成り下がった。
 死の問題は、これまで物質としての肉体が生きていた時のことだけを考え、肉体の機能が停止すると、それが生命の終着点としたのである。肉体が生まれて、ある年月を生きて、その後、肉体は老朽化して死んだ。
 死について、現代はそのように認識されている。
 それ以上に認識はない。そこまでで終焉している。それから先の再生が完全に欠落しているのである。
 生と死の橋渡しが欠落しているのである。
 更に追言すれば、意識主体を離れた客観的な実在はないとする「無の哲学」すら、現代では蔑ろにされているのである。

 色即空……。
 そもそも物質的な実在は、実体がない空なる存在ではなかったのか。
 色即空。
 それは実体がないと説くだけではなく、普通に実在する実体と考えられているものは、実は「縁起」で起こっており、これこそが関係性である。
 いま一人の人間が此処に居るということは、様々なカルマである業
(ごう)がなした結果である。人は縁起によって生まれたのである。そして死するのも縁起である。
 これは現在の行為や行動が次ぎなる新たな業を作るのである。
 人間は、男女の性行為によって、ただ生まれたのではない。縁起により、この世に出現したのである。

 宇宙に点在するあらゆる物質は、それぞれが独立してバラバラに機械的に存在しているのでなく、総ては互いに関連性を持ち、関係性を持っている。互いは影響し合い関係し合って、事象を織りなしている。この相互間にこそ、調和があるのである。

 ところが、日本では明治維新以降、西洋の「有の哲学」が雪崩れ込み、物事は総て物質的に合理的に思考する学習法が導入されて以来、かつての東洋の「無の哲学」は迷信の最たるもの、非科学極まりないものと一蹴されてしまったのである。
 現代は、死が蔑ろにされ、「有の哲学」で考える生のみに焦点が当てられているのは、こうしたことに起因している。

 更に能率的に、合理的に考える科学知は今日のような総てを組織化する管理システムを生み出した。
 個々人は巨大な歯車の組織のもと、孤独な戦いを強いられるようになった。日夜、管理組織の中で、巨大な組織の歯車の一部として、自分の役割や能力が査定され、その枠内で悪戦苦闘することを強いられる。その一方で、組織と言う存在に比べれば、自分一個の人間など、吹けば飛ぶような存在である。それでいて、その中で生きている証
(あかし)を探さなければならない。これこそ、孤独の最たるものであろう。

 自らの矜持
(きょうじ)を失わないためには、敢(あ)えて孤独に挑戦しなければならないのである。辛いと言えば辛い、宿命を選択したものである。
 現代は自分の能力を信じて、プライドを持ち、自負心を死ぬまで維持しなければならない。これは疲れるし辛い。休めない。
 それでいて、簡単に死ねない現代ならば、その辛さは、更に増幅するようである。

 生きることを強引に強制されながら、それでいて現代の世の中は、常に死の翳
(かげ)に怯(おび)える現実がある。いつ難病奇病が、わが身を襲うかも知れないし、事件や事故が、わが身を襲うかも知れない。死はいつ遣って来るか分らないのである。
 それだけに現代人は、ある程度年齢を重ねている高齢者でも、死は非常に恐ろしいものと感じている。

 ある日突然遣って来て、自らの肉体に取り憑
(つ)いた死を、嫌うほどの年齢でないにも関わらず、死はやはり恐ろしいもと捉えている高齢者が多い。
 これは「死の哲学」が欠如し、また無に帰する循環の哲学を知らないからである。また、実体は非存在であることを知らないからである。そして、総ては無に帰する「色即空の哲学」である。

 今こそ、人間の過去を形成した文化に眼を向けてみるべきであろう。生に縋
(すが)り、肉体に縋ってばかり居ては、肉体を精神を分裂させたままの状態である。このままにしておくべきでないだろう。
 人類は二十一世紀に入って、画期的な大発展を遂げ、この世紀初頭は大きな転換期を迎えている。

 一方で地球規模の環境問題が発生し、現代はアメリカの科学史家のクーン
Thomas Samuel Kuhn/パラダイム概念を提出し、科学理論の発展と転換の構造を説明した。1922〜1996)が提起した概念であるパラダイムによって、事物の構造が科学理論として説明され、かつ発展し、また大きな転換を迎え、それに併(あわ)せて情報革命が起こった。
 これは経済や政治分野にまで及び、通信技術を大きく飛躍させた。科学万能主義の原点は此処にあると言ってよい。
 そして通信技術の最たるものが、氾濫する“過情報”であった。

 現代は情報時代のみならず“過情報時代”である。
 多くの情報の洪水。情報中毒に陥るている現代社会。更には情報の負荷化に加わるストレス。
 そして、40、50、60のいい歳をしたオヤジどもを含むスマホ中毒。
 これにより、情報過多は益々ストレスを発生させる。
 個人情報の売り渡しが頻繁に行われている現代、知り過ぎたことへの報復とも言えるような事件が多発している。

 自身の躰のデータや病歴情報まで売買の対象になっているのである。その売買対象に数字に入れ揚げる狂奔主義がある。
 多くの現代人は、数字に入れ揚げ、数字を通してのみ自分を知ろうとする。但しそれは飽くまでも肉体情報であり、肉体ののみの健康数値である。その数字から得られた数値を通して、客観性に酔っている。データを自身で注録し、数字に酔う時代である。
 この「酔い」は何を意味するのか。
 それは自然の儘の人間としての本能を混乱させることに過ぎなかった。
 便利で豊かで、快適である現代の文明ライフには、このような落し穴があったのである。
 それを、「科学的である」と言う声もある。その支持者は決して少なくない。

 ところが反面、倫理や思想は枯渇した。モラルも数値情報に押され気味である。
 この事実を、どう言い繕うのだろう。
 過去を通じての旧来のモデルでは枯渇現象を食い止められないからである。
 その結果、自然科学を基礎付けた客観性や物質の実在性を永遠とする考え方に懐疑を抱くことも起こりはじめている。

 何故なら、人間には意識があり、心があるからである。それが物質界と無関係に存在しているのでなく、有機的な存在として何らかの関連性を持ち、それらは互いに影響し合っているのである。存在には理由があるのである。無意味に、単体で存在しているのではないのである。それらは有機的結合をなした生命体であるからだ。
 総ての物は存在理由がある。生も死も、その理由に内包されている。それを知ることである。

 生命が有機的結合を持つ生命体ならば、それは生も死も内包して循環していることになる。あたかも意識体は輪廻していることになる。そこに過去を思い出す「何か」があるのではないか。
 かのギリシャの哲学者プラトンは霊魂の不滅を主張し、その中で「知る」という行為の中で、それは「思い出すことである」と言っている。
 これは肉体的感官の対象たる個物は真の実在ではなく、霊魂の目でとらえられる個物の原型たる普遍者
(イデア)が真の実在であることに由来するらしい。

 では何を思い出すのか。
 人間の肉体に閉じ込められている魂を思い出すことである。それはまた、生命の不死性を輪廻と言う思想で説かれていることを思い出すことである。

 ところが現代は、人間の魂は死して肉体を離れると、忽
(たちま)ち消え去ってしまうと思われている。肉体の死とともに魂も滅び、そこには以前の意識は消え果ててしまうと考えられている。後には何も残らないとされている。人間の知性が導いた現代流の結論である。

 この結論によれば、宇宙を含めた大自然は一見複雑なように見えても、それを構成する基本的な部分には還元という作用が働き、また還元の組合せにより、一種の精密機械のような運動が展開されていると仮説を打ち立てている。
 そしてこのモデルは総てに応用が可能とされている。
 政治や経済をはじめとして、心理学や社会学、医学や哲学、史学や文学などあらゆる分野の学問が科学の名において“科学的”と自称するとき、これはニュートン以来の古典力学のモデルを応用していることになる。

 このモデルは、自然の対象を客観的に観察し、部分的に分類し、細分化し、腑分けし、分析し、数値的に数量化することで種々の仮説を打ち立てて来た。それが普遍的な法則となり、真理を導き出すための帰納法へと変化し、これこそが絶対的な方法論となった。
 また、導き出された種々の法則は、仮説を実験することで、それが正しかったと証明された。これが人間の知性が導き出した、知識となり得た。

 ところがニュートンの機械的なモデルは、一方で近年に至り、この方法論は疑いが持たれはじめた。否定された。
 全体を把握するのに部分的な観察だけでは不十分で、実は自然を正しく把握していないこととなった。
 人体一つ取り上げても、医学の面では全人的な治療が行われず、数値主義的な立場をとり、分化作業が主体で、未だに心と肉体き離されたままである。有機的な結合部分を見逃している。

 これと同じように、生命体を宇宙規模でマクロ的に観察すれば、そこには有機的な結びつきを持った生命体が存在する筈である。ニュートン以来の古典力学のモデルの、独立して存在する物質と言う仮説が揺らいでくるのである。

 そして生物を考えた場合、それは実体より、その結合において、関係性そのものの中に本質があるとする新たな方向性が見えてくるのである。
 死は果たして、隠されたタブーだろうか。



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