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うまく死ぬ法 19

自分が生まれた土地と、自分の肉体は結びついている。これが『身土不二』の食思想である。
 人間の肉体は自分の生まれた土地と同じ性質を持つと言う。

 人間が生きて、やがて死ぬと、その生きた時の肉体は死した後、その土に還る。土と肉体は「還る」ことから、霊的には同じ性質を持っているのである。

 人が生まれた場所に郷愁を感じるのも、身土不二の自分の肉体とその地が同一性を持つことから起こる感情かも知れない。
 風景写真は筆者が少年時代を過ごした猶興館高校から遠望した平戸城の天守閣。遠い日の記憶の一コマである。


●身土不二

 死ぬ前に、人間は生きている間、食の化身として人生を過ごすことを確認しておかねばならない。肉体そのものが食によって維持されていくからである。
 食こそ『身土不二』の根本であるからだ。

 そこの地に生まれたものは、その地と、わが肉体は同じものと言う考えである。そして、その地に生まれたと言うことは、その地に育った農作物の特異性によって肉体を形成して行くからである。
 その地に育った作物で、その地の人は肉体を造り上げていく。その作物を食べて肉体を養う。人間が食によって命が育まれるのである。
 特に農作物には、三つの恵みより成り立っている。一つは日の恵み。二つは月の恵み。そして三つは肉体と同性質をもつ土の恵みである。食とは、この三つが三位一体となった形で人間に与えられたものである。

 ところが現代人は「三つの恵み」のことを忘れてしまった。その有難さすら気付かない。
 ただ飲み食い三昧を繰り返し、不摂生なる生活に明け暮れ、その背景に問題多き病的社会が出現している。しかし、病的社会に有効な解決策は何一つ打ち出せないまま、スピード時代にかこつけてその渦に巻き込まれていると言うのが実情である。世の中は時々刻々と変化する。その変化の中に、自己崩壊に向かう暗示も大いにあるからである。

 この暗示の渦から逃れるにはどうすればいいか。
 身土不二の食思想は「遠くて近いもの」を食し、食を慎むことを教える。
 「遠い」というのは、人間の性
(さが)よりも遠いものことである。つまり、遠いものとは穀物類や野菜類などの動タンパクとは無縁のもののことであり、近いものとは自分の生まれた土地のもの、あるいは住んでいる場所に近い土地で採れたものということである。

 そして食する量は腹一杯食べるのではなく、腹八分にとどめ粗食少食に努めるのである。
 これは健康維持のためばかりではない。残りの分を他に廻すのである。自身が少食に努めることは将来食糧危機や、世界の半分が飢えている現状に中で、それだけ他に廻るのである。
 腹八分ではなく、少食を実践するためには腹六分でもいいのである。これが「食を慎む」と言うことである。

 人間の肉体は1400キロカロリー程度の仙人食でも十分に賄え、またそれでいて十分に働けるのである。むしろ仙人食にした方が躰の動きもよくなり、蓄積された宿便や、宿便の元凶になっている過食・飽食から来る現代病も駆逐できるのである。
 穀物菜食の仙人食を実践して、まず糖尿病などにはなり得ない。生活習慣病とは無縁である。
 肉体は食によって賄われている。
 しかし、それは腹一体に食べることでない。
 季節ごとの旬のものを食し、粗食少食の蔬菜
(そさい)主義でも、十分に躰を造りは出来るのである。

 繰り返すが、人間の躰は食が造っている。
 この基本構成は食
体という変化発展からなされ、血である赤血球は腸で造られ、その赤血球はやがて体細胞へと分化していく。
 この変化発展の中には、食した食物が消化されることにより腸壁の腸絨毛で赤血球母細胞に造り変えられ、赤血球母細胞内から放出されて血管内に送り込まれた赤血球は、躰全身を廻り、躰の総ての細胞へと変化発展をしていく。
 細胞組織に辿り着いた赤血球や白血球は周辺の体細胞から強力な影響を受け誘導されていくことになる。

 例えば、その部位が肝臓なら肝細胞へ、脳なら脳細胞へと順応し分化をしていくのである。
 また、その部位における崩壊した体細胞を補ったり、故障箇所の組織を修復していく。このようにして血球から新たに体細胞が造り出されるのである。
 現実としては、現代医学や生物学が言うように体内では、細胞分裂など行われていないのである。食べ物が人体を形成しているのである。その源は食であり、それが腸内で血球となり循環して躰を造る。

 食べ物は食した後、身体の中心部である腸内へと入る。それが腸壁の腸絨毛から取り込まれる。取り込まれた後、血管内を駆け巡り赤血球に変えられる。更に循環しつつ、内臓、筋肉、骨、皮膚などの組織器官を構成する体細胞へと発展していくのである。食が血となり、躰に変わるのである。
 つまり躰とは、食の化身であると言うことが分る。
 そして『身土不二』の思想には、わが肉体とその土地の食べ物は不二である、一体であるという古来よりの考え方がある。

物財主義や拝金主義が依然として蔓延が蔓延る現代、その背景には多くの不幸現象が存在している。
 迷いや苦悩を始めとして、世間には種々の不幸現象が起こっている。

 不倫、離婚、家庭不和、家庭内外の暴力、裁判沙汰、警察沙汰、交通事故や怪我、サラ・クレの借金地獄、子供の非行、少年少女の不純異性行為、自殺、無気力感、孤独感、憎悪感、精神障害
(精神分裂病、躁鬱病、神経症、離人症、自閉症、ノイローゼなどの精神病疾患)、各種犯罪、争い、戦争、天変地異、放浪癖、浪費壁、経営不振、倒産、経済破綻等は、過去から現代に至る連続性に内包された、悪想念から発した不幸現象である。
 そして不幸現象を形作る元凶は、現代人こそ食の慎みを忘れているからである。食を乱したことと無縁ではない。何らかの形で関与している接点がある。

 飽食の時代、それに伴う美食主義の流行は、美味いものと聞けば何処にでも押し掛けていく現象を生み出した。これにより食は著しく乱れた。「肉喰った報い」が美食主義の背景で現象化し、反映されている現実がある。
 今こそ、より善き死に方をするために、食を蔬菜
(そさい)に切り替えていく必要があろう。老いてなお、美食の脂に誘惑されるべきでない。

 蔬菜……、それは決して粗末な食べ物を指すのではない。
 季節ごとの旬のものを、天地の恵みに感謝しつつ、有難く慎んで頂く行為である。そして、それは極めて素朴なものである。簡素を極めるものである。ここに本来の人間が食すると言う行為に立ち戻る原点があるからである。
 素朴・簡素に徹していれば、敢えて食を乱すことはない。不幸現象を引き寄せることはない。

 死ぬ前に食道楽を卒業し、昇華状態に近付けたいものである。老体は出来るだけ素朴に簡素に保ちたい。
 そのためには肉食や乳製品摂取は厳禁である。脂類を体内から駆逐しておきたいものである。
 体内に脂を残留させておくと、脂の未練が引き摺って、かつて嗅いだ美食への欲望を荒立ててしまう。その虞
(おそ)れが多い。それは脂の臭いに惹(ひ)かれるからである。それでは生への未練が露になる。血に騒ぎを覚えるからである。
 血はサラサラにさせておきたいものである。
 老齢期に入ったら、食卓からは脂を取り除いておきたいものである。



●足るを知る慎み深さ

 老いれば減らすことに心掛けねばならない。持ち物を減らすことである。
 また不要な物は排除していく。物財などもその一つであろう。そして、いいものを吟味し、それを蒐集して慎ましく暮らせば、決して不幸現象や禍には巻き込まれないものである。

 物には物霊と言うものが憑いている。
 物霊は物に纏
(まつわ)る種々の欲望霊であり、この霊が時として人間に禍(わざわい)を齎す。したがって者に憑いた霊が正か邪か吟味しなければならないし、吟味するだけの観察眼と眼力が要る。
 その眼力も、長く生きれば、その老いに相応しい見識が出来るものである。この眼力をもって物霊を観察する。
 そして観察結果後、いい物は残し、悪い物は排除していく。

 しかし、いい物を残すと言っても、それは自分のためでない。後世のためである。後世に伝統を伝えるために、生きた証を老いたる者はその責務を負うのである。
 自分さえよければ……という意識をもって老いて、死んではならない。
 最後は足るを知り、慎みを露にして、生きた証の歴史を後世の人間に対して伝達する義務が人間にはあるのである。その伝達義務こそ、「還元」であった。
 還元をもって、後の世に廻るよう根源が復帰するよう作用させねばならない。つまりこれは利益の循環でもある。

 物は循環させ、あるいは伝達してこそ、後の世が栄える。独り占めしてはならない。独り占めして、自分の生前を複雑化させ、後に禍
(わざわい)を残してはならない。単純化して元通りにする。

 世の中は複雑な構造によって動かされている。時代が下れば下るほど世の中の構造は複雑化し、かつてのような単一レベルではなくなってしまうのが現象界の特長である。
 したがって複雑化してしまった事象は、再び単純化する必要がある。
 多様な世の中の複雑箇所を、単一なレベルの基本要素に戻し、世の中を単純化させる必要がある。
 更に単純化に加えて物を活かし循環させるために、特に文化財などの公の領域に達する古美術品などは自分独りの独占物とせず、後世の文化財として還元する働きを持たせることである。

 老いれば安穏なる平穏な生活に固執したがる。若い頃、盛んに抱いた野望は枯れ果てる。
 そこでマイナスのエネルギーを蓄積していくためにも、後世に還元できる「何か」を自身で探し、それを残していかなければならない。
 この「何か」を求めて晩年を生きることこそ、若い頃にはなかった「虚を衝く生き方」である。老齢期に“喝”が入る生き方である。
 物財は生きている。物には霊が存在する。霊的には人間に関与しながら生きているのである。それを活用する晩年期を過ごすべきだろう。それが自らの生きた証の伝達義務であり、後世への還元である。

 人の人生を考えれば、人生は大方前半と後半に分けられよう。
 前半は生まれて幼少年期を過ごし、此処から“物心”と言うものが徐々に芽生えて来る。人情や世襲の理解が始まる。周囲を見る目も育って来る。同時に育つものは欲である。欲しいと言う欲望が生まれる。独占したいと言う欲望が生まれる。欲望を露
(あらわ)にした我田引水が起こる。その遣り方は、如何にも棘々(とげとげ)しい。手段を選ばずと言う側面も浮上する。
 それも自己中心的で“自分独り”という独占物の所持を企てることになる。

 少年期、青年期、働き盛りの壮年期を経て、この時期は自分のために奮闘する時期であり、また奔走する時期である。そして多くは、老齢期を迎え、人生の終盤に差し掛かっても、還元と言う実行をしないまま、老いて朽ち果てる。
 現代の世では、欲望を抱いたまま死んで行く人が余りにも多い。
 こう言う人の家族に限って、後の遺産に関しての相続争いが多いようだ。
 児孫のために美田を買ったからだ。そしてその子孫は、また先代と同じような死を迎え、同じ行為を繰り返すことが多いようである。

 ところが、自らの残した遺産を社会に還元させようと考える人もいる。老いて「円くなる人」がいる。
 自分の終盤の人生を、他者に還元させることに執念を燃やし、その中で埋没していこうとする人も少なからず居る。若い時とは打って変わって豹変する。
 こういう人は、自分一人のコレクターではない。そのレベルに止まらない。また親族に遺品を残すという狭い了見で自分の一族の蒐集品にすることも考えていない。

 生涯掛かって蒐集したものを「公のもの」として、後世に還元することを目的として財団法人を設立して一般に公開したり、博物館や美術館に億単位の一切の蒐集品を寄贈し、後世に伝統や文化を伝達しようと考える人もいる。人は此処に来て始めて、自他同根の意識が生まれる。
 それまでは“自分のもの”と“他人のもの”が分離していた。分裂して境目があった。
 ところが、晩年は自他の意識が薄らいでいくものである。更には、境界線が消滅するから、かつては自分の取って置きの物でも、それを社会に還元させようとする。以降、決して自分の独占物にしない。自他同根の同胞意識の境地に到達するのである。

 こう言う老後を迎える人は、生き方に、考え方に、余裕のある人である。また晩年の生き方を知っている人である。
 まさに、「児孫のために美田を買わず」ならぬ、「子孫のために美田を残さず」である。
 死した後は、跡形残らず物も金も世に還元して去ればいいのである。また、それを自覚した人であろう。

 かつて私は、「子孫のために美田を残さず」を実践した人を知っている。
 その人の言によれば「わたしの人生は罪の連続だった」としみじみと言い退けた人である。自らを自覚した人の言葉であろう。覚
(さと)った人であろう。自らを知る人であろう。
 人間は、若い頃は「恥多き生き方」をする。その一つに傍若無人もある。我が物顔である。勝手気侭に降るまい、人前を憚らずである。

 特にこうした振る舞いは、若い金持ちなどに見られる。
 金を、この世の真理と信じているからだ。金で総てが買えると信じている。金さ言えれば、この世で買えないものは何もないと妄信している人である。特に野望家の自信は、これに由来する。
 ところが、世の中には金で意のままにならないものもある。大富豪と雖
(いえど)も、自分の我が儘に従わないものがあると知る。
 その時に、人は、賢人要素を持つ者は“はた”と気付くのである。

 この「気付き」に思い当たる人は救われる。この警告に気付く人は救われる。
 「わたしの人生は恥多き、我が儘の連続だった。わたしが歩いた人生は罪の連続だった……」という、自らの非の連鎖したことを気付く人である。
 此処に来て、人は目覚める。個人でなく、全体の奉仕と考える。自分の勘定を外す。自分を抜きにして他者に尽くしたいと思う。自分を勘定に入れない。そういう原動力が自他の境目を無くす。

 一方で、貧富の差なく「自分の勘定」を入れる人がいる。自分に、勘定を大いに入れ揚げる。自分次第である。自己中心的の物事を考える。自分が中心人物になりたがる人がいる。
 こう言うのを世の中では吝嗇
(りんしょく)といい、ケチと言う。
 ケチは習気
(じっけ)から来る。過去世の性癖を引き摺っている。

 この種のケチは、金持ちより、むしろ中産階級すなわち自分を“中の上”と意識している人に多く見られる。これこそ、習気であり改造できないこだわりと頑固さがある。
 この種の人は、人前では自分を繕い、虚飾し、等身大以上に大きく見せて、自分を演出により大きく見せ掛けている人である。俗に“穢い”と言う人である。
 ところが、この種の人に穢いと言う意識は毛頭ない。自身では、清く正しく、真面目で不正行為は許さぬと信じている人である。そして最後の最後に、自分の存在する領域を残しておいて、清く正しく、金持ちほどないと信じている人である。
 ところが、この種の人を分析し、観察すれば、意外な側面が浮き上がって来る。

 この種の人には、無意識と言う領域が存在する。この無意識が病因すら発症させる元凶を抱えているのである。
 金持ちほどない。富豪ほど強欲でない。
 この思い込みと思い上がりが、実は無意識の病因を発症させ、思い込みによって派生する無意識は生活習慣病に陥れていることもある。

 無意識の意識は、「諸刃の剣」であると言えよう。この剣の危険に気付かない人も多い。
 気付かぬ儘、無意識に翻弄
(ほんろう)される人である。
 翻弄の元凶には、自分が現象界の罪人であることを知らないからである。いつも正しいこと、嘘をつかないことを全うし、自身では真面目な人生を歩いていると信じている人である。換言すれば、世の中でこれほど危うく、穢い人は居まい。何よりも、自らを真面目一辺倒と信じているからである。そう言う人生を歩いていたと信じ切っているからである。
 私はそう言う人生を“無意識の真面目”と警告している。
 また、無意識で生きていることも、人間が罪人である最たる証拠でもある。

 この証拠に深い反省を示す人もいる。
 自分に覚醒する人である。自らを知ろうとする人である。
 こう言う人は、自分の非をするのが早い。人生を即座に訂正できる。人の生きていることに、畏れ多さを知る人である。
 長年生きて、人生の罪を自覚した人である。

 人生は罪の連続である……。
 この罪に少なからず気付く人がいる。
 自分の罪を贖う人がいる。人の罪まで背負って、それを購う人がいる。
 購う故に、同じ轍を後世の人に二度と踏ませないと、奮闘する人がいる。こう言う人を、晩年に多く観る。

 そして理由は唯一つ。
 それは「還元」であり、還元の根本には深く伝統を厳守し、日本をそれだけ愛しているからであろう。これは国粋主義的な愛国心とは異なる。単に金儲けのために奔走していないからである。儲けた金を社会に還元させる意識があるからである。独り占めはしない。自分一人の独占物にしない。そして、連綿と続いて来た日本の文化と伝統の何たるかを知っているからである。

 背景には日本人の誇りをもって、深く日本の伝統を理解し、伝統と文化を守るためである。
 それでこそ、日本人の魂は死なずである。未練は引き摺らずである。
 此処に日本人の誇りがあり、人としての誇りがある。その誇りをもって、最後は逝きたいものである。そうすれば思い残すことも、未練も引き摺らないものである。
 世の中への還元とは、実にいい行為だと思う。それは自他同根と言う意識があれば、難しいことではないだろう。
 世の中に還元し、老いて、こうあるべきだと思うのである。何も親族で富を独占することではなく、死に態
(ざま)を良好により善き臨終を迎える行為である。



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