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うまく死ぬ法 21

言葉は人間の唇(くちびる)の上で様々に転がり、それには毒も薬も含んでいる。善きことも悪きことも、唇の上に乗る言葉から発せられる。

 毒々しい敵意を含んだ言葉がある一方、実に良き言葉というのもある。良き言葉の条件は唯一つ、それは「佳
(よ)き香り」を放っていることである。

 言葉は、様々な匂いを含んでいる。どんな美辞麗句を発しても、魂胆に卑しさがあれば、それは卑しい匂いが残るものである。言葉に含む幽
(かず)かな匂いは、どんなに繕(つくろ)っても、その匂いだけは消し去ることができない。

 それは言葉に「霊」が籠
(こも)っているからである。日本では霊の籠る言葉のことを「言霊(ことだま)」という。言葉には、言葉に宿っている不思議な霊威がある。
 そして、この霊威を自分の思惑や都合で弄
(もてあそ)んではなるまい。

 「武士に二言はない」と言う。かつてはそう信じていた。誰もが厳守した。約束は履行した。
 当時は言葉を重んじる日本の良き伝統文化があった。言ったことは実行した。これこそが自らを前面に打ち出して、不言実行をする自らの決意を示す行為である。

 ところが二言がないという信頼と信用を示す意志表示は、今や崩壊の憂き目にある。言葉が軽くなってしまった。背景には思惑や都合で覆ってしまう実情があるからである。今日ほど言動が疎んじられている時代はあるまい。


●鍛練心

 本当にいいことは人に教えない。いいことは秘密にする。
 もし人が人に教える場合は、まず消費を繰り返して、半永久的な連鎖をする利権が働く事象が生じるか、あるいは信念によって、「これだけは秘密裏に後世に伝えたい」とする秘伝の伝達の場合が生じた時である。
 それ以外は大抵、利権が生じその利権が血族に及ぶ場合だけである。
 その波及は、血を絶やさないためであろう。血の因子の中に「何か」を封じて次世代に託す。
 利権の多くは、これに由来する。

 それは一子相伝もそれであろうし、その根本には血の伝達と言うものが利権を搦
(から)めてそこに存在しているようである。それは同時に、血への信頼があるからだろう。
 血は信ずるに足りる要素が具
(そな)わっているからである。そして何よりも、血は自分の「映し鏡」であるからだ。一番近いものを感じるからである。

 血筋を引いた後進者が一人前になったとき、そこには前伝達者が下駄を預けてもいい安心感が生まれる。これは不安とは対象的である。信ずるに足りる何かがあるからである。
 この「何か」は自己防衛的なものでなく、また神経質症状が引き起こす建設的な活動を否定することでもない。下駄を預ける対象であるからだ。

 単に自己防衛的なものが先走りして突出すると、例えば病気から身を護ると言うことに専念して、神経質的な恐怖症を招いてしまうことがある。そのため、病気に罹
(かか)らないことのみが人生の最大の関心事になり、結局は建設的な活動が弱められる。
 また信頼感も薄れる。信用に値しないものを感じる。
 こうなると他人の思惑に対する防衛ばかりに偏ってしまう。
 他人から軽蔑されるのではあるまいか……などが、それである。そして益々自信が喪失していく。
 結果的には不安ばかりが募るのである。

 血の要素を活用して、後世に何かを伝えていこうとする場合、そこには民主的な展開はない。
 伝達は権威のみによってなされる。代々の権威である。
 しかし権威が失墜すれば、伝承も伝統もなく、残ったものは不安の要素で充満することになる。
 「何か」をが、防衛機能で凝り固まり、不安ばかりを増幅させるからである。これでは建設的な要素が死ぬことになる。やがては八方塞がりに陥るだろう。そして不安の胤は尽きない。

 見るのはありもしない幻影ばかりである。
 枯尾花も不安と恐怖に囚われれば、亡霊のように映る。
 そう言うものを心に映さない為には、ぐっと踏み止まって我慢する必要がある。観察眼を駆使して正体を見なければならないのである。
 だが不安も活用すれば、不安に襲われても動揺することがない。不安は逆転する。

 何事も極端化すれば、元に戻ろうとする。可逆性である。斯
(か)くして正安定が得られる。
 とことん苦しめば、次は可逆性の形をとる。最悪から這
(は)い上がろうとする。しかし“最悪”は中途半端であってはならない。「とことん」という最悪である。この最悪に陥り、苦しみ、もがき、悩み、迷いに迷って苦悶すればするほど、極端なる最悪に墜落するから、もし此処から這い上がることが出来れば、それを成就した時の安定は大きい。苦しみ抜いた安定である。正安定が得られるのは必定である。

 陽明学ではこれを「事上磨錬」と言う。心の鍛練を指す。
 真物
(ほんもの)を得るには、心の鍛練が必要なのである。
 つまり、とことんという次元にまで一度は墜ちて、そこから這い上がれば真物と言うことである。これには心の鍛錬をしておくことである。ゆえに鍛練が甘く、中途半端だと血は純粋さを失う。不純物が混じり込んで濁る。

 心の鍛練をした先代の血は、その血筋に心を鍛練する要素を持った子孫が生まれる。
 これは、単に親から子へ、子から孫へと言う流れに遵
(したが)わない。確かに因子は伝達されるが、陰性をして保因されるだけで、必ずしも次世代で開花するとは限らない。

 先代の親は、それから四代、五代懸かって六代目に開花することもあるし、逆に北条五代のように、五代目までは栄えるが、六代からは没落するということも起こり得る。
 心の鍛練は、血を通じて百年、二百年単位で伝達されていくもので、親の代に駄目なものが子の代になって開花すると言うことは極めて稀
(まれ)である。もっと時代を下らなければならない。後世を待たなければならない。

 名人の血筋も、子がまた名人になることは少ない。凡夫である場合も少なくない。更には孫の代でも開花しない。ただ伝え伝わり、保因状態の儘で血の中に伝わっていく。この伝達されていく経路が大事なのである。この経路を血によって伝えていくことが大事である。
 その鍛練の証は、即行効果がない為に、代を重ねなければ開花しない。
 先代から数えて、数百年後と言うことも珍しくない。

 大事なのは開花より、経路の根が残っていると言うことである。後を荷なう子や孫が譬え凡夫でも、心は鍛練状態にあり、その環境の中で血筋を育む環境がいるのである。一度環境から離れれば、その環境は絶たれたも同然だから、再び経路の中に復活し、再現されることはないが、環境維持が保たれていれば、何代かの後で芽を吹くことがある。
 心の鍛練をする環境は、仮に紆余曲折する道草行為があっても、血の中での心の鍛練は継続中で、後世に芽吹き、開花する結実の要素を持っているのである。



●予測不可能なデータ情報

 人生に選択肢は種々ある。固定されたものではない。
 運命はダイナミックに流動する。宿命的な要素で決定されたものでない。固定されず、変化に富み、その流動体のうねりは予測不可能である。
 如何に確率論が発達し、アルゴリズムから得られたデータに信頼の置ける数値が並んだとしても、それは何処までいっても確率に過ぎない。データ情報の確率論は、必ずしもその通りになり的中すると言うものではない。

 確率によって得られた信用置けるデータ情報でも、ときとして覆ることがある。
 演算手続きを指示する規則が定型的な技術法で正確を究めたとしても、任意の数値から得られたデータは必ずしも演算通りの結果が齎されるとは限らない。外れる場合もある。
 高度に発達して確率は高まったとしても100%ではない。
 したがって、データ情報の数値だけを充
(あ)てにして不安を解消しようとしても、それは単に気休め程度である。
 長生きする為の予防医学なども、不安解消の気休め程度にはなろうが絶対と言うものではない。背後には不安に付き纏われる陰がある。

 むしろ為
(な)すべきことを遣り、不安を活かして、思い込みに夜自己防衛に偏らず、不安なら不安の中に飛び込んで、不安と、不安を抱える自分が一つになればいい。自分と不安が一体なら、もう不安は存在しない。

 ところが、人間は時として不安を邪魔者扱いする。これを排除しようとする。
 不安を取り除いて安楽を選ぼうとする。
 だが、この選択肢と態度は不安が正しく機能することを妨げ、不安を苦しみと悩みの胤
(たね)にしてしまうのである。斯くして悲劇が起こる。
 不安は自分を取り囲む環境と、自分の心身状態との相関関係において起こるからである。
 つまり不安の胤はいつ如何なるところでも存在し、決して生きている人間にはこれらが生涯付き纏うと言うことである。

 現代人の多くが抱える最大の不安は「死」であろう。死のことを極度に恐れ、怕がり、憎み、忌み嫌う。いつまでも生きている自分の姿を追い求め、そういう長生き人生を目論む人が、現代の世では大半である。

 種々のデータ情報が入り乱れ、複雑な世の中では、数値だけの安心値を追い求めても、結局局面は困難なだけの現実を生み出し、死が自分にとって未経験であればあるほど、死に対して局後に不安を感じ、恐れ、逃げ回るのである。あたかも、死ぬこと悪いような、死に対して罪悪感を抱くのである。
 これでは、死への不安は何処までも追い掛けて来る。
 そもそも死は生と表裏一体である。人間の存在は、存在と非存在が、また表裏一体でもあるのだ。どちらが実体で、いずれが虚体か、その境目が釈然としない。

 死の訪れは誰でも平等に遣って来る。
 だが、人生の最終段階である「死を致す行為」の臨終は、必ずしも誰も平等ではない。
 死のその刹那、安堵して安らかに死んで逝く人もいるし、もがき苦しんで悲惨な死を遂げる人もいる。
 更には、現代は昔と異なり、死に場所が変わった。かつてのように、青い畳の上でと言うわけにはいかなくなった。

 多くは病院で生まれ、病院で死んで逝く。畳の上で最期を迎える人など極めて少なくなった。また誰もが病院のベットの上で死んで逝くかとなると、必ずしもそうでもない。
 若くして悲惨な、筆舌に尽くし難い苦痛を味わいながら事故死をする人もいる。
 特に交通事故などはこの類で、その死は決して安らかなものでない。

 安らかに死ねない現実が横たわっているのである。そして、こう言う死に方をする人は、普段から死について準備していないであろうから、突然に襲った急激な死は実に恐ろしいものになる。この恐ろしさが、臨終を失敗する現実を招く。
 そして、急激に襲う事故死こそ、データ情報だけで予測は出来ないのである。

 端的に現代社会を論じてみよう。
 大衆一般は組織員の一員にされる懸念が高い。人間が、尊厳を無視されて物体視される懸念がある。物である。物の個体である。
 物の個体に尊厳性は薄い。
 単に役に立つか否か。有用か否か。効率的に効用するか否か。益になる加害になるか。更には存在自体が無意味なのか、意味を持っているのか。
 現代人は部品の一部に成り下がった観が強い。

 人間は一つの事象に対して、現代こそワンパターン化されることが濃厚になった。
 ワンパターンで強制され、ワンパターンで働き、その働きに思考性を持たせず、「ただ働く」という結論で締め括られている懸念が強い。
 時間を熟
(こな)す。
 労働時間をこなし、その労働時間に糧を得る根拠があり、それを現代社会はワンパターン化することで「働く」という脅迫観念を植え付けている。ワンパターンこそ、実は本当の恐怖の原罪だった。

 ワンパターンで、毎日同じことを繰り返す。
 これを観察すれば、何か途方もない、いいことをしているように映る。正直者が、毎日コツコツと云う風に映る。来る日も来る日も、懸命なる、律儀で正直な、あたかも二宮金次郎のような勤勉さで働き、その結果、幸福を得るという物質願望への憧れを誘うように映る。
 勤勉は、物に摺り変えられた。感謝は、物で換算される。その最たるは金銭であろう。
 現代は、労働時間は金銭で換算され、その背景に「律儀が存在する」という架空のものに摺り替えられている。したがって、日々の行動律に変化を与えないことが、雇傭する雇用主の特技でもあるようだ。

 日々に変化を与えさせない。変化を感じさせない。移ろいを心の映させない。
 果たしてこの押し付けが正しいだろうか。また、それに遵う労働は、正しく機能するのだろうか。
 この押し付けは、行動律に変化を齎さないからである。
 斯くして行動律はマンネリ化して定着・沈殿し、その従事者の退化と老朽化とともに、マンネリ化も風化して衰退をみせ、「いま、これでいいのか」という疑いを消滅させていく。斯くして、その制約下に在るものは何も考えなくなる。
 ただ働いて、金銭を得て、某
(なにがし)かの生活出来るだけの糧があり、それで老後まで長生きして、肉体が維持でき、それだけで“この上もない幸せ”となってしまった。現代はそう言う思い込みと、錯覚が優先権を握ってしまった。
 これは大変に危険なことではないのか。

 行動律のマンネリ化は、先ず第一に権力筋に抗えない。抑圧され、制御されて、頭打ちにさせられる。
 そうなると、人間特有の霊長類の進化が失われ、「思考する」という機能が錆び付いて来る。何事も深く考えなくなる。深く考えず、長い物に巻かれた方が安楽なる生き方のように錯覚を始める。したがって改善策は失われ、それ以外を考えず、発想せず、ただ流されるだけである。流されて、より一層の安楽を求めようとする。
 その、一見合理主義から派生した発想を「総て」と思い込み、それ以外を否定し始める。斯くして発想は潰える。意向の発想は、安楽の発想にすり替えられ、安楽と聞けば条件反射のように縋るようになる。

 これは「視野が狭まる」というような楽観的な結末ではない。極端化すれば、考えないと言うことは、井の中の蛙になり易いのである。そこから出られなくなる。
 微温湯
(ぬるまゆ)が気に入って、その微睡(まどろ)みに長く浸ろうとする。居心地がいいのである。それだけに出られない。いつまでも長居したいと思う。そして、その周囲しか見えないのであるから、見えるものは総てミクロ的なものばかりである。
 ミクロ的なものを見続けると思考は近視眼的になる。小さくなる。分析主義者となり、データ情報だけを有り難がる。それも、何の疑いもなくである。

 その結果、どうなるのだろうか。
 分類分析、そして細分化に奔り、その狂奔こそ「真理である」という思い上がりを創出する。
 視野を近視眼的に悪化させ、見識を狭め、何事も短絡的な思考に奔らせ、狭窄に陥れ、担当分野以外は何も識らなず、専門家任せとなる。マクロ的思考が退化する。全体像を見ず、事なかれ主義に奔るようになる。また学識経験者や有識者の言を鵜呑みするようになる。
 結局、長い物には巻かれた方が“得だ”という結末に落ち着くのである。
 斯くして自らの頭で考える思考力は失われ、自力で物事の道理を考えたり、疑うと言うことすら無くなり、得と思い込んだ方に流れていくのである。

 実は、昨今の専門家とか、専門主義と言う専門論は、こうした背景に創出されたものである。
 ミクロ的な事象だけを有り難がり、ミクロはマクロに展開できると思い込んだところにデータ主義の落し穴があった。専門家と云う言葉のトリックと、そのミラクル的偽証に、現代人は確
(しっか)りと魅了されrてしまったのである。
 コンピュータ無しでは生きられない現代の世、およびコンピューター無しでは機能しない世の中を、人為で人間が創出してしまったのである。その創出の中に、死までもが創出され、作られると言う世の中になってしまった。
 果たして、いいことだろうか。

 その現実の中で、疎い者とそうでない者、演出力のある者とそうでない者に分類され、結局は支配する者と支配される者を明確にしてしまったのである。
 この明確の違いに、また搾取の仕掛けは存在し、「並み」というレッテルを貼られた備品の一部は以降永久に搾取対象になり、牛耳られ、制御され、操作される対象になるのである。

 一旦こういう階級制度の中で、搾取の憂き目に遭えば、搾取されるパターン化の中で、その個人は永久に部品に成り下がって行く以外ないだろう。
 現代は、搾取の痕跡が実に巧妙であるから、搾取されている、あるいは搾取されたという自覚症状すら齎さないのである。
 そうした社会の変化を、側面に映し出しつつ、時は刻々と流れ、変化の色合いを強めていく。しかし、こうした変化の色合いに気付かない、変化のない毎日の中で現代人は、自覚症状の無い搾取に搦め捕られていく現実もあるようだ。

 そうなると、死すら恐怖の対象となり、死ぬことすら儘ならぬ憎しみの対象となって、ただ逃げ回るだけなのである。
 死ぬと言う、生から死への変化すら無視されてしまうのである。
 死のない、変化のない、ただ生きているだけの生体の“抜け殻”のような老後が用意されていると言うのが、現代社会の側面に横たわっている。
 なぜ死して再生しようとしないのか……。
 斯くして新生は阻まれる。生まれ変わりは無いと唯物論に物体視された結末を迎える。
 死ねば無に帰る。果たしてそうだろうか。



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