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うまく死ぬ法 22

そもそも現象界は大自然の転写が行われている世界だから、自然界で行われている現象は人間にも転写される。その複写を模倣したものが人間であり、人間は大自然の一員に過ぎない。

 自然界の枠から食み出して、人間だけが孤立し独自の世界を生きている訳でない。総ては同根から発している。

 真理は、自然界で起こっている現象は人間にも転写され、複写されるということである。同じ現象が、霊界から顕界へと転写され、転移されていることである。この二重写しは、時間差で遅れて、霊界のことが顕界に再現される。


●俯仰天地に愧じず

 人間の生き方に、『孟子』(尽心上)に出て来る「俯仰(ふぎょう)天地に愧(は)じず」というのがある。
 これは「仰
(あお)いで天に愧じず、俯(ふ)して地に作(は)はじず」ということである。
 下を向き、また上を仰ぐのである。起居をいう。あるいは動静だろう。日常生活の立い居振る舞いのことでもある。

 人間は出来るだけ、己に愧じない生き方をしたいものである。そのように努めなければならない。
 しかし、一口でそう言うが、それが中々出来ないのが、また人間である。その環境を整えるには「運」も必要だろう。運に恵まれなければならない。

 さて、運は確かに廻るものだが、また引き寄せることでも廻って来る。運の演出である。
 運は演出してこそ、努力する他力が訪れる。他力だけを充
(あ)てにしてはならない。根本には自力努力が必要である。
 人事を尽くして天命を待つ……。
 その覚悟が必要である。
 人間として出来る限りの努力を重ね、それ以上の人智を超えた判断に対しては、天に任せて心を労しないことである。それ以上は人間の関知することでない。後は任せるだけである。

 だが運が、いいか悪いかではない。
 任せるとは、努力する他力のことである。他力であるが、他力は廻る法則をもつ。
 則ち、運はいつでも遣って来ている。
 盛運期、衰運期に関わらず、時として時間や場所に関係なく遣って来るときがある。
 運とは特異点を持つもので、周期に頼らず、自分の眼の前に突如顕われることがある。それを衰運期だから外すというのでは、運は永遠に掴むことが出来ない。そう言う寝惚
(ねぼ)けたことを言っておれば一生衰運期だろう。
 それを見抜く眼がいる。

 運はピンチの時に遣って来る場合が多い。八方塞がりの時に遣って来ることもある。
 ピンチはチャンスでもあるからだ。
 周囲が塞がり、二進
(にっち)も三進(さっち)も行かなくなり、総てが閉ざされたと思った時に顕われる。然(しか)も背景に、運の臭いを忍ばせている。
 その匂いを嗅ぎ取って、掴むか、見逃すかが問題となる。ピンチをピンチとして捉え、飽きらめれば、それまでだ。もう、廻ることは無い。そこで潰える。

 そもそも衰運期こそ、これから先の「上がり調子」を裏付けるものである。
 この時期に限って厳しい試煉
(しれん)のときが遣って来る。よりによって……というときに顕われ易い。
 眼の前に顕われて、掴むことが出来れば運のいい仲間入りが出来、何もせずにぼんやりして見逃したり、今は衰運期だからなどと寝惚
けたことを言って先送りすれば、先送りで生涯が終わることになる。一生、先送りの儘である。おまけに先送りしたツケまで払わされる。
 最後の帳尻合わせは、プラス・マイナス=ゼロであるからだ。

 プラスに偏り過ぎればそ、れ分だけマイナスが生じ、マイナスでへこめばその分だけプラスが生じて、結局『人生の貸借対照表』はプラス・マイナス=ゼロで拮抗
(きっこう)を取るのである。

 自力・自前の自立精神に欠けていれば、遂に、運は見逃すのである。易々と通り抜けてしまう。
 逃がして過ぎ去れば、再び訪れることはないのである。
 世の中には今の局面を難事と考え、生涯先送りして、「明日があるさ……」などと寝惚けたことを言い、一生を寝惚けたまま終わる人間の何と多いことか。
 明日などはないのである。今しかないのである。今遣らなければ、もう遣ることは無い。
 そして“遣れば出来る”ではない。
 今遣らなければ、もう永久に遣れないのである。
 遣れば出来るのではなく、「今やろう、ゆえに出来る」なのである。先送りは実に虚しい。負け犬の遠吠えだからだ。

 寝惚けた一生には、寝惚けた臨終が遣って来る。冥
(くら)い儘の最期である。
 先天的に生まれがいいなどの人間は、そうざらに居るものでない。
 多くは凡夫
(ぼんぷ)のままで、中くらいの、何の才能も発揮できない状態で生まれて来る。暗愚で生まれてくる方が圧倒的多数である。
 だが、その位置に固執すれば、固執したままの一生で終わる。
 それが厭
(いや)なら、自力努力する以外ない。奮闘するしかない。
 運は惹
(ひ)き寄せる以外ないのだ。いい死に方をするためにである。

 生まれがよくても、引き寄せ方に問題があれば、運は去って動いてくれない。自分の方から運と一体になろうとする努力を怠れば、それきりである。運は近寄らない性格を持つ。逃げの一手である。ボヤボヤしていると足早に去って行く。

 輝かしい未来が暗示された生まれの者でも、惹き寄せる魅力がなければ、運はそっぽ向いたままである。それを惹き付けなければならない。懐手で構えてはならない。自らのアピールが必要なのである。挑むことだ。自分から向かうことだ。
 アピールせずに、自分で難儀だとか、無理だと諦めれば、それまでである。
 そっぽを向かれたら最後、もう二度と振り向かない。
 運は引き寄せてこそ、人生に意義がある。それには諦めないことである。向かって挑むことである。

 諦めて閉ざしてしまえば、永遠に閉ざしてしまうのが運でもある。挑むか、また難儀に諦めるか、二つに一つの選択肢しかない。
 しかし基本は、「俯仰
天地に愧じず」の生き方をしたいものである。
 これを誤れば、“極楽という名の地獄行き”は免れないだろう。悪想念の幻影に苛
(さいな)まされるだけである。

 斯くして歓喜
(かんぎ)が去り、外邪と交信して、悲しみとか苦しみと言った想いばかりが増幅される。地獄的なものばかりが膨らんでしまうのである。
 本来の天国や極楽の意志は、人間の喜びの中にあるのである。悲しみや苦しみの外邪の意志の中にあるのではない。

 俯仰
天地に愧じず……。
 歓喜溢れる意識を抱いて、天地に愧
じずの言葉を肝に命じたいものである。
 そのためには、一度信じた神仏を捨てることである。外邪に汚染された神仏を抱えても仕方がない。神仏にしがみついているから、小事に囚われ大事を見失う。小さく囚われた制約の多い神仏はゆとりと余裕の無い神仏であり、これは自分自らが作り上げてしまっている場合が多い。自称の神仏である。こう言うものを拝み、信仰しても百害あって一利無しである。
 自己の歪んだ心が作り上げた神仏は、信ずれば妄信となり、妄信は信ずれば信ずるほど殆
(あや)うい。

 宗教において、信仰の対象とされる神仏は、自分の悪想念で染められていることが少なくない。
 自分で勝手に作り出した神仏は狭くて、窮屈で、制約ばかりが多く、金銭を要求し、小さく凝り固まった神仏であり、外邪と交信をもつ神仏である。
 教義や教理、また拝礼や形式、更には修法などの行は自分の外に置いた囚われた信仰であり、段階としては低い信仰である。

 こうした低い信仰で、寺院などが偶像化されていることも少なくない。世の中にはそういう社寺がゴマンとある。更にはそう言う寺院に限り、外邪の住処
(すみか)となり低級霊が棲み付いている。
 人は神仏を信じつつ、実は迷信に墜
(お)ちていることが少なくないのである。

 現世ご利益……。
 虚しい願望である。虚しいとう遠吠えである。遠吠えは負け犬の専売特許である。
 一方、自力で努力する他力こそ真物
(ほんもの)であり、念仏宗如くの他力本願一辺倒で成就することはあり得ないのである。
 その道は他人が歩かせてくれることはない。道は、自分が歩くのである。自分の足で歩くのである。誰も肩代わりはしてくれない。
 また、他力本願で誰かが救ってくれることはない。自分は、自分で救うのである。

 俯仰
天地に愧じず……。
 一度、大空を仰いで天に向かって大きく深呼吸し、今まで偶像化された神仏を捨てて、根本から心の洗濯をしてみるべきである。
 裡
(うち)には神がいる。外ではない。裡側に鎮座している。
 まず天を視よ。天は裡二神がいることを示している。
 また地を視て、道に外れていないかを自分で自分を点検するのである。
 己を空しゅうして真の惟神の道に沿っていなければならない。これこそ、「あるが儘」なのである。人為を加えない神慮の儘である。
 これを惟神
(かむながら)という。
 日本には、神慮の儘で人為を加えぬ日本固有の道があった筈である。



●肉眼信仰の愚

 人為で作り出される流行は、定着してしまうと恐ろしい。何故なら常識として定着し、固定化されてしまうからである。

 これには思い込みや固定観念が入り乱れて、考えなくなった現代は、他人に流されることが多くなり、特に芸能や報道などの仕掛人が企てる流行は、個人主義に奔
(はし)り易い性質を持っているため、一度奔走すれば“悪しき個人主義”に傾いて行く。個人の欲望だけが膨張する。
 そしてこの傾きは、人間の正常な判断すら狂わせてしまうことがある。

 遂には、世の中の種々の事象を観測しても、肉の眼を向けているだけで、裏が読めない。
 「これは何処か訝
(おか)しいぞ……」という観念を抱かなくなる。
 肉の眼に頼っているからである。勘が働かなくなり退化すれば、結局こうなる。危険信号の警報が聴こえなくなるのである。
 斯くして、人のしていることは真似た方が、楽で便利であるという方向へと走り出す。疑う気持ちを抱かせなくなる。それは眼に訴え、映像で迫って来るからである。映像だけを真実として信仰する。これが現代の「肉の眼信仰」である。

 人間は肉の眼で確認する映像のみで迫られれば脆
(もろ)い。肉の眼の事象を真実として信じる。
 逆に、高度なものほど敬遠され、高度なものは、肉体的には感応が殆ど無くなってしまうからである。暗示的なものが、映像とともに迫るからである。そして映像に誑
(たぶら)かされる。

 低級なものほど、現実界とは紙一重のところに鎮座している。
 特に金・物・色という物質界の申し子は、そこから起こる感応は強く、更には尤
(もっと)もらしく映るのである。肉の眼には直ちに反応する。そして「魅せられる」という心の歪みが生ずる。

 この歪みは、自己主張を露
(あらわ)にし、慎みを忘却させて、乱すことと、動揺させることばかりが主体であるから、直ぐに力関係が生じ、強者が弱者を虐(しいた)げる不公平が生じる。
 また、流行は不公平すら忘却させ、思考力を奪い、疑うことの正しさまで忘れさせる。真実は曇らされる。見えなくなる。
 更には思考力の低下の中で、仕掛人の仕掛けが巧妙な装置であれば、迷信であっても、安易に信じ込み、それを信じる人が多くなればなるほど、信ずる想念によって実体化し、有力な幽界世界まで作り出してしまうのである。
 現に地獄などはその最たるものであろう。

 本来、何も無いところから物を生み出し、またそれが地上界に反映する。その最たるものが現代人の信奉する物質界である。
 反映は現実を見せ付け、それがネットワークで網羅することになる。
 これを思えば現代こそ、金・物・色に動かされ、冥
(くら)い幽界世界とぶつかり合い、自己と幽界を陸続きにしてしまうったである。
 新興宗教の多くも、此処と陸続きになっていることが少なくない。そして人民の思考を誤らせるのは、洗脳による低級霊との交流である。交流すると、凡夫は易々と誑かされる。
 実際に憑衣状態を作り出してしまうのである。無から有への移入である。物が生まれるということは、有への移入によって行われるからである。

 特に心・言・行が一致していない時には在
(あ)りもしない世界を作り出して、錯乱する分裂の憂き目を見る。細分化して中心から離れてしまう。
 悪い事には、浄化しない物ばかりに触れてしまう。
 また、それを好み、偏ることになる。更に肉の眼のみで感応しているから真物が見えなくなる。偽物を真物と思い、黒を白にしてしまうことである。
 斯くして悪い企みを含んだ、悪い行為に心身とも墜
(お)ちていくことになる。

 邪智に誑
(たぶら)かされるとは、心・言・行が一致していない時に起こることが多い。
 斯くして流行を追う道を選ぶ。更には言霊まで乱してしまい、正しい日本語まで忘れてしまう。言語に歪むが生じ、濁りで汚染することになる。
 訊
(たず)ねても、正しい言葉を知らないために、あるいは忘却したために、訊き方も分らず、応えを返されても真意が理解できないのである。

 昨今の日本語の乱れは、今や国籍不明状態となり、何処から何処までは日本語で、何処から何処までが外国語だか、その境目が曖昧になってしまった。
 更には、語尾のイントネーションの“疑問符系”の跳ね上がりも、会話の中に多く登場するが、これなども日本語とは程遠い国籍不明の言語が流行し結果であり、それが今や定着しようとしている。
 これまで連綿と続いた日本語の美しさは、流行仕掛人によって破壊され、それが一般に流布されてしまったと言う感じである。

 斯くして現代では、古来から受け継がれた善き伝統や風土、日本精神と言ったものは悉
(ことごと)く失われたと言えよう。
 現代日本人は急速に言霊を失い、言語を日本語以外に置き換えようとしているのである。この摺り替えに気付く人は少ないようだ。

 現代人の多くは金・物・色で、総ての価値観を計る物差しで世の中を偶像化してしまった。
 古来からの長き伝統を有する宗教集団や寺社があっても、そこは邪智に占領され、巣窟になっている場合が多い。人の願いを落した外邪で爛
(ただれ)れている。

 世の中はスピード時代である。
 何事も足早に過ぎ去っていく。その時だけがよければという行楽に染まってしまっている。
 今が楽しければいい……と言う刹那的風潮が、遣い捨て時代を繁栄させているのである。物のへの繁栄である。利潤だけの追求である。
 また全体のことより個人が中心である。自分の利益を優先することが眼目に置かれてしまった。

 その一方で、敬愛、誠心、忠孝、道義といったものや神仏や先祖と言うものは蔑ろにされてしまった。
 眼に見えないもの、棚の無いものに対しては、悉く迷信と決め付け、古くさいものであると一蹴する。こういうものを“時代遅れ”と侮蔑する。悪態をつく。

 至る所で、有識者や知識階級は唯物科学主義を振り翳
(かざ)し、アルゴリズムで生じたデータ情報のみを真実とし、欧米の権威にのみ傾倒する。データ情報から得られた数値は、事実の裏付けの証拠とし、何の疑いもなく受け入れ、挙(こぞ)って、わが物にしようと奔走する。ネット社会の現象である。

 しかし、その結果、現代の日本人は、日本民族はどうなったか。
 その国の将来は、その国の明日を担う青少年を見えれば分る。
 現代の日本の青少年の現状はどうだろうか。
 食生活と生活様式の西洋化に伴い、図体と体格こそ立派になり、また知識面では世界水準にあるのかも知れないが、人格形成は欠如し、道徳的観念は薄く、人間として優れているとは言い難いものが実に少ない。益々情報で操られるばかりである。

 そして昨今は若者に限らず、老若男女までもが肉体的享楽に現
(うつつ)を抜かし、打算的個人主義に奔り、金・物・色の他にはスポーツやレジャー、セックスや、それに準ずる映像を追い掛け、エンタテイメント、グルメ、ギャンブルなど、凡(おおよ)そ人格を磨いて霊性を向上させるという往時の人が心掛けたものとは程遠いものになっている。
 むしろ害になるものばかりを追い掛け、夢中になり、汲々
(きゅうきゅう)としている。

 現代ほど、日本の有史以来、かつて無かったほど墜落してしまったのである。そして、その墜落に気付かないと言うのが、また現代の、何も考えなくなった時代の特長だと言えよう。
 またそれだけ、うまく死ねるチャンスも少なくなったと言うことである。

 筆者である私は、もう直、齢
(よわい)七十に迫る。
 過去を振り返れば、日本人にとって、休日が本当に休むだけの日になってしまったのはいつの頃からだったと思う。一体いつだっただろうか。

 私は、とっくに年齢的にはリタイヤ年齢である。
 ところが朝夕の風景には、仕事で、朝のラッシュ時、またそれに帰宅のラッシュ時には時々遭遇するが、特に帰りのラッシュ時に、疲労の色を浮かべた、会社員達と肩と肩がくっつき合わせて電車に乗ることがある。私も、老いても労働者であるからだ。

 大抵のサラリーマンは月曜から金曜まで太陽の出ている時間帯は、会社で体力と意欲を消耗させ、家に戻ると、翌日の精力を蓄えるのに「寝るだけ」で精一杯という日々を過ごしているのではないかと思うのである。

 私も、かつて会社を経営している時は、朝早く会社に出向き、また帰宅はいつも深夜だった。そして寝るだけが精一杯という日々を送っていた。
 しかし寝ても、それだけでは解消しきれないことがあり、疲労の回復は週末を待つことになるが、会社員ならそれでも済まされようが、経営者となると責任上、土日出勤も辞さなかった。
 休日の日まで一年中、盆も正月もなしに働いたことがある。
 当時は苦労人の世界を彷徨っていた。この迷走は会社が倒産するまで続いた。
 そういう苦い経験をもつ私であるが、日本のサラリーマンは解消しきれない側面を抱えて多忙に追われているのは実に気の毒なことである。

 疲労の皺寄せは週末に来る。
 日本のサラリーマンにとって、休日が、本当に休むだけの日になってしまったのは昭和三十年代以降の高度成長の頃であろうか。
 経済は鰻上りで好調を究めたが一方で多忙に追われて、時間も、かつてのんびりとした田舎時間から都会時間に急変した。地方都市までもが都会時間に変貌してしまったのである。
 かつてのように、休日が楽しみのために存在したという日々は遠退いてしまったのである。

 思えばそれは何故だろう。
 何ものかの意のままに「動かされている」あるいは定年まで自転車操業的に「働き続けねばならない」という組織の仕掛けの歯車として機能させられているからであろう。

 戦後、小さな諍
(いさか)いなども経て、紆余曲折はあったものの、見える限りの肉の眼で検(み)ると、今の日本は、それなりに落ち着いているように映る。
 そして多くの日本人には、少なからずの不平不満はあるものの、現状に満足を覚え、休日がただ疲れを取るだけに費やされたとしても、「それがどうした」と、一蹴してしまいかちであろう。

 しかし、それは肉体の休息であって、精神の休息でない。
 心には疲れが残留するような一面がある。
 魂に潤いを感じない不完全燃焼が、知らず知らずのうちに蓄積され、長らくの堆積物になっているのではないか。
 その疑いは大いにあろう。
 しかし、この堆積物のことを多くは何も考えもせず、また忘却して行くばかりである。その後のことを考える人は少ないようだ。
 考えずに権威筋の言うことを鵜呑みにする。
 昨今の日本人の実情のようである。

 食生活一つ挙
(あ)げても、今日の欧米化の側面には、昭和三十年代頃からテレビで盛んに云われた「タンパク質が足りないよ」が、今でも耳についているのではないか。その余韻を引き摺っているのではないか。
 それが昨今の動蛋白信仰を支えているのではないか?……という気さえするのである。
 かつての「タンパク質が足りないよ」の言葉の摺り替えとして、今は「肉はスタミナの元」という現代栄養学奨励のスローガンではないのか。

 もしそうだとすると、此処には、何かが企てられているのではないか。そう思えて来る。
 ご都合主義のゴミ捨てに日本人庶民の胃袋は改造されてしまったのではないかと言う疑いすら生じて来る。
 昨今のご都合主義を考えれば、まんざら事実無根でもあるまい。流行によって、メディア筋の仕掛人と、現代栄養学の権威から仕掛けられているような側面があるようだ。それに食物メジャーも絡んでいる。動蛋白信仰が未だに信心されている。その信者も多い。

 では、天からの借り物の肉体は、最後はどうなるのだろうか。汚しに汚した肉体を、臨終時には、どういう結末を辿って返還するのだろうか。



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