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うまく死ぬ法 23

知識のみで、単に専門家的な知識を所有しても、それ以上の効果は顕われない。
 現実やそれを解決する効果を求めるには、知識を活用して、知識を一段階進めて智慧
(ちえ)に変換して始めて、これが始めて成就する。智慧を通じて見識が加わるからである。

 ゆえに智慧は、人間を変えるような人生の教訓でなければならない。
 有機的に結びつかない空白的な知識の集積だけでは、それは殆ど智慧になり得ない。ただ知っているだけの範囲に止まる。
 実践が伴って、始めて智慧になり得る。

 例えば、一つの問題の見方や検討策ならびに解決策は、初期では知識が物を言う。知識が針路を示す。
 しかし知識だけでは問題解決にならない。先へ進まない。机上の空論に止まる。そこを一歩も出ない。
 実践が伴わないから、仮に知識に達観していたところで、現実問題として起こった事柄は対処出来ない。智慧の出し合いでは、どん詰まりである。それを超越したものがいる。

 現実問題をどうするかは、これまでに得た経験や体験、更には、人格や判断力や実行力が物を言う。この場合の条件は、見識がある場合に限られる。


●地獄道の始まり

 地獄は人の悪想念が作り出した幻影である。心の恐怖から起こった心象化現象である。
 本来、存在しないものが、あたかも存在するように映り、幻覚が作り出した世界が悪想念から生まれた地獄である。幻影・幻覚の像があたかも起こっているように出現する。
 斯
(か)くして、人は地獄を見る。
 意識には、勝手に描いた幻影や幻覚が映る。悪想念が描いた地獄絵である。

 そして相対界は、常に善と悪、正と邪の関係が、表と裏の不即不離の関係にあり、相対する両者は拮抗を保ち、調和しているものだが、善を善だけとし、正を正だけとして表裏関係の他方のみを切り離して考えると、表だけを観て裏を観ないことになり、その見逃しにおいて、深部に潜む悪とか邪と言うものを見逃し、自分勝手な恐怖蓄積の想念の世界に押しやられる。
 実体が分らぬまま在
(あ)りもしない恐怖に怯(おび)えるのである。

 つまり、全体的な拮抗や調和を考えずに一元論で考えてしまうと、近視眼的思考に陥って視野を狭め、実体を見逃してしまったものへの恐怖と怒りと、憎しみと恨みが、実体でないのも関わらず、勝手な妄念から怨霊化して、怖れだけが増幅され、違和感と不協和音は、より一層大きくなるのである。

 ここに恐怖が作り出す地獄の世界が、悪想念となって心に巣食うのである。
 悪想念が在
りもしないものを引き寄せたことになる。
 これが在りもしない妄想・妄念が作り出す現象である。
 地獄と言うのは、人間の歪
(ゆが)んだ心に映った恐怖と妄念が生み出したものである。
 本来は存在しない。心の歪みが恐怖を掻き立てて、地獄と言う独自のものを作り出してしまった。これを地獄と言う。

 想念から起こる歪みは時として人の心を歪める。歪めば本来無いものがあるが如くに虚映を作り出す。そして虚映を信じる人が多くなれば、本来はない筈のものが霊的に作り出され、これが物質界に実体化して顕われる。

 無い筈の地獄でも、恐怖を地獄的に捉え、更に憎み忌み嫌えば、実際には無いものが実体化して創出するのである。地獄絵は人のホラー的な恐怖心が作り出したものである。怪奇な趣向で興味本位の恐怖は、時として地獄的幻覚を現実に在るが如くに作り出す。
 虚映・虚像でも一度実体化すれば、心の歪みから、物質界ではあるが如く、存在するが如く出現する。そして、人の死もこのように捉えれば、意識体は実体化した虚像に惑乱されて搦
(から)め捕えられてしまう。

 在りもしないものが、現実に在るが如く映る……。
 心の陰として映ったものを在るが如くに捉え、搦め捕られて雁字搦めになる。金縛り状態になる。
 そして、この状態を信じる者が多くなればなるほど、無いものでも現実化してしまう。心の歪みから生じたものが、多くの人の心の歪みと共鳴し、共有すれば、無いものでも実際に在るが如くに映し出されてしまうのである。この現象を見る者が自分と同一波調であれば、同一の幻覚を共有することになる。

 意識体はこのようにして、現実には無い世界に誘導されていくのである。そして人間は死ねば、則ち肉体と言う衣服を脱げば、その人は意識体となって想念状態におかれ、最も波調の合う世界へと誘われていくのである。

 死は、肉体が死ぬことである。肉体を脱ぐ行為が「死を致す」ことなのである。
 臨終は人の肉体の最期の姿であり、行為である。死に臨むことである。死に際
(ぎわ)である。
 今際の際に辿り着く。その際、臨終正念と言うものがある。死に臨んで、心乱れず、往生を疑わないことをこう言う。

 また念仏行者の世界では、臨終の際に来迎
(らいごう)するという、阿弥陀仏およびその聖衆(しょうじゅ)となり、臨命終(りんみょうじゅう)の仏となる信じられている。
 「あの世」という世界は波調の世界であるから、人が死ねばこれまで物質的要素の固まりであった肉体は、内分から遊離して、それぞれに顕われる意識の中に入って行く。

 生前の物質界では、高いものも低いものも、同一の「肉体」と言う次元の一つの枠の中に納まっていたが、人の意識はそれぞれに異なっていた。熱心な且つ敬虔な唯神論者もいれば、神仏を信じない無神論者もいた。更に同じ唯神論者でも信じる世界が違っていた。
 地獄的想念を持った者は地獄の存在を信じ、また一方で天国や極楽を信じ、地獄への恐怖から、まず行いを糺
(ただ)して、傍目(はため)からは天国的な行為をしている人もいる。自分の死後をよくしようと企てる人である。

 自分では、自分の死後を天国行き、極楽行きと信じ込み、死後は仏や菩薩の来迎を受けて阿弥陀如来の膝元に……と願っていた人も、肉体を脱げば想念状態になる。神的な想念をもつ人は神的な意識が顕われ、獣的な想念の持ち主なら獣剥き出しの自己の意識が出現する。

 ところが、この意識の多くは自分が極楽行きと信じていたところで、実は極楽行きなどではなく「極楽のいう名の地獄」に堕
(お)ちていくこともあり得る。天国行き、極楽行きは単に思い込みに過ぎなかった。

 肉体と言う殻の衣服を脱ぐと、意識体のみが出現するからである。真の自分が顕われる。
 それが有りの侭
(まま)の姿になって、自己の意識に反映される。そして、意識に反映される場合、人さまざまである。
 その人の感性にもよろうし、臨死体験があるか無しか、死について知っているか否かにも懸かる。智と無知の関係に左右する。また思考にもよろう。思考もマクロ的思考を持つのか、細分化し、専門化した狭い視野と分析データで判断し、その世界しか知らない知識のみに固執すれば、当然その意識は狭められた意識によって反映される。

 世の中には聡
(さと)い人と疎(うと)い人がいる。人を大別すると、大方がそうなり、賢か愚となる。その中間がいてもいいようだが、厳密には中間と言うのは表現が曖昧でその境目が釈然としない。
 世に「普通」と云う言葉がある。実に抽象的な言葉である。曖昧な意味合いで“普通”という言葉でいい表せば、広く一般に通じ、何処にでも見受けられる“並み”とか“見慣れた”という表現であろうか。何ら極めて目立った特徴がなく、“有り触れた”ということであろう。

 しかし、この“有り触れた”という人の中にも、賢愚が存在している。そして“普通”と云う言葉こそ、多くの単語を持ち、例えば普通と名付けられるものに特殊性とか特別性を持たない語源が割り当てられている。普通課程と言えば教育現場で多く見られる言葉で、普通教育などもそれであろう。専門課程に対して一般教育を指す。

 また、軍隊でも普通科部隊と特殊化部隊、特課部隊などに分けられ、特殊性を持った部隊は普通科部隊に対して部隊の中枢を担い、然も特殊性において一般歩兵よりゲリラ戦に転じるような少数において大敵を破る訓練を行う。そして分布配分を観て見ると、特殊性なる任務を追うものは少数であり、旧軍隊のような一般部隊の歩兵は圧倒的多数である。勢力も、一般部隊の歩兵の数で数えられ、それを含めて総兵力にする。
 しかし、現場の内部や眼に見えない配置では特殊性を持つ工作があることは事実である。そして勝敗を決する場合、一般とは異なる特殊性を持った隠微な集団が深部に暗躍して防諜などで転覆させるのは、よく知られたところである。

 察するに、特殊訓練を受けたものは聡い者であり、全体が見通せる者であり、この場合、専門家という狭い領域から逸脱して、全体像を見る力がなければ、工作などはあり得ないと言うことになる。

 世の中には事実として聡い者と疎い者がいる。敏感に気付く者と、全く意に介さない鈍感な者がいる。前者は圧倒的に少数であり、一握りの階層である。一方後者は圧倒的と形容がつくほど大多数である。絶対多数である。
 また聡い者を賢者といい、疎い者を愚者と言う。
 世をつらつら顧みれば、世の中は今や民主主義花盛りであるから、圧倒的多数、絶対多数から選ばれた被選挙人が勝利する愚者の代表者で動かされていることになる。

 代表者は自分の愚に気付かず、賢者の真似をして言葉巧みに理論武装し、愚者を前に演説の一つも噛ませ、言葉尻を捉え、指弾し、捲
(まく)し立て、あるいは敵対者の揚げ足を取り、一方的に遣り込めれば、多数決に原理は言った者勝ちに軍配を上げるのではないか。
 愚を賢に見せ掛け、愚人を煙に捲いて、正体を隠し、雄弁家であるとしたら圧倒的多数の挙手はどちらに向かうだろうか。
 恐らく勢いのいい方、見掛けのいい方、外見のいい方に傾くのではないか。その懸念は否めない。

 この配置分布により、賢愚を分け、「生の哲学」と「死の哲学」の人気投票をしたら、果たしてどちらの支持者が多いだろうか。
 現代の世を振り返れば、一切が生の哲学で動かされていることが分る。生の哲学のみが圧倒的多数に指示されているからである。
 生のみが優先され、死は悪者にされ、死ぬことは悪い事になる。生のみが正しいとなる。

 いつまでも生き続け、長寿を保ち、老いても派手に若作りをして、若者と交わって一緒にはしゃぐ。老若の差なくし、平等に、対等に、合い言葉に議論を交わす。老幼の差など一切お構えなし。そして年齢は存在しなくなる。
 あるのは若いか年寄りかの弱肉強食のみが存在する。強ければ年少者も年長者を上回る。
 年少者は年長者に「お前」という。
 年長者も人間は“みな平等だ”と思い込んでいるから、年少者に遠慮気味に「あんた」と呼称する。
 何故だろう。
 “お前”と言われて、「なぜ敬語を使わない!」と、そう叱咤する老人がいなくなったのだろう。

 存在するのは、能力における世の中を動かす中枢に居る者だけである。能力における階級だけである。
 時代は動き、能力や効率のみで考えられるようになった。此処には老幼の年齢差は存在しない。あるのは能力であり、またその能力の伴う財力だけである。問題は財力を基準にして、富んでいるか、貧しいかだけである。
 能力差……。
 これのみが存在価値を判断する。
 老人が蔑ろにされる時代。それが二十一世紀なのである。長老が崩壊した時代。それが現代なのである。

 今日では年長者が年少者に向かって「その言葉は何だ!」と叱咤する年寄りは居ない。
 「俺は年長者だぞ。年上だぞ!」と毅然と胸を張る矍鑠
(かくしゃく)とした年寄りは殆ど居なくなった。
 年長者であることを誇れる年寄りは、多額の財産や多くの資産を持つ年寄りだけである。
 大半の年寄りは、老いれば養老院などに身を退く画策をして老後の設計を立てている。わが子にも、何かしら遠慮気味である。したがって昨今の年寄りは、自分の死を目前に控えながら八方美人にならざるを得ない。
 それゆえ、年少者から嫌われることを恐れる。あたかも死を恐れるようにである。
 能力別階級社会が、その側面に老いを恥じとするような社会構造を作り出したのだろう。況
(ま)して死は以ての外であった。

 そして現代の世に存在するものは、相手が何処に属しているかの能力的階級のみである。
此処には男女の差もない。あるのは能力的に優れているか否かである。能力の世界も、武力とは関係無しに、ネームバリアがあり、それが優越しているか否かだけである。

 その能力が、支配者たるべき位置にあるならば尊敬され、そうでなければ“その他大勢”で微生物視される。
 その他大勢に十把一絡げにされたくない年長者は、したがって、いつまでも元気で、健康で、長生きできる体力を持ち、若いということを目指して、涙ぐましい若作りの作業に励む。
 いつまでも生き、永遠に近き若さを持ち、若くあることが現代の世の中の美意識である。昨今の種々のサプリメントの大流行は、このことを雄弁に物語っている。

 かつてはよく言われた“老害”も多くは老醜から来ていた。老いは醜いものであった。古い考えに取り憑かれた旧態依然の長老思考は、かつては醜さの代表として数えられていた。
 ところが、現代の美意識はどうだろうか。
 老いを、醜いもの、穢いものから遠避けようとする意識が働いているのではないか。生に縋り、若くあることが正しいとされて来た。老幼の境界線が崩れたと言うべきであろう。年齢不問の時代に傾きつつある。これは「長老」の崩壊ではなかったか。

 斯
(か)くして、死は途方もなく恐ろしいものになるのである。
 恐ろしい故に、悪想念で作り上げた在りもしない地獄も、怪奇なる恐怖思考のバーチャル思考で作り出したホラー以上に恐ろしいものになる。


 ─────他人を抑え付ける支配層を権力と言う。人民を支配する力を権力と言う。
 強制力を、そう言うのである。
 優越する力のある方は、それ以外の対象を被支配階級と見下す。
 あたかも顕微鏡下の微生物を見下すように……。
 その生物の生死を、一匹や二匹が死のうと生きようと、それがどうした……というふうに。支配者の眼である。被支配者への感想である。
 人類の歴史を辿れば、洋の東西を問わず権力者階層にはゴマンとある話であるが、それを語ろう。

 ある権力者と美人妻の間に、西暦××××年×月×日、一人の男児が生まれた。そして取り巻きの占星術師たちは、挙
(こぞ)って輝かしい未来を予言した。
 また、その道の識者たちは、その人相を観て、やがて偉業を成し、将来に赫々
(かくかく)たる殊勲の業績を記す途(みち)が開かれていることを予兆した。

 これらを聴いた権力者は、自らの念願が適
(かな)ったと安堵(あんど)した。誕生を祝って祝砲が鳴らされた。軽業師や踊り子たちが種々の芸を披露し、世継ぎの誕生に色を添えた。集落から選び抜かれた俳優も祝いの観劇を演じてみせた。
 慶事を記念する種々の催しが行われた。

 権力者は神に感謝の祈りを捧げた。嫡男の誕生に感謝をした。
 その感謝のしるしとして、権力者は何人かの罪人に特赦を与え、借財を負った者に対して徳政令を適用し、大きな酒樽を持ち出して大宴会を催し、取り巻きの者と祝杯をあげた。
 用意された料理は大量を極め、その種類も多種多様に亘った。そして宴会最後の料理の締めは、果物や砂糖を交えて乳製品で作られた特製デザートだった。

 権力者の男児は可愛らしい様相を見せつつ、元気一杯にすくすくと育った。模範的と言うような健康優良児であった。こうして男児は幼少年期を過ごす。
 持って生まれた躰は頑強で、動作は機敏であり、知的能力にも恵まれ、また頭の回転も早く、もうこの頃になると「神童」の名を恣
(ほしいまま)にしていた。そのうえ権力者の嫡男である。我が儘も出来た。何不自由なく育った。

 その一方で性格は穏やかで、思慮深く、知的吸収能力は旺盛で、然
(しか)も多くの教養を身に付けた。
 青年期になると語学に堪能となり、一見文学青年を思わせ、スポーツも万能。容姿も端麗で、マスクも彫りが深く、女好みの面であった。良家の娘達は、挙って妃志望に殺到した。
 選ぶ側は、選り取り見取である。そして一人に絞られた。
 やがて、血筋も申し分のない良家から妃を迎えた。

 勿論、妃は天下逸品の類真似なる絶世の美人で、頭もよく、物の呑み込みも早い。表面的には殆ど非の打ち所がない。
 そして多少の紆余曲折の途を歩きながらも、権力者の二世として頂点に躍り出た。

 このように語れば、まさにいい星の許に生まれた優れた人間の幸福劇である。
 家柄にも、先天の好気
(好機)にも恵まれているように映る。総てが申し分ない。
 遣
(や)ること為(な)すことは総て思い通りに運び、順風満帆の途を驀進(ばくしん)する。

 しかし、忘れてはならないことがある。
 好事魔が多し……である。
 順風満帆は、とかく魔が巣食い易い。この魔の恐ろしさを知らず、怕
(こわ)いもの無しでは前途を危うくする。魔が巣食い、側面にまで邪が忍び寄るのである。

 やがて権力者二世の神経を逆撫
(さか‐な)でする事件や事故が起こる。
 途端に冷静は混乱に早変わりし、更に共通の野心を抱く者との競合が始まる。
 また取り巻きの一人から、誰々は私利私欲に耽り、辱めたり陥れを企む者有りと耳許で囁
(ささや)く。

 更に別の侍者からは、対峙する敵対者の擡頭
(たいとう)を問題視される。彼奴(きゃつ)は自惚れが強く、表向きは慇懃だが、本性は欲深く軽薄で無礼であるとまで指摘される。陰謀や罠の疑いまで警告する。
 斯くして内部には派閥が起こるのである。
 周囲には陰謀が渦巻き、ある者は慄
(ふる)えて恐れ戦(おのの)き、またある者は二世の野心に心ときめかせて、その行く末を観察しようとする。自他ともに混乱と惑乱と攪乱(かくらん)の迷妄に翻弄される周期が遣って来る。

 かなりの人物でも、揉み手をしてお追従を打つ、あたかも趙高
ちょうこう/秦の宦官で、始皇帝の崩後、末子胡亥を二世皇帝に立て、のち丞相李斯を獄死させ、自ら丞相となり横暴を極めた。生年不明〜前207)のような人間には直ぐに心を許してしまう。
 この、お追従人間が、もしこう囁
(ささや)いたらどうだろうか。
 「あの者は転覆を狙って、陰謀を企てております。然るべき処分を」
 こう聴かされて、波が立ち、心に騒ぐものを感じる筈である。それも最も信頼し、全権を任せて懇意にしている寵臣
(ちょうしん)する取り巻きであっては……。

 しかし、陰謀と言っても具体的な証拠がある訳はなく、その根拠は薄い。それでも安易に聞き流せないだろう。一度、心に喰い込んだ猜疑の線虫は容易には叩き出せない。
 更に陰謀……などと耳許で囁かれては、その言葉に幽かな不安を覚える。転覆……という言葉自体も、立場の逆転を狙っている気配が想像できることから、猜疑心に染まった心は容易には元に戻らない。

 寵臣が囁いた「あの者……」とは、かつて片腕と信頼した男だった。それが果たして転覆の機会を窺って陰謀を企むだろうかと言う疑いがないでもない。そして、外れていたらどうなるか。
 それから察して、事実無根だったら、自らの捻
(ねじ)れた心は、やがて愧(は)じなければならない非も生まれて来る。さて、どうしたものか……と思い悩む。
 心の狭い人間だ。異様に嫉妬深い男でもある……などと、次から次へと悔悟の念も生まれよう。心は揺らぐばかりである。

 権力者と雖
(いえど)も、運命の陰陽に周期に支配されるのである。
 その支配とともに、好むと好まざるとに関わらず、野望と言う煩悩
(ぼんのう)に黒山の人集りが出来るのである。そして権力者とて、その煩悩の火は、未だに沸々と煮えたぎっている。
 斯くして権力闘争に巻き込まれる。この抗争は、簡単には解決しない。
 青年期から壮年期に懸けての人生は、大半が権力抗争で明け暮れる時期である。ライバルを蹴落とし、一歩先んじることを企てる時期でもある。

 先んずれば人を制す。これに肖
(あやか)りたい。
 他人より、一歩も二歩も先に行きたい。これは少なくとも、六十の半ばの年齢まで続く。権力欲が旺盛になる時期である。
 そして権力欲を深めれば深めるほど、混乱、小競り合い、指弾、流言、陥れなどの反勢力側の敵愾心
(てきがいしん)の増強などが絶えなくなる。あることないことが、飛び交うことになる。だが、それでも弾圧に弾圧して、押し通る。意に返さない。

 権力者は益々自己顕示欲を固める。それが病的な神経から来るとも知らない。自己の権威は揺るぎないものと信じて疑わないのである。
 しかし欲望のままに押し通せることは稀
(まれ)である。やがては挫折する。
 順風満帆は確かに好事だが、俚諺
(りげん)にもある通り、好事は近未来には魔が控えているのである。
 好事魔が多し。

 人生航路は荒波に揉まれ、若き頃の夢は霧散し、ただ現実の凄まじい煩悩に煽
(あお)られつつける時期である。金・物・色に誘惑される時期である。
 権力者と雖も、ここで馬鹿らしく、滑稽で、あたかも釈迦の掌
(てのひら)の上で乱舞する孫悟空を演じなければならなくなる。
 この時期にあっては、狂乱期でもあり、暴力を怖れる気持ちが、いつしか暴力の行使も已
(や)む無しと言う気持ちに変わってくるのである。こうした心境の変化の時期に、冒涜的な儀式を細部にアレンジして、選ばれた者だけを起用して、心機一転を図ろうとする。
 また、楯を突く輩
(やから)は去勢することや、徹底的な粛清、あるいは殺し合うことも否めない。狂信的な行動や発言が多くなる。外に向けての自己表示だけが濃厚になる。断固たる措置を採(と)り続ける。

 しかし長い間の抗争で疲れも見え始める。
 何事も疑えば切りがない。
 疑心暗鬼に陥り、蛇影
(だえい)に怯(おび)え、茫然(ぼうぜん)となり、身動きでず、射竦められた自分を守るために、歴史の前例にならい非常手段に傾いて行くのである。やがて暴力の白昼夢に酔い痴れることになる。

 暴力と言う鞭
(むち)と、寛大措置と言う飴(あめ)を使い分けながら、恐怖と戦慄の虚偽に包まれて行く。肉体と魂が疵口(きずぐち)を広げて入り交じるのである。
 そして権力から遠ざかる意思はなく、益々これに固執する。
 更には誇りを傷付けられることを恐れ、政策の失敗など意に解さなくなる。表向きの功績と勝利だけを感情に数えるのである。

 また権力者や組織の首脳には、憑き物の、取り巻きを寵愛
(ちょうあい)する追従者の家臣で固め、影では寵姫(ちょうき)を侍(はべ)らせる。そして、元は頭脳明晰で、頭の回転も早い性格に鈍麻が襲う。
 聴く耳を持たなくなるのである。

 非合法も平気で行うようになる。弾圧や粛清は益々過熱化する。
 更に忠臣の諌言を退けるようになる。聞こえのいい、耳にいい、そうしたお追従ばかりに心が動いて行く。甘い宦官の趙高の如きの囁きに、つい耳を傾け、聞き入ってしまう。
 そして野望と独断と覇者への夢だけが拡大して行く。
 自分では超人的な努力を払っていると思い込んでいる。それを信じて疑わず、断固強行するまでだと信じている。そして最後は敵対者の粛清である。刃向かう者は片っ端から粛清に懸かる。

 その一方で、自らの決断力が鈍っているのにも気付かない。人工的な美辞麗句の踊らされる一方、自身では優柔不断が襲っていることにも気付かない。ただ強靭的な努力だけを過大評価している。しかしその愚も気付かない。

 だが、これも沈静化する時期が遣って来る。野心までもが枯渇する時期が来る。
 これまで自分は青二才で、世間知らずで、自らの意志で責任ある立場に就いたのに、その責任を荷なう資格と度量はあるのだろうかと考え始める。
 血の気の多い若い頃は、いつも威勢のいいことばかりを言っていた。権力奪還のために政治ごっこや戦争ごっこを繰り広げ、盛り場や女遊びに興じた。そういう日々に明け暮れた。然も傍若無人に振る舞った。享楽に明け暮れる毎日だった。

 しかし、一方で霊的な世界があることは知らなかった。こういう世界を考えてもみなかった。状況が悪い方に傾いて行くのにも気付かなかった。忠臣は誠意をもって諌めたが、聞く耳は持たなかった。振り返れば軟弱だった。強がりで押し通したものの、実際には四分五裂の真っ只中に置かれていた。
 状況は後の祭りになりつつある。
 果たしてこれで善かったのだろうか……と。そして悔悟が脳裡
(のうり)を襲う。
 ある程度の年を経て、眼に見えないものに対し、その気配を感じるようになる。
 老いて後は、肉体信奉から離れて精神思考へと移入されていく。

 これまで宗教などは、嫌悪感を抱いて頭から否定して来たのであるが、しかし病的な倒錯が起こると、感情の中に某
(なにがし)かの信仰心が芽生えて来る。
 迷信や非科学の名で一蹴することが出来ない「揺らぎ」が生じるのである。一種独特の逆らえない、抗し難い力に惹
(ひ)き付けられて行くのである。魔である。
 組織のトップや権力者にありがちな生き方である。

 自分の人生は、また、これまでの生き方は正しかったのだろうか?……と。それだけに些かの悔いがある。
 神の御心を慮ってみれば、悔いは慈善によって、むしろ恩寵になるのではないか。悔い改めることこそ急務であると考えるようになる。
 権力者が第一線を形式上、次世代に譲って、然も代表的な発言権を有する策は、慈善のポーズを執
(と)ることである。即席の慈善家を装うことである。
 せっせと慈善事業の精を出す。更には、某かの宗派にも帰依したようなポーズをとり、俄
(にわか)信者を気取って見る。


 不成仏とは、死ぬことも生きることも意のままにならぬ意識体の苦しみを指す。
 苦しみ、迷い、自らの遣り場のない意識を言う。迷いに迷って、どうしていいか分らず、進退窮まって途方に暮れている意識である。
 人間の意識は、二進
(にっち)も三進(さっち)もいかず、進むことも退くことも出来なければ、現状の佇まいの迷うことになる。この迷いと、澱みと、止まることは地縛現象を生む。澱み、止まり、そこに沈む。あたかも泥の海に沈むような感覚を覚える。そして、止まって沈みながら、かつて悪想念で幻を見た地獄絵が泛(うか)び上がってくる。
 此処からが地獄道の始まりである。



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