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うまく死ぬ法 25

「道」とは何か。
 それは眼に見える世界のみを追い求めるのでなく、隠された眼に見えない「恐れ畏
(かしこ)む」有機的なる生命体に触れ、それを感じ、悟ることと思うのである。つまり求道への探求である。求道に掲げられる背景に存在するものは、東洋の「没我精神」である。
 我が無いことを言う。

 道の探求は、何処まで追っても「我を没する」ことである。自我を没却することである。我をなくし、自他との境目をなくすることである。こういう自他同根の境地を「没我の境地」と言う。


●あるが儘を因縁とする

 心が躍動すれば不安は消える。性格も変わる。精神面が変化する。その変化が次ぎなる自分の新生を行う。人は時間とともに時々刻々と変化している。
 昨日の自分は、今日の自分でない。今日は昨日より、今日に至った変化がある。
 人は変わるものである。新たに新生して行くものである。現象界で同じものは居ない。経過すれば、変化している。
 時代も、この変化の中で作られていく。

 そして、考え方は、心の持ち方は、昨日より今日の方が変化している。
 昨日より優れていることもあるし、劣ることもある。その逆もある。交互に繰り返しながら自然界の万物は流転する。
 自分は固定され、頑迷にこだわりを露
(あらわ)にした自分でない。頑迷に変わることもあるし、柔軟に変わることもある。行動家が、時として優柔不断に陥ることもあるし迷うこともある。

 また、そうかと言って気の弱い小心なる懦夫
(だふが)が、突然変異するが如く、勇猛果敢な働きをすることもある。あるいは暗愚だった人が、突然、悟ることもある。それも、何かの拍子である。あたかも、特異点が顕われるが如しに……。
 思いもよらぬことが突如訪れるのである。

 生きている存在は変動する。変化する。それが人の心である。
 心は不動ではない。動いている。時には迷っている。
 決して固定されていない。宿命的に定まったものでない。常に流動している。流動は変化を齎す。心が発信源であるからだ。
 人間の精神面を司る心は、そうした存在である。変化することを旨とする。運命がダイナミックに流動するが如く、人の心も流動する流れの中にある。

 精神面の変化は肉体的な性質と異なり、固定的ではなく流動的である。変化に富んでいる。可変性なる側面をもつ。
 そして背景には心の躍動があり、躍動は行動を齎し、その行動が後天的な性格を形成することもある。訓練次第である。

 行動がプラスに転じた場合、神経質で消極的であった自己は消滅し、勇気と自信が養われる。前向きにプラスの行動に転じれば、環境は安定したものになる。性格は明るくなり、積極的になり、建設的な思考を持つようになる。古き因習の殻から抜け出して、新たに次への新生を行う。

 これは訓練の積み重ねと地道か稽古に励むことで、質が変化することである。内容が変わる。
 昨日の稽古状態と今日の稽古の質が異なるのは、融合した新しい体験と、体験から得られたによって蓄積から質が変化しているからである。永遠に変化するものが人間の側面にあり、人間に変化を齎していく。
 だが変化に善悪は無い。善い方に変わることもあるし、変化は悪い方向へ向かい、墜落していくこともあるが、墜ちっ放しではない。墜ちれば、次が上昇するが、墜落していく段階においては、極限まで墜ちなければ次の上焦は無い。
 一旦はドン底に墜ちる。奈落の底を這
(は)い回る。試煉がそうさせるからだ。

 「艱難
(かんなん)汝を玉にする」という俚諺(りげん)がある。
 墜ちて、どうしようもなくなり、そこで苦悩し、迷い、もがい、そうした艱難は乗り越えてこそ、人格が向上し、魂の進化があると言うことである。不滅の真理であろう。
 それは安穏の中に無い。保身の中に無い。善後策を考え、行動せねばならない。
 懐手で何もしない日常を送り、安全圏に居てそこにしがみつき、保身ばかりを計っていれば、当然動きは消極的になる。仮に動いても、その稼働範囲は狭い。これでは目的は達成することが出来ない。

 静動は、動いてこそ「静」を知るのであって、動かない静のみの修養で、本当の「静」をしることは出来ない。静動は表裏一体の関係にあり、静はいつでも動ける「静中動」でなければならず、また動きを知る「動中静」でなければならない。
 静止して修養ばかりに凝っても、それは動を知らない静である。
 動を知らない静では、事態の観察も把握も出来ず、況
(ま)して状況判断すら出来ないのである。事実状況は事態の中で発見するか否かに懸かるのである。
 斯
(か)くして、この場合、自分の状況判断する自分の行為に責任を担うことになる。

 そして一度現状が把握できそれを観察して、どう立回るかが自らの行動・行為の責任の追うところで、起こっていること、起こりそうなことは、あるが儘に受け入れ、その解決策に絶えず流動する流れを読んでいくことになる。

 あるが儘とは、懐手で傍観することでない。思索することである。脳漿
(のうしょう)を絞って策を練り、奇手を考え出すことである。
 あるが儘と言う状況は、また一方で感情や気分も含まれており、これは自然現象であり、決して意のままにコントロールできるものでない。
 したがって、あるが儘に任せることは、これまでの一切の価値観を離れ、是非善悪を問わず、そのままの感情にして事実を事実として認め、一切を任せることである。

 世間では自己コントロールの法として、あるが儘に評価を加える場合、憎しみの感情を加えるべきでないとか、嫉妬は抱いてはならないとか、雑念を排して思念を集中させねばならないとか言って、これに様々な規範を加え、自分を律する法を用いようとする作業が紹介されているが、これは単なる観念的な態度に過ぎない。自然に反しているだけである。

 観念は鏡に映った影である。実像ではない。
 実体ではなく、事実ではなく、またあるが儘でもない。
 問題は懐手の傍観から来る観念より、実践が大事なのである。
 知ること一つ挙げても、実践を伴わない観念や思想に入れ揚げても、これでは為すべきことを為していると言う状態にはならない。

 世に、「畳水練」と云う言葉がある。
 畳の上でする水練のことで、その方法を知っているだけでは泳げるようにならない。実際に訓練しないことには泳げるようにならないのである。
 つまり頭で、理屈で分っていても、それだけでは実地ではないも役に立たないのである。
 泳げるようになるためには、実際に川か海に行って、あるいはプールに出向いて、泳法の体得をしなければ不可能なのである。
 これには状況を判断し、事態を把握して、あるが儘の実践において、自然の摂理を理解して始めて泳法は自らのものに出来る。

 つまり人の感情は常に変化し、また気分もその時々で変化して、これは実に流動的なのである。常に動いているのである。決して、静止することなどない。変化は動くものである。
 感情や気分は、周囲の環境と行動の中で、心身相関において、廻
(めぐ)るという動きをしていることで、これを「運動」と言う。廻ることこそ自然現象なのである。

 「心は万境に遵
(したが)って転じ、転ずる処実に能(よ)く幽」というが、心は実の奥深いもので、その幽は普段はひっそりと隠れ、肉の眼に姿を顕すことはない。
 したがって幽玄の要素を持っている。肉の眼には、計り難い。奥深く実に妙なるもので、情趣に富むのである。
 然
(しか)も、絶えず流動変化している。変転している。
 刹那にも静止することはない。固定して定まらないものである。常に揺れ動いている。これは万物流転の世界観に通じるものである。

 行いて定まる。箴言である。真理である。
 知ることは、つまり行い、実践することである。行わず、静止していては事を起こせない。
 行わないから不安定であり、消極策は、結局はマイナス面ばかりが多いと言うことになる。動かねばならない。行わねばならない。
 知は、行うことによって成就する。

 だが、静も蔑ろに出来ない。静中動有り。
 いつでも動く、陰が陽に転ずる「刹那の大事」である。侮るべきでない。
 侮れば、「仁」が為せないからである。
 斯くして、“見逃し”かつ“先送り”し、今と言うまたとない瞬間を、日が悪いとか、九星早見表の即さないと言う理由で、好日を厄日にしてしまうのである。
 今の「動」を知らねば、遂にはこうなる。見逃し、先送りし、厄日を理由に退けてしまうのである。
 物事に陰陽有り。大事な教えである。

 江戸前期の儒学者・伊藤仁斎は次のように説いている。
 「天道に流行あり、対待
(たいたい)有り。易に曰(いわ)く『一陰一陽、これを道と謂(い)う』と。これは流行をもって言う。『天の道を立つ、曰く陰と陽と』これを対待をもって言う。その実は一つなり。
 流行とは一陰一陽、往来巳まざるの謂い、対待とは、天地日月山川水火より、もって昼夜の明闇、寒暑の往来に至るまで、みな対
(つい)有らずということ無し。これを対待とす。しかれども対待は、おのずから流行の中にり。流行の外、又対待有るに非ざるなり」
 これを今風に言えば、「宇宙の根源は運動であり、また相対的な対立である。その対立の証拠に陰は陽に対立し、陽は陰に対立して、あたかも静と動が相対するが如く、動もまた静に対立する。
 易を検
(み)れば、次のような言葉がある。
 一陰一陽はこれを『道』という。この道は運動のことである。運動する故に道があり、そこの『歩く』と言う行為があって、また『進む』という行動がある。運動をする場合は、天の道に立ち、また曰く、それは陰陽であると言へり。これは『対立』という意味を持ち『相対』という意味をもって、相互は関係を有しながらも自己同一性を持たないのである。
 しかし、これはそれぞれが異なる二つのものでなく、一つのことである。対である。セットになっている。
 斯くして運動とは、一つの陰からなり、一つの陽からなる。これが別の一つの陰へと移行し、それが移り変わり、その陰陽の交替が絶え間ないことを言う。
 則ち対立とは、天地、日月、山川、水火からも分るように、昼夜の明闇、寒暑の移ろいまでを含み、総て対立しないものはなく、かつ相対しないものはない。これを対立と言うのであって、この対立している事象が運動の中にある。また運動無くして対立もないのである」と。

 要約すれば、こう言うことであろうか。
 これを更に追求すれば、「対立のないところに運動もあり得ないと言うことであり、この運動といい、対立といい、この相対する二つは、そもそも一つである」と、仁斎は言うのである。

 この世界観は、今日でも変わらない。
 今日の生死について言えば、生死は、そもそも一体であり、この相対界においての対は表裏が一体であることを表している。生死は別々に存在するのでなく、「一つ」のものなのである。

 それは、あたかも知と行が一つであるように、生死も一つである。
 同時に存在し、この存在があるからこそ、非存在である筈の人間が、生きているという現象を起こすのである。それは「生きる」という因縁によって生かされるものであった。
 因縁がある限り、起こるべくして起こる必然と言う現象が起こり、必然は、生ある間の人間の行動律とされた。この行動律により、人間が生きる因縁があれば生き、死ぬ因縁に移行すれば死ぬのである。
 思えば、死から逃げ回る必要は無かった。死はあるが儘に受け入れることが、必然を因縁す縷々秘訣であった。

 あるが儘……。
 それは必然を受け入れることでもあったのである。あるが儘に受け入れればいい。



●生命体の物体視

 物を大事にすると言うことは、また限りある命を大事にすると言うことである。
 物を手に入れるとは、消費物資を堂々の結晶と考えている時代があったのである。
 ところが、現代は消費物資を遣い捨てにし、物を粗末に扱う時代に突入している。
 物は遣われ、あるいは乱暴に酷使され、遣われた後は無慙にも廃棄と言う、捨てる一部に含まれている。

 物を粗末にして捨てる。
 現代の世である。
 現代の世では、人間の命も軽い。軽いゆえ粗末に扱われる。命が物と同じようになり、物質となって軽視される。
 昨今の医療現場では、データ情報のみが大事にされ、命は二の次である。数値のみに注目があり、肝心なる患者は等閑
(なおざり)である。患者など注目の対象でない。

 これは間接的には、命を粗末にして捨てるという行為に酷似している。
 今日ほど、人の命が粗末にされている時代は無い。スペアは幾らでもあると言わんばかりに、人の命は軽んじられ、安易に殺され、捨てられて行く。毀
(こわ)れた物は、取り替えればいいという思想である。治して遣うと言う考えが無い。これを雄弁に物語るものは、毀れていない若いものに挿(す)げ替えるという現代の臓器移植である。毀れた臓器を、治すという考えに立脚していないことは明白であろう。

 生命を考えた場合、一部の現象には、命は軽いという価値観でしかなくなっている。人間の生・老・病・死は軽くなった。
 特に、庶民と言われる微生物の命は如何にも軽い。微生物に価値観を感じないという時代に突入したと言えよう。人間の命まで、物同様に消耗品にされた観が否めない。消耗品は資本主義の市場経済から言っても商品になり易い。交換が出来る物体となる。挿げ替え自由となる。

 此処には、人間が歳を取るという現象にあるようだ。それは機械でも同じだろう。古い部品は取り替えることにより動くからである。
 現代は人間の肉体すら機械視されて考えられる。
 人間が歳を取る。そこには遺伝子が人間を支配している現象があるからだ。
 遺伝子に目を止めれば、生まれて老いると言う過程には、やがて成長が止まり、老化が進行し、遂には寿命が尽きるという現象があるからだ。
 人間の肉体が物体である限り、宇宙を支配するエントロピー
entropy/熱学上の概念)は、老化という法則から逃れることが出来ない。
 可逆変化ならエントロピーは一定、不可逆変化では必ず増大する……。
 熱力学第二法則である。

 しかし、人間の遺伝子を、決定された寿命以外で死ぬことがある。
 不養生や不摂生から起こる内臓損失の病死もそうだし、事件や事故に巻き込まれて殺人などで死ぬこともある。
 考えれば、病死も事故死と何ら変わることがない。
 例えば不養生でそれが病因となり、寿命を待たずに死ぬ結果を招いたとしよう。
 その顕著な例を挙げれば生活習慣病である。
 日々アルコールの愛飲者が、度を超す大量のアルコールを飲み続け、やがては肝臓を痛めてしまう。肝臓を酷使し過ぎてこの部位がいかれる。此処がいかれれば遂には死ぬ。
 では、いかれた肝臓をどうするかとなる。

 健全な肝臓と取り替えれば済むことである。臓器移植が持て囃される所以である。
 取り替えれば、定められた寿命まで生きることができる。遺伝子の定めた寿命を全うすること出来る。それを可能にしているのは臓器移植である。
 しかし、臓器移植と一口では言うが、移植までの障害も様々ある。
 まず第一に、基本条件として血液型が一致していなければならない。
 次に、白血球のHLA型
human leukocyte antigen/ヒト白血球抗原)の一致である。組織適合抗原といい、個体を特徴づける同種抗原のことである。移植時の宿主の免疫担当細胞が移植片の自己・非自己を認識する標識となるである。したがって、問題なのは抗原反応である。拒絶反応である。

 異物が体内に侵入すると防衛のために、異物に向かって、あるいは異物と認識したものに総攻撃を懸ける細胞がある。これを名付けて「大食漢細胞」と言う。忽ち異物を喰い尽くすのである。
 その反応を食い止めるために、副腎皮質ホルモンやイムランなどが用いられる。腎移植・肝移植・心移植・肺移植における拒絶反応の抑制に遣われるのである。
 しかし、移植したからと言って生着率が100%という訳でない。限りなく100%に近いのは一卵性双生児の場合だけである、だが、親子兄弟姉妹ではそうはいかない。
 簡単に言えば、赤血球のはABO型があり、Rh型がある。そして白血球といえばその数は夥しい。

 分類すれば先ずHLA・A座20。
 次にHLA・B座42。HLA・C座8。HLA・D座12。HLA・DR座10。
 これらを懸け合わせると、何と八十万六千四百種にも及ぶ。更に組織適合性検査で指紋AANパターンがある。

 昨今、臓器移植が持て囃されているが、移植後の生着率は必ずしも100%に近付いていない。そして今日の臓器移植は、生体からの臓器は貰えない。死体に限りである。物体となった後のことである。
 そのうえ死体からでは、種々の検査を通過してから後でないと貰えないが、この過程が長過ぎれば内臓は壊死する。新鮮さが要求される。そして、物には時間にも数にも限界がある。
 需要が多いと供給が間に合わない。そこで大量生産が目論まれ、クローン技術が使われる。
 新鮮な臓器を得るためには、クローン人間の出現も必要になろう。だが、クローン技術が採用されたとして、クローンとして生まれた人間の魂はどうなるのだろうか。クローンとて、魂はあるだろう。無機物として生まれてくる訳はない。
 果たして、物の使い捨ては正しい行いなのか。
 取り替えるより、治す方は一体どうなったのか。
 そもそも医学とは、傷んだ箇所を治すのが本来の役目ではなかったのか。病んだ者を正常に戻すのが、医は仁術の根本にあるのではなかったのか。

 往時の人は、物を粗末にすると罰されるということを真摯に信じていた。ここにある種の、物を粗末にすることへの歯止めがあった。
 物も生きている。生きた物を粗末にすると罰が当たると、かつてはよく言ったものであり、年長者は年少者に物を粗末にしてはならないと教えていた。その戒めがあった。

 また、粗末に自分の肉体を扱えないから、自らの躰は自らで愛
(いと)しんだ。
 肉体は借り物である。自分の肉体であっても、これは天からの借り物である。借りたものは返すのが当り前だが、借り物はまた大事に遣わねばならない。不摂生や不養生を繰り返して、粗末にしてはならない。大事に扱うべきである。
 この「大事」は、肉体を遣った行動原理にも関わろう。

 かつて吉田松陰は、高杉晋作から「男子は何処で死ぬべきですか」と訊かれている。
 松陰はこのとき即答が出来なかった。
 しかし、獄に繋がれ目前に死が迫ったとき、悟りを得た死生観は次ぎなるものだった。
 そして死生観を発見した松陰は、次のように示唆した。
 「今この獄中になって、死の一字につき発見したことがあるので、いつか君の質問に答えておく。死は怖れるものでもなく、憎むべきものでもない。生きて大業をなす見込みがあるのならいつまでも生きたらよい。死して不朽の見込みがあるのなら、いつ何処で死んでもよい。要するに死を度外視して、為すべきことを為すのが大事なのだ」と。

 この言葉の背景には、「躰を大切にせよ」という無言の言が隠れているように思う。
 躰を大切にすることとは、借り物だから大事に遣えと言う意味である。更に借り物は、やがて返すべき時が来るから、その時の自分の遣い方が問題になると言う意味もあるように思えてならない。
 昨今は、自分と言う意識体の載る肉体を、自分自身のものと思い込んでいる人が多い。自分のものは自分が何に遣おうと勝手と言う感覚で、刺青などを平気で彫る人がいる。また孔を変える人がいる。借り物の肉体に死物視である。汚し、壊し、変形させて、最後はどうして返却するのだろうか。

 また、老いてもなお生き存えることを企てる人がいる。長生きしたいと願う人がいる。
 その兆候は、サプリメントなどの流行でも明白である。
 さて、いつまでも生き存え、長い老後を送りつつ、一体この長期間老後にどういう意味をもって生き存えよと企てるのだろうか。

 もし、この生き存える目的が動物的な、「肉体が生きている」という目的のみで生きるとすればこの長寿に一体何の意味があるのだろうか。
 果たして生きて、松陰が言うように「生きて大業をなす見込みがある」という老後を送っている老人が何人いるのだろうか。
 その老いても、なお生き続け、臓器移植までして長寿を企てるのは、動物的な「生」以外に、どういう目的を秘めているのだろうか。どう言う使命で、老後を生きているのだろうか。
 昔に比べれば、医療技術の御陰で、老人の老後は長くなった筈である。金さえ出せば、長生きできる時代である。

 だが死は、老いれば、刻々と迫り、残された時間は短いが、この短い時間を濃厚に遣うか、安易に遣うかはその人の目的によろう。
 更には長くなった老後を、如何に有効活用するのだろうか。長寿の先にどのような目的があるのだろうか。
 長生きして、生かされる者は、これに答える義務がある。
 長寿国日本に問われるところである。

 しかし今日、このような論をアナクロニズムと嘲笑し、一蹴する気風が主力で、いつの間にか、現代人は物を使い捨てにする習慣を身につけてしまった。
 耐乏経験の無い現代日本人は、耐えると言うことも知らないし、我慢すると言うことも知らない。辛抱を忘れてしまったように、現代は忍耐と云う言葉が失われてしまったように思うのである。
 石の上にも三年……などというと嘲笑される時代である。
 辛抱や我慢が軽くなった。

 いまや“忍耐”と云う言葉は、スポーツの世界に辛うじて残っているだけである。
 この世界では、「此処まで辛抱して肉体を酷使すれば、このような未来が約束されている」というような、芸能界と陸続きの条件のもと、忍耐や闘魂と云う言葉を用いて、若年層の裾野人口を集客している。

 この集客により、「もしかすると……」という夢を若年層に投げ掛ける。此処に希望が、夢が生じ、幻覚を見せるのである。見た者は魅惑されるのである。
 多くの愛好者は、この夢が幻覚であるにも拘
(かかわ)らず、それがアナクロニズムを嘲笑したように、幻を巧妙に見せ掛けているだけである。夢が適(かな)うのは僅かな一握りに過ぎない。
 斯くして、その条件が成立する限り、スポーツ界の弱年集客能力は衰えない。未だ健在であり、スポーツ界の種々の種目は裾野確保に安定を保っている。

 博奕は、する者より、させる方が儲かるのである。
 この仕組みで、この世界が運営されていることは否めないだろう。
 そして底辺は、使い捨てである。

 かつて、戦中・戦後の終戦直後生まれの多くは、耐乏生活を余儀なくされた。無いものを強請
(ねだ)らず、我慢することを親から教えられた。人は辛抱が肝心と、人生の方向性を示された。我慢することを学んだ。

 耐乏を強いられた昭和20年代は、30年代になって高度経済に伴い「消費は美徳」であるという概念が植え付けられた。この時代は、奇
(く)しくも生産第一主義となり、その唆しに日本国民は大いに躍った。有頂天の世界に導かれた。
 物は、次から次に遣い捨てにする。古いもの、毀れた物は修理するより、捨てた方が効率がよいという合理主義を注入された。以降、合理的であるか否かが問題にされるようになった。

 しかし、文明社会が合理的を標榜し、効率性を追求しても、人間は輪廻の定めから逃れることは出来ない。
 万物ら流転する。
 流転しながら、巨大な輪がゆっくりと全体を包んでしまうのである。
 命あるものは流転の中にある。

 生まれた人間には、生きている以上、死への旦夕
(たんせき)が迫る。ゆっくりと動きつつ、死に向かって刻々と突き進んでいる。
 時機または危急が今朝か今晩かと切迫するさまは、あたかも死を宣告された死刑囚の如きであり、また余命幾許もない末期患者と酷似する。短長の差はあろうが、肉体はやがて滅ぶ。いつかは滅ぶ。
 しかし、滅びを恐れては悟道の境地に至らない。
 命は輪廻の中にあると心得ねばならない。これを生きているうちに学び、悟りに境地まで習得しておかねばならない。老いては尚更のことである。

 人の生命は、生きるも定めであり、死ぬも定めなのである。これが非存在なる人間に課せられた掟である。
 若くして死ぬ者もあれば、寿命まで生きて老衰の果てに死ぬ者も居る。
 しかし肉体に固執する生は、生きながらに死んだ未練への残骸に過ぎぬ。
 若返りを企てて、肉体に固執してもいい死に態
(ざま)に恵まれまい。固執した分だけ、こだわった分だけの作用に対しての反作用が働き、肝心なる最終の臨終にしくじることになろう。

 肉体は老朽化した後滅ぶが、精神は滅びない。魂は残る。
 これこそが輪廻転生の理
(ことわり)であるからだ。



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