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うまく死ぬ法 27

人間の人生において幸せと言うものは、単に生きていて成人した後の青年層や壮年層を経験している進行形の過程の中には無いと言うことである。

 歳老いて、老齢期に至り、ここで過去を振り返り、「幸せだったか、そうでなかったか」を振り返る時に、これまで過ごしてきた人生を振り返ることが出来る。
 果たして自分の人生はどうだったか。

 『菜根譚』には人生の大事は「晩年にあり」とある。
 「声妓
(せいき)も晩景に良に従えば、一世のエン花、碍(さまたげ)なし。貞婦も白頭に守りを失えば、半生の清苦、倶(とも)に非なり。語に言う。『人を看(み)るにはただ後の半截(はんせつ)を看よ』と。真(まこと)に名言なり」

 つまり『菜根譚』の著者・洪自誠は、若い頃、あばずれで浮き草暮らしをしていた娼婦のような女でも、歳を取ってから身を正してよい夫を見付け晩婚であっても、これまでの過去の悪行や浮気の数々は帳消しになる。

 一方、若い頃、純潔を守り通し、如何に身を慎み、身を清潔に徹した貞淑な才女でも、五十、六十の歳に至って、若作りをして男漁りを始めたり、愛だ恋だに現
(うつつ)を抜かせば、晩節を穢(けが)すことになり、これまで折角守って来た貞操は、この愚かな一事で総て台無しになり、若い頃の悪態の限りを尽くした“あばずれ女”以下になってしまう。
 その愚を指摘しているのである。
 故に古語には「人を看るには、その晩年を看よ」というのは、まさに名言であり、大正解と言っているのである。

 もし、あなたが現在、五十の折り返し点に到達した人として、平均寿命年で言えば、男が死にまでに26年弱、女が死ぬまでに32年弱となるのだが、果たしてこの期間に何をして、何を考えて生きるのだろうか。
 この残された期間は、生まれてから50年間という時間とは根本的に違うのだが、この違いが克明に認識出来るだろうか。
 五十に達したある男は、俺は死ぬまでに26年もある。またある女は死ぬまでに32年もある。

 ところが、この死にまでに残されたこの時間は、死ぬまで五体
(五臓六腑の一切を含む)が健康で、健全な頭脳で物事を識別出来るということが前提となるが、おそらく残された時間の半分以上を病魔との戦いに費やされ、濃縮な時間の実働時間は、この半分以下ではあるまいか。実働時間とは「健康・健全時間」に置き換えられる。
 つまり、その時間は半分以下なのだ。
 いま健康な男は濃縮時間の実働が13年以下、健康な女としてその実働時間は16年以下となる。
 さて、この時間をどう使うか、そこに、あなたの人生の総てが掛かっているのである。

 自分の足跡を振り返り、運に恵まれ、これまで生かされたことに健康に感謝し、更には健康、あるいは病気を抱えていても斃
(たお)れずに健康そうに過ごせ、また家庭に恵まれ、そして最後は「よき死に恵まれる」ということが確認できたとき、「わが人生は楽しい一生だった」としみじみ思うことが出来るのである。

 したがって「能
(よ)く生きた」とは単に「健康で長生きが出来ていい人生だった」と言うことだけではなしに、能く生きるとはまた一方で「善き死に恵まれなければならない」のである。


●「任せる」とする神霊界への思考

 現象物質界とは異次元世界がある。
 神界とか霊界とか、幽界と言われる世界をこう呼ぶ。また死後の世界も、異次元世界のことを指す。

 人間は死ねば終わりよ。
 死後の世界などある訳が無い。
 生きている時だけが華
(はな)であることを頑(かたくな)に信じている人は、異次元世界の存在は無用であろうが、そう断言するだけの確信があるのなら、少なくとも十年以上懸かって、死と死後のことについて研究した後に、「死後の世界など無い」と言い切れる自信とともに、それを説明できる、何ぴとに対しても納得させうる説得力を有していなければならない。
 そして死後の世界が無いと確信しているのであるから、徹底して神仏など信じない唯物論者でなければならない。

 これは唯神論者でも同じであろう。
 神仏の存在を確信的に信奉し、かつその造物主の働きを説明できる研究結果を得ていなければならない。
 単なる「あるかも知れない」とか「もしかすると、やはり無いのではないか」などと、曖昧、あやふやであってはならない。確信的信奉者でなければならないのである。
 一番いけないのは、現代人に多い“中途半端な無神論者”や“中途半端な唯神論者”であってはならないのである。
 「中途半端」は、心に迷いを生じさせる。
 迷いは優柔不断に陥らせ、あるいは優越感から奢
(おご)ったり、見下したり、侮ったり、短見的な見解に導いて、然(しか)もそれが不動ではあり得ない疑いが残るからだ。

 甲乙決めかねる……。
 迷う根拠である。
 また、「あるいは?……」とか、「もしかしたら?……」などの「?」の疑問符が続き、昏迷が起こって道理に昏くなり分別を失わせるからである。これが、また心の乱れとなる。透き通らない。濁すだけである。澱むだけである。
 臨終にあたり、迷いは禁物である。死を致せばいい時に、死を致さず、未練に乱れてしまうのである。

 何れかに決めかねて「迷う」ということは、それ自体で不成仏であり、不成仏すら自覚できない不成仏に成り下がるからである。此処に「臨終のしくじり」がある。迷いに迷って臨終を失敗するのである。
 したがって臨終すらあやふやで、死ぬに死にきれない未練を心に充満させて死んで逝くのである。この未練が地縛の霊になる。不成仏である。
 それは神霊界の構造を勉強せずに、生きている時が華で、死ねばそれでお仕舞いよという考え方にこだわったからである。

 意識体は死後も、その意識を存続させたまま継続されるのである。ただ、その意識は肉体を持たないために現象界で物理的な意図を伝達することが出来ず、ただ迷って、縋
(すが)るものを求め、彷徨うだけである。ここに不成仏なる意識の地縛現象がある。

 魂魄は魂と魄のうち、魄は死後も骨となり地上に止まるが、魂は昇華して地上を去り、天上に行かなければならないのである。そこで宇宙の一雫
(ひとしずく)に帰って行かなければなら兄のである。
 この一雫に戻ることを、実は「帰る」というのである。許の古巣に帰ることが意識体の中には中有の意識の中に存在し、中有は死した後、四有
(しう)の姿を形作り次ぎなる魂の再生を俟(ま)つのである。

 衆生
(しゅじょう)が生まれ、生き、死に、次に再び生まれるまでの間の四時期を「四有」という。この期間には、生有・本有・死有・中有がある。その中の一つが、中有であり、衆生が死んで次の生を受けるまでの間をいう。
 中有の期間は一念の刹那から、七日あるいは不定期とも言われているが、大方、四十九日を日本では指し、この間に七日間ずつ法事を行い、死した後の魂が迷わずに無事に再生することを祈願するのである。
 これを迷信と一蹴すれば、それはそれで構わぬであろうが、この中陰期間の四十九日を生きている側からどのように伝達するかが現代の世に問われるところである。

 人の死後、四十九日目に当たる、中陰満る日、「七七日
(しちしち‐なぬか)」の満中陰を日本では最大の追善法ようとしているのである。この意味の捉え方である。果たして迷信と嘲笑するだろうか。
 しかし、今日の葬式仏教に成り下がってしまった現代の仏教の僧侶に、この一蹴の徒を納得させるだけの説得力があるだろうか。
 ひたすら札束を数えて「まんないだ」では、全く万人に対して説得力を持たないのである。

 人間は緊張と緩和の中で生きている。
 また、これが交互に繰り返すこそこそ、自然の流れであり、ところが多忙の現代社会はしばしば緊張のみを強いてこれを永続に望み、弛緩を排斥しようとする。弛
(ゆる)むことを嫌う。そして、ここに悪あがきが生まれて、これがストレスになる。心身に機能変化が生じ、精神緊張が続くだけ続いて、やがて不安となり恐怖となって、それは異常な興奮を連鎖するのである。
 現代の汎適応症候群はこれに由来する。
 この悪あがきこそ、実は長いスランプであった。
 此処に墜ちると、なかなか出られないのである。あたかも迷宮に迷うが如しである。

 本来ならば弛緩のときこそ、これを静かに受忍して、最低限度の必要事項を達していればいいのであるが、これに焦りを覚えて必要以上のことをしようとする。これがまた次ぎなるしくじりを起こすのである。あたかも、土壇場の臨終に失敗する如しである。

 しなければならないことは山ほどあっても、一人の人間が処理できるのは、たった一つしかない。
 ところが、これを何もかも遣ろうとしてしくじるのである。
 山ほどあっても、出来る事は一つしかない。遣るべきことの選択を誤ってはなるまい。これを肝に命ずるべきだろう。

 更に慎むべき愚行は、愚痴であろう。不満であろう。そして現実に不平を述べる言動であろう。
 これを口にしたり、念頭に置いては、ただ迷うばかりである。心は揺れ動くばかりである。
 迷えば行動に迷うが生じ、ついには決断できずに優柔不断になる。休息して弛緩するべき時はすればいいのである。
 気休めで、愚痴や不満を打
(ぶ)ちまけたところで、惨めさを募らせるばかりである。
 焦らず、あるが儘が大事である。

 果たして死を前にし、この時も、また「あるが儘でいい」のである。
 則ち、追い掛けて来る死から逃れようとして生に縋り付くのでなく、自ら、死の勉強をして死生観を解決すれば、死の中に突っ込んで行って死と一体になり、溶け込めば、もう怕い死など、存在しないのである。こうなると、そもそも生も死も無くなり、安心して許の宇宙の一雫の大生命の中に帰って行きけるのである。斯くして安定が訪れる。乱れが静止する。不動心である。

 そして、あるが儘にの事実唯真は、感情や気分はその時その場の自然現象であることを教えてくれる。
 これに逆い、自分の意思で意のままに出来るものでもない。あるが儘に任せればいい。
 遂にこうした状態に至った場合は、現世の一切の評価を離れ、また是非善悪を問わず、そのままの感情を事実として認めて受忍することである。
 これを「任せる」という。
 何事も、土壇場に到達すれば、任せればいい。任せて受忍すればいい。

 この「任せる」という事こそ、本体は超感情であり、人間は超感情に到達することが出来て、はじめてこれまでの憎悪や嫉妬などが昇華され、こうした念を残さず、清々しくこの世から去れるのである。

 娑婆を去る時は、こうした清々しさを持てるように生前から訓練しておくべきで、老齢期間こそ、老練を練る期間であり、この死を目前に控えて濃厚な時間にこそ、これまで生きて来た、大いなる真の価値が生まれるのである。
 則ち「任せる」とは、超感情に辿り着くまでの訓練期間で、ここに即身成仏のための、あるが儘に受忍する本当の目的があったのである。
 これが即身成仏への道となる。



●死の前倒し現象

 人間は病気では死なない。病気で人間が死ぬ訳が無い。
 人間の死は寿命による。
 寿命が尽きた後の死が訪れる。したがって病気では死なない。
 だが現実は違う。現に病気で死ぬ人がいる。
 何故だろう。
 病気で死ぬのは、死が前倒しになって顕われる事故死現象である。事故死の場合、寿命の尽きるのを待たずに、死の前倒しが行われる。
 寿命分が十分に使い果たされず、本来の死の途上中に死ぬ人がいる。この場合、死は前倒しになって顕われる。

 一般に事故死と言えば、交通事故を直ぐに連想させ、次に自殺や他殺などを想い描くだろう。
 しかし、病死などと称される病院で死んで逝く死も、考えれば事故死の一種であり、事故死は、かつてには無かった現代特有の現象であろう。
 物質文明は確かに人類に恩恵を齎したが、その一方で、作用に対して反作用の代償を払わされる現実が発生した。
 本来、死はある日突然に遣って来るのではなく、生きつつ成長していることが、同時に死の成長も育て、生きると言うことは、まさに「死につつある」と言うことである。
 つまり、死につつある正常に、その途上で寿命を待たずに死の前倒しが行われていることである。
 現代人は、このことからも寿命相当分に生きていず、また生かされない人もいるのである。

 私たちが死ぬのは、病気や災害、事件や事故などに巻き込まれて死ぬ場合が多いが、それ以外にも、今ではめっきり少なくなったが、「老衰」によって寿命を全うし、その結果、死ななければならないと言うことがある。こうした場合の死は、「めでたい」ものとなる。

 ところが、老衰による自然死と言うのは極めて稀
(まれ)になった。
 多くの場合は、老衰以外の、自然に枯れて死ぬというものではなく、病気、災害、事件、事故などの不幸現象に巻き込まれて、その犠牲になり死ぬことが多くなった。こうした死を総じて、「事故死」という。
 例えばガン等を罹病し、最後は病死するという状態も、広義では“事故死”に入るのである。
 その証拠に、現代人は病院で生まれて、病院で死ぬからだ。
 つまり、「生」の始まりも病院であり、「生」の終わりも病院なのである。これは現代人が、「自然死ができない人種になりつつある」ということを雄弁に物語った、現代の現象である。

 現代人は古代人のように潮が引くように死んでは逝けない。自然とは掛け離れたからだ。
 古代人の死の多くは潮の満ち引きが関与し、その影響下にあって生まれ、そして死んで逝った。極めて自然死を全うしていた。また、月の満ち引きが関与しているものと思われていた。
 更に月は、人の死と不死を司る神として観念されていた。そして、月が人の死に関与したことで、人は潮の引く時に死ぬのだと言う考えが伝承されてきた。

 ところが現代は必ずしも、そうではない。そういうものとは無関係になった。
 自然から取り残され、大自然の一員である人間が、現代人の場合は自然から隔離され、文明独自の生活空間に居て、その中で豊かで便利で快適な分佞の恩恵に預かっている。これは自然界から隔離された状態に置かれてしまったのである。

 もし、人の死に月が関与し、その運行によって生死が分かれていたと言うのなら、私たち現代人は、太古の人類や、死と潮の関係を関連づけた人と比べても、退化した存在に成り下がってしまったと言えるのではないだろうか。
 古典の文献等を紐解
(ひも‐ど)くと、月の潮汐(ちょうせき)は、人間の死に係わっていた可能性が非常に多いと思われる。

 潮が引くと言う時、人は死ぬという古来からの経験則に従えば、現代人は、月の運行とは関係なく、病院で生まれ、病院で死んでいく。病院から病院へと言う人生は、現代人にとって、潮が引くように死んでいく死に方が出来なくなってしまったように思う。自然死の難しい時代といえよう。

 また、月の満ち引きに併せて、人が生まれ、そして死んで逝くという古代のロマンは、現代人とは程遠い存在になってしまったようにも思えるのである。ロマンが掛け離れ、ロマンから隔離された時代が現代である。
 そして、ふと思うことがある。
 現代でも伝統とか、文化だと言う。
 しかしその表現は、古来より連綿と続いた伝統や文化ではあるまい。総て現代流に配列され、またデジタル化されて整理され、あるいは異常に脚色されたものである。決して本来のものでない。総てが、何処から何処まで再編成された伝統であり文化である。自然界のそれとは程遠いものである。

 現代は古代とは次元が違う。一蹴すれば、その通りだろう。
 だが、人の心が此処まで変貌するとは何故だろう。
 日本精神が蔑ろにされ、欧米にぴょんぴょん飛び跳ねるロックに併せたこの音源や音感は何処から起こるのだろうか。
 あたかも動物的である。
 その動物的な動きに、人が静寂に向かい静かな佇まいはあるのか。
 心が、乱されていないだろうか。
 静寂の中で、自らを顧みるそういう静かな空間はあるのだろうか。

 古人は言ったものである。
 「信を他の腹中におけ」と。
 いま、現代、その「信」を顧みて、デジタル情報のデータ化の世で、信は見つかるのだろうか。
 更には、「嚮
(むか)うところを目指し、その真偽を明確にせよ」は、人真似・人流れの中で、その他大勢の一微生物に組み込まれ、そのデータナンバーが振り分けられ、果たして個々人が信を顧みて、他の腹にそれを置くことが出来る伝道者になることが出来るのだろうか。
 難しいだろう。
 況
(ま)して虚心坦懐はどうなる。さっぱりとした静寂なる重患と環境の中で、心に何の蟠(わだかま)りも無い虚心平気で望む透き通った心情は存在しているのだろうか。事実は混乱してはいまいか。

 そして古人は語る。
 風光霽月
(ふうこう‐せいげつ)
 必ず、雨が上がればその後は月夜が訪れ、あたかも名月を見るように曇りの無い、さっぱりと下心境になって、これまで見ていた周囲の景色が豹変して絶景の名が眼に映る、人間の心の進化を得て、是を是として、非を非とする清々しい心境に到達できるその切っ掛けが、多忙に乗じて駆けずり回るスピード時代の現代に定着する兆しがあるとでもいうのか。
 死が蔑ろにされ、生きているうちだけが華と持て囃されるのも当然だろう。
 月を見る静寂は、現代の世では廃れた。退化し、大きく後退してしまった。

 更に思うことがある。そして驚くことがある。
 それは紀元前三世紀頃の中国戦国時代の思想家・荀子
じゅんし/50歳にして初めて斉に遊学し、襄王に仕え祭酒となる。讒(ざん)に遭って楚に移り春申君により蘭陵の令となったが、春申君の没後、任地に隠棲。前298?〜前238以後)の挙げた「乱世の徴」である。

その服は組。
その容は婦。
その俗は淫。
その志は利。
 その声楽は険。

 四番目に挙げられた「その志は利」は為政者自身が国家と為とか、社会公共の利益とかの国民に利益と言う観念が無く、自身が利己一点張りの我利我利亡者になった時、その国は亡ぶとしているのである。荀子の「乱世の徴」には、そう記されている。

 これは、法家の『韓非子』の「亡徴」にも合致する。
 荀子の「徴」も韓非の「徴」も滅亡の意味を含んでいる。
 『韓非子』に曰
(いわ)く、「群臣が学問を好み、重臣が子弟の弁術を玩弄(がんろう)し、商人は他国に財を蓄え、庶民の依頼心強き国、そのような国は、亡ぶべきなり」と。

 更に「刑罰は淫乱、法規に忠実なく、弁舌の巧みなる者を愛してその実行力を考えず、見て暮れの華麗に溺れてその実効性を顧みない君主の国、そは、亡ぶべきなり」と。
 あたかも何処か今日の日本の世情に似ているところはないのか。

 荀子の「徴」は更に続く。
 「その声楽は険」と芸能の実態についても挙げている。
 歌でも音楽でも刺々しくて、どことなく気違いじみている。そういう、静寂を掻き乱す歌や音楽を挙げているのである。そして現代の子供は、学校の音楽の授業で「童謡」を殆ど習ったり歌ったりしなくなったのである。
 物質優先科学一辺倒主義で、情緒の世界に帰らなくなった。人民は時代に誘導されていると言う観が否めない。その方向に流されている。
 その最たる証拠が現代人の人真似であり、人のまま流れて行くと言う、作為によって作られた流行の時代に流動する現象である。

 ただ飛び跳ねれ、攪乱と乱闘、暴動と格闘の世界に身を投じているようにも思える。絶え間ない阿修羅の世界で好戦的に、然も野心的に天上の神々に戦いを挑む、この行動原理に似てはいまいか。
 日本人の詩的情緒の感性は、九分かた破壊されている。郷愁とか情緒が、今日の日本の青少年からは抜け落ちてしまった。現代の世から安らぎを覚える静寂が消え、何もかも慌ただしくなった。

 そして、昨今の音楽として存在するのは、ただ喧しい、騒がしいだけのロック調の音楽である。跳ねて飛んで、拳を振り上げ、足を踏み鳴らすだけである。換言すれば、また行為をいい改めれば、このロック調の音楽に匹敵するものは何だろう。跫
(あしおと)を踏みならす一斉授業のような、一斉動作のような誰もが同じ歩調を取ると言う行為は何だろう。
 あの、軍隊の軍靴の響きに似ていないか。

 その歌詞には、英語混じりの、国籍不明なものばかりが繰り返し歌われ、この手の音楽が氾濫
(はんらん)しているのである。昨今の歌には、国籍が無いのである。母国語が無いのである。日本語の持つ、独特の言霊が死んでいるのである。
 現代の世は一見平和主義を標榜
(ひょうぼう)し、日本だけは戦争を放棄して、もう戦争には関わらないとする平和ボケの中にあって、しかし世界は日本に戦争を放棄させず、軍靴の跫を要請し、要望し、かつ何処かで誰もが歩調を合わせる軍靴の跫にも似ている現象が起こっているのである。

 現代はビジネスマン然として、多忙にビジネスに奔り、然も利益優先を最優先にする企業形態は、かつての軍隊のそれと似ていないか。
 ビジネスマンは手に武器を携える変わりに、ビジネスと言う利益優先主義をその一面に生活ライフとして非日常の戦闘状態にあるのではないか。
 その最たるものが多忙から来る過労死である。日本人特有の勤勉から来る働き過ぎである。サービス残業である。
 そうした過労死の背景に、かつての軍靴の跫に似たものはなかっただろうか。

 その跫が奇
(く)しくも、不成仏の死に向かう行進でなければ幸いである。あるいは一時の慰安に身を投じた暴飲暴食の不摂生が起因する生活習慣病でなければ幸いである。
 果たして死生観は解決できたろうか。
 もし、それが死生観を解決することなく、足を踏み鳴らすだけの軍靴の歩調の、死出への旅でなければ幸いである。向かう先が“死出の山”でなければ幸いである。

 こうした現代の実情を見ると、現代人は古代人に比べて、やはり退化した生と死に、生きる他ないのであろう。
 そして、それはまた極めて多くが事故死的に死んで逝く。現代人の大半は、病院で生まれ、病院で死んで行く。これこそ、自然界から隔離された死に方ではないか。

 また直接病院で死を待つ死に方ではなくとも、その他の死に方には、変死、横死、自殺、他殺など様々で、これ等の差は、生前の名前に由来する事と無関係ではあり得ず、また、全く影響がないとは言い切れない。因縁の根拠は、此処に存在するからだ。

 更に現代の死を特記するなら、古代には無かった死に方で死が訪れる場合がある。
 その死は、多くの場合、「横死」である。それは事故や事件が、その現象を顕著にしたからである。
 「横死」とは、人間の想像を絶する凄まじい死に方であり、事故や殺害など、思いがけない災難で死ぬことをいう。その死に態が凄惨であるから、当然、そこで感じる意識体の感知は「断末魔
(だん‐まつま)」の様相を呈する。「非業(ひごう)」ともとれる死に方をする。

 本来「非業」とは、過去世
(かこぜ)の業因によらないこと、あるいは思いもかけない現在の災難によって死ぬことなどをいうが、現象人間界は因果ならびに逆因果が働く為、偶然と云う現象は起こり得ない。根底には必然が存在する。起こるべきして起こる因縁がある。
 現代に起こる悲惨な現象は、起こるべくして過去が繰り返される非業が顕われたと言うべきであろう。

 事故死の多発……。
 どう見ても自然死には見えない現代人の死がある。悲惨な死がある。
 現代は、外見上は平和の上に胡座
(あぐら)をかいているが戦争状態さながらな、安楽死とは程遠い、死に態(ざま)が、ある意味で非業の死を思わせ、それが表面化している時代であるとも言えよう。



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