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うまく死ぬ法 29

体質維持の有無は「積少為大(せきしょう‐いだい)」であり、背景としての裏付けは、創造性と安定性であろう。したがって両方を獲得したいと奔走するものである。
 いつまでも現状維持でいい状態にいたい。万人の願いだろう。
 斯
(か)くして若返りを企てる。老いることを否定する。枯れることを拒否する。

 だが不安定要素の中で、人間の近未来に必ず襲ってくるであろう「老醜」は、揺れ動く心では克服できないものである。
 人は老いに嘆きを感じるものである。
 特に現代人ほど、美しく老いることを願わず、他人から若く見られることのみに奔走する。そして生き方は“若作り”的になる。現代は若く見えることほど喜ばしいものとなった。老いは敬遠される時期となった。

 人は生まれた以上、必ず老・病・死の順を辿
(たど)り、最後は必ず死ぬ。
 特に、生の裏には死が張り付き、この表裏一体の関係は、老と病を挟んで、人間を遂には死に向かわせるものである。そして老は病と同居している。

 老いるから病む。病むから死ぬ。
 だが実際には、人間は病気では死なない。寿命で死ぬ。生きることに縁が無く、生かされる因縁をもたなければ、死は必然的なものとなる。
 人生の“通り相場”は、そうなっている。
 したがって老いて病んで死ぬ。これは人間の変化の中にある運命である。生まれた以上、定められた避けられない宿命的な四期
(生・老・病・死)である。
 必然的に訪れるものであるから宿命でもある。絶対に免れない。人間はこれに遵うしかない。

 老いている。病んでいる……。
 それは年齢相応の人生の四期の過程を辿っているのである。
 正常と言えよう。

 昨今は老齢という年齢も、かつてより苦役の労働や家事も少なくなり、それだけに肉体的負担は軽減した。そして日本人は、大半が長寿を全うしているようである。世界有数の長寿国でもある。

 しかし、長寿の目的が明快でない。
 長生きしたとしても、単に長寿が動物的であったりする。動物的に生き存
(ながら)えている隠れた実体もある。自然に、人間として生きているのではなく、動物的に生命維持装置の力を借りて、人為的に生かされているだけである。


●一粒万倍

 人生には運が大いに左右している。運が良いか悪いかで、その人の一生が決定されている。しかし、これが宿命ではなく、運命であり、運命はダイナミックに変動する。この変動に人は揺すぶられる。そして、自らの行いしだいで、よくにも悪くにもなるのである。
 その場合、万倍にも良くなることもあるし、逆に、万倍にまで下降線を辿って悪くなることもある。運命には陰陽が存在し、それに人は支配されているからである。

 『報恩経
(ほうおんぎょう)【註】『大方便仏報恩経(だいほうべんぶつ‐ほうおんぎょう)』 八世期の奈良時代異に説かれ、七巻からなるも訳者不詳。この教典は、出家して親を捨てるのは忘恩であるという非難に対して、一切の衆生を棄(す)てない寛容なる大慈心を起こすことこそ、真の報恩であると説いた)には「世間利を求むる、田を耕す者に先んずるは莫(な)し、一つの種万倍となす」ということが記されている。
 そして「一粒万倍」とは、この教典の語句から引用されたものである。

 この語句から読み取れることは、「一つの種万倍となる」とあることである。一つの種がやがて万倍になる要素を根源に持っていることである。
 世間求利、莫先耕田者、種一万倍……。
 これが「一粒万倍
(いちりゅう‐まんばい)」である。

 つまり、少量のものが殖
(ふ)えて数を増すことを言う。
 また、一粒の種を蒔
(ま)けば、それが実って何万倍もの粒になることから、僅かものが大きな利益になるの喩(たと)えである。
 この教えの背景には、少しのものでも粗末に出来ないことを指し、倹約や節約ととともに、“勿体無い”という気持ちを抱かせ、特に「米の一粒」はこの教えの大事を説いている。
 あるいは僅かなもの、少量、少数などの、一見貧弱・粗末に見えるものでも大事に遣えと言う戒めがある。物を無駄にしないことを教えている。

 その喩えとして、出家して親を捨てるのは忘恩であるという非難に対して、一切の衆生を棄
(す)てないという大慈心を起こさせる構図で説かれている。その構図の原点に一粒万倍があった。
 更に、世間求利、莫先耕田者、種一万倍……。
 その展開は厖大なスケールである。

 米の一粒。
 昔から「米は一粒でも
大事にせよ」と日本人は教えて来た。
 また、その背景には陰徳の大事が説かれている。一粒の米を粗末にせず大事にすることは、同時に徳にも通じるのである。
 米は一粒でも粗末にしてはならない。昔からよく言われたことである。
 これは人間が生きているうちに出来る徳である。物を粗末にしない。これこそ人としての徳であった。
 この徳をもって死ぬその日まで全うするのである。
 富んでも奢
(おご)らず、運良く出世が適(かな)っても、徳の大事を忘れてはならないことが、ここには説かれている。それが一粒万倍である。

 かつての日本人は、粗末にする者は「眼が潰れるな」ども、警句の譬喩
(ひゆ)として教えて来た。昔の日本人は決して食べ物を粗末にしなかった。食べ物は自分の命と同じ比重を持っていたのである。
 特に米に関しては、その傾向が強かった。農耕民族ゆえにであろう。

 何故なら、その一粒から物が殖えて万倍となり、この万倍の御陰で人間は飢えを凌
(しの)ぐことが出来るからである。米にはそう言う力があった。そして、一粒を甘く見る者は、甘く見た分だけ、最後は自分が泣くことになる。古人はそう教えた。その顕著な例が、冷害などが生じて飢餓が襲ったときである。

 日本人は歴史の中で何度も飢餓を体験して来た。太古から日本人は、その辛さを十分に知っていた。命に匹敵する尊さがあった。あるいは命そのものであった。
 米に対して粗末にすることや罰当たりなことは、それを働いた者に跳ね返って来る喩えである。
 更には飢え死にすることまで暗示している。稲穂の国と称された日本人の中には、物を大切にし、食べ物はその最たるものとされた。
 したがって、米は日本人にとって、その一粒が、また命の一粒でもあったのである。

 一方で、一粒万倍に響きには、少量でも心掛け次第で大量になる暗示か掛けられている。
 一粒万倍……。
 この言葉にはそう言う響きがある。
 最初の一粒が万になり、万がまた倍と変化して少量は、やがて百万にも一千万にも一億にもなるのである。倍々ゲームのように殖えて行く。物でも金銭でも殖えて行く過程は何とも痛快で気持ちのいいものである。物があり金があることは一見人間を怕
(こわ)いもの無しに思い上がらせ、奢(おご)らせ、傲慢(ごうまん)に至らしめるものである。有頂天に舞い上がらせ、優越感から高飛車にさせるものである。

 だが、この教えは良いこと尽くめではない。
 落し穴も書いている。一粒万倍には裏がある。
 特に現世ご利益のみを期待した者に対して、その見落としを指摘しているのである。教典に言葉上には如実には語っていないが、裏から読めば、例えば事業を始めるための“借金”である。
 借金の取り扱い方も、道を誤れば不幸現象が生ずる。雪達磨式に膨らむのも一粒万倍である。
 金融機関から利息のつく借金をしたり、友人や知人から金銭や物品を借りたりして、返済に少しでも滞れば迷惑を掛け、またその苦労の種も万倍になると言うことを指摘している。見逃すべきではないだろう。

 願えば願った分だけ反動が来る。その代償を払わねばならない。
 この世の中は作用に対して反作用が起こるからだ。
 したがって良いこと尽くめではないのである。それに対比する等量の悪いことも起こる。此処に、多くが見逃しがちな落し穴があるのである。

 確かに一粒の種が万倍になって帰って来ることはいいことだが、道を誤ったり判断の読み違いを犯すと、その苦労も万倍になって跳ね返り、そこから不幸現象が一気に吹き上げるのである。
 これが作用に対する反作用であり、反作用は必ずにもいい方向には運ばず、多くは「代償を支払わせる」と言う過酷な現実の一面を持っているのである。

 しかし、一粒万倍という響きは何ともいいものである。
 背景には金銭と言う数字的なものが絡んでいるからである。
 だが、数値的な倍々ゲームのような数は、時にはマイナス方向に働くこともある。
 裏目に出ず、計画通りには込めば謂
(い)うこと無しである。
 問題はこの言うこと無しを、如何に自分の方に惹
(ひ)き寄せるかである。
 惹き寄せるからには、自らに「徳」に一面がなければならない。人徳無しに、人を引き寄せ、金や物を引き寄せることは出来ない。引き寄せるとが出来なければ、計画を練っても計画倒れに終わる。
 徳の大事は、このことからも容易に察しがつくだろう。



●死ぬことへの感動

 人生最後の最大のクライマックスは、死である。そして、その死には感動が伴っていなければならない。
 死は確かに厳粛で荘厳であるべきだが、また感動に満ちていなければならない。決して、無慙
(むざん)な死であってはならない。人の死は感動を齎さなければならない。
 また、迷う死であってはならない。死に迷う死は、不成仏の許である。凶である。
 死には安楽が根底になければならない。安堵がなければならない。安らぎがなければならない。

 しかし、現代はそれを許さない時代でもあるようだ。
 生きることが前提となっている現代は、簡単には死なせてくれないのである。そこで迷う。
 では、なぜ迷いが多くなったのか。
 それは現代社会特有の多種多様の選択肢が、迷いを誘発させるからである。
 多種多様の世の中は、一見選択肢が多様でいいように受け取られる。しかし、そこには意外ないなる落し穴がある。
 多種多様の時代、多過ぎる情報は過情報となって混乱を招き、考え方も分裂して迷いだけが濃厚になる。

 例えば、「もし、あれを選んでいれば……」などの、選んだ後からの反実思考が起こることである。この反実思考が迷いの元凶となるのである。
 だが一度選んだ運命現象は、選んだ以上、それは必ず運命から履行されてしまうものである。遣り直しが利かない。
 それは絶対的と言っていいほど遣り直しは不可能となる。

 それは生まれることと同時に、その時点で背負わされる運命である。一度背負った運命は、生きて果たして行くしかない。
 またそれと同時に、死までも背負わされる。これから逃げることは出来ない。生まれた以上、必ず死ぬ。

 地球上の人類が知る知らぬは別にしても、人は生まれた以上必ず死ぬ。
 いつの時代にも関わらず、洋の東西を問わず、また長幼・性別を超えて、平等に公平に課せられているものに死がある。そしてこの命題からは、人間は逃れることが出来ない。
 これは必ず履行しなければならない責任であり、それはたった一度きりで、その後、もう再び遣って来ることはない、一見非常に難しく、かつ同時に簡単でもある、然も解り易い一大事である。この一大事こそ、死を致すことであった。

 この一大事は一大事ゆえに、たった一度きりで絶対に遣り直しが利かないものである。一度きりで、臨終に成功しようが失敗しようが、それっきりのことである。
 また一大事ゆえに一度きりのものは予行演習が出来ないと言うことである。ぜいぜい予行演習と言えば、死ぬまでの臨死体験くらいであろう。
 だが臨死体験を重ねたと言っても、その体験が実際には死の体験と必ずしも一致していないと言うことを心得るべきである。

 斯くして、死を研究し、知っておくことは必要であるが、その準備を如何ほどに待ち構えて俟
(ま)ったところで、ある日突然に襲って来る現代人の死は、何の前触れもなく、また待ち構える側も何の用意もできずに突然に遣って来る人の死は、ターニングポイント的で、かつ瞬く間に過ぎて行く。時機(とき)が来れば一気に陰陽の縮図に舐(な)められ、覆い尽くされている。如何に準備して構えても、追いつかないものである。覚悟するしかない。逃げられない。
 一見分かり切ったようで、少しも解らず、しかし解らぬから遠慮気味に遠ざかったもそれで解決策にはなるまい。また、それで死を超克できるものでもない。

 人間最後の人生の総決算は死である。
 死は生の最後の終止符である。その終止符をもって生命の総決算をし、同時に自己完結をするのである。この総決算こそ、一大事である。大事件である。
 しかし、この大事件の遭遇しない者は、この世でのは一人もいない。



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