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うまく死ぬ法 30

昨今の流行の一つに、健康食品などを飲食して、年齢より若く見える年配者の若作り法がある。
 この方法の決めては、サプリメントと言う薬然とした食品を飲食する健康法で、大局的に見た場合、「中途半端な涸れ方」をして、自然の流れに逆らう健康法であると謂える。

 また飲食者は「今が良ければ……」と思える刹那主義が背景にあるようにも見えるのである。その動機が、若く見られたいと言うことであった。
 あたかも若く見えることを探して、今に帳尻を合わせているようにも思える。

 帳尻合わせのこの年齢の大半は、人から今を若く見られるように、涙ぐましい無駄に近い努力を重ねている。あるいは食品産業た化粧品会社の掌の上で躍らされている“孫悟空”を演じているのであろうか。

 とにかく“年齢より若く見られる”ことに、多くの年配者が躍起になっているようである。
 歳より、十歳でも五歳でも若く見られることに心血を注ぎ、表皮の改造に凄まじいエネルギーを注いでいるようである。
 何故だろう……。
 恐らく、「若い」ということは、死より、一段も二段も遠退いた錯覚を齎しているからであろうか。死は否応無く遣って来ると言うのに……。

 しかし、よく考えれば“年齢より肉体の表皮が若く見える”ということが、それほど価値のあることであろうか。
 また人から「若い、若い」と言われても、それは見掛け上の表皮のことで、中身まで柔軟な若さが保たれている訳でない。
 肝心なのは表皮の奥の「中身」である。
 中身の身体能力が柔軟でないと若いとは謂えないし、表皮を幾ら繕っても意味がない。
 表皮だけでは、思考も柔軟になる訳がない。

 表皮の繕いは無駄に近い努力と成り下がる。
 現代社会に特に流行語の一つになっている、こだわる、こだわる……で、拘泥で頑迷でもある。困惑ばかりは殖えて来る。それが、また迷いとなる。こだわった末に、迷宮に迷い込むのである。拘泥の正体である。

 ところが、現代日本人はこだわることをいいことのように思い込んでいる。実は、正体は拘泥とも知らずに、何事にもこだわり続けることがいいことで、今なお、努力の継続中などとこじつける。このこじつけが迷いとなる。
 殆
(あや)ういことだ。

 そのため高齢者の多くは、こだわった挙げ句に、「若い、若い……」の言葉に躍らされて、若作りに奔走する。現代の異常なる現象と言えよう。年齢的に老いても未熟なる若さが悪しき翳りを作り出しているように思える。
 単に時代の流れであろうか。あるいは作為の誘導だろうか。
 だが、この殆うき正体に、一体どれほどの人が気付いているだろうか。


●現代は、死の超剋は否定されてしまった……

 死は怕(こわ)がるものでなく畏(おそ)れるものである。
 人間の最後の人生に訪れる死は、人生の総決算である以上、人の世の一大事である。
 太古の時代の人達は自らの棲
(す)んでいる付近に、現代では遺跡化してしまった貝塚と言うのがある。貝塚は言わばゴミ溜であり、当時の人が食べていた貝殻のゴミ捨て場所であった。そして此処がまた人が死んだ時に死体を埋める墓場にもなっていたのである。

 その当時死体として埋まられた多くは、石を抱いた恰好で葬り去られている。そういう恰好の死体を、現代の歴史学者達は亡霊が出現するのを恐れて、死体に石を抱かせたのだと言う。また、これが墓石の最初だったとも言う。
 だがこの言に遵
(したが)えば、「墓」と言う定義も訝(おか)しなものになってくる。どこか辻褄が合わなくなる。

 発掘された当時の死体は、手が組み合わされ、足を曲げられ、自由を奪う形にしてあって卵の形状をした楕円形の中に納められている。これは単に死体が動きだし、死人を恐れてのことであろうか。
 死体を紐で縛ったり、不自由を強いることが死人への畏れるという感情で、死に対する人間の感情の最初は此処の始まったと言えるようだ。

 日本神話の中には「畏れる」という思想に加えて、「忌み嫌う」ということが克明に綴られている。
 「忌む」という感情は、実は神聖視することでもあった。単に怕
がる対象ではなかったのである。現代とは随分と違うのである。死者への慈しみがあった。したがって死者は恐怖の対象ではないのである。意識体は物理的な作用を実際に表現することは出来ないが、しかし存続している。
 古代の人達は、この存続する霊魂の存在を意識し、知っていたように思うのである。
 ゆえに畏れたのである。

 昨今の心理カウンセラーなどは、例えば子供達に恐怖を植え付けるのはよくないという。
 しかし果たしてそうだろうか。今の子供は恐れを知らないから畏れを感じないのである。
 昔の子供は親から、周囲から、怕いものの存在を教えられて育って来た。
 つまり、恐れを知るということは人間には必要な感覚であったのである。
 この感覚の中には、人間の超えた力を畏れたという恐ろしさも養われ、畏れは、また敬うことにも通じていたのである。

 ところが、昨今はそういう力を信じる者は非常に少なくなったし、オカルトと一蹴され、況
(ま)して神仏などは端(はな)から相手にしていない。真剣に話せば話すほど嘲笑の対象になる。今は誰も神仏など信じていないのである。
 しかし、入試時期になると神社仏閣に訪れ、絵馬を掲げる行為は一体なんだろう。絵馬を掲げたくらいで志望校に合格する保障は微塵もないのだが、絵馬を掲げて合格祈願をする。そんな自分勝手な願いは決して叶わぬことを知っていながら、分りそうなものだが、こういう行為を平然と行う。

 この裏返しは、昨今持て囃されている臓器移植などにも見て取れるのである。
 絵馬を掲げて合格祈願をする。臓器移植をして生存余命を引き延ばす。この背景には、現代人の科学信仰がある訳だ。
 つまり、絵馬さえ掲げれば志望校に合格する暗示が大きくなる。この暗示とともに、多から臓器を貰えば尽き懸けている寿命も生存率が高くなるというような、神仏を否定しながらも、その一方で科学信仰を熱烈に信奉しているのである。科学さえあれば大丈夫と言う思い上がりであり、この思い上がりが増幅されれば、太陽すらなくなっても、科学力をもって太陽すら作り出せると信じていることである。
 かつて古代人は太陽の恵みを知っていた。
 したがって太陽は敬う対象であり、崇拝の対象であった。つまり尊崇があり、背後には「畏れ」があったのである。

 また、太陽の中に、神のような、あるいはもっと身近な自分の先祖のような霊魂の存在を感じ、その感性とともに生きていた。
 太古の時代は電燈もなく、その他の証明もなく、太陽が沈めば、夜の灯は月や星々だった。月が出ない新月の夜は真っ暗闇だった。古代人にとって夜は恐ろしい存在であった。
 ところが、暁闇
(ぎょうあん)を迎え、太陽が昇ると、昇る太陽を見ながら思わず両手を併せて陽の照る恵みを感謝したに違いない。また日没になると、沈んで行く太陽に向かって、今日一日の恵みを与えて貰ったことに感謝したであろう。これを決して当り前とは思わなかったのである。

 自分は、自然とともに生かされていると自覚したのである。それが感謝の心であった。
 これこそ、自然に遵う謙虚な生活であり、ここには今日に見られるような科学信仰から来る思い上がりは微塵もなかったのである。これが「畏れる心」であった。
 そしてこの畏れる心の中には、同時に死後の世界がある。黄泉
(よみ)の世界があると認識したことであった。死後の世界、黄泉の世界があると感じれば、思い上がった生活も慎むようになり、人間は自然と謙虚になって行くものである。

 昨今の日本人に一番欠如しているものは、畏れる心を持つ謙虚さであろう。
 恐れ畏むものがなくなれば、人間は思い上がりから傲慢となり、その傲慢はやがて墓穴を掘る要因となるだろう。
 畏れを知らないから、人の命の尊厳も知らず、生だけを有り難がり、死への感動が欠落するのである。
 一切の恵み、つまり「生かされている」という存続の有難さは、一種の奇蹟であり、この奇蹟には畏れがあって然
(しか)る可(べ)きである。
 斯くして死者に対しては敬う気持ちがあった。

 また、此処には死者に対する畏れがあった。
 これがまた敬遠するということで、遠ざけるということでもあり、更には「穢
(けが)れる」という感情に移行し、現代人が抱いている死への漠然とした恐怖とは、次元が随分と違っている。
 つまり、「穢れる」とは今日で言う“汚い”とは異なり、死ぬ時の様子から来ているのである。これはまさに臨終を迎えようとする刹那
(せつな)のことを言っているのである。今まさに死に往(ゆ)かんとする臨終に瞬間の様子である。生から死に映る瞬間である。その死に際を言う。

 死のうとする瞬間時、死に往こうとする者は水を欲しがると言う。その際に、口に含ませる水を「末期
(まつご)の水」と言う。
 末期の水は、死は喉
(のど)の渇きから始まるとされ、ここから中有に六つの状態と三つの経験があるとされている。
 三つの状態とは天地人であり、人は天地との間に現象を相応ずる存在である。つまり天地陰陽の現象としての起こりは、人間に人体にも及び、ここには三つの中有がある。
 その第一は死の刹那の中有。第二は現象界で現象を経験した中有。第三は再生を求めて彷徨う間の中有である。これは上焦・中焦・下焦でも顕している。

 更に六つの状態とは手に太陽小腸経・小陽三焦経・陽明大腸経・太陰肺経・少陰心経・厥陰心包経であり、足に太陽膀胱経・少陽胆経・陽明胃経・太陰脾経・少陰腎経・厥陰肝経の三陰三陽を指す経絡のことである。人体はこの経絡をもって現象界を経験する。
 この経験の一番最初が誕生のプロセスである。

 人間の誕生は焦
(しょう)の火を焦(こ)がすことから始まる。生まれ出ての刹那、まずその瞬間にオギャーと泣くことから始まる。ここに呼吸の第一歩がある。
 次に臍
(へそ)の緒は切り落とされ、母胎と分離される。その後、直ちに成長が始まる。任脈上の臍から会陰(えいん)までの下焦で、大小便をするプロセスが人の誕生である。
 だが人の死は、この逆のプロセスを辿る。
 自然死の場合、まず下焦の会陰が閉じられる。その際に生命力は中焦の神闕
(しんけつ)を通って、上焦の泥丸まで達し、ここでブラフマの開き口から体外へと出て行く。死の刹那の瞬間であり臨終である。

 誕生は生命力の焦げることから始まったが、死はその反対に、生命の火が消えることをいう。
 つまり人の誕生は、精液と言う水から始まったものだが、死は、焦げ尽きることから末期の水を必要とするのである。これが喉が渇く必然である。ただしこれは飽くまで自然死においてである。
 現代のように病院の堅いベットの上で死に逝く者には、その現象は殆ど見られない。喉の渇きもなく、ただ物体に戻るだけの死である。
 ところが自然死の場合、その刹那には生命の火が燃え尽き、その刹那に火を消すために水を必要とするのである。これが末期の水である。

 現代では、人間は一応に「青い畳の上で家族に看取られながら……」という最期を迎える人は実に少なくなった。
 現代人の死は一様でない。様々な異種異様な死の最後があって、末期病を患って苦しんだ後に苦痛な死を向かえる者、悲惨な事故死をする者、事件に巻き込まれて殺されて死んで逝く者など、昔とは、死に場所が一変したことを物語っている。青い畳の上で静かに息を引き取るなどは殆ど見られなくなった。

 この一変は、人間を自然死から遠ざけたと言えよう。そして近年には病院で生まれて病院で死んで逝くと言う人の誕生と死がある。
 これは結局自然から遠ざかったに過ぎなかった。また死が穢いものとして嫌われる存在になった。そこで、長生きをして、とにかく生き存えなければならないと言う現代流の考え方が起こった。またこれは、死の尊厳が失われた社会現象であろう。
 死には尊厳がないから、死に対しての感動も生まれないのである。ただ現代人は、物体として死んで逝くだけである。物体化された死体は焼かれて、物質に還元されるだけである。死者と生者は完全に隔離されてしまった。

 だが現に、死の刹那、臨終のその瞬間、実に悲惨で恐ろしいものもある。現代の世は特にその傾向が濃厚になった。
 事故死の場合、特にそうである。
 ぞっとするような凄味のある死に方もあるし、苦痛に歪
(ゆが)ませた死に貌(かお)もある。自然死のように尋常でない。そういう最後の貌が、現代人が死人に対する感情となり、その経験が積み重ねられ、それと比例して死は汚いものとなった異常な感情なのであろう。
 したがって現代人は死体を見ただけで驚愕し、恐れ戦
(おのの)き、怕がるのである。
 死体を汚らしい異物として、死者に対して思い込みを増幅させてしまったのである。

 人間の欲望は限りない。その中でも生の欲望は、現代人は旺盛であり、何処までも生に縋ろうとする。そして、現代人風にこの欲望を分析すれば、人間最後の最高の欲望は、生命力を何処までも欲することである。

 つまり人は、最終的には金ではないものを欲しがる。人生経験を深くすると金では買えないものを知り、それを欲しがるのである。
 金の亡者でも、最終的に欲しがるのは、自らが長生きできる半永久的な生命である。しかし人の生命は金では買えない。譲渡も出来ない。
 長寿を全うするには、金に物を言わせて傲慢になろうとも、これだけは思い通りにならない。
 日頃の生活習慣と、身の慎み方が、その後の生き方を決定するからである。不摂生が如何に哀れか、その悲惨さを知ると、金以外に欲するものを求めようとするものである。決して中途半端な生に縋ろうとしないものである。決定的なものを欲しがることである。

 大枚を叩
(はた)いて独自の人間ドック的なホームドクター機能を持っていても、天命の「命」には逆らえないのである。逆らえないこと事態が、終盤に差し掛かった者の一大事である。
 この大事を知ったとき、人は金銭が如何に無力がを知る。金で買えないものを知る。そこで「生き方」を考え、尚かつ、「死に方」までもを模索する。死に方は生命力を欲する裏返しの顕われかも知れない。
 大往生と言う、最高の死を需
(もと)め、成仏を求めるものである。
 成仏は金では買えないからである。

 こうして生の中で考えれば、自分の都合のいい死に方まで設計しているのである。安楽死などの考え方もこれであろう。同時に、背後のは長寿まで企てる。長寿を全うしたと思っても、それは作為であり、意思的な行為であろう。
 考えれば、これも中途半端な生であった。中途半端な生は半病人などに見られ、病人でもないし、健康人でもなく、だらだらと年齢を重ねた幼児のような老人に多く見られる現象である。
 この現象は、墜ちるに墜ちない中途半端な、肚の据わっていない半病人に見られるもので、中途半端が一層死を恐怖に感じさせているのである。
 特に、まだ遣っても来ない自分自身への老後の暮らしなどを案じることも、その不安自体が中途半端であるからだ。

 一瞬、この事態を恐怖に思いながらも、何処かで「金さえあれば……」という奢りが、恐怖に中途半端を煽るから、また一段と怕くなるのである。恐怖も、恐慌並みに増幅されてしまうのである。
 そして金や物に頼った他人任せの安堵への価値感が一挙に崩壊するのである。
 特に老いれば尚更であり、これまで自分が持っていた「金さえあれば……」は、その価値観自体に間違っていたと気付き、此処に来て、死とは何か、生とは何かを考えるようになる。それを真剣に考えるようになる。
 そして、次に取り憑かれる欲は、成仏と言う大往生に傾いて行く。

 しかし、こうして欲した欲望も最後は訣別の時が来る。人生は終盤と雖
(いえど)も、思い通りにはならないものである。人間側の思惑通りには運んでくれない。
 目論んだ大往生が、焼き付け刃的な、付け焼き刃であるがある程、作為の企てから逃れることは出来ない。

 現代は死を恐れて、人工的に長生きをする。自分の中に他人の物を入れる……。自分のものを他者と入れ替える。
 こういう遣り方で長生きしたとしても、ただ死期を伸ばしただけである。
 だが、生との断絶を引き延ばした時間的な価値感が、現代人流の最高の欲望になっているのであろう。虚しい欲望である。

 この期
(ご)に及んでも、今なお、生に縋(すが)り付く。死を考えても、死は後回しにしている。死を、人の死に見ているからである。自分のものとして受け止めてはいない。ただ人は死ぬことだけを確認する。しかし自分は別だと思い込んでいる。自分だけは特別だと高を括(くく)っている。

 だが、これにも落し穴がある。やがて生の破綻
(はたん)の時が来る。
 死を逃げ廻る媒体としているからである。これでは死生観は解決するまい。
 死は考えても、死の中に突き進む対象にしていない。死は考えつつも、やはり何処かで逃げ、不運にも死が近付けば、都合よく大往生したいと企てているからである。
 追うものは逃げる。反作用の顕われである。

 現象界は作用と反作用で成り立っている。
 行為と言う作用に対して、必ず反作用と言う事象が起こり、その行為に対しては必ず代償を支払わねばならないと言う現象界の掟がある。
 特に自然界の法則に逆らい、楯を突いた行為をした場合、不自然な行為に対して反作用が働くことである。
 この場合、死に対する悲痛が、最も強く増幅されるのも当然である。
 人の死を考えても、自分の死は考えず、また大往生を願う多くの者は、やはり、死は逃げる対象でしかないのである。これでは逃げずに踏み止まれない。

 もし人の死が人生最大の苦痛であるなら、人はこの苦痛に対して受けて果たしていかなければならないのであるが、これを避けて通った場合、どうなるのだろうか。
 本来、自らに課せられた死は、自らが果たさねばならない。その代用は本来存在しないものである。それを今は、生命維持装置などの機械力や臓器移植などをもって、不自然な長生きを企てる。徹頭徹尾、オリジナル性が失われた生き方に奔走している。
 これでは、乗り切ることも、乗り切る努力も無視することになる。死の超剋は、これにより不可能になる。
 現代特有の社会現象であろう。



●死は生命の終焉か

 人は死をもって、総ての生が終焉
(しゅうえん)するのだろうか。一切が消滅するのだろうか。
 果たしてそうか。
 また、死をもって生の終わりと考えるから、ただ生き存えて長生きすることだけが人生総ての生がだと考えられがちである。
 ところが死は、生の終焉ではなかった。
 意識体は生き続ける。人の意識は残る。感情が意識となって残る。
 その事に眼を向け、生の本質を考えて見なければならない。

 生きているということは、一体どう言うことか。
 果たして人間は単に独力で生きているのだろうか。
 独力で生きていると自称しがちでも、その側面には何らかの扶
(たす)ける力が働いているのではないか。そして、このように考えるのが自然であろう。
 つまり、生かされている事実である。

 人間は天地の間にあって、天に生かされ、地に生かされている。
 したがって自分の独力で、一人の力で生きているのではない。天地大自然から生かされている。自然界の一員であるからだ。
 また、生かされる因縁が働いているから、「生きている」という現象が起こっている。これが生の本質である。生は死なず、意識は中有の世界に入って行く。
 この本質を見据えれば、生きていると言うことは単に「形をとる」ということでしかなかった。形状に過ぎなかった。外観に過ぎなかった。

 また、成長するとは「変化する」ことであり、変化の中に様々な現象が起こっていた。
 変化する現象は人間の肉の眼では「顕われ」であり、顕われは反面、その背後に隠れた幽なる一面を持っていたのである。
 幽は無形であり、決して形に顕われない。あたかも藕糸の如しである。また形に顕われないからこそ、無形を為し、それは常住であり、かつ不変的な一面を持っていたのである。その中に反面としての人間の存在があり、そこに生かされる「生」が在った。
 本来死ぬべき存在のものが、生きているという「生かされる」顕界現象で、顕は対立相対の世界であり、形を持たない幽は絶対の境なのである。則ち、考えれば幽は本体であり、顕は陰翳
(いんえい)に過ぎなかったのである。

 人の生を譬えれば、その生は大海の波であり、あるいは空中の風に相当するものである。更には水蒸気が雲に変化したもので、存在するように見えるのでなく実際には無いところにあるように見えたものなのである。そもそも非存在なのである。
 非存在であるから、いま在るのは「仮のもの」であって、取り敢えず「借りたもの」で、実際には無いのが「実」なのである。

 ところが科学信奉の時代、現代人は形に囚
(とら)われ、例えば自然現象の中でこれを科学として取り上げた場合、波だけを見て、風だけを見て、本体の波の立つ大海も知らず、風の起こる根源の大気も知らないのである。仮に知識として知っていても、それは知の世界に止まってだけで、本質は何も見ていないのである。知識のみで、肉の眼に見える部分だけを問題にしようとする。不可視世界のものは端から相手にせず、非科学とか、迷信と見下して一蹴するのである。
 だが、未科学を非科学と考えるのは短見であろう。
 藕糸として、眼に見えない隠れた部分の、有機的存在を完全に見落としているのである。
 生も、生だけを見て死を見ていないから、実際には生の本質が分らないのである。有機的結合を為した生と一体の死の世界を見逃しているのである。

 つまり、形のある有限というのは、無限を無限とする一時的な「あや」に過ぎないのである。何処までも、「仮」であり、「借りもの」である。衣服で言えば、デザインや色柄に過ぎないのである。また、それらしく見せるのも形であり、臭いである。
 したがって生とは、実は無に立った有であり、更に空に即した色なのである。そしてこの生は死に対して、何処までも仮りであり、また借りものなのだ。

 この「借りもの」を検討すると、人の死は一般的に考えて死んで無くなり無になるものでなく、仮に無くなったように見えるものが死であり、肉体と言う形を失っただけなのである。肉体を失えば魂魄は天と地に行き先が分離され、魂は天へ戻り、魄は骨となって地に帰り、肉は土になり水に戻り、種々の元素に還元されて行く。
 これまで存在した形は、縛りや拘束から解かれて、もと在
(あ)ったところに帰って行くのである。
 より善き、うまく死のうにしても、生の本質が分らずして、死の本質も見えて来ないのである。
 そして、死の本質を見抜くには、古人が修行と研究を重ねた結果、その境地に到達して悟りを拓き、死生観を解決して解脱する以外に無いのである。

 人は死を前にして、世襲の旧態依然の因襲から解放され、魂を自由に解き放つ境地に到達しなければならないのである。それを古人は「悟り」と謂い、「解脱」と謂い、また「神人合一」などと呼称したのである。そして時に応じ、切り拓いた境遇に従い、独自の妙法と研究探索の成果として、その秘術を知り、「即身成仏の法」として遂に死生観を生きながらに解決し、彼岸に至ったものと思料するのである。


うまく死ぬ法  完




これより『うまく死ぬ法』は“続篇”の『そろそろ死のうか』へつづきます。





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