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そろそろ死のうか 14

人生は、人間を知ることであった。そのように理解した。
 人間を知らずに、人生などわかろう筈がない。
 とにかく人間理解に努めることである。
 また人間理解の努力の中で、人とは何かを追求する場合に、人間特有の怒りとか、性格上の問題が浮上する。

 例えば、人は人の話を聞いていないと怒ることであり、また好まれるということに関しても、好まれる特異なる性格があるように思うのである。また、そうした性格上の根源には人間が感情を経験する喜怒哀楽の中にあるように思うのである。
 そして人の「心」というものである。
 人間を知らずして、どうして人間への理解を深めることが出来ようか。
 言わば人生は「人間学」の教場であった。

 更には、人間の哀れを知らずして、どうして自分の人間としての幅を広げることが出来よう。
 そこに人情の機微があったことも紛
(まぎ)れもない事実である。その人情が分らずして、人の気持ちが分かる分けがない。
 これこそがこれまでの人類史には指導者の必須条件としてあげられたものであった。

 日本ではその資格を充分に満たしていたのが武家政権であったかも知れない。それに較べて現代社会の人達はどうしたことであろうか。人の気持ちを察
(か)ねることに甚(はなは)だ疎(おろそ)かではないのか。
 そして、近年に至って義理とか、人情とかは廃
(すた)れ、更には人間としての美徳や勇気までもが軽視されてしまった。

 基礎的単位だけで構成する核化の時代、人が人を知ることなく、物への理解と欲望だけを示し、物質至上主義の中に在
(あ)って、人間への理解を深めようとしない。ただ物に心を動かされ、物追求のみに奔(はし)っている。物質的に豊かであれば、それでいいと思っている。
 昨今の贅沢に興じる美食主義がそれを雄弁に物語っている。

 わが家の冷蔵庫の中には当分の食べる物があり、その他の物財に囲まれ、金銭に恵まれ、かつ便利で快適であれば、それが幸せだと信じている。そして、物が豊かであると言うことは、金銭的にも豊かであり、多くの収入があれば、それが則
(すなわ)ち幸福であると信じて疑わない。
 現代人にとっては、幸福イコール生活の快適さにあるようだ。

 したがって、こうした生活環境下では、最も憎まれるものが不快であり、苦痛である。
 快適な生活空間に慣れてしまった現代人は、まず何よりも不便や不快を嫌い、また苦痛であることに抵抗力を失ってしまった。
 抵抗力を失った現代人は、肉体のみならず、心の苦しみに対しても抵抗力を失ってしまっているようである。
 ゆえに、苦しむことは、現代の不合理になってしまった。
 現代とは、物が豊かであり、物によって、幸福が得られると信じ切った時代である。また、その路線を走っている。

 便利なもの、快適なものを追い求め、それに身を委ねたとき、人は墜落する。甘えの構造の中に首までどっぷり浸かると、自立の精神を失う。自分の脚で立って歩けなくなってしまう。
 また、自分では墜落したと思いつつも、つい、文明の利器を頼ってしまうのが現代人である。

 私自身も、多分に洩れない。
 自分では、嗚呼……墜落した……と思いつつも、便利な方を選び快適な方を選んでしまう。そして一旦、便利さや快適さ安楽さを覚えると、人間は以前の不自由で、不便な時代へ戻るのが難しいようである。


●不増不滅の法則が無視された現代

 分解・解体した自然は、もはや自然でない。死滅した、粉々にしてしまった死滅した自然の残骸である。
 人間は科学の名をもって、粉々にした分解物を検
(み)て微視的視野の上に立ち、それらを分析知識をもって、「自然を知った、自然を把握した、自然を利用する手段を探し当た」と自負するのである。そのことに成功して、自然を征服したと称しているのである。
 これこそ、自然を把握する方法論が間違っていたのである。

 そもそも誤った基盤を立脚点に置いている以上、その後、いかなる合理的かつ効率的な思考を重ね合わせても、既に根本的に誤りがあるのであるから、導き出された結果も間違っている。そこに幾ら系統立て、体系付けしても誤りが連続した系統図を描き出しているに過ぎない。

 生き物と言うのは、みな体系を持っている。
 しかし、図形化したり図表化したり、表分布や分類によっただけでは、その体系を明確にすることは出来ない。一応の指標を部分的に示したに過ぎない。細切れした一コマなのである。
 本来に生き物の体系と言うのは、自然を含めて、その中で必ず隠れた部分を含んでいる。隠れた部分、眼に見えない部分まで思考し、その闇の世界の蠢
(うごめ)きを透視しようとしたのが、かつての東洋的体系であった。
 一方、隠れたそれを物体化して、その中に隠れているものを観ようとしたのが西洋の科学的体系であった。

 しかし、両者は同じように体系付けて考えるが、方法論においては天地の開きがあった。
 つまり、西洋は分析と称して、切り刻んで解剖するのに対して、東洋は解剖などしない。部分的に物事を検
(み)ようとしない。隠れた部分までもを含めて全体像を観ようとしたのである。

 これは、解剖し分解すれば分解ミスを起こすことを懸念していたからである。つまり、解剖したものを元に戻すとき、生きたものを解剖し、その後、復元しようと思ってもそれが叶わぬことを知っていたからである。生体を解剖すれば、生体は死体になってしまうからである。
 この分解ミスは、自然科学の分野にも起こっている。
 つまり、東洋では生体を、また生命体を無機物と捉えるのでなく、有機物と捉えて来たからである。

 ここでの私の見解は、本来体系だったものを、如何に組織を有機化するかに懸かると思うのである。またその場合、一つの生き物と化すかと言うことに尽きるのである。その場合、分解すれば腑分けして分類は出来ても、組織は分類できないと言うことである。
 だが、昨今の科学万能信仰は、また、二十一世紀に入って、一層信者を殖やし、止まることなき増加を示しているようだ。そこには矛盾した、欲望を抱えた生臭い科学者と言う人間の集団が犇
(ひし)めき合っていたことだ。

 だが、この集団とて、多方向に独自に仮説を掲げてたようかの方向へ奔
(はし)っている以上、バラバラに分裂する状態にあると言えよう。人間の集合した組織と言うのは、常に分裂を繰り返すものである。
 組織があっても、分裂して放射状に飛び散っていては、バラバラの多様化された人間が生きているだけで、全体を一方向に向ける操作は不可能であり、その組織は一つの生命体にはならないであろう。人間が形成する組織でも、一つの立派な生命体であるからだ。

 孫子に、『常山
(じょうざん)の蛇勢(だせい)』というのがある。
 それは『孫子』の「九地」に、「常山に棲
(す)む率然(そつぜん)という蛇は、その頭を撃てば尾が巻き返して来て反撃をする。また尾を撃てば、頭が巻き返して尾を助け、胴を撃てば頭と尾との両方が巻き返して来て胴を助ける」というところから来たもので、孫子は好んで、この譬喩(ひゆ)を用いた。

 つまり人間の組織でも、有機的な働きをする生命体であれば、常山の蛇のような働きをすると言う意味である。一見自在な戦争論であるが、それだけに止まっては居ない。
 生命と名のつくものが、生まれながらに内蔵している最も大事な「有機性」について説いているのである。
 これは組織の“一致団結”と言う、そういう卑近なものでないだろう。一個の生命体とする隠れた力を説いたのである。

 組織は一致団結したくらいで、生命力溢れる生きる力を発揮させると言うものではなく、単に人と人が結び合ったくらいで、また社会の一員を構成したくらいで、その親和的結合だけでは猪突猛進的な力にはなり得ても、それはそれで直線的な脆
(もろ)さを露呈することになり、あたかも孫子の説くような「常山の蛇」にはなれないだろう。

 世間で言う一致団結は、単に呼びかけのスローガンに過ぎない。そもそも人間は最初は同じ生成の力によって生まれて来るが、この世に生まれでた途端に個性を有し、その後は同一人間など誰一人としていないのである。つまり、この世は同規格の同一価値で考えるような枠に収まり切れるような人間は一人もいないと言うことである。極めて不均衡であり、不平等である。
 スローガンとして一致団結を呼びかけるのは結構なことだが、単に呼びかけたくらいで“常山の蛇並みな働き”をすることはあり得ないのである。現実的でないのである。
 むしろこうした呼び掛けは組織を運営する場合には逆効果で、同一既成枠に入りきれない器だったら、そのスローガンを聴いただけで怒り心頭に来てしまうのである。

 一致団結……。
 スローガン的には結構な言葉である。
 だが、人間は口先だけで一致団結を呼びかけたくらいでは、心を一つには出来ないのである。また一つの価値観を押し付けて、規制枠外と言う器が居て、型に填めようとすれば抗
(あらが)うことを企ててしまうのである。

 人間社会も一つの大きな生命体と考えるべきである。この社会は、集合すればそれが大きな有機的生命体の様相を呈する。そして、その構造は寄り合い所帯である。個々人の個性が集合した世界であり、同じ同一規格人間など一人もいないのである。それを踏まえた上で、動かす、行動に示唆を与える。
 生命組織体が、また一つの有機体であると言うことが分るであろう。

 有機的な生命体組織でなければ人の集団でも、「常山の蛇」にはなれないので、これは単に軍隊の兵法に限らず、宇宙の万象が、そうなっていることを孫子は論じたのである。
 宇宙は巨大な有機的な結合を持つ大生命体であり、有機的とか有機性と言う場合、これは西洋体系学の外に位置するもので、言語に絶する『隠秘学』に属するものである。
 東洋には古くから隠秘学なるものが存在していた。おそらく「ゼロの概念」も、隠秘学に含まれていたに違いない。

 ちなみに西洋では、数学者で哲学者のライプニッツが十七世紀に登場する以前は、この概念が無く、微積分学の形成より、記号論理学の萌芽を提示した以降のことで、西洋科学はそこから出発したに過ぎなかった。
 もともと分析し分解し、あるいは解剖して、隠れた部分の有機的体系を白日に曝
(さら)して暴露するものではなかった。隠秘なるものは、裡(うち)に秘めておくものだったのである。秘密は秘密にしておくことで永遠の価値観を持つ。明かしてはならないものである。

 誰もが合い言葉のように科学的・科学的……を口にする。
 しかし、科学的の裏付けは、何をもって科学的と称するのであろうか。
 科学とは無縁の人までが、「科学的」と口にするのである。
 だが本来、科学の対象になっている事象の一切は、有機的なる成立を為
(な)している。
 巨大な生命体である。有機体である。それを断片的に切り刻んで解釈し、一記憶に留
(とど)めた科学用語をもって“科学的”と豪語するなら、単に断片の集積であって、確然たる組織体系の下での有機体を指していないことになる。

 少なくとも、科学的と称する場合は、全体像をある程度把握した上で、その見地から論じられなければ、幾ら科学的と自称しても、それは負け犬の遠吠えならぬ、“愚者の遠吠え”であろう。
 だが、その遠吠えは世間を、巷
(ちまた)を、一人歩きしている。
 それだけ、科学的と云う言葉は、現代人を斯
(か)くも無慙(むざん)に洗脳してしまったのである。

 大自然は紛れもなく一個の有機的生命体である。それ故に本来は分割も出来ず分解も出来ない。してはならないものである。相対界に存在するのでなく、絶対界のものであるからだ。
 絶対界のものを相対界的に、二つに分割し、二つを四つに、四つを八つに細分化し専門化し、研究を加えたところに、その分割技術の精密さに比例して、二倍、四倍、八倍と、自然の愚傍は完全性を失って行く。

 絶対界の収量を構成する要素は、バラバラに分解されたパーツではなかった。自然界では、創造主と言う一本の指揮棒の下に指揮され、秩序を形成し、整然と終結し、かつ調和の採れた美を構築していたのである。
 この美しい調和を、科学と言うメスを用いて、切り刻み、細切れにして複雑怪奇なる醜態へと変化させてしまったのである。その醜態が入り乱れて混沌とした集合体に人造で作り出してしまったのである。
 科学のメスは絶世の美女にメスを入れ、無慙に皮膚を引き剥がし、肉を切り刻み、骨まで分解して醜怪な肉塊にして裡側を暴露してしまったのである。これこそ味気ない徒労であった。

 近世に起こった科学は、この信仰によって、有機的結合を持った生命体を、自然から何一つ生み出した訳でない。
 自然にあるものに対して、故意に質量の変化を与え、粗悪で模造の有害なものを作り出した。

 例えば、物質を構成する組織の一成分のみに注視しての、その有効性を強調・自称するサプリメントなどである。ある物質に含まれる単体成分を取り上げ、それのみで人体に有効に働くと言う、あれである。しかし一成分をのみを大量に摂取すればいいと言うものでない。

 昨今流行のサプリメントは、栄養補助食品として自然界の食物だけでは不足する欠乏しがちなビタミン類などを補給する食品として食品や飲料水産業などが考え出したものである。
 この食品はビタミン・ミネラル・アミノ酸・不飽和脂肪酸などを、錠剤・カプセル・飲料などの形にして販売を始めた補助食品である。

 だが、ビタミンでも、ミネラルでも、アミノ酸でも、不飽和脂肪酸でも、一栄養素だけでは効果を発揮しない。食物に含まれる有効成分が総合的に働くことによって、生きるための原動力である強精効果が齎されるのである。
 自然界の働きは総合的に作用するようになっている。一部だけが際立って突出することはない。

 自然界の自然物質は、総合バランスによって出来ている。これは食品においても同様である。
 その総合的なものを分解し、一成分のみを抽出して有効性を謳い文句にしている。果たして単体成分だけで有効に作用するのか?……、この疑いは拭えない。また、一成分だけを摂り過ぎると害にもなる。
 現にサプリメント依存症が弊害として顕われている。大量に摂ればいいと云うものではないのである。
 ところが、販売元は、あたかもそれのみで極めて有効であるかのようなイメージをテレビ視聴者や新聞や雑誌などの読者に訴え、誇大宣伝を行っている。
 その背景には、食品メジャーのご都合主義があるようだ。

 然
(しか)も高価な“健康食品”という商業戦略上の儲かる食品を作り出し、「これさえあれば」という思い込みの先入観ならびに、「これがなければ」という脅迫観念まで植え付け、無知で無垢な庶民をカモにして、何処の販売会社も、商魂丸出しの販売合戦を繰り広げている。
 儲ければいいと云う商魂逞しい販売競争に閉口せざるを得ない。

 そもそもこれは、人間を益々自然から隔離することに繋がるのでないのか。
 自然から隔離した上で、これだけ飲食すれば“大丈夫”という豪語である。その豪語ならびに販売主の洗脳的な合い言葉は、人間を自然から切り離したように思える。
 人間は自然から遠ざかるに従い、自然から離れ、大宇宙の孤児として、危機の軌道を歩いている。現代はまさにこの状態にあると言えよう。また、現代人の生活様式が、かつてのように自然体で無くなってしまった。

 それは太陽の下で、大地に種を蒔
(ま)いて、自然に実った農作物やその他の自然食品より、人工的に作り出した成分の方が安上がりという錯覚が、現代人の便利で快適な生活様式の側面に横たわってしまったからである。
 自然の働きは無質材、無報酬で対価を取らずに作ってくれるが、人間が作る人工的なものは必ず代償を要求する。

 これに気付いた少数一部は、自然の懐
(ふところ)に還ろうとすることを提唱しているが、一度自然から遊離してしまったものは元に戻せる訳がなく、還ろうとしても、何処に戻ればいいのか分らなくなってしまっている。
 何故ならば、還るべき自然も破壊し尽くしてしまったからである。此処に失われた自然の実体がある。現在自然があるように見えて、実はそれは、自然の残した残骸に過ぎないのである。

 物質文明の科学的進歩は日本列島を、科学技術力で、スッポリとビニールハウス如きの覆いで覆い尽くした便利で快適な冷暖房並びに通風装置をつけ、その中に棲むことを可能にした。
 また地下都市や海底都市、はたまた宇宙空間の大気圏外に出て、宇宙都市構築に夢を託しているが、そこに住人となるべき都会人は、近未来を、死につつある軌道上に設定して進んでいるようである。
 しかし残念なことに、多くの人は、死につつある未来の到来に気付かないようである。

 最早こうなると、明るい陽の光、緑の田園、動植物の群れ、そよ風が吹いて素肌をなぶる心地よさは、もはや都会人には無用の長物であろう。それらは忘れ去られる運命にある。
 しかし、この運命を選択した都会人に、人間が大自然の一員として真に生きるとは如何なることか、その自問自答すら喪失しているように思える。
 世の中の流れに疑いを持たず、高度経済成長の軌道の上に胡座をかき、自然から徐々に遠ざかっていることにも、何の疑問も抱いていないようだ。



●現代社会はコストと言う対価が掛かる

 人生を生きて、後に死ぬ。生死一体はこの現実に内包されている。
 この命題に迫るべきなのだが、現代人は果たして同だろうか。
 則
(すなわ)ち、人間が人生を真摯に、真実の中で生きるというのは、自然とともに在(あ)るということだったのである。

 真実の、真理に即した生活空間とは、便利で快適な物質的な恩恵のもを有り難がり、そのビニールハウスのような温室の中に在って、人為・人口の食品をぱくつくことではなかった。これに気付くべきであろう。
 此処に来て、現代の物質至上主義、科学万能主義の枠から離れて「人間とは何か」を、もう一度見詰め直す必要があろう。

 人間とは何か。
 人間は、地上で考えることの出来る唯一の動物であった。これまでそう自負して来た。
 ところが、現代人の考えることをしなくなった“人真似
(ひとまね)人生”の模索は、一体どうしたことであろうか。

 また、人と同じことをしていれば大丈夫という安心感は、何処から生じているものであろうか。
 更に、こうしたことの元凶には、現代の多忙があるように思える。
 多忙は必然的に、何でも短期間、何でも即席という木海産物がオートメーション化の中で派生したものである。

 これは生産側が立派な機械設備を設け、人間の代わりに機械を使役するよいう発想から始まっている。
 だが、機械は人間に高い使用料を請求するのである。
 高能率のロボット化された機械は、高能率生産を可能にした反面、それに伴って更に高能率な機械技術知識が必要になり、過去の老朽化した機械は遣い物にならなくなる。常に新式のものと交換して行かなければならない。五年も経過した機械ならば、減価償却されてスクラップも同然となる。
 そして盲点は他にもある。

 生産コストを引き下げる目的に沿って努力したつもりが、いつの間にか生産コストを高騰させていたのである。これは資本主義市場経済の盲点でもある。
 利潤追求はその側面に生産コスト高を生じさせ、かつ売れ残れば在庫を大量に出し、この在庫処分に苦慮すれば、忽
(たちま)ちこれが不景気を齎すのである。物を造っても売れないという実情である。
 その悪循環に嵌
(は)まれば、人間は酷使されるだけでなく、逆から検(み)れば、機械に使役されている現実は、最終的には徒労に終わることである。

 また、資本主義のシステムを単直に言うと、これは「国家間で行うねずみ講」であるから、永遠に末端まで売り繋ぎ、販売において連鎖を起こし続けねばならないのである。末端までもを、みな消費者にすることによって経済効果を生む仕掛けになっている。

 この循環の中に食品産業も取り込まれている以上、オートメーション機器を用いて農業に従事すれば安い食品を提供できると思い込んでいる。
 また農業技術が向上して、穀物野菜類や畜産物を生産すれば、生産費が下がると、短見なる錯覚を抱いている。これは妄想の何ものでもない。
 果たして、オートメ機器を利用して、一貫管理の下
(もと)に、そこで生産される食品生産は、人間が直接働くより、人間以上に安上がりで、新鮮かつ栄養分の豊富な食品が食べられるようになるだろうか。

 問題は穀物野菜工場や畜産工場は、安い資本で、安い資材で、安い発想で造ることは出来ないのである。高額なる設備投資を必要とする。
 したがって当然、そこで生産された食品は高いものにつくのである。
 では、なぜ現代社会がこうした設備投資を行って反自然的な人工の生産を企てるのだろうか。

 それは資本主義が、高度化されて近代資本主義の様相を呈した場合、必然的に多忙が生じるからである。現代人は多忙の悪循環の中で、スピード時代を生きているのである。
 また時代のスピード化は、まず分業化したところから始まる。分業化されて科目別に仕分けされれば、そこにエキスパートという専門者が必要となり、これは専門化への進路を加速させた。その加速によって次に多様化が興る。専門ごとに多種多様に及び、これは放射線上に拡散し膨張した。その結果交わる交点すら失ってしまったのである。

 また分業化は、専門科を招き、セクションごとに専門職が必要になり、全体を一個の生命体と看做して最初から終わりまでの一貫生産が出来なくなってしまったことである。パーツごとに分けて、方々から寄せ集め組み立てるという利潤追求政策が敷かれているために、かつての全体生産の熟練工のような名人芸は出来なくなってしまったのである。
 これは一方でその地域独自の自給自足を不能にして、他に依存する形態へと姿を変えてしまったのである。
 老子のいう、小国寡民からは大きく逸れてしまったのである。

 こうした背景には、機械が導入されたことは言うまでもない。機械により、更にスピード化が促進された。
 更には、交通網の発達で地球が狭くなり、他国との行き来が可能になると、此処にはその流れに併せてスピード化が必要になり、またその必要性は多忙を生じさせた。しかし、その多忙は“百害あって一利無し”なのである。多忙は、何でも時間の短縮を余儀なくするからである。
 多忙は、それ相当分の代償を必要とする。便利さと快適さと、豊かさを求めれば、物質は「恩恵」という名の対価を求めるのである。

 一方で、忙しさにかまけて、考えさせない人間を作り、考える余裕を与えないような支配層の被支配層への画策がある。多忙は、人間に考える余裕を失わさせるのである。
 現代人は、支配層奉仕のためにただ働く。被支配層は使役され、個々人の能力は階級化され、機能化され、“多忙”という枠の中に閉じ込められた。その枠は、また、柵としての機能を有し、結局そこで大多数は家畜化されてしまったのである。支配権力の奉仕者となったのである。

 現代人が現状下で経済的に裕福になろうと企てた場合、それに伴って、対価分相当の代償を払うと言うコストが掛かるのである。

 資本主義市場経済の循環の中に居れば、何処に居てもコストが掛かる。何ぴとも逃れられない。
 これは、人間が生きているだけで、税金という生きる対価を必然的に払っているのと同じである。
 人間は生まれながらに原価と言うものを抱えている。このコストは生きている人間ならば、喩
(たと)え乞食でも払わされるのである。無い袖からも租税として掠(かす)められるのである。
 飲食物を買って飲食すれば、その中には税金が含まれている。
 昨今では、非課税飲食物など殆どないのである。

 また青少年が“学歴”という資格を手に入れようとすれば、これにもコストが掛かる。
 そのコストの掛け方も、現代では子を持つ親の所得に比例するから、高学歴で、いい学閥に加わろうとすれば、親の所得が何処まで維持でき、継続に耐え得るかで、子の学歴も決定されてしまう。所得が低ければ、喩え最高学府に進学できたとしても、一流とは程遠い、二流以下の学閥に甘んじなければならない。
 資本主義経済の輪の中では、何処にも平等はあり得ないのである。コストと言う不平等が生じているのである。



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