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そろそろ死のうか 12

可視世界のことは評価され称賛されるが、それは肉の眼に見えることが科学的と思われているからである。

 一方、数歩先の霧の中を進む先覚者は、往々にして非難と無理解の矢面に立たされ、指弾の対象にされることは、いつの時代も同じことである。
 また、未科学が非科学と混同されて迷信と一蹴されるのも、時代を超えた世間評であるからだ。

 世間には、こうした“世間風”が吹いている。
 人の口から漏れた噂や風評はいつも世間に吹く風説の要素である。そして事実無根までが世間の風に乗って一人歩きする。風評被害もこうした側面に横たわっている。
 況して、時代の先端を進む先覚者なら尚更であろう。
 先駆的な思考やその行動は、奇人のそれと映るからだ。故に指弾され、忌み嫌われる対象となる。

 では、先駆者の行動規範や思考形式は、何に由来するのだろうか。
 恐らく胸中の望郷の念に端を発しているのではあるまいか。生まれ故郷への哀切がその原動力になっているのであろう。そして、そこに思いを馳せる。
 人は心に、その土地とその土地で生まれ育ち、そこで没した死者への哀惜があり、これが故人を偲ぶ思いに回帰するためだろう。

 しかし、拒
(こば)まれても嘲笑(ちょうしょう)されても、なぜか故郷だけは捨て難いところがある。望郷の想いはそれに尽きる。
 したがって、その感性の中には、人間性の魂の発露が内包されているからであろう。
 そして、錦衣還郷
(きんい‐かんきょう)が人情ならば、その他方でボロを引き摺って、故国の山河を彷徨うのも、また人情であろう。

 この人情の背景には、故郷を想う憎悪は抜きにしても、故郷の土地と自分の躰は一体であるという「身土不二」の食思想があるからであろう。食思想の中には、土地の食べ物を食べて成長したという、土地と自分の肉体との同一感である。そこに繋がりを観じるのである。

 だが、故郷を想う「身土不二」は、今日では必ずしも一致していないようである。
 何故なら、大都市と地方の草深い田舎とは、土地の性質が違うからである。そもそも土産神
(うぶすな‐の‐かみ)が異なっているからである。

 肉体と同じ霊的構造を持つ「土」の概念は、土地を司るそれぞれの地域の土産神の違いによる。産土とは、その人が生まれた土地を指す。生地を言う。その生地を守るのが土産神であるが、この神は、土地単位で異なっているのである。
 その異なりの一つに、時間の感じ方の違いも挙げられよう。

 例えば、都会と地方の田舎と時間的な感じ方の違いである。
 都会時間と田舎の山時間を比較すれば、物理的には同じような進行速度を持ちながら、感情に訴える感覚的かつ意識的な時間の進み方が違うのである。
 山時間は、都会時間ほど急速に進む感覚がない。穏やかに緩やかに進む。慌ただしくない。

 このような現実下、現代人は特に都会に棲
(す)んでいる人は、故郷と言う感覚を急速に失いつつある。故郷を持たない人が殖(ふ)えている。この殖える実情には、現代特有の多忙が挙げられるだろう。

 それはまた、土産神と密接な関係を持つ「身土不二」の食思想が崩壊したことによる。現代人の多くは生まれた土地と自らの肉体が霊的なる繋がりの関係を持っていないからである。食に、地域差の違いが失われたからである。そのうえ食の四季が失われている。

 年から年中、季節感に関係なく、春の農作物が一年を通して八百屋の店頭にあったり、全く異なる異国の食物が日本に入り込んだりしていて、独自の気候や風土までもが国際交通網の発達により、世界が一段と狭くなり、あたかも地球が縮小されて、各国地域の特異性が失われている。

 また、この喪失によって、現代は「病む」一面が顕われた。身土不二の食思想が失われたからであろう。更に深層には、先祖から受け連れて来た地域独特の遺伝情報に混乱が生じているかも知れない。それが現代の難病奇病を作り出しているとも言える。

 現代病の蔓延
(まんえん)は食の誤りから起っている。その疑いは大いにあろう。
 食を誤れば、当然のように体質が悪くなる。そして、現代人が根本的に食に対する誤りを犯していることは、体質と体力を同じように考え、体力さえあれば、如何なる病気も跳ね返せると信じていることだ。
 しかし体力と、体質の良し悪しは根本的に違う。体力があっても、体質が悪ければ罹病してしまうのである。
 また一度罹病すれば、中々治らないと言うのも、現代の特長である。

 体質が良いと言うことは、喩
(たと)えば、伝染病が蔓延している地域に居ても、一旦は伝染病に罹(かか)るものの、その後すぐに自然治癒力が働き、病気が治ることを言う。これは如何に体力があっても、体質が悪ければ、こうはいかない。

 病気は予防医学で考える前に、体質を改善する体躯を養っておいて、どんな流行性の病気が襲ったとしても、その病気から直ちに解き放たれ、回復できる体質を養っておくことが肝心である。つまり、体質が良いと言うことが、現代という時代を生きる極め手になる。
 現代病が慢性化し、現代人の肉体に巣食う裏には、現代人が身土不二から肉体が離れてしまったことに起因しているかも知れない。



●世間風

 世の中には風が吹いている。この風を「世間風」と言う。
 この世に棲
(す)む人間は、この世間風に吹かれ、何かによって無意識に動かされている。風の流れに順応する。
 その無意識には肌に感じない微風が吹き、しかし微風は観じようとすれば、何か心に通うものである。善きにつけ悪しきにつけ、何かしら血が騒ぐような感覚を覚えるものである。

 この世には世間風が吹いている。
 時には噂となって流され、ときには風評となって波及する。世間にはこうした風が吹いている。微風だが伝搬する。そして暗部にまで吹き抜ける。
 そういう幽
(かす)かな風を観じるのは「勘」である。機械測定では観測できないものである。

 常に世の中には、不穏な暗部が付き纏う以上、落し穴の存在は否定できない。それを知らせる警報音もあるし、魅惑して誘い込む誘導音もある。だが何れの音も機械測定では無理である。数値のデシベル測定では、その音は観測不可能であろう。霊的なる幽かな違いを測定できないからである。

 また近未来には、気付かぬところで暗躍が渦巻いているし、水面下では、先手争いに烈しい争奪戦が繰り広げられている。だが暗部であるだけに、隠れて見えない。人の眼には触れない。見えないが、しかし何かが蠢
(うごめ)いている。
 “蠱
(こ)”である。蠱物(まじもの)である。
 正体は人を惑わして蠱惑
(こわく)する。それだけに得体が知れない。機械測定では不可能である。

 電力・電圧・電流・エネルギー・圧力および音の強弱などの比を表すデシベル値では、如何に基準値を提示して比較しようとしても測定不可能である。蠱は比較不能なものであるかだからだ。
 闇とはそう言う蠱が棲む世界を言う。
 そこは不可視である。肉の眼には見えない。蠱は気付かれずに暗躍する。隠微である。
 それを探るには霊的感覚が要る。

 それゆえ新しき導入されたものにも、未確認の見えない落し穴は幾らでもある。
 例えば、民主主義を標榜する政治システムである。
 人類に齎された最高の政治システムと信じられている民主主義にも、また日本人にまみ抜けない欧米の恥部が隠された落し穴がある。今は見えないだけである。

 更に、戦後日本に持ち込まれた民主主義は、まだ完成形でない。途上段階にあり、改良の余地があり、欠陥や抜け穴も多く、単刀直入に言えば実験段階であると言えよう。
 ところが、これを完成形と思い込んで、入れ揚げている人も少なくない。

 例えば、民主主義デモクラシーの反対は、どう言う政治システムかと訊くと、大半の人は、軍国主義とか共産主義と答える。
 しかし軍国主義も共産主義も、何れも民主主義の変形したものに過ぎなかった。それは手段こそ違えど、これら何れの政治システムも人が関与し、人間が政治を行うからである。人間自身が考えその信念に基づいて政治をするシステムである。その構造形体は、まさに民主主義デモクラシーなのである。

 況
(ま)して、軍国主義の極右を軍事独裁などというが、この極右すら、元々は民主主義であり、例えば独裁者が出現する場合も、この独裁者は人間であり、その人間は、擡頭(たいとう)する初期段階においては民主主義のルールに則って、選挙で選ばれ、総統に伸し上がった人物は多数派政党の主宰者であった。あるいは、その政党の首領であった。そして国民議会で、多数を占めた政党の党首が独裁者になった。
 この前例を考えれば、民主主義からファシズムが擡頭することだってあり得る。何も極右の産物でない。極右ですら人間が関与するからデモクラシーの一翼を担っている。

 その顕著な例が、民主独裁の流れによって出現したのがヒトラーであった。
 ヒトラーは民主主義のシステムから登場した人物であり、ナチス党は民主主義のルールによって多数派を占める政党が伸し上がったに過ぎない。何れも人民選挙による。投票によって選ばれ多数派支持の政党として擡頭した。
 ナチス党が擡頭し、一時代を席巻したのは、民主主義の構造から出現したものであった。
 したがって、民主主義に180度対峙
(たいじ)している政治システムは、このような独裁者が牛耳るファシズムや、軍産複合体の武器販売システムで、武力を専売特許する帝国主義などではないのである。デモクラシーは世論によって、右にも左にも傾くのである。極右の最たるものが民主独裁なるものであった。民主主義の延長線上にあるものである。

 デモクラシーの反対はシオクラシー。軍国主義などではない。
 況
(いわ)んやファシズムでもない。ファシズムも、またデモクラシーの一端から派生したものである。

 日本人が民主主義を標榜する場合、「この政治システムこそ、世界最高の政治システム」と思い込んでいる節が強い。議会制こそ、人民を代表した主権在民の政治システムと思い込んでいる。
 しかしこの政治システム下で、日本人が、科学の発達した戦後に至っても、未
(いま)だに有能な政治家を選出できないのは何故だろう?……。

 選出した政治家の半数以上は、政治理念を確立した哲人には程遠い。況して賢人でもない。そう言う人が大半を占めている。正体は愚人である。民主選挙で選ばれた政治家は、無能が大半だった。賢人は極めて少なかった。
 そのため不祥事を起こしたり、野党から揚げ足を取られる与党議員が多い。これは人間が、未だに完成を見ていないと言える。更には、その正体が隙だらけの愚人であるからだ。
 もし賢人ならば、こうまで尻尾は出すまい。巧く繕
(つくろ)う。自分の正体は謎のベールに覆い隠す。賢人を模倣する場合の常套手段であるからだ。

 また、本当によい政治家を持つにはどうしたらよいか、この点についても、余り研究されていない。
 ただ選挙人が被選挙人に対して、被選挙人のみに“清く正しく”を押し付けているが、被選挙人が清潔一辺倒であっても、それだけで有能な政治家を選んだことにはならない。

 評価されるべきものは他にある。
 評価基準によっても、選ぶ被選挙人は違って来る。それは選挙人自身の人間性と人格と品性などによろう。
 選挙人のこれまで培った教養や、人を見抜く眼力の訓練がなされていない場合、選出された政治家は必ずしも有能とは言えない。色眼鏡で、屈折した眼鏡基準で選出された被選挙人である。そう言う可能性が高い。正体は賢人に化けた愚人かも知れない。
 見掛けだけで、表皮を巧く繕
(つくを)った、その種の愚者を選んでしまうこともある。選挙人の眼が曇っていれば必然的にそうなる。

 民主主義デモクラシーとは、戦後欧米によって持ち込まれた政治社会システムである。人間が舵取りをするシステムであることを忘れてはならない。そしてこのシステムのルールでは、如何なる人物が選ばれてもいいし、立候補してもいいのである。
 そのうえ人格レベルに制限も資格もない。如何なる人であっても立候補するだけの資金財力があり、真摯に“われこそは”と思えば、誰でも立候補が可能である。

 したがって、候補者は哲人や賢人でなくてもいい。“ただの人”でも当選すれば政治家として一翼を担うことになる。
 したがって候補に関しては、人間と名のつく被選挙年齢に達した男女であれば、一般の凡夫でも愚人でも構わないのである。その制限はない。但し、立候補するには供託所に供託金の手続きをしなければならない。また供託金は獲得数によって割合があり、獲得数が少なければその分だけ没収される。だいたい上は600万円程度から下は60万円程度であり、落選の場合の覚悟も居る。
 デモクラシーは金銭を消費するシステムであることを忘れてはならない。清潔だけでは通用しないところもある。
 併せて、公職選挙法等に定める選挙に関する犯罪で、被選挙権を失っていないことが必須条件である。

 また一方で、デモクラシーは選ばれる側よりも、選ぶ方の質を問われる。
 そこで問題になるのが、被選挙人のみならず、選ぶ側のレベルである。ベレルは高ければ高いほどいい。選挙人の大半が暗愚でないことが要求される。
 したがって、デモクラシーは参加者の選挙人の人間的人格的レベルと言うことになる。
 選挙人の見識のほどは?……ということになる。この見識に誤りがあり、有能でない者が選ばれれば、政治は正しく機能しない。

 もし選挙人が、教育程度も知的程度も、高く無く粗悪・低級なる「愚民」であったらどうなるか。そういうレベルの凡眼で、被選挙人が選ばれたらどうなるか。
 煽動に乗り易く、付和雷同の類
(たぐい)で、買収や誘惑に弱く、尻馬的性格や悪事に傾き易い性格の愚民だったらどうなるか。
 内面を見抜く視力に欠けた愚民だったらどうなるか。

 また被選挙人の考え方や隠れた部分の異常性癖に気付かず、あるいは舞台俳優を選ぶように、見掛け重視の選出眼しか持たない場合、その結末は悲劇的でああろう。民主主義は間違いなく“悪魔の道具”となろう。
 偏りから起こるからだ。中道で安定し、そこで不動のまま静止することは難しい。それだけに、極めて副作用を起こし易いことも念頭に入れておく必要がある。

 逆に、選ばれる側の被選挙人も、愚民を誑
(たぶら)かす邪智(じゃち)に長け、選挙公約を邪佞(じゃねい)によってデザインし、二枚舌で弁舌爽やか、そのうえ能弁で美辞麗句が次ぐから次へと連発でき、政敵者の発言の言葉尻を捉えて揚げ足を取るのも巧く、敵対者に対しての中傷誹謗が、聴く者に痛快さを思わせ、演出・脚本家の類だったらどうなるか。そういう者が選ばれたらどうなるか。
 これも間違いなく“悪魔の道具”となろう。

 選ばれる方も、選ぶ方も、その背景には転び易い材料が点在しているからである。
 財も求めず、色にもよろめかず……というような人は稀
(まれ)であり、稀でない者が選ばれ、選ぶのであるから、偏るのは必然の成り行きでもある。このことを忘れるべきでないだろう。

 国民はそういう者を、私情からの“見た目”の判断で、上辺だけで人物を選出し、被選挙人はそこを狙い所にし、立候補して選ばれた場合、国民の代表によって動かされる政治は、正しく機能しないのは何ぴとも想像に難くない。

 では、「機能しない」ということは、どういうことか。
 つまり統治権力に対して、何でも反対の反旗を翻
(ひるがえ)す者、常に反対ばかりを唱える者、傍若無人に振る舞い無頼漢然を気取る者、消極策で異義を唱える者は、民主主義下では“目立つ”という存在になり得る。こう言う輩(やから)からは何一つ建設的な意見も、行動も起こさないからである。

 これは今日流に言えば、無抵抗を強調して、非暴力・不服従などの生き方を強調しつつ、一方で無批判、無関心、無抵抗の悪しき個人主義者を容認する新市民派と称する集団の草の根活動である。
 その問題点は、経済力の繁栄の陰で、国家への連帯をなくし、秩序の崩壊を密かに企て、現体制下で健全に生きて行くことを拒否する無政府主義者の暗躍を赦
(ゆる)すことになる。暗躍が蔓延(まんえん)れば、悲劇は拡大されてよう。

 また、これらの新市民派に加えて、公私混同の甚だしい公職に胡座をかく手合いであり、個人主義の恩恵に浴して、自分の権利のみを要求しつつ、公共性のない、下らぬ私事を公の場に持ち出して、ふやけたことをいう公人である。
 この種は、私権を要求するあまり、公私権業が頻繁
(ひんぱん)に見られ、小事を論(あげつら)って紛争を起こす浅薄な性格異常者と言ってよいであろう。もし、この種属が弁舌の徒ならば、国家は公私権業の輩(やから)の玩具に成り下がってしまおう。
 政治家などの公人が、私権を求めて“われ先”に個人主義に奔れば、未来展望のグランド・デザインは希薄になり、遂には破局へと向かおう。行き着く先は亡国である。

 かの『韓非子』も「亡徴」の一篇で、こう述べているではないか。
 「その浅薄な性格他人に見透かされ、直ぐに真相を人に洩らし、周密な配慮に欠け、群臣の話を左右に喋り散らしてしまう君主の国、亡ぶべきなり」
 機能しない無能者には、沈黙と忍従で容認すべきでない。赦すべきでない。弾劾すべきである。
 主権在民。主権は民にある。存続させるべきか、辞職を求めるか、それは民の手の裡に握られている。民主主義では有効な切り札である。切り札は民に握られている。
 是非とも、これは肝の命じたいものである。

 先ず正しく機能させるためには、選ぶ側の選挙人が、個々人で自覚を持つ以外なく、より良い個人主義が、自己中心的な悪しき個人主義に傾いたり変形・畸形
(きけい)しないように自重し、自身で自身の手入れをし、常に自問して監督と管理の点検が必要になろう。
 また、この点検を常に怠らず、あるいは無知や事勿れ主義に奔ることもなく、監視の眼を休めず、誰もが政治に常に関心を持ち続け、それを持続していくことだろう。決して無関心であってはならないのである。民が無関心になったとき、民主主義が機能しなくなり、顛落
(てんらく)する。

 もし、民主主義デモクラシーが顛落の要素を含むとの読みを、このベーシックの考案者が考えて、その初期時点で仕組んだとするならば、逆の意味で、このシステムは“諸刃の剣”になっていることが分る。用い方を間違うと、顛落の恐れがあるのである。
 しかし、民主主義デモクラシーは良い面だけが宣伝されて、悪い欠陥部分は隠されて、それを教えないし、また見せない。

 更には、現代では民主主義に批判を与えることは“民主主義を冒涜することになる”という思い上がりまでもが一人歩きし、民主主義デモクラシーは冒すべからず領域に祀り上げられてしまっているのである。
 これは危険なことではないのか。
 バランス上で左右に傾くことより、民主主義デモクラシー自体を「冒すべからず領域」に固定して不動にしていることの方が、極右政治より、極左政治より怕
(こわ)いのである。また、このシステムに長所と短所があることを教えないのも怕い。

 かの歴史上でも名高いパスカル
Blaise Pascal/フランスの哲学者・数学者・物理学者。人間を「考える葦」として「知らない宇宙」よりも偉大であると説いた。1623〜1662)大先生は、次のように言うではないか。
 「人間にその偉大さを示さないで、人間がいかに禽獣
(きんじゅう)に等しいかと言うことばかりを知らせるのは危険である。また、人間にその下劣さを示さないで、その偉大さばかりを知らせるのも危険である。
 更に、人間のその何れをも知らせずにおくことは一層危険である。
 だが、人間に両面を示してやるのは非常に有益である。
 人間は自分を禽獣に等しいと思ってもならないし、天使に等しいと思ってもならない。その何れを知らずにいてもいけない。両方ともに知るべきである」
 パスカルの言の最後にある「両方ともに知るべきである」の締め括りは、総てのことに対しても言えることであろう。
 一方だけを取り上げて誇大宣伝する“片手落ち”こそ、公平を欠くからである。

 この事からすれば、考える葦の人間は、民主主義デモクラシーについても再検討を加え、長所と欠点を把握しておくべきなのである。
 民主主義デモクラシーは近現代に至って、資本主義と完全にドッキングしてしまった。このドッキングは、常に点検して世界動向に併せてメンテナンスが必要なのである。これを怠ると、猛威を揮って人間に反抗の牙を剥く。このことは忘れるべきでないだろう。

 大不況が襲い、失業者が世に溢れ、食糧難が襲って、天地が覆るような大飢饉が起こってからは遅いのである。
 まず、根本の選挙人自身が正しく機能する状態になければならない。
 特に民主主義で難解になるのは、「国民の代表を選ぶ選出方法」である。この方法や手順に誤りがあると、民主主義は機能しない。
 これは選ばれる方だけでなく、選ぶ方の選挙人の資格においても同じだろう。
 だが選挙人に資格などを設ければ、人民の平等は崩壊するだろう。十人十色の知的高低は、個人の能力差に依存するからである。

 そのうえ、浮動票を構成する成分は、風向き次第で、どちらにも向きを変える悪評高き風見鶏
(かさみどり)である。定見を持たず、大勢の動向にすぐ順応する。日和見的である。確たる信念を構築する成分でない。常に浮動していて、変化が激しい。また利害で動く場合も少なくない。
 一方、自由が標榜され、議会制民主主義では信念が無いとか、哲学がないと言う理由で、選挙人から排除することは、法の下での平等が覆ってしまう。法治国家なら、これは出来ないだろう。
 そして忘れてはならないことは、民主主義が標榜する“自由”と“平等”は、そもそも相矛盾する概念である。これを同義と看做
(みな)すところに無理がある。同一線上の並べてしまったことに問題がある。

 何れかを強調すれば、何れかが成り立たなくなるからである。この矛盾に気付いている人は、然
(しか)し乍(なが)ら少ない。個人主義の利点だけに眼が向いている。悪しき点は余り問題にされていない。
 だが、個人主義と言うのは、昨今に見る不公平や自己中などの“悪しき個人主義”と言うものに変貌し易い。何故なら民主主義の基本的人権と言うのは、エゴイズムのことであり、これを増幅させても構わない“欲望の謳歌”主義でもある。
 この社会システムでは、人間の欲望を限りなく拡大させてそれに追随しても構わないし、罪にもならないのである。

 しかし、これらのことが増幅されれば、人間は自然から離反し、遠心的膨張ならびに、それから生じる遠心分離機のような加速度が加わり、分裂して行かざるを得なくなる。
 その欠点と、危険性は未
(いま)だかつて一度も議論されたことがない。
 ただ長所のみが、煩く喧伝されて、戦後の日本人が入れ揚げたという経緯を近現代史の中で検証しておくべきだろう。

 敗戦後の日本で導入時、国民の多くは標榜する美辞麗句を、何の疑いもなく頭から鵜呑みにしてしまったからである。またその文言に、多くが集団催眠術に掛かったように酔った。

 では、標榜する美辞麗句とは何か。
 それは“主権者国民”が書かれていたからである。国民一人ひとりが主権者であると謳
(うた)っていたからである。誰もがこれに酔った。酔い痴(い)れた。入れ揚げた。
 だが、心掛けるべき個人を育てる自立した自力性や市民性が問題となる。それが蔑ろにされれば民主主義デモクラシーが有名無実となる。

 国民の一人ひとりが民主主義社会を形成する、その形成者に相応しい人格と知識を持ち、問題解決のために奮闘し、意志決定能力を有していることが条件になる。傍観者であってはならない。民主主義下では、そういう者が一人でもいると機能しなくなる。このシステム下では、個々人がよりよき個人主義を確立し、自己責任を相互に負っていなければならないのである。誰一人として傍観を決め込むことは赦されないのである。
 問われるのは、社会構成員のそれぞれが自立した個人を形成しているか否かである。
 主権者国民とは、そこまで責任を負い、各人が深く理解していなければならないのである。

 しかし、果たしてこの政治システムに関与する国民の大半に、民主主義を形成する社会性が存在するのだろうか。
 また教育をもって、この格差を是正するというが、個々人総てが学ぶ気力がなければ格差の是正も難しくなる。更に、こうしたことに関心を持ち、常に学ぼうとする気概も必要になって来る。

 だが無関心・無学習であっては国民一億が、政治に総参加することは“絵に描いた餅”となる。誰もが関心を持ち、傍観者にならず、常に学ぶことを諦めず、常時それを怠ってはならないのである。
 守られる側から要求する「基本的人権」が存在するならば、逆に、守らねばならぬ義務も生ずる訳で、ここには「基本的関心」と「基本的学習」も、国民の義務としてつけ置くべきであろう。

 しかし、現在の戦後生まれの日本人を見ていると、社会や政治への関心は寒心に耐えないと言うのが正直な感想であろう。まず現代の日本人は、全般的に言って政治的無関心である。自分が尊敬する政治家すら胸中に描けずに居る。
 その側面には個人の持つ力の無力感と、何とか現状のまま時代が進んで行くのであろうと言う希望的観測から起こる楽観的な両方が、個々人の短絡的思考に根付き、思慮も浅薄で皮相的な物の見方で意志決定をする。
 つまり殆ど真剣に考えず、右か左か、○か×か、賛成か反対かの極めて安直な考えで、自分の属する日本の未来を見ていることになる。
 そう言う余韻を引き摺ったままの未来に、果たして希望や期待が持てるだろうか。

 不安の上に築かれた実生活の実情は、誰も心の片隅で感知しているであろうが、結局、選挙においては、“誰を選んでも代わり映えしない”という見下すような有権者意識があり、こうした短見なる思い込みが、選挙人側の自己原因性を育たなくしてしまっているのである。

 これらを総て克服して、正しく機能する民主政治の実践となると、幾多の難題が待ち受けている。また正しく公平に機能させる方法や手段にも難しさがある。
 この難題をどう解決して行くか、この点が、このシステムの非常に難しいところである。
 しかしこの難題は、今も棚上げである。殆ど解決を見るに至っていない。

 被選挙人も選挙人も、双方とも常に自分を錆びさせない点検と修復のためのメンテナンスが必要になる。その努力を最大限に発揮して、誰もが人生を真剣に、真摯に生きている条件下において、正しい政治家を選ぶスタートラインに立てると言うことで、これを整備し、この条件下で、選ばれた有能な政治家を選出することが出来れば、人類において、民主主義に勝る政治システムはないだろう。

 だが……と、一言付け加えたい。
 人間はみな平等でないことだ。同一規格で生まれて来てないことだ。これを“平等”の枠の中に無理に押し込むと、無理が生じて亀裂が起こり、仕掛け自体が毀
(こわ)れてしまう。
 このことを忘れるべきでないだろう。



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