運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
そろそろ死のうか 1
そろそろ死のうか 2
そろそろ死のうか 3
そろそろ死のうか 4
そろそろ死のうか 5
そろそろ死のうか 6
そろそろ死のうか 7
そろそろ死のうか 8
そろそろ死のうか 9
そろそろ死のうか 10
そろそろ死のうか 11
そろそろ死のうか 12
そろそろ死のうか 13
そろそろ死のうか 14
そろそろ死のうか 15
そろそろ死のうか 16
そろそろ死のうか 17
そろそろ死のうか 18
そろそろ死のうか 19
そろそろ死のうか 20
そろそろ死のうか 21
そろそろ死のうか 22
そろそろ死のうか 23
そろそろ死のうか 24
そろそろ死のうか 25
そろそろ死のうか 26
そろそろ死のうか 27
そろそろ死のうか 28
そろそろ死のうか 29
そろそろ死のうか 30
home > そろそろ死のうか > そろそろ死のうか 11
そろそろ死のうか 11

今の日本を顧みて、急激な変化に歎く人は多い。
 近現代を長年生きて来た、七十代前後の戦後生まれの「団塊の世代」と言われるベビーブーマ世代は、特に今日の変化に、何かしら戸惑うものを感じ、世代間の違いにも嘆きを洩らす人は少なくないようである。

 言い古された形容だが、彼
(か)の人は、「降る雪や明治は遠くなりにけり」といって、古きよき時代を懐かしみ、昔はよかったといい、また彼の人は、現代社会の恥部に潜む無頼漢の理不尽を詰りながら、その不合理を正せないまま泣き寝入りして、道理に合わぬと呟(つぶや)きながら、更に彼の人は「所詮(しょせん)俺の人生こんなもの」と自嘲気味に自身の過去を呪いながら、何の解決策も講じないまま、諸々の人は、ただそれだけの人生に対する感想を残して潰えていく。

 そして、「それでいいのか」と考えたり、改善の方法があったのではないかなどの反省もしない。
 真摯に死生観に迫ることもない。
 ただ流されるだけである。
 流れに抗
(あらが)おうとしない。無為無策で為(な)すがままである。
 また理不尽に、反論も批判もしなくなってしまっている。忍従と沈黙だけが唯一の抵抗手段のようだが、これも無慙に朽ちて行く。

 ただ現在に残っている残像は、他人から出し抜かれた羨望から起こる誹謗中傷だけである。
 「あいつばかりが巧いこと遣りやがって……」と、溜め息とも、愚痴ともつかぬ忿怒
(ふんぬ)が起こる。自分だけが損をしてしまったような遣る方ない、持て余し気味の自分にである。
 そこに時期を逸した胸中を曝
(さら)ける。単なる嫉妬である。

 つまり、顧みているようで、実は顧みず、自分には果たせなかった心の裡
(うち)の、実は感傷を挟む憤りなのででる。
 過去の想い出に浸るが、決して前向きでない。後ろばかりを振り返って前を見ようとしない。過去の失敗やしくじりが、あたかも巧くいかなかったことへの自身への軽蔑なのである。

 その退廃した一部を曝
(さら)け出したのが、今日、流行を見せる居酒屋ブームなどの、如何ともし難い寂寥や一日の憂さ晴らしに“ひと時の慰安”を求めるのではあるまいか。そして、一杯引っ掛けて家路につく……。
 それは決して哀愁と言うものではなく、尾羽打ち枯らした痩せ犬の寂寥である。

 ところがこの寂寥に、果たして「国を思う根っこ」が感じられるだろうか。日本人としての根っこが残っているだろうか。
 またパチンコや、その他の公営ギャンブルに現
(うつつ)を抜かし、五万取ったの六万取ったのが、果たして人生に大きな意味を持つのだろうか。
 だが自嘲がましい一喜一憂に明け暮れている時ではないだろう。
 ほざけばほざくほど、無力と無能を曝け出しているだけである。

 人の真似をしていれば安全だ。
 現代には老いも若きにもそう言う“右へ倣え”の風潮がある。
 これだけ遣っていれば間違いない……。
 人と同じだから安心だ……。それだけを生きる指標に掲げている人も少なくない。

 だがこれは、時代に流されるだけ……という現代の退廃ぶりが感じられるのである。
 それを、「だからいいんだよ」という御仁
(ごじん)も居ようが、土台が腐っていては、足の自分の足許すら覚束無くなるのである。
 現代人の多くは、この「自分の足許」の意味を全く理解していていないようである。


●生の哲学に固執する現代

 現代は「生の哲学」で時代がリードされている。生きることのみが前提となっている。
 焦点の集中先は「生」であり、生と表裏の関係にある「死」には全く眼が注がれていない。死を忘れ去ってしまった観すらある。

 現代の世に悲劇があるとするならば、死を忘れ去ったしまったところにあると言えよう。
 そして、この悲劇の元凶は、減らすことをせずに殖
(ふ)やすことばかりで、晩年期に達しても欲界の只中に在(あ)って、老いて枯れることをせず、若返ること、若作りをすることだけに専念し、やれ健康法だの、それにはスポーツをしなければならないなど脅迫観念に浮き足って年齢不相応を企てる筋トレに躍起になり、晩年期に最も大事な、死の準備を怠っていることである。

 あたかも、死は自分とは無関係と高を括
(くく)り、死は他人には訪れようが、自分は例外であり、自分は死なないと思っているかのようである。
 これは死なない……、つまり死ねないのであるからである。まさに悲劇であると言えよう。
 言わば現代人の多くは、成仏なき、死ねない死に向かっていることになる。

 人間は老いれば、年齢相応の行動原理があり、そこに老齢期特有の行動規範がある。
 それゆえ遣っていいことと悪いことがある。これを弁
(わき)えねば、死に方を誤るだろう。それは人間の物差しで測る善悪ではない。行動における正邪である。邪と言う、分層を卯以外のことは遣るべきでない。
 現代の世は科学至上主義で牽引され、その牽引によって、総てが引きずり回されている。そのうえ、年齢に応じて変化する。だが、その変化すら狂わされているのである。

 まず狂いの最たるものは、単純から複雑へと変化した狂いである。
 もともと単純なものが、科学と言う名において論理付けられ、論理の多様化が複雑さを増したと言うことである。
 物事を分類し、体系化する技術に種々の分野が侵入し、その部分が重なり合って判別上複合化して、細分化されたものが此れまでの分類を更に複雑にして、現代の仮説の論拠の根源を為したことである。

 多様化の時代には、文明が高度に発達した側面を引き摺る一方、物の集まりにおいて、個人的な経験を超えた、人類に普遍的にある無意識が眠らされてしまうようである。
 つまり例えば、心の裡に残留している深層心理の部分に、自らの先祖が経験して来た経験が遺伝してそれを今なお堆積していると言う、スイスの精神医学者のユング
Carl Gustav Jung/フロイトに共鳴したのち、精神分析の指導者となったが、後にフロイト学説を批判し、独自の分析心理学を創始。1875〜1961)の分析心理学に出て来る元型(げんけい)である。そして、そこから元々単純なものが複雑化し、かつ複合化した。その派生要素に、多様の尖端(せんたん)がある。そう思える節があるのである。

 よって、このような複雑化の尖端の先には、逆に、その尖端から大本を見詰め直した場合、その見方はそれぞれの立場の違いで大本が様々に変わってしまい、原形とは似ても似つかないものになる。放射状に散乱し、その行き着いた細分化の尖端からは、元に戻れないと言っていいだろう。
 戻っても、中心帰一とは行かないのである。

 現代の選択自由の多様性の中には、こうした複合要素が絡んでいるのである。元々単純なものが、多様性によって複雑になった。元に戻せないくらいに複雑化してしまったのである。

 それは複雑から派生した種々の「学」という新たな分野の学術の擡頭
(たいとう)である。現代はその只中に在る。
 例えば、心能簿記を物質化数値化して、それを数字で表そうとするデータなどである。
 また、物を触るという面白さはバーチャルの世界でお馴染みであり、これは疑似であり、知覚に感じる幻覚的なものである。実在しなくとも、そのように感覚器が認識してしまうのである。
 これが捏造技術として進めば、捏造からなる空間情報すら“科学的”と言う名をもって、空間情報科学というな情報空間の疑似が作り出せるだろう。こういうものは実在するか否かでない。人造的に作り出せたことに価値観がある。

 また多様化の中には、個別選択性が急激に変化し、かつ進行したことのより、幾重にも合わせ複合化した映像を用いた、映像による視覚操作が可能になったことで、操作による捏造
(ねつぞう)も疑似体験によって多くの大衆を、あたかも実在するかのように魅了する。
 つまり疑似体験を通じて、架空の世界に誘い込むことが可能になったのである。
 一つの、これまでとは異なる荒手の煽動技術である。やがて全世界を席巻するかも知れない。

 映像メディアは映像による一方的な情報伝達だけでなく、双方向性というそのメディアの提供する映像を利用者参加型で、これまでより、より確実に取り込んで、大衆をその虜
(とりこ)にすることが出来るようになった。酔う世界を情報空間に作り出した。こうなると人格を奪い取る完全洗脳も可能だろう。
 この虜にされた側はどうなるか。

 狂うしかないのである。生涯を「狂い漬け」にされるのである。
 元に戻る道を喪失したため、戻れなくなってしまうのである。
 現代の時代の側面には、狂い漬けにされて戻れなくなってしまった人も高度に発達した文明の犠牲者として出始めている。



●狂い漬け

 なぜ狂ったか。
 何を見て狂ったか。
 映像による空間情報は、深層心理に残留する四期までもを狂わせるようだ。
 この狂いは、四期の季節すら無視した観があり、その無視は、やがて死ねずに生にこだわり、その挙げ句に生きながらに悶
(もだ)え病む「終わりなき輪廻」を繰り返すことになろう。凶である。
 これこそ六道
(りくどう)を輪廻し、終わりなき死を繰り返すことになる。狂った死である。

 死んで死んで、それでも死にきれず、更に死んでも、死にきれないと言う悶えの繰り返しである。

 人間はより善き死を得るために、生きているうちに、死生観を解決しておかねばならない。
 怠れば生と死を繰り返すことになる。迷妄の世界に流転することになる。
 永遠に輪廻する長い迷いの中に墜
(お)ち、奈落の底へと沈んで行く。夢なのか現実なのか釈然としない世界に墜ちて、「捨てる」ということに気付かないまま、苦に捉えられて、楽を得ない悪夢を繰り返すことになる。

 捨てれば楽になる。
 しかし分らない。現代にはそう言う人が殖えている。
 結局、肩書きや地位やそれに名誉、また財産や家族など、いろいろな担がなくてもいい重荷を担がなければならなくなる。担ぎ廻って悩み、迷い、自分を自分でどうしていいのか分らない悲しさを永遠に引き摺ることになる。
 禅道で謂
(い)う放下著(ほうげじゃく)の「何も無い、何も持っていない」というのが分らないのである。本来の姿が分らない。
 斯くして迷う。悩む。苦しむから抜け出せなくなる。楽しみが分らない世界へと彷徨う。

 こうなると季節の移り変わりにも気付かなくなる。四季の変化にも心が通わなくなる。
 現象界では、晴の日もあれば雨の日もある。雪の日もあり風の日もある。いつも晴れればかりはくれない。
 天気が晴れなければ鬱陶
(うっとう)しく感じるものだが、曇りは曇りで、それ自体で日々是(ひび‐こ)れ好日(こうじつ)なのである。空を見上げて恨むことではない。世間が言うように毎日、快晴に恵まれなくてもいい。
 雨が降れば降ったでいいのである。

 天候に恵まれたときだけが好日であれば、雨の日や風の日、更には病気になったり怪我をしたり、事故に遭遇すれば、その日は厭
(いや)になるものである。厭を厭と思えばそれまでだ。
 そして落し穴は、此処にあると言えよう。厭こそ、落し穴だった。此処に惑わされる。
 これでは永遠に幸せを感じる日は遣って来ない。

 愚かに“明日があるさ”と心の言い聞かせても、明日など遣って来ない。恵まれた明日などないのである。今しかないのだ。
 「今」に気付けば、そこに一つの悟りが訪れる。
 悟った後は、雨が降ったら雨を楽しみ、雪が降ったら雪を楽しんで、雪見酒と洒落込んでもいいのである。嘆くことはない。
 また晴れたら晴れたで喜べばいい。

 自我の妄執を離れて、こだわりから離れれば、毎日、禍福
(かふく)に悩まされなくて済む。これこそ季節の移り変わりを楽しむ春・夏・秋・冬の味わい方であったのである。
 人生には、「味わい」が必要なのである。その面白さを味わうことが必要なのである。
 それは移り変わりを味わう。変化を味わう。そして変化を味わう中で、肉体から精神へ墜ちこうした後の、その精神性を味わう。
 そこに、人生は面白いものと謂う「味」があるのである。

年 齢 0歳〜30歳 31歳〜50歳 51歳〜70歳 71歳〜90歳
人生期 人生前期 人生後期
四 季
色 葉 若葉 青葉 紅葉 落葉
時 期 草創期 活動期 成熟期 完成期
哲 学 孔子の殖やす哲学(生の哲学) 老荘の減らす哲学(死の哲学)
方向性 増加方向 減少方向
活動源 正のエネルギー 負のエネルギー
生形態 早生から壮生 熟生から晩生
人生観 諦めない上り坂人生 諦める下り坂人生
風向き 針路方向に吹く追風 行くてを阻む向い風
歩 み 余裕の無い我武者羅歩行 余裕のある味わい歩行

 人は生・老・病・死の四期を辿る。
 その四期は季節の四季の春・夏・秋・冬に置き換えられる。それはまた、人の一生を辿
(たど)る路程にも酷似する。

 農作物に見る四季に譬
(たと)えれば、若葉が芽吹く春に種を蒔(ま)き、青葉が繁る夏に苗を植え、一面が紅葉で覆われる秋に刈り入れをする。そして冬には収穫した農作物を貯蔵する。
 秋冬の時期は熟する時期で、これまでの長い間の苦労が報いられるときで、また働いた成果であり、歓喜に湧
(わ)く時期なのである。喜びに溢れえる時期である。
 収穫に歓声を上げ、それを祝う時期こそ、秋冬である。成熟成って、完成に至った時期なのである。実った時期なのである。

農作業は日本人に季節感を教える春の風物詩であった。
 しかし、この季節の変わり目を告げる農事も、現代では遺伝子組換えなどのDNAの特定部位に他のDNA断片を組み込み技術の発達により、管理された農業の工場化の動きが濃厚になりはじめた。これから先は、ますます季節が感じられない時代へと突入して行くことであろう。

 人間にも、また「実りの時期」と言うのがある。完成に至る時期である。
 人生の完成は人生の有終の美と置き換えてもいいだろう。死ぬ間際、あるいは臨終の刹那、自分の生きてきた足跡を、ふと顧みて「嗚呼、何と面白かった人生だったことよ」と、感想を吐露するときに齎される細やかな幸福感である。この幸福感が持てるか否かで、最終章にピリオドが打てる。

 しかし、このピリオドを打つためには、人生前半とその後半が、折り返し点で切り替わっていなければならない。
 これまでの路程を辿れば、春夏のエネルギーはプラスの活動源をもって、増加の努力を惜しまず、秋冬はマイナスのエネルギーをもって、減少方向へ傾けるのである。
 増加方向へは殖やす哲学である、生の哲学をもって行い、これは孔子的な『論語』の世界のものである。生きて行くために人としての道を学ぶ。礼儀を知る。人間社会の道を学んで行くのである。

 一方、五十の折り返し点を超えたことから、減らす哲学、あるいは死の哲学をもって、減少方向へと向かわせることが肝心である。
 これは老荘思想的な、物を減らして行く「無為自然」の世界である。枯れるままに、自然の摂理に任せる。最終章に待ち構えている「枯死
(こし)」を目指す。あたかも老松が立ったまま見事に枯れて行く姿である。そのために負のエネルギーを必要とする。その意味で孔子の『論語』の世界とは異なる。

 但し、老荘の無為自然に註釈をつけるならば、何もしないで手を拱
(こまね)いていることでない。万策尽きて途方に暮れることでもない。況して無力になることでもない。無策を決め込むことでもない。
 総ては無に帰する。それを観じることなのである。無に帰する過程を味わい、それを観じることである。

 人間、老いればその延長上に死が俟
(ま)っている。当り前のことである。
 だが、老いは忌み嫌うものでなく、「味わう」ものである。
 老いから逃避を図れば、味わうことが出来ない。
 また、孔子的に、生の哲学、正のエネルギーを消費して青年同様に脇目も振らず驀進すれば、味わう暇などないのである。

 孔子の説く学は目標を高く掲げ、それに向かって突き進むことは結構なことである。だが、これでは人生を味わう生活は出来ない。単に、上り坂を突進する処世術である。
 その愚は慎みたいものである。
 後半は、やはり「味わう」ことは主体であっていい。
 山道を闊歩
(かっぽ)するにも、脇目を振らず頂上に向かう我武者羅(がむしゃら)人生と、後半の下り坂をゆっくりと降り、野山の風景や高山植物の生体を見て美を感じ、また鳥の声を聴いて味わいながら下山するという「味わう」ことに対しての晩年人生があってもいいと思うのである。
 上りと下りは、このように異なるのである。

 そしてこの両者は、前半と後半をそれぞれ司り、あたかも対照的である。前後を付き合わせれば、貸借対照表の如く、「資産の部」と「負債の部」がきっちりと帳尻が合うのである。
 人生はまた、生まれて死ぬまでの「帳尻合わせ」と言うことが出来よう。

 さて、現代という時代は如何なる時代か。
 まず、これを把握しておくべきであろう。この把握がなければ方向性も定まらない。疑心暗鬼の手探り人生となる。これこそ愚行を招くことになる。
 時代はデジタル情報時代である。アルゴリズムによって導き出された「数値」のみが重宝がられる時代である。

 だが、デジタル時代の情報化の世界での数値は、ハッキングやサイバー攻撃で改竄
(かいざん)され、狂わされる因果関係を背負う。
 また、その狂いは波及し、第三者に伝搬し、次々に狂いを誘発させる。背後には世を混乱に陥れ、平和を乱す不穏の恐怖が隠されている。これを宿命的に背負わされるだろう。
 そして、現代のデジタル情報時代に加えて、現代と切っても切れない関係が、文明の高度化に併せた昨今の“民主主義の謳歌
(おうか)”である。
 高度化された文明は、必然的に主権在民の個人主義とドッキングし、民主主義は時代をリードする無くてはならないシステムとなってしまったのである。
 つまり民主主義の謳歌とは、また個人主義を謳歌し、それを奨励するシステムであったのである。

 では、民主主義デモクラシーとは、如何なる社会システムか?……。
 また政治システムか?……となると、これを明確に答えられる人は少ない。
 そのくせ理解しないまま、この主義に入れ揚げている人も少なくないようである。
 現代の世は用語や言葉だけが一人歩きし、思い込みなどから生じた噂や風評に翻弄
(ほんろう)される時代である。
 斯
(か)くして、欠陥も見抜けず、大半の人は、民主主義デモクラシーこそ、人類最高のシステムで、この政治形態こそ完璧に完成していると思い込んでいる。果たして民主主義は、全人類に幸福を齎す完成形であろうか。
 そう思うのは早計で、余りにも近視眼的見方であろう。

 何事も科学第一主義、科学至上主義と考える世の中が、誘導的に牽引する時代背景にあった場合、未来は諸手を上げて輝かしいものになると楽観的な考えに固執することは出来ない。
 この進む方向にも、必ず何処かに落し穴がある筈である。

 科学的なるデーダ情報から得られた数値のみでは、諸手を上げて歓迎する材料にはなり得ないのである。機械的判断には誤作動もあり得るからである。
 現象界には、肉の眼に見える部分でなく、見えない有機的結合を持った隠れた部分が存在するからである。

 先を見通す「先見の明」と、落し穴などの巧妙な仕掛けを見抜く「用心深さ」が必要である。安直で短絡的な、圧力に流される“事なかれ主義”に陥ってはならない。
 過ちを犯せば最悪の事態を招く。
 例えば、民主主義デモクラシーと言うのは社会全体を巨大な大きな船と看做して運行するシステムである。もし、現場の舵取り技術者である操舵手の手許
(てもと)や、操舵手に指令を出す船長の“読み”に間違いがあれば、全体は、とんでもない方向に導かれてしまうからである。運命共同体のようなところがある。結末を伴にしなければならないのである。

 況
(ま)して昨今のように、人間に備わる勘や危険予知の能力を蔑(ないがし)ろにして、非科学的と一蹴する世の中では、既に人間不在となっている時代にあって、人は必要でなくなり、それに代わって機械や、機械から測定されたデータのみが重宝がられる時代、その先きに控える“一寸先は闇”の実体は分るまい。
 機械では運命共同体の行方は占えないからである。
 それだけに、まだ発見できない落し穴は確実に存在しているといえよう。



  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法