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そろそろ死のうか 8

「熟柿は危険を冒さねば食うことができない」
 これはある富豪の格言である。
 熟柿は、柿の木の先端の折れ易い枝先に集中する。下の方の地上から届くところには殆ど熟柿は成っていない。多くは枝先であり、またそれだけに細くて折れ易い。
 だがそれを得ようとすれば、危険を冒さなければ熟柿が手に入れることが出来ない。

 もともと柿の木は折れ易い樹木である。
 その樹木の先端に熟柿が熟す。それを取りにいくためには、柿の木に危険を冒して登らなければならない。命を張る必要がある。
 枝が折れて顛落し、大怪我をするか、運が悪ければ命を失うことも覚悟しなければならない。そのように危険を冒して、やっと熟柿が手に入る。始めてこれで美味い柿がだべられる。

 ところが、熟柿が手に入るのに安全圏に屯
(たむろ)しては、ただ下から見上げるだけである。熟柿にありつくことは出来ない。
 手に入れたければ、安全と安定を引き換えにして、それ相当の覚悟をして、見合うだけの支払うべき代価が必要となる。それだけの代償を払う。作用と反作用の関係である。

 一方安全と安定を追求すれば、夢が失われる。
 自分の生涯を夢の追求と考えずに、夢を安全と安定に置き換えた場合、金銭のために一生を捧げなくてはならなくなる。生活の糧を得るだけを目的として働き、一生を労働のみで終えることになる。
 人生の目的は安全圏で、ただ屯するだけのことだろうか。
 あるいは理想を掲げ志を立て、それに向かって邁進
(まいしん)することだろうか。


●自虐史観

 以前、先生から若い頃の「研師見習い時代」の話を聴いたことがある。
 実に感銘深いものであった。
 先生は十代半ばで、ある著名な研師に弟子入りしたと言う。
 師匠は屈指の名匠と言われ、弟子に対しての接し方は、実に厳しかったと言う。昭和初期のことである。

 聞くところによると、修行は住み込みで、朝五時半に起床する。そして洗面終了後の六時から弟子専用の仕事場に入り、そこには五台ほどの研ぎ台が並んでいて、まずその周辺から掃除に懸かる。板張りも塵一つないようにピカピカに磨く。春・夏・秋・冬、季節の寒暖に関係なく、黙々と毎日励む。まるで修行僧の荒行である。
 仕事場は女人禁制で、不浄の者は入るべからずの聖域だった。女人だけでなく、前科者も立ち入り禁止だったと言う。心身の無垢なものだけが入場を赦
(ゆる)されたと言う。

 師弟間の上下関係も厳格であるが、それ以上に、刀剣と言う神器あるいは霊器に携わる者への厳格な掟があった。
 神の化身である日本刀を罪穢れで汚染してはならないのである。神聖さが求められる。
 刀工の全エネルギーを打ち込んだ魂を、研師は真心を持って研ぎ上げ、鉄の中に隠れた本身を磨き出して遣らねばならないのである。
 眠ったものを、研ぎによって目覚めさせるのである。それだけ大変な使命を帯びていたのである。したがって生半可なことでは成就しない仕事である。厳格さがあって当然であった。

 真理を究めんとするならば、「狭き門より入れ」と言うではないか。
 この門は茨
(いばら)の門で、汚く、醜く、見て呉れが悪く、入り難く、苦しく、更に道は何処よりも狭く、然も細い。そのうえ長い。何処が終わりか見えない。
 狭い故に、通り抜けようとする者の身を、茨の棘
(とげ)が突き刺す。それが痛い。辛くもある。どこまでも苦悩が襲う。辛抱と我慢が要求されるのである。

 一方広き門は、見るからに見て呉れがいい。
 路
(みち)は広く門も広い。綺麗でゆったりとしていて、如何にも居心地がいいように映る。広大に、永遠なる道が未来につながっているように見える。豪華一色で、夢と希望に満ちているように映る。成功の将来が約束されているように見える。
 そして、この門より入ろうとする者は多く、そこに誰もが競って殺到する。
 だが実は“まやかし”だった。見せ掛けだった。
 そういうものは幻想に過ぎなかった。そこに夢と希望があるように見えたのは、実が幻覚だった。
 真理に繋がる道は、そういう見掛け倒しではない。
 一見、汚く、醜く、苦しく、厳しく、辛く、無愛想で親切ではなく、口喧しく、そういう怕
(こわ)いと映るところこそ、実は真理に繋がっていたのである。
 職人修行の道は、こういう門から入る修行だったのである。

 師匠の研ぎ場は別棟で、此処に入れるのは名指しされたもの一名のみで、師匠の研ぎ場は覗き視ることも赦
されなかった。徒弟関係は厳格であった。
 しかし秘伝と言われるものは、単に、弟子が口を開けて俟
(ま)っていれば済むと言うものでない。自分から秘伝を盗みに行かなければならならない。自力本願なのである。誰も面倒を見てくれない。

 先輩格の専任の兄弟子は研ぎ台に坐って、研ぎをする姿勢くらいは教えてくれるが、それ以外は皆無で、盗んで覚えるという厳しいもので、手解きすら教えないのであった。兄弟子のすることを検
(み)て、見よう見まねで真似するのである。

 「学ぶ」ということは、そもそも「真似る」と言う意味で、真似から入って学ぶと言う行為を学習して行くのである。これは日本独特の徒弟関係であった。
 日本の職人は、こうして鍛えられて行くのである。張り詰められた緊張の中で、心身が鍛えられて行くのである。

 真物
(ほんもの)はのんべんだらりとした“甘えの構造”の中にはない。真剣勝負の中にこそ、真物は存在するのである。成就するためには命を張らねばならない。確(しっか)りとした目的意識を持たねばならない。目先を見るのでなく、十年先、二十年先の大局を見なければならない。全体を掴むことが大事なのである。
 近視眼的に物事を見てはならない。その観測を誤ってはならないのである。

 また、小事にこだわったり、同じことを繰り返して重箱の隅をほじくるような拘泥の中に真物を見出すことは出来ないのである。そこあるのは“こだわり”という贋作であった。偽物であった。
 極めねばならないのである。神経を注いで、奥に隠れたものを引っ張り出してやらねばならぬのである。その使命に燃えていなければならない。研師の職人家業は真剣勝負の世界であった。

 したがって、弟子にしてもらったからと言って、今日のように労働条件を契約し、その契約に従って仕事をすると言うものでもなかった。この世界では身分とか人権と言うものは存在しない。そういう甘いものではなかった。
 一人前になるまでは、見習いなのである。
 見習い期間は、総て無給で学び、下働きをし、見習いが終了しても、年期まで働くのである。
 辞めたければ引き止められないが、最初の決心のほどを疑われて、虚しく去らなければならない。途中で挫折しては屈辱であろう。負け犬になっては、何処に行っても負け癖がつこう。人生顛落である。
 そこで歯を食いしばって堪え忍ぶ。我慢する。辛抱する。こういう生き方もあるのである。

 研師の世界では「錆取り三年」という。
 見習い者は錆取りだけで三年の期間を要し、錆落しだけに専念する。鉄と錆とは因果関係を持つ。最初はそれと格闘する。そして錆落しが、まともに出来るようになって、研ぎの初歩である下研ぎを先輩から習うのである。

 研師の最初は「下研ぎ」という粗研ぎから始まり、この第一段階から最後の「仕上げ研ぎ」まで到達するには十段階ある。それぞれに段階で砥石が異なり、研磨の方法も高度を極め、難易度も高くなる。粗い順から、やがて密なる砥石で研ぐことになる。素人が考えるほど甘くはないのだ。

 だが錆取り段階で、下手をすれば、刀姿の形自体が崩れてしまうのである。また、下研ぎは「形取り」でもあった。刀姿を正確に研ぎ出し、また「角
(かど)出し」をする。角がきっちりと、シャープに出なければならないのである。鋭さを要求される。
 そして最終段階の仕上げ研ぎは秘伝であり、この秘伝を盗むのが、また一人前の証
(あかし)であると言うのであった。

 日本の職人は、刀剣研師に関わらず、どれも師匠の技、先輩の技を盗み、そこから真似が始まるのである。学びは「まねび」であった。「まねび」がなまって「学ぶ」となったという。
 先生は過酷とも言うべき研師の見習いを黙々と励んでいたのである。修行の日々の歳月は流れた。

 だが時代は風雲急を告げていた。時代は戦争へと動いていた。
 昭和十年頃に年期明けして、晴れて研師となったが、世は日中戦争の泥沼にあったと言う時代である。
 世の中は、戦争へ戦争へと靡
(なび)く時代で、出征兵士が徐々に多くなって行った。日本人の頭上には暗雲が垂れ込めていたのである。大陸では日中戦争が始まり、泥沼の様相を呈した。そういう中で、日本刀を求める者が多くなった。

 召集されて戦地の赴く者は、陸士
(陸軍士官学校)出に限らず、予備士官も同じであった。一般大学出身の幹候(幹部候補生)出身者も軍刀を求めた。そういう者の親は、わが子に軍刀仕込みの日本刀を買ってやって武運長久を祈った。
 万一の場合は刀が守ってくれる。親達はそう信じ、日本刀の霊力に縋
(すが)ったのであろう。そうして、わが子の無事を祈ったのであろう。
 日本刀には破魔の威力があると信じられているからだ。
 この頃から日本刀が、軍隊での必需品になりはじめていた。刀剣は武運長久の代名詞でもあったのである。
 将校用の軍刀だけでなく、“曹長刀”と言う下士官用
(軍曹や曹長が佩刀する)の軍刀など広範囲で研がされる羽目となり、また後の将校要員である大学や高等専門学校の学生の軍事教練にも、軍刀は引張り凧となり、研ぎの仕事は毎日が大忙しであったという。

 普通、大刀の場合は三日懸かる。太刀や古刀などは十日懸かる。研ぎの最短期間である。
 それを「出生するから速く仕上げてくれ」と言われ、期間を短縮しなければならならない。
 それだけに、十段階は六段階に減り、更には五段階、四段階になったと言う。段階の途中を飛ばしてしまうのである。
 時代が、研師に“手抜き”すら強要していたのである。
 聴くところのよると、当時の手抜きで、卑しい味を占め、以降の研ぎが崩れて行った邪
(よこしま)な研師も出たと言う。

 刀剣研磨所に持ち込まれる軍刀類は、大半は砂型に流された鋳物然の物や、昭和刀という物で、製作工程も手抜きした物が多く、多くは“素延べ”であった。鍛えが殆どないのである。
 大半は即席の付け焼き刃で、刃文は描いただけの見せ掛けであった。刀身は鍛練不足の鈍刀
(なまくら)であった。それを一日一振りが義務づけられたと言う。

 こうなると、朝五時半に起きるような悠長なことは言っていられない。
 必然的に五時半起きは四時半となり、それでも足らずに午前三時から仕事を始め、夜は十時か、遅い時には正午を廻っていたと言う。
 兵隊として二年間の兵役
(普通は二年勤めて上等兵になり満期を迎えて除隊する)を済ませ、除隊後、研ぎの腕が買われて、再び召集され、陸軍省嘱託の研師となった。
 嘱託時は伍長助勤上等兵として聯隊に配属され、その後、伍長、軍曹、曹長の待遇で、各聯隊に出向き、研ぎ並びに抜刀術の教官をしていたという。それを終戦まで続けたと言う。

 時代は闇の中を突き進んでいた。艱難
(かんなん)来るの時であった。
 昭和16年
(1941)12月8日の海軍の真珠湾攻撃を皮切りに、日本は大東亜戦争へ突入して行く。
 最初は破竹の勢いであったが、ミッドウェーで、海軍は大敗北を帰する。この負け戦は、彼
(か)の663年の「白村江の戦」に匹敵する大敗北であった。日本軍と百済連合軍と唐軍と新羅連合軍との間に行われた海戦で、日本軍は完敗するのである。
 ミッドウェー海戦もそれに酷似していた。
 華々しいのは最初のうちであった。ミッドウェーで、海軍は虎の子の空母を四隻も失う。これを機に、日本は大敗北の坂道を転がり墜ちて行く。奈落の底へと向かうことになる。

 米国の猛反撃は始まった。帝都は業火に包まれはじめた。戦火は益々烈しくなった。
 東京大空襲、その他主要都市の空襲、学徒出陣、特攻隊出撃などの苦渋の中に在って、日本は敗北の虎口へと引き摺られて行った。日本は負け戦を戦っていたのである。

 その状況下で、生き抜くために、先生は筆舌に尽くし難い体験をして来ている。その多くを語らないが、無言のままでも、その苦労は躰全体に滲
(にじ)み出ていた。地獄を見てきたからだ。
 本土決戦をモデルにした沖縄戦
(昭和20年4月アメリカ軍は沖縄本島に上陸、激戦の後、6月23日には日本軍の組織的抵抗が終了)が、彼(か)のちで繰り広げられた。
 また広島
(昭和20年8月6日)長崎(同月9日)には人類初の原子爆弾が投下された。原爆の中心温度は五千万度から一億度と言うから、髪の毛は瞬時に焦げて抜け落ち、皮膚は爛(ただ)れ、眼は焼け潰れ、そこで灼(や)かれた人は苦しみもがいたことだろう。緑は総て消失したという。この世の地獄絵だった。
 これは欧米白人の、イエローモンキーへの人種差別か……。

 その間、ソ連は日ソ中立条約の期限切れと不延長を通告して満洲に攻め込み、対日参戦した。日本固有の北方領土は火事場泥棒に強奪された。
 そして昭和20年
(1945)8月15日、日本は無慙に敗戦。米英をはじめとする国際連合軍に無条件降伏したのである。

 また敗戦を機に、奇妙な墓碑が建てられた。
 広島の平和記念公園の原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませにから」と刻まれていた。
 また、全国にはその碑を真似て、「わたしたちは、もう二度と過ちを犯しません」と刻まれた墓碑が建てられるようになった。

 だが、これはよく考えると米軍の空襲で死んだ死没者への冒涜であろう。
 正しくは「わたしたち日本人は核兵器を二度と使わせません」とか「無差別攻撃は残酷で非人道的ですから空爆自体を地球上から廃絶させます」と誓うべきではないのか。
 歴史を歪曲している記述が多いことには、憤りを感じる前に、自虐的なり歴史史観で染められ見事の洗脳され、煽動された
、一部の日本人に悲しさを覚えるのである。
 正しい歴史認識がない限り、こうした過ちや悲劇は何度でも繰り返されるだろう。

 以降日本人は、一億総懺悔の時代に入り、自虐的歴史史観が日本国民に培養された。
 更には、戦争に勝った国家は正しく、戦争に負けた国家は“悪の権化”だという理屈が罷
(まか)り通ることになった。この考えが世界を席巻している。
 日本は「平和に対する罪」を、東京裁判
(極東国際軍事裁判)で裁かれたのである。日本はアジアを侵略したとなった。
 戦後日本人の戦争恐怖症と、その後遺症はここから始まった。安易な自虐史観に陥って行くことになる。
 だが、これだけではない。

 日本文化と日本精神の徹底的破壊が始まったのである。
 まず、霊的神性を崩壊させるために、日本人の食生活を根底から崩した。進歩的文化人を総動員して穀物菜食の日本人の食卓から「身土不二」の食思想を奪い去った。
 こうして日本人は、「タンパク質が足りないよ」の合い言葉のもと、欧米の食肉主義者の“動タンパク食思想”に入れ揚げ、古来より連綿と続いた、その地で育った作物の土地と、わが身は一体である「身土不二」の食思想を破壊した。以降、食肉や乳製品などの動タンパク信奉が始まる。
 斯くして日本人の霊的神性は曇らされることになる。

 次に言霊の破壊であった。
 日本語の七十五音からなる美しい言霊は破壊され、狂わされ、正しく喋れないようにして、今日では国籍不明の言葉が幅を利かせている。日本語は取って代わられた。
 日本人の伝統と文化は、僅か250年ほどの歴史しか持たない米国から、徹底的に破壊し続けられ、現存する文化や伝統も、上辺だけの表面的なものになり、多くの日本人は骨抜きにされた。
 かつての日本精神は、軍国主義の最たるものとして槍玉に挙げられ、厳しく指弾されて、精神を奪い取られた日本人は心の精神的支柱であった「芯
(しん)」を奪い取られた。

 また、日本の家庭では家長が不在となった。
 かつての父親が家長として家族を統括する法的権利は『民法』から削除され、日本は家長不在の家庭構造が強要された。家長不在で、夫婦同権が進歩的と称された。
 更に、55年体制以降の日本経済は確かに経済大国への道を歩んだが、その結果、精神より金・物・色の世の中を出現させた。それを背景に科学万能主義と物質至上主義が絶賛された。
 仮初
(かりそめ)の欺瞞(ぎまん)の世が擡頭(たいとう)し、現代日本人は自己中心に陥り個人主義に入れ揚げた。
 だが、それは奇
(く)しくも、悪しき個人主義でしかなかった。
 データ情報の只中、もう長老の出番は完全に失われた。長老の智慧は、時代に適合性のない不要なものになっていた。

 正しい歴史史観も狂わされた。日本人の歴史観が、敗戦を機に一挙に変化した。
 ソビエトを本拠地に置くコミンテルンの国際組織は、日本に左翼陣営の擡頭を図った。
 日本列島は実質上は、外国に乗っ取られたようになった。輿論は革新勢力に引き摺られることになる。現在もマスコミの主流は左翼陣営によって牽引されている。
 斯くして日本は底知れぬ陥穽
(かんせい)に墜ちて行ったのである。しかしそう思わないのは、今の多くの日本人に、その自覚症状がないだけである。
 日本列島はいったい誰のものか!……。
 この列島は何処の国民のものか?……。
 よく考えるべき事柄である。
 10年先、20年先、50年先、100年先の日本列島は、果たして日本人のものかどうか。
 果たして日本人のものだろうか。
 大ローンで購入した土地家屋は、末代までが棲み続けることが可能だろうか。
 日本の美しい山河は、未来も日本に帰属するものだろうか。
 その保証はないのである。既に闇の権力に包まれたからだ。

 国際政治の舞台では、丸腰外交ならびに謝罪外交の日本は足許を見られ、いいようにあしらわれ、やがては外圧によって、この列島は、猛々しい軍靴で踏みにじられるかも知れない。
 また近未来、先祖の墓は、戦車で地均
(じ‐なら)しされるかも知れない。そういう懸念はあろう。

 もう一度繰り返そう。
 本当の戦争の悲惨さは戦争をしているときよりも、戦争に敗れて敗戦国となり、そこから戦争の本当の地獄が始まる。戦勝国の理不尽が罷
(まか)り通る。文化や伝統までもが奪われる。
 更には、この戦争を戦っていない大陸や半島の国までも准戦勝国となり、戦勝国の三国人として日本を闊歩
(かっぽ)し、敗戦国の日本国民に対して、乱暴狼藉を働いた事件も少なくなかった。

 また当時、戦争指導者達の日本の敗因責任は、国民で組織された国民会議などで、一回も追及されないまま不問にされ、そこにも理不尽が罷り通った。戦争を始め、戦争を指導した陸海軍首脳陣の将官どもは、戦後、政府から高額なる恩給の給付を受け、安穏とした生活を送ったのである。A級戦犯で死刑になったのは、民間人一名を含む、陸軍の二人だけ。海軍は一人もいない。何故だろう?……。

 戦後民主下では、理不尽が罷り通るようになったのである。
 敗戦当時米国の規制下に置かれ、日本刀も軍国主義の復活に繋がるとして、押収され持ち去られて米国へと渡った。米富豪達の玩具に日本刀はされたのである。抗議すべき術
(すべ)はなかった。沈黙と忍従が強いられた。
 日本刀に関わる仕事を生業として従事する関係者は、一時期制約が課せられ、職業の自由が抑圧されていたのである。

 そして以降、先生は敗軍の将兵を語らず……の中に閉じ込められ、封印までされたままとなった。地獄で見てきたことは黙して語らずなのである。
 敗戦直後は、日本刀までもが封印された。
 日本刀とともに、国民娯楽として時代劇の復活が認められたのは、昭和26年
(1951)のサンフランシスコ対日講和条約以降のことであった。
 また日本は昭和30年
(1955)の「55年体制」により、高度経済成長の時代を迎える。そして巷(ちまた)には、「もはや戦後ではない」という言葉が流布された。
 この頃になって、日本刀は徐々に日の目を見るようになったのである。

 本当の地獄は、戦争をしているときよりも、敗戦国となって国土を占領され、強奪されて、戦争が終わったときから本当の地獄が始まる……の、この暗示は、思えばまさに的中だった。
 古来より連綿と続いた文化は奪われ、国語も改竄
(かいざん)と言う名目で、一部変更を余儀なくされたのである。つまり、国の言語が奪われるのである。それは国籍不明化されることであった。
 戦争が終わったときから、敗戦時の「戦後」を起点に本当の地獄が始まったのである。それは理不尽の始まりでもあった。

 だが、先生は地獄を見て来たことは明らかであった。筆舌に尽くせぬ魔物を見たに違いない。ただそれを、黙して語らないだけである。
 苦労人は、何らかの形で、何処かで、必ずこの世の生地獄を垣間みて来ているのである。
 したがって、それだけ恐ろしい目に遭
(あ)えば、人間は筋金入りになるものである。筆舌に尽くし難い生地獄を見れば、肚も据わる。これ以上、恐ろしいものを見ることはないからである。筋者を見ても怯んだり、怕がったりはしないのである。人間には総べて対等に、同等に接する。

 戦争ばかりでなく、職人の世界でも、常人には想像のつかない恐ろしい修行をして来たに違いない。それが常人とは桁違いの度胸を作り、知識を経由した見識が、胆識までに進化しているのである。そこに老獪の根拠があった。
 先生はそう言う経歴を持った人であった。

 昭和40年代初頭のこの当時、私は老練のいなし方や、すかし方が興味津々であった。人生勉強にもなる。
 そういう気持ちで、この事件に遭遇したのである。同行するだけの価値があった。是非とも見聞しなければならなかった。

 自称・債権者には、毎日貌を合わせてしまう。必然的にそうなる。
 しかしこういうのは、また慣れるものである。ここが人間の不思議なところである。敵味方の境目が曖昧になる。
 そして私は、このとき、人格という人間の「格」を検
(み)たのである。

 このとき人に「格」と言うものがあることを思い知らされたのである。
 つまり人間は平等ではなかったのである。民主主義下で言う平等は、絵に描いた餅であり幻想であった。
 格により、人間は人生を経験しつつ、その度合いに応じて、ランク付けされているということに気付いたのである。

 格は「器」と同義である。
 現象界では器の度量が物を言う。その大きさが物を言う。大きければ大きいほど、納める領域が深い。人間には「懐の深さ」と言うものがあるのである。大人
(たいじん)に限られた器である。小人(しょうじん)に比べて桁違いである。器は甘く見るべきでない。見せ掛けの外見に誑(たぶら)かされるべきでない。懐(ふところ)の秘めた「玉(ぎょく)」が物を言う。
 玉は、また「志」の異名であった。
 志を持っている人は、心の奥に玉を抱いている。
 その玉が、人間の大きさを物語る。これには老若男女の差はない。志を抱いた者は信念が不動である。揺らぐことがない。

 戦後民主主義は話術の世界でもある。話術に長けた者が勝つ。弁論爽やかな者が聴衆を魅了する。
 だがそれだけではない。裏付けが要る。喰い付かせるだけの惹
(ひ)き付けが要る。
 話術は志の有無で、肚の据わった腹芸が出来る者が上手となる。
 逆に志は希薄だと、指摘する焦点がぼけ、目的が明確にならない。それだけに遣り込められる。
 手段は存在するが、目的な明確でないと言う、目的不在である。そこが突かれる。
 志が不在の者は目的意識に欠く。向かう目標が定まらない。
 そうなると、話術で言わんとする焦点がぼける。主体が何なのか分らなくなる。抽象的論理の展開で、聞き手に得心を与えない。記憶したものだけの知識の羅列では駄目なのである。
 明確なる論旨が要り、主旨が要る。主体を明かす必要がある。

 特に交渉とか、外国相手の外交とかは、人間そのものが、人間主体で行われ、これを機械が取って代わることは出来ない。交渉術はコンピュータなどの機械には真似出来ないものである。
 何故なら人間の度量が要るからである。また相手を呑む腹芸も要ろう。

 データから弾き出された数値は、確かに上下・左右・前後・大小・優劣・強弱・高低・美醜などは計れようが、根本の人間の心情まで読み解くことは出来ない。況
(ま)して思想やイデオロギーも計れない。
 隠れた部分を持つ有機的生命体は、機械測定では予測不可能なのである。

 「君子豹変する」の、この一句を挙げても、機械測定はその心情の動きと、悟りから来る心の動静は計ることが出来ない。
 何故か。
 それは人間と言う生物が、有機的な生命体であるからだ。霊的にも、眼に見えない隠れた部分を持っているからである。

 そもそも思想とかイデオロギーと言うのは、人間生活の中から発生したものであるからだ。
 人間生活を処理するための方式に過ぎない。そのため理論の面だけで、全体を正しく把握することは難しくなる。
 これが把握できるのは、その思考を、最もよく具現した人物でなければ掴めないし、読んでも頭に入って来ない。戦後日本に導入された欧米型の民主主義も、これを正確に把握できた人は今日でも少ない。言葉や単語だけが一人歩きしている。今では冒涜
(ぼうとく)すべからぬ存在になっている。

 したがって一人歩きして、徘徊する馴染めない思想は、舶来のみが重宝がられる。把握云々……は、どうでもいいのである。
 機械文明は合理主義と効率主義を齎したが、その恩恵に預かっているのは、一握りのエリーロである。エリートのみが庶民を差し置いて富むのである。
 そういう発展途上の経済成長只中の時代背景にあった。昭和40年代初頭のことである。




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