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そろそろ死のうか 6

人間は非存在でありながら、地上界に肉体を有する存在である。肉体をもって、日々の日常生活を営んでいる。
 だが肉体は借り物である。

 本体は意識であり、意識体であるのだが、この意識体は意識だけでは物理的な作用を発揮することが出来ない。そこで肉体を借りて物理的作用を及ぼす。こうして、非存在である筈の人間が肉体を借りて存在する因縁を作った。
 だが、その存在は借り物である。

 意識体、則
(すなわ)ちこれは霊であり、霊は次元を超えた超時空の存在である。本質は「意識」なのである。あるいは意志である。
 これは肉体を持たないところに特長がある。
 したがって、それ自身では物理的作用を及ぼすことが出来ない。

 そこで、生きた人間の肉体を借りると言うことになる。借りて、そこに意識を住まわせるのである。肉体は意識の乗り物。そして乗っているのは意識である。
 宿主は意識であり、肉体は宿主を乗せる乗り物である。

 生きている人間の魂
(こん)と結んで、「神(しん)」に宿り、肉体をコントロールしようとする。
 この場合「神」と「気」が固く「精」と結ばれていれば、「神」は霊と協力・協調して神通力なるものを発揮できるが、これは鍛練を要していないと出来ることでない。
 つまり「気」が弱く何かしら不安定で、「神」と「精」がバラバラで分裂・分散していては、生きた人間の「神」は眠らされることになる。

 「神」が眠らされれば、肉体は霊に支配されることになる。
 この支配状態が極端化すれば、この状態に霊障
(れいしょう)が起こる。

 また肉体の霊的異常は臭いとなって顕われる。人体の気門から霊臭が漏れ始める。
 この臭いこそ霊障であり、肉体と言う「精」の宿主である「神」は、心という「気」の弱体によって不安定が起こり揺れ動ごく。振動が烈しくなって不動が得られない。

 現代の世は肉体と精神の乖離
(かいり)が進んでいる社会状態にあり、顕われる現象も、また病気にしても、単に肉体的なものだけでなく精神まで病む状態に至っている。心まで病む。そこに現代の苦悶が生まれる。

 更に、時代の加速度的な動きの中で、これに蹤
(つ)いて行けないと、精神まで病む。病んで、全身をのたうたせる。苦悶の元凶である。
 現代の病気も、この元凶に取り憑
(つ)く。霊障絡みの病魔と言う憑衣である。単なる肉体的な発症ではない。奥深く浸透し、「神」に憑く。狂わせる。
 憑衣が起これば、人間は心を病む。心の健康を損なう。心まで侵蝕して蝕まれる。
 現代の病気は、心の苦悶から生まれた……。


●長老が死んだ時代

 現代では老人も無用の長物となり、老害など揶揄(やゆ)される。
 仮に経験豊富な老練者であり得ても、その活躍の場が無くなった。大半の老人は活躍の場を失い、これまで生きて来た経験を活かした人生の智慧を授ける出番も、殆ど無い。
 現代は経験を積んだ老練だけでは役に立たないようである。デジタル時代では無理なのかも知れない。
 それどころか無用の長物と嫌がられるだけである。老害などと揶揄
されて、老人への尊敬は今では殆ど失われた。

 また、現代の老人自体、役に立たない人が多いようだ。
 ゆえに活躍の場は無くなり、組織間でも活力を低下させる元凶だと看做
(みな)され、指導的立場に居座る高齢者は、若い世代から皮肉を込めて“老害”と指弾される。
 今日では、老人は害を齎す生き物にされてしまったようである。

 世間を見渡して検
(み)ると、元気な老人は幾らでも居る。精力をも他余している。その捌け口を求めて漁色に奔走する御仁も居る。お盛んなことだ。
 昔に比べて今の老人は若い。ある程度の体力もある。六十五歳を超えたからと言って、まだまだ元気な人は多い。
 しかし元気だけで、確かに体力があっても、それを持て余し気味である。また体力に併せて働くことができても、元サラリーマンでは、六十五歳から職にありつけるのは些か難しいようである。

 何故か。
 それはサラリーマン出身であるからだ。
 同じ年齢の老人でも、サラリーマンでなく、農民とか漁師なら、老いても働き口もあるし、遣い道もある。
 また長年商売を遣って来た老人も、老いたからと言って、遣い道の用途は幾らでもあろう。自営などの経験者はサラリーマンにはない経済感覚がある。それなりに金勘定も出来る。
 こうした人達は定年の年齢に達したからと言って、リタイヤすることはない。
 七十でも、八十でも、九十でも、サラリーマン年代の高齢者に比べて幾らでも働くことが出来る。

 だが、元サラリーマンでは、こうないかない。
 定年後のサラリーマンは、殆どと言っていいほど、遣い道がない。実戦現場では役に立たない。それだけに教えを請われることも無いし、そのために尊敬されることも無い。役に立たない老人は、尊敬されることが無い。
 但し、サラリーマン出身者でも資産家なみに、億単位の資産を持っていれば別だろう。
 所持する金の分だけ、世間からちやほやされて注目を浴びる。それは金銭の所有額に比例する。株屋や信託銀行からも誘いの声が掛かる。

 昔の老人は、貧富の差を抜きにして尊敬される人が多かった。
 若者と同一の舞台を共有していたからである。
 したがって、老人の経験豊富な人生観や仕事観は、若者にとって非常に役に立つものであった。
 第一智慧が豊富であった。
 老練・老獪で智慧の固まりのような老人が居た。こうした人は「長老」として尊敬された。
 由々しき事態が発生し、もし解らない問題が起こると、決まって周囲では「○○爺さんに訊け」あるいは「このことだったら、○○婆さんが詳しい」となった。
 このように広く教えを請われたのである。

 特に手工業主体の職人集団の中では、老いても重宝がられ、多くの若者から尊敬を受けていた。職人としての技術は、群を抜いていた。巧みとして力倆もあった。それだけに尊敬の対象であり、また若者の多くは、その域に近付こうとして技を磨いて行った。老いた職人は手本でもあり得たのである。

 「此処はどうしたらいいのでしょうか?」という若い職人の質問に、それを実地で遣ってみせた。実地の妙技は、若者には真似できない説得力があった。また種々の相談に対しても、即座に明快な回答を下したのである。
 訊くと必ず、その場で的確な答えが返って来た。的外れなことは言わなかった。それだけに後進者からは信頼を得ていたのである。

 会社でも、組織内に「相談役」というポジションがあるが、この相談役には、高齢者で老練なる人が抜擢されていることが少なくない。
 経営コンサルト然とした数字の読める部外者を相談役に据えているとこともあるが、今でも大半は、長年の経験を買われて経営を携わった役員経験者の高齢者がこのポジションに居ることが多い。老獪なる長年の人生観が必要だからである。
 その人の必要性を知る組織では、高齢者が相談役になっていることが多い。しかし、こうした役職に就けるのは、ほんの一握りの役員経験を持つ高齢者である。
 だが並の会社員では、そう言う老人は殆ど居ない。

 大半の会社員は、定年後は第一線から離れ、仮に職にありついても補助的な仕事しか廻って来ない。
 例えばスーパーの荷物係とかレジ定員とか、あるいは警備会社の守衛然とした夜警などの警備員や交通誘導員などの高齢者でも出来そうな簡単なものである。アルバイト的である。決して重職的な責任のあるものでない。またそれだけの器を持った老人は、サラリーマン出身者には少ない。
 サラリーマン時代の職種を引き継いで、そのまま定年後に活かせている再雇用されている人は、全体数からすれば圧倒的に少ないのである。
 定年後の人生舞台の配役としては、通行人Aとか、通行人Bなどの、“その程度”の平役である。

 かつてサラリーマン時代、部課長を拝命していた人でも、自らの器量や力倆が見込まれてそう言う役職に就いたのではない。年功序列で、たまたまそう言う役が廻って来たと言うこともある。
 しかし人間は忘れ易い生き物である。いつのころか初心の謙虚さを忘れる。また周囲の環境の変化に順応してしまう。周囲の平身低頭に、自分が偉いと思い込む錯覚が始まる。そして、お決まりのコースは、虎の威を借る狐になってしまうことである。
 やがて、自分の器が“虎なみに凄い”と思い込む。
 だが、現実は違う。

 一時的な周囲の状況変化は、その人の器が認められてのことでない。出入り下請け業者から平身低頭されたのは、その御仁に平身低頭したのではなく、会社のネームバリアからくる役職に頭を下げたに過ぎない。つまり、その人の器に、出入り業者は平身低頭したのではないのだ。会社のネームバリアに低頭しただけである。
 では退職後の付き合いはどうなるのか。

 仮に、退職後は、かつての部課長だった人に挨拶程度は交わすであろうが、平身低頭までする下請け業者は居ないだろう。退職後は“ただの人”である。何処にもいる高齢者と変わりない。
 会社のネームバリアがあってこそ、役職が偉いのであって、その人の器を認めた分けではなかった。こう言うことは退職後になってみなければ分らない。
 銀行員だったサラリーマン出身者が、脱サラして街金の貸金業を始めても、巧くいかないのはこのためである。

 私自身、かつて“街金”という県知事認可の貸金業を営んだことがある。
 元々日本刀や古美術を商う古物商だったので、この二業種を組み合わせて、それなりの業績を上げたことがあった。早くから自営業者として世間の荒波に揉
(も)まれていたからである。その波の中で、飴と鞭の使い分けも学んだのである。

 つまり融資して、融資先が支払いに行き詰まって不履行に陥れば、日常生活に困らない程度の器類を物品を残して、他の不要な家財や道具類などは差し押さえて、古物の市場で売却し、その差額を上回る売値分に対しては返却し、不足すれば、不足分を長期払いで返済させたのである。

 差し押さえし、これを古物市場で売却するには、各都道府県公安委員会発行の古物鑑札がいる。この鑑札がないと、差し押さえても売却できない。しかしこの鑑札を持っていたから、途中で支払い不履行が起これば、後の手当をしてやったのである。そのことに感謝されたこともあった。
 鬼の借金取りの街金業者は演じなかったのである。
 若い頃から人情の機微は訓練していたのである。こうした訓練に関して、サラリーマン階級は人情の機微も欠け、疎いようだ。

 ところが、元銀行員を遣っていた人が、私と同じように、県知事認可を取得し、貸金業を始めるが、行員出身者の街金は、巧くいかないことが多かった。軒並みにバタバタと潰れて行った。
 何故か。
 世間の荒波の烈しさを、男一匹で凌いで行くことは、これまでのサラリーマンの世界とは根本的に違っていたのである。そのギャップが大きいのである。ここにサラリーマン出身者は戸惑う。
 行員出身者は一匹狼で世の中を渡り切る、荒波に絶えるだけの忍耐力が養われていなかったのである。ネームバリアを外した一匹狼で闘う過酷な凄まじさを、全く解っていなかったのである。

 つまり会社のネームバリアを剥ぎ取れば、結局は“ただの人”だったのである。ここにもサラリーマン出身者の誤算があったのである。
 その“ただの人”が退職後、何かの職にありついたとしても、責任ある重職には就けないのは、こうした理由による。したがって、リタイヤ後の就職は最初から“お気軽な腰掛け”である。
 それだけに扱われ方も侮蔑的である。また尊敬されている要素も存在しない。

 世の中にはリタイヤ後の人生を“第二の人生”などというが、結局第二の人生は“お気軽な腰掛け”と同義語だったのである。
 こうした同義語が錯綜して世の中を一人歩きする以上、元サラリーマンに頭を下げて、請うて来てもらい、第二の人生を華々しく踏んで貰いたいと考える経営者など、誰一人いないのであろう。

 居たとしても、サラリーマン時代に取得した一時代前の技術力を、東南アジアなどの企業が一時期、“お気軽な腰掛け”程度で欲しがるだけだろう。それ以外は皆無であり、65歳を過ぎた高齢者のサラリーマン出身者で華々しい第二の人生を踏み出している人など、殆ど居ないのである。
 今日の日本では、老人が尊敬されない社会環境が出来上がっているようである。若い頭脳を欲する社会体制が構築されてしまったからだ。

 では、尊敬される老人が少なくなってしまったのは何故か。
 その第一は農業や漁業の従事者が減り、また職人が昔に比べて減ってしまったからである。若者と同一の舞台を共有する職場が激減したことである。職場の形体が変わってこともある。
 産業別でその従事者の割合を分類すると、直接自然を相手にする農業・林業・水産業など第一次産業従事者は全体の約1%程度。
 二次的に加工する手工業の職人などの第二次産業は24%程度。
 そして第三次産業の商業・金融業・運輸業・通信業・サービス業などの従事者は75%程度である。

 また会社組織の組織人としての会社員は、第三次産業に従事者する人が圧倒的に多いのである。公務員なども俸給生活者もサラリーマンである。
 昔とは職種も大きく様変わりした。
 俸給生活者というサラリーマン出身者が第二の人生で主役を演じられないのは、これまで生きて来た人生観での経験が社会に還元され、役に立つものでないからである。

 況
(ま)して元サラリーマンでリタイヤし、年金生活者として暮らしている老人などは、七十になっても、八十になっても、その年齢の嵩(かさ)んだ分だけ、若者からは相手にされない。
 また、元サラリーマン出身の老人は、かつて、責任あるポジションに携わっていたとしても、自分の関係した職場以外のことは解らず、担当した以外の、世間全般の問題に答えられるだけ物知りではないのである。

 特にサラリーマン階級には、専門分野という細分化された縄張りがあり、縄張りを出て、広域で活動することは赦
(ゆる)されなかった。この当時の癖が定年後も抜けず、第二の人生は“お気軽な腰掛け”程度の人生になってしまうのである。それに甘んじている人が実に多い。またそうした人は、その枠内から一歩も出ようとせず、必然的に、幅に限界があるのである。
 自分の覚えた専門外のこととなると、全くお手上げである。

 その証拠に、即座に自営業が出来るほど、『貸借対照表』も『損益計算書』も読むことが出来ない。
 商店経営できるほど、代金支払いにおいて売掛金も買掛金も、その区別をつけ、期限通りに集金することすら出来ない。
 しかし、自営業を営んで来た人は高齢者になっても、最低限度の商売能力を持っている。ここが同じ年齢でも、違うところなのである。
 自営業者は、タイムカードをガチャン通せば、それで毎月自動的に給料が貰える甘い生き方をして来ていないからである。現実の中で、実にシビアに生きて来たのである。

 月々の生活費は、売上金の一部から捻り出される利鞘だけである。その利鞘から生活費を捻り出す。
 これは時間通りに出社してタイムカードに記録されれば、その記録に応じて自動的に給料が貰えるというものでない。その月の売り上げが減少すれば、それだけ生活に打撃を受け、またそうした商売に明け暮れる日々の中で、女房子供を養うのである。
 もし両親がいれば、その分まで面倒も看らねばならなかった。それに子供の教育費やその他も懸かる。それを純利益の儲けの一部から捻り出すのである。店員がいればその者の給与分も弾き出さねばならない。
 常に仕入れや在庫のことも頭に入れておかねばならない。顧客が何を欲しがるかの研究も怠れない。日々が鎬を削る戦いである。
 この意味で、大きいことは善いことだの、寄らば大樹の一部上場会社のサラリーマンとは違った。

 自営業者は常に厳しい現実に立ち向かっていた。日々鎬
(しのぎ)を削る格闘であった。それを耐えて来た分だけ、老いた自営業者は、同年代のサラリーマン出身の老人とは異なるのである。
 シビアな生き方をして来た高齢者は、老いてもボケる暇がないのである。毎日が退屈でない。時間は持て余していない。必死で生きる毎日である。心労で、心身を患う暇もない。過労死すら、発症する暇がない。そう言う発症が襲って来るほど閑人でない。
 常に頭を遣って格闘をしなければならない。
 借入金があれば、バランス的に返済計画を考え、貸借対照表の「資産の部」と「負債の部」の内容を把握しつつ、毎月の返済にも智慧を絞らなければならない。この生活循環での日々では、おちおちボケてもいられないのである。
 元サラリーマン出身の老人が、最近では久しく若者から尊敬されない理由は、これでお分かりいただいただろう。

 また統計的に検
(み)て、老人性痴呆症も、職人を含む自営業を生業にする高齢者と、元サラリーマンの高齢者を比較すれば、圧倒的に後者が多いのである。
 サラリーマン出身者はリタイヤ後を“悠々自適の人生”というが、それは単なる動物的な退屈の連続の“余生”でしかない。余生の中に在
(あ)っては、ボケては当然だろう。
 これも、何故かと言う問いは、誰にも想像に難くないだろう。

 更に実学の実践で、現実の荒波に揉
(も)まれて商いをしたり、諸々のトラブルなどし遭遇し、その揉め事を現場で渡り合って来た老商人(ろう‐あきんど)は、安全圏に居て、給料だけをもらって来た官公庁の御用サラリーマンとは違う。
 また上場会社のサラリーマンとも違う。常に強風に曝されていた。それだけに世間風に免疫もある。

 個人商店では、会社組織と異なり、世間を圧倒するネームバリアも無く、わが身を守られるべき安全圏も無い。肉弾丸出しで、肉弾戦を闘わなければならない。守られるべき防弾も無いし、逃げ込む防護豪も無い。
 しかし、剥き出しのわが身を自力で、一匹狼を演じて来た老商人は、それなりに揉まれて苦悩した分、人間が出来ている。筋金入りである。したたかでもある。あたかも長い闘病生活を耐えて、見事生還したようにも映る。単に老獪なる商売上手ではない。芯がある。

 いつの頃からか、ネバー・ギブ・アップの精神を裸一貫に刻み込んでいる。サラリーマン出身者の比ではない。
 また天下る行き先も無いから、常にわが身は、自身で防禦する以外なく、その自立自前精神は同時に肚も作るのである。

 また万一の場合、知識も辣腕も通用しない状況に置かれても、これを躱す術
(すべ)を知っている。
 もし、気負った強圧的な来訪者が、続々と詰めかけて来たらどうするか。
 おそらく市役所の○○係などの窓口業務をして来た、元サラリーマンとは違ったレベルの躱
(か)わし方をするだろう。
 一兵卒として、現場の実戦で揉まれて来た分、肚も据わっている。

 仮に来訪者が筋者で、どんなに脅かそうとも脅されはしない。執拗に絡んで来ても、一向に煩
(うるさ)がらず、そのいなし方や、すかし方を知っている。世間で揉まれて、人のあしらい方を自然に身に付けている。老獪なる智慧者でもある。

 普通、このような状況が生じた場合、サラリーマン出身の老人ならば、“直ぐに警察……”となるだろうが、警察は民事不介入である。一度は躱せても、再び押し掛ければ、後は自分で解決の糸口を探さねばならない。
 この煩
(わずら)わしさは、サラリーマン間の職場での人間関係の比ではない。
 職場内の人間関係は、相手が上司や部下であったり、あるいは同僚であったりする。時には取引先の関係者であろう。
 しかし、この人達は、みな堅気である。筋者でない。真面目な、善良な市民である。

 一方、職人家業を含む自営業者は、突如不意打ちを食らうことがある。また時には、訳の分からぬ“脱税容疑”で税務署の査察とも格闘しなければならない。しかし言いなりではない。屈しない。互角に渡り合う。そのために老練なる智慧もある。それを研鑽した自負もある。
 それだけ、肚も出来ている。節税の勉強も、普段から確りとしている。中身は鈍
(なまく)らでない。
 官憲が常套句として遣う“脅し”にも動じない。筋金入りである。

 老商人の過去には、思いもよらぬトラブルに遭遇して、いちゃもんをつけられ、筋者の理不尽な洗礼を受けた歴史が刻まれている。それだけに、躱していなし、すかした智慧の老獪さは尋常のものでない。
 だが、こうしたトラブルに、サラリーマン出身の素人はお手上げのようだ。もし、こうなればパニックになり易い。

 斯
(か)くして脅され、嫌がらせを受け、絡まれることに辟易して、遂に渋々妥協して無理難題の理不尽を呑むか、あるいは心労からノイローゼになってしまうだろう。つまりサラリーマン出身には、実戦での免疫力が無いのである。
 この免疫力の有無の差も、実戦を渡り歩いて来た同年代とは異なるのである。
 こうしたところにも、商売や仕事で難問解決の実戦を踏んで解決して来た老商人は、その智慧が長老然としている。これは自営を営む老職人にも同じことが言える。風雪に耐えた老人は態度も、実に毅然としているのである。

 だが、私は同じ職業人でありながら、サラリーマン出身者の方が劣っていると言いたいのではない。ただ長老としての訓練を受けてないことを言いたいだけである。
 両者を比較して、別にサラリーマン出身者だから人間的に劣ったり、伎倆などが能力的に劣っているという訳でもない。人として立派な教養を身に付けた人もいる。決してサラリーマンと言う職業を卑しんでのことでない。

 しかし、サラリーマンとして企業に就業以来、そもそも大学在学中の就職戦線を闘う時期から、“寄らば大樹の蔭”を決め込んだことは明白であり、3Kを避け、安定した資本力の大きな企業に就職を求めたことは確かで、こうした経緯から、修羅場の人格訓練や、不屈のネバー・ギブ・アップ精神などの訓練を怠ったことは事実であろう。好んで個人商店に就職した人はいないであろう。3Kを避けた筈だ。

 狙いを定めた思惑には、安全・安心・安定の大企業を目指した筈である。外見の見た目にも、世間体から言っても、大きいことはいいことだったのである。一部上場企業や官公庁のキャリアだったら胸が張れるからである。
 更に、こうした背景には、何も考えず、弾き出された数字だけを信じて、世間の風に流されながら、人真似人生を送れば楽だという選択があったように思う。

 だが簡単に、そうは問屋が降ろさない。
 “楽だ”という反動が反作用となって襲って来た。つまり老後に、反動の揺れ戻しが起こったことは疑いようもない。
 楽あれば、更に次ぎなる楽あるではない。楽は連続しない。何処かで途切れる。必ず途切れる。

 楽の反対現象が、悠々自適の老後にも、突如訪れることがある。
 「苦あれば楽あり」であって、その逆はない。楽を散々楽しんだ後は、寒い冬を迎えたキリギリスになる以外ないのである。惨めな結末である。
 不幸現象は、既に仕込まれているのである。3Kを嫌った就職戦線のときに始まっている。この問題点を指摘したいだけである。
 もし運良く、冬のキリギリスの羽目から免れて、楽しい老後の只中に居るのなら幸いである。

 ところが、大なり小なり、冬のキリギリス然とした老後を送り、若者から相手にされず、況
(ま)して尊敬もされない寂しい日々の、リタイヤ後の人生を送っている高齢者も少なくないようだ。
 斯くして、長老は死んだと言いたいのである。

 思えば、現代ではこういう長老然とした人が少なくなった。殆ど見なくなってしまった。
 現代は長老が死んだ時代であると言えよう。寂しい時代になったものだ。



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