運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
そろそろ死のうか 1
そろそろ死のうか 2
そろそろ死のうか 3
そろそろ死のうか 4
そろそろ死のうか 5
そろそろ死のうか 6
そろそろ死のうか 7
そろそろ死のうか 8
そろそろ死のうか 9
そろそろ死のうか 10
そろそろ死のうか 11
そろそろ死のうか 12
そろそろ死のうか 13
そろそろ死のうか 14
そろそろ死のうか 15
そろそろ死のうか 16
そろそろ死のうか 17
そろそろ死のうか 18
そろそろ死のうか 19
そろそろ死のうか 20
そろそろ死のうか 21
そろそろ死のうか 22
そろそろ死のうか 23
そろそろ死のうか 24
そろそろ死のうか 25
そろそろ死のうか 26
そろそろ死のうか 27
そろそろ死のうか 28
そろそろ死のうか 29
そろそろ死のうか 30
home > そろそろ死のうか > そろそろ死のうか 4
そろそろ死のうか 4

写真は神功皇后と所縁の深い、北九州帆柱山の御神木としての帆柱杉の巨木である。

六十年、七十年、八十年と生きていれば、その相(すがた)は当然老いてくる。同時に病んでくる。後は死を待つばかりとなる。
 それは年齢相応の人生の四期の過程を辿っているからである。
 これは至って正常と言えよう。健全と言えよう。
 自然の摂理に従って「枯れて行く態
(さま)」である。美しく枯れる態である。自然だから、また美しい。
 意図を含む人為や人造の画策がないから美しい。自然に朽ちるものは美しい。そこに作為などないからだ。

 尊厳死一つ考えても、病気と共棲していればいい。
 医者任せで、先進医療や新薬投与などの、医者の強引な治療法に従い、強引な治療で肉体をいじくり回されて、散々弄
(もてあそ)ばれた後で、どうしようもないから死ぬという、他人任せの死であってはならないだろう。
 肉体が若いのならともかく、老いて病気を抱えた人が生に縋って往生際を悪くしても始まらないのである。自然に従えばいいことである。病気とともに枯れればいい。

 医療だけでなく科学技術の発達は何を齎したか。
 昨今は科学の進歩で機械代用が可能になり、老齢という年齢も、昔に比べて苦役の労働や家事も少なくなり、それだけに肉体的負担は軽減した。そして日本人は、大半が長寿を全うできるようになった。

 確かに現代人は体格も立派になり、肉体年齢は伸び、形体も昔に比べて均整が取れ、若く見えるようになった。大半は精力的である上に、中高年でも性的魅力を備えている。そのうえ世界有数の長寿国である。
 しかし、長寿の目的が明快でない。
 確かに肉体寿命は延びたが、精神寿命は延びただろうか。
 七十、八十のいい年寄りが、幼児的な行為や言動しか出来ないのは一体どうしたことか。

 長生きして、その過ごし方が曖昧である。
 贅沢な美食に現
(うつつ)を抜かすか、豪華な海外旅行をするか、これまで眠っていた色情を目覚めさせて色を漁るか、金品を求めてマネーゲームに奔るくらいしかない。
 リタイヤ後、金・物・色の欲から離れて、精神を向上させようとする人は少ない。老いて学ぶと言う人は殆ど居ない。老いても朽ち果てない老後の生き方を選択する人は少ないようだ。
 現代の世は、晩年を生きる目的、あるいは長生きの意味が曖昧で釈然としないのである。

 現に長生きしたとしても、単に長寿が動物的であったりする。
 動物的に生き存
(ながら)えたとしても、背後には隠れた陰の実体がある。

 自然に、自然とともに、人間として生きているのではなく、動物的に生命維持装置の力を借りて、人為的に生かされているだけである。その証拠に、補助食品や薬品擬いのサプリメントや医療の力を借りて晩年の“わが世の春”を謳歌している高齢者も多い。お手軽な付け焼き刃を求める中・高年層も多い。

 世には見た目の表皮の人為に騙される人が多い。そして、その気になって、服用が連続されるとサプリメント過剰症を患う。やがて中毒症状が出て、サプリメント無しでは遣って行けなくなる。
 だが、これ事態自然とは相反する。自然の摂理に逆行した不自然な老後生活である。

 ところが、美しく枯れる老後の生き方もある。老いて天命を知る生き方もある。
 大自然の大樹よのうに、能
(よ)く生きて、能く枯れ、能く朽ちて斃(たお)れる晩年もある。
 この道の選択者は、栄養源は食物からだけでいいと考えている。
 一部の成分のみを抽出した人造の栄養食品は飲食しない。食品のミネラル分や有効成分は、食物自体に総合的に含まれていることを知っている。それゆえ世間の口コミやテレビのCMの喧伝にほだされないのである。煽られて付和雷同しない。

 皺が出来れば皺が出来たでいい。白髪は白髪のままでいいし、禿げたら禿げたでいい。
 老いて毛が抜け、歯が抜け、眼がしょぼしょぼして霞んで見えなくなれば、それは年齢相応に自然の摂理に従って、歳を取っている健全な証拠である。この健全を、何ゆえ人造・疑似で覆い隠す必要があろう。
 自然に枯れて、さっぱりとした気持ちで朽ち果てて行けばいい。

 そして、死ぬ時期が来たら死ねばいい。
 自然の摂理に従えばいい。これこそが大往生への道となる。
 したがって、能く生きた老人は、年相応に老いながらもどこか若々しい。人為で、作られた若さでない。

 老いても矍鑠
(かくしゃく)とし、またその態度は毅然(きぜん)としている。脅しにも怯(ひる)むことがない。また若者に遠慮しているふうでもない。態度は長老然として堂々としている。老いたことに胸を張って生きている。不安も迷いもない。老翁の姿である。

 こう言う長老然とした老人は、誰にも遠慮せず、怯むこと無く信念は曲げずに正しきを言うべきことはいう。小理屈を捏
(こ)ねられても、その筋違いを指摘する。
 それを態度で示す。口先だけではない。不言実行する。自前主義で他を宛
(あて)にしない。

 こういう人は老齢期に達しても、筋骨は未
(いま)だに衰えず、背筋はしゃんと伸ばして矍鑠とし、毅然とした態度をとる。だが思考は柔軟で、頑固でも頑迷でもでない。小事にこだわらない。
 まさに尊敬される老人像である。
 また、こういう人は年相応に生き生きして、晩年の生き方にも目的意識を持ち、意外にも若く見えるのである。

 薬品擬いのサプリメントなどを借りて、意図的に人為で捏造した若さでない。若さが自然に滲
(にじみ)み出ている。それは背筋力が若い頃から鍛えられているからである。
 ところが即席願望者は、中身を変えずに見た目の表皮を飾ろうとする。真相に気付かない。
 元を変えるべきであろう。

 背筋を鍛えた人は、老いても長時間仕事に耐えうる忍耐がある。
 しゃきっとした姿勢でそれを崩さない。同じ姿勢が持続されるために没頭力もあり、集中力もある。
 だが弱年者のように健康そのものではない。病気を抱えている。しかし健康でないにしても、健康そうに見えることだ。

 背筋を、若い時代から鍛錬した人は、まず姿勢がいい。それだけで健康そうに見える。
 背骨が垂直に伸びて、傍目を気持ちのいい老人像に映す。
 背骨は美しい緩やかなS字カーブを持っている。何よりも実に姿勢がいい。
 顎は突き出た前屈
(まえ‐かご)みではない。猫背でもない。実に姿勢がいい。観ていて矍鑠・毅然と映る。

 水平の腰骨の上に脊柱が垂直に乗り、胸を張っている。若い頃から背筋を鍛えたからである。これは腹筋だけを鍛えても、こうはならない。

 腹筋は老いて鍛え過ぎると、腰痛の病因となる。突然のギックリ腰などを発症する。警戒すべし。
 大事なのは腹筋力ではなく、胸を張り、背筋をしゃんと伸ばす背筋力である。背骨の力である。
 此処を鍛えると、七個の頸椎の異常も修復する。自然治癒力が働いて、歪みや弛みや外れを矯正する。

 また、背筋の伸びた人は、老いて付け焼き刃のような筋トレなどしていない。専ら背筋を鍛える。
 背筋を鍛えると、呼吸法の鍛練になるから声も通る。拡声器なしに喋れて、遠くまで声が届く。
 だが、老いてから肉体酷使の筋トレではこうはならない。

 若い時からの習慣が物を言う。
 決して即席の付け焼き刃ではないのである。
 いい意味での「雀百まで踊り忘れず」である。
 心の鍛練とともに、背筋も、若い頃から鍛えておく必要がある。

 それは、あたかも若い頃から、日本精神を心に注入するのに似ている。
 また身土不二から、郷土に味を記憶していることにも匹敵する。
 日本精神の根本である「ありのまま」を等身大の生き方を準
(なぞら)えて、将来に向けての生涯の姿勢にする信条にも適合する。

 ありのままの自分で周囲を飾らずに思春期や青春期を送り、その価値観を原点に置いて、早い時期から「心の故郷」を刻み付け、これを終生の信条にする。そのバックボーンを持つ。志を持つ。理想に向かって粉骨砕身する。

 心に故郷を持っている人は、老いても故郷の誇りを忘れない。胸を張れる故郷を持っている。これが真の故郷である。

 それは地方出身者が東京や大阪などの大都会に赴任しても、またそこで世帯を構えても、盆暮れには故郷の実家に帰るように、思春期や青春期の価値感が、そこにあるからだ。
 その価値観があればこそ、人間は幾つになっても故郷に帰ろうとする。

 これは心の故郷にも言えよう。
 何度でも立ち返る「心の故郷」があることは、また日本人としての日本精神なのである。これはスポーツ界で言う、滑稽な“サムライジャパン”などの流行と時代に便乗したものでない。
 本来のサムライが持つ精神的支柱である。生涯左右されない不動の故郷である。哀愁の根源である。
 また幾つになっても、帰れる心の故郷である。
 日本精神こそ、日本人の心の故郷なのである。日本列島の様々な四季と、それをバックに映
(は)える日の丸である。

 日本人は、日本人として、日本の故郷に帰る帰趨本能を持ちたいものである。
 人が枯れて行く態
(さま)にも、そういう心の故郷に帰って行く、懐かしい哀愁があろう。
 そういう枯れ方こそ、理想的な老い方ではあるまいか。


●復元作用の有無

 かつて崩壊前夜を髣髴(ほうふつ)とさせた『ノストラダムスの大予言』というのがあった。
 「1999年7の月に恐怖の大王が来るだろう、アンゴルモワの大王を蘇らせ、マルスの前後に首尾よく支配するために」という、将来に恐怖と不安を連想させる四行詩の予言である。
 そしてベースとなったものが、ノストラダムスの「暦書
(れきしょ)」といわれた「占星暦」などとも訳されるアルマナック(Almanach)であった。暦書は毎年出版され、翌年一年を驚異をもって予言した暫定的な刊行物である。

 この予兆詩集はフランスの医師であり占星術師のノストラダムスが、予言の形体をとった四行詩である。
 予兆詩集の庇護者はフランス王アンリ二世をはじめとして、同シャルル九世らであった。
 また『ノストラダムスの大予言』は日本の某作家によって執筆され、内容はアンリ二世に対して述べたもので、「1999年に人類が滅びる」と語ったとする警世的な予言詩などを引き合いに出し、未来の人類滅亡を予言したものである。
 また『ノストラダムスの大予言』と銘打ったこの書物は、1900年代、当時の終末論として話題となり、随分と持て囃された。空前の終末ブームである。

 それに加えて環境問題、自然災害、核兵器、彗星など引き合いに出し、「恐怖の大王」の候補とされている各説がこじつけられた。予言詩の訳者は、地球上で起こっている不幸現象のあらゆるものを、この詩集にこじつけた。
 こじつけ後の予言書籍には陰惨な未来像を畳み掛けるように綴っている。
 人類を待ち受ける悲惨な運命を、その後の訳者も小説仕立てにして、予言ブームに便乗したのである。
 だが、終末予言は的中が外れた。恐怖の大王説は何事も痕跡を見せず、ただ不発に終わった。

 この予言は、過ぎてしまえば単なる“お騒がせ”でお茶を濁し、それで終わったが、当時の世を風靡
(ふうび)し、一時的に大いに世間を賑(にぎ)わしたものである。商業主義から、某作家を抱えていた出版社は大いに儲かったのである。
 だが、一概に茶番で済まされないこともある。
 今日の日本が、予言通りにジリジリと確実に崩壊に向かっていることは確かなように思われるからだ。別角度で検
(み)れば、中らずと雖(いえど)も遠からずである。崩壊に向かうという点では、納得の行く共通項を持つからである。

 それは、じっくりと昨今の世相を見れば一目瞭然となる。
 個人主義は“悪しき個人主義”に変貌し、持てる者と持たざる者の経済格差も無視出来ない現象となった。
 この時代、下克上を企て、その転覆を虎視眈々と窺う集団が擡頭
(たいとう)したからである。

 格差が進めば、あたかも進行癌のように荒れ狂い、蝕み、共食いが起こり、正邪の分別が無くなり、崩壊に向かうだろう。
 こうして実情を観察すれば、今の日本は、経済的繁栄の中にあるのでなく、崩壊の軌道に乗せられた観が否めないのである。やがて、ジリジリと沈下する路を辿り、行き着いた先が断崖に突き当たる場所へと爆走するだろう。経済成長と言う現象が、永遠に連鎖する分けはないからである。

 あたかも“ねずみ講”が、27代目で一億を突破して破綻するように、経済成長も連鎖を止め、やがて破綻し崩壊する。それは資本主義市場経済が終焉
(しゅうえん)するときでもある。

 時代は“スピード時代”である。
 昔に比べて加速度がついている。これを経済学的に要約すれば「加速度原理」ということになろう。但し、設けが加速すると言うことではない。貧富の格差が加速する危機があるのである。

 それは一方で、消費財産業の増加が投資をひき起こすことであり、一見好循環に市場経済が動いているように見える。だがその後、産出高の増加がその一定倍の投資をひき起こす加速度が働き始める。これをクラーク原理
(アメリカの経済学者ジョン・モーリス・クラークの論)ともいう。
 これを発展させて、かのサムエルソン
(ヒックスの乗数・加速度モデルで知られる)大先生が、経済学では有名な「乗数理論」を説いたのである。市場が健全で、自由になれば有効範囲に止まる。そして投資が繰り返されるとする。但し、好循環である場合に限る。
 経済学や経営学を少しでも齧
(かじ)った御仁(ごじん)なら、乗数理論くらいご存知だろう。

 しかし、悪循環ではそうはいかない。
 加速度原理は市場での供給者が仮に少数であっても、その間で、結託ならびにその他のカルテル行為が見られなければ競争は有効である。「乗数理論」である。
 「乗数理論」は、この環境下で市場成果は良好になるという有効競争をいう。その一方で、しかし?……と言いたい。
 もし景気のズレが起こったらどうなるか。
 経済成長が止まるような事態が発生したらどうなるか。
 この考慮が欠落しているともいう。それに有効性は、自転車操業にも酷使する。漕ぎ続けなければならならないのである。連続連鎖が条件である。止まれない。永遠に成長をし続けることを条件とする。

 だが、経済は永遠に成長を続けない。
 必ず何処かで停止する。そういう時期が来る。
 あるいは成長の先に断崖絶壁が在
(あ)るかも知れない。そうなると、良好なる競争は有効から無効に変わる。あり得ることだ。否定は出来まい。
 経済自体も人間がコントロールできない生き物であり、また自然の摂理に従っているからである。極端化すれば反抗の牙を剥くこともある。自然現象に、よく観
(み)られる事象である。天地の異変である。
 順調な経済成長にもそれは起ころう。
 だが、これに気付く人は少ないように思われる。

 現象界の現象は、何も自然現象だけとは限らない。自然の一員である人間そのものの人間現象にも、その兆候が顕われる。その反映がある。転写がある。それが性格や行為に顕われる。
 両者は互いに反射鏡になっている。互いを映し合い、反映し合う。
 自然界からの作用が人間に及ぼし、人間が自然界へと反作用を加える。両者は反応し合うのである。

 人間の加えた反作用が再び反映して、自然界の忿怒
(ふんぬ)が、人間の言動や行為に反動として跳ね返って来る。現実に作用と反作用の相関現象が起こっている。現代人の狂った一面が自然界にも反映される。それが異常現象として起こる。事故や事件が雄弁に物語っている。
 日本の国内一つを挙げても、その異常現象は顕著である。
 殺人がある。傷害がある。事故が起こる。
 人間の仕出かした行為が、社会不安となって現世を不穏に陥れる。こうした兆候が、日本各地の通津浦々で起こっているのである。

 では、その兆候とは何か。
 日本人の美徳に欠如である。
 いまや美徳は、現代のおいて無用の長物に成り下がってしまった。褒めるべき徳は、今の時代にそぐわないとまで言われる。

 昨今の日本国全土での、日常会話の言霊が狂い出したように、現代日本人には、日本人の本来持っている美徳は丸ごと失われてしまった。日本人は歪
(いびつ)に畸形(きけい)しはじめた。
 それは精神的畸形であり、またこの畸形の中には、昨今の日本人の鬱病
(うつびょう)などをはじめとする神経症や統合失調症などの急増や、未成年者の犯罪の多発などである。

 自然の一員である人間は、現代人を通じて、何らかの畸形が生じているのである。自然は人間に反映する現象を起こすのである。
 例えば、自然破壊が起こる。自然はその破壊を起こした人間に対して、反作用と言う反抗の牙を剥くのである。現代には、その顕われが起こっているとも言える。

 昨今の殺人事件には、狂気的なものが多くなった。簡単に人が傷付けられ殺される。人の命が実に軽くなった。生命の尊厳が失われた。人の命が余りにも軽々しい。微生物の一匹、二匹と変わりない。温情も慈悲なども無い。ただ「死ね!」である。
 その場その時の感情が、そのまま犯行に顕われている。
 犯行者の心情として、周囲の人間が煩わしく、またそれらしく畏
(かしこ)まった存在が目障りで、ただ無性に赦(ゆる)せないのだろう。それが原因不明の犯行を作り出しているというふうに思えるのである。

 かつての殺人事件に至る経緯
(いきさつ)には、動機が存在し、背景には憎しみや恨みがあった。あるいは飢餓などの貧困や、止むに止まれぬ蹶起(けっき)などの天誅(てんちゅう)を目的とした、確たる動機があった。犯行者には犯行理由があった。

 だが昨今の事件は傷害も含めて、突発的で不意打ち的で、動機もなく、衝動的で、被害者は何の落度もない上に無差別殺人の兇刃に倒れ、分けも分らぬままに魔の手に殺戮に懸かっている。犯人も、犯行理由がはっきりしない。
 突発的で衝動的であるから、その場その時に、何か気に入らないものがあって突如「キレた」のかも知れない。そういう不安定さが、原因不明、動機不在の犯行に及んだのだろう。

 では、何故キレたのか。
 その犯行に及んだ経緯の中には種々のことが挙げられよう。
 こういう結論を求めると、此処に心理学者が登場して心理分析を始める。また有識者と言われる進歩的文化人までしゃしゃり出て、あれこれと分析批評を加える。難しい心理学用語の羅列を始める。

 そして最後は、現在の教育や学校の在り方、教師や親の在り方などが説教調で論
(あげつら)われて、結局、世の中が悪い政治が悪い、今の政府が悪いとなるのである。お決まりのコースである。進歩的文化人らが企んだシナリオは結局此処に落ち着く。
 これは心理分析と言うより、社会不安に悪乗りし、まんまと便乗すれば、その先は政治や政府批判に通じてしまうという野党的な結末を意図して、地のままに行ったシナリオと言えよう。結局此処に持ち込んでしまうのである。
 昨今の話術の妙と言うべきか……。

 斯
(か)くして殺人者への理解や同情が生まれ、支援団体まで立ち上がり、どんな事態を働いたとしても政治や世の中の悪い事にすり替わってしまい、犯行者は人殺しを働いたとしても、全く後悔したり反省したりしなくなる。況(ま)して、人の命など微塵(みじにん)にも感じていないのである。
 これが殺人助長に繋がっている。現代の世には不可解な人権擁護が吹き荒れ、加害者のテロ行為を守ろうとするのである。

 殺人者は自分が悪いのではなく、自分以外の政治や世の中が悪いから、偶然にこうなってしまったなどと嘯
(うそぶ)くのである。そしてこれに、理解が必要であると進歩的文化人が公共の電波を遣って喧伝する。
 何事も理解・理解……、殺人者への理解となってしまい、理解の安売りが行われる一方、殺された被害者の方へは、殆ど見向きもしないのが実情である。不可解な人権擁護の実体である。

 被害者よりも加害者擁護に回るのが、現代の人権を擁護する世の流れになっているようだ。
 ねじれた人権擁護である。焦点は生者のみに当てられるようだ。
 背景には、死んでしまった者より、“生きているもの重視”の、生に対してのみに焦点が当てられ、死に対しての焦点は皆無と言っていい。死者には同情も哀れみも、また理解すら無いように思われる。これでは、殺された方は、まさに“死に損”である。
 現代は、死を嫌う時代と言えよう。生の哲学を基準にして、死を嫌う時代なのである。



  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法