運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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壺中天・瓢箪仙人 50

貧しさを知るが故に、人は豊かになれる。無一文になり謙虚になって、一度丸裸にされ、墜ちてそこから這(は)い上がることが出来れば、人の心は豊かさを知るようになる。
 もしこれ以外の方法で、豊かさを求めようとすれば、心はいよいよ貧しくなるばかりである。ドン底を知ってこそ、上昇気流の風を掴むことが出来る。


●あと一ヵ月

 翌朝のことである。
 この日の明け方深夜、ちょっとした珍騒動があった。つまり丑三つ時刻
(うしみつどき)のことである。誰かの哭(な)き聲(こえ)を聴いた。女の哭き聲であった。更に、ドッペルゲンガー現象では?……と疑ってみたが、真相は結局掴めなかった。そして陽が昇り朝となった。
 真夜中の哭き聲について暁闇
(ぎょうあん)近くまで家内と話していた。彼女ではないのかと、私と家内は思った。しかしついに眠りこけて、私が眼を醒ましたら午前六時を回っていた。思えばあの哭き聲は何だったのだろうか。結局分らず終いだった。二分されれば人間の性命エネルギーは半分になる。ドッペルゲンガー現象である。
 仮に、ドッペルゲンガー現象だったとして、ではどう言う現象が起こったのか?……となると、それ自体もそう断定する自信がなかった。
 では推測?……となるが、その推測する根拠も、突き詰めて行くと時間とともに釈然としない。果たしてどうだったのか?……、その疑問は徐々に色褪
(いろ‐あ)せていった。曖昧になり漠然として来た。
 現象界では予期しないことが起こる。それは今以て、信頼性の高いアルゴリズムをもってしても全く予期出来ない。番狂わせはここにある。予測した計算通り、データの数値通りに事が運べば問題はない。はっきりと二分した人間が確認出来れば、それは紛
(まぎ)れもなくドッペルゲンガー現象であろう。そうなれば疑う余地がない。

 しかし陽が昇り、こう明るくなると、その疑いすら色褪せて来る。もう何事もなかったような朝を迎え、台所では家内と二人で何か食事の準備をしていたようだった。彼女の笑い聲が時折聴こえて来る。
 この状態で何処かに、もう一人の彼女の分身を見れば、それは間違いなくドッペルゲンガー現象を起こしていることになるが、果たしてどうか。
 これは若
(も)し仮に二分身が起こったとして、彼女に訊いても分るまい。本人ですら自分が二分されたことに自覚がない。
 何処かにもう一人の片割れが居るのではないか。居れば、その現象を確信するのだが、どうもそのようには思えない。そうなると疑問に段々自信がなくなって来る。考えれば考えるほど臆測の域を出ない。釈然としないものが次々に脳裡を過る。あるいは肉の眼の頼りなさであろか。結局、この種の譚は不首尾で終わる場合が多い。

 便所に行く途中、テツの部屋を覗いてみた。野郎が彼女を“抱き枕”にして寝ていれば間違いなくドッペルゲンガー現象である。二分した片割れの片方は、いま家内と台所で朝食を作っているからだ。
 さて、結果は如何に。
 そっと近寄り、思い切って開き戸を開いてみた。果たして彼女は居るか?……。彼女を“抱き枕”にして寝ているのか。いや、居なかった。野郎は蒲団を抱いて“抱き枕”にしていた。
 「テツ!」一喝した。
 野郎は辺りを見回し、寝惚けている風で「おえ、おえ、おえ……」を連発し、家内が起こしに来たのとは違っていていたので、この状況を必死で掴もうとしていた。
 「早く起きんか!」
 「はい!」ゼンマイ仕掛けだった。野郎は私の言葉に機敏に反応する。畏れを知っている。
 「お前、何か隠しているんじゃあるまいな?」
 「隠すって……、いったい何をですか」野郎は自分で《オレはいったい何を隠しているのだろう?》と浮かぬ貌で、些か混乱状態だった。
 「お前、何処かに豚でも飼っているんじゃないのか」
 「豚?……。どこ、どこ、どこ?……」きょろきょろと見回しながら、殆ど何もない部屋の中を見回していた。蒲団まで剥
(は)ぐって豚を探す真似をしていたが、結局、豚など居ない。こんな間抜けな奴が豚一匹、鶏一羽飼える訳がない。豚や鶏に穴を借りるほど、野郎は困っていないのかも知れない。

 近頃は持ちなれぬ金も持っているし、仕事帰りの秋葉原辺りで遊んでいるのかも知れない。帰りが遅いときもあるし、遅い時に限り、疲れるのでなく莫迦
(ばか)に生き生きしている。風俗などに出入りしているかも知れない。
 下瀬上等兵が入院して以来、最近の生活態度が変化しつつあった。あたかも石器時代の原始人が、現代に遣って来て、すっかり文明生活に馴染んだという感じであった。

 「お前、今朝に懸けて、何か見なかったか?」
 「何かって、何をですか」
 「白い物体だ。あるいは首だけかも知れない」
 「それ、何の首ですか」
 「生き物だ」
 「生き物?……」
 「人間の生霊
(いきりょう)かも知れない……、そんなの、見なかったか」
 「首だけの生霊ですか、さあ、見たような見なかったような……。どうでしょうか……、そこまで断定出来ませんねェ」
 「断定できんとはどういうことだ!」
 「なんか、夢の中で見たような、見なかったような、ハッキリ言ってどちらか分りません」
 「ではだ、仮に見たとしよう。どういう首だったか」
 「なんか、白い物体が動いているような、あるいは夢の中だから、朧
(おぼろ)げですが、さあ……それが首だったとして、女だったような、ないような、白いものがふわふわしているような、何かよく分らないものが動いていたような、そうでなかったような……、そんなものが、あったような、なかったような……」
 「はっきりしろ!」
 「それがよく分らないのですよ……」首を捻って考えているようだった。まさか夢の中で蠱
(こ)の蠢(うごめ)くのを見たのであろうか。それが言葉に巧く表現することができないようであった。
 しかし、野郎がこう言うポーズをとるときは決まって時間が懸かる。このまま一時間も半日も、あるいは一日中思案する。置物のように固まってしまう。付き合ってはいられない。
 「出勤時間だろ、急がんか!」
 一喝すると、野郎は慌てて我に返り蒲団を畳み、ワイシャツを着てズボンを履き、ネクタイを結んで背広を着込むところだった。その間僅かに1分以内。そして野郎は朝食も摂らずに飛び出して行くのだった。
 そのとき、家内と二人で彼女は食卓に皿や椀類を並べて配膳をしていた。その様子を野郎はちらっと見て、一瞬驚いたように「あッ!」という聲を上げたのである。
 このとき玄関を飛び出すテツを見て、家内が「テッちゃん、ごはんよ」と言ったが、野郎は「いりません」と言って、そのまま慌てたように走り出して行った。野郎の驚いた、これはいったい何だったんだろうか。
 まさか夢の中で彼女を分身を見たのだろうか。
 このとき直ぐに深く追求しなかったから、何に驚いたか定かでない。

 女二人は早朝深夜のことを何も気に掛ける風でもなく、昨夕の延長のような娘々とした会話の中に居た。再び意気投合した娘を演じていた。実に打ち解けて和
(なご)やかであった。何から何まで延長だった。いつものことながら、わが家には何ら変哲も生じていない。
 卓袱台
(ちゃぶだい)代わりに坐式の長机を二台平行に付けて並べ、その上に配膳をしていた。
 食事の際、普段は家内と差し迎えになり一日の予定をそれぞれに報告し、一汁一菜
(いちじゅう‐いっさい)の蔬菜(そさい)で済ませて終わるのだが今朝は少しばかり違っていた。手が込んでいた。女二人が腕に縒(よ)りをかけた、朝からご馳走である。まるで観光旅館などで出される朝食然としていた。

 さて、全員揃って「いただきます」が始まった。
 「頂きます」は人間が生きて行くために食べる、命の犠牲者に対して命を頂くから、「頂きます」という。人間に対しての犠牲者への礼であり、命を捧げてくれたものへの感謝である。
 米にしろ、野菜にしろ、あるいは魚介類にしろ、また動タンパク信奉者ならこれに動物の命が加わろが、こう言う生き物には例外無く「命」がある。その命を、生き物の彼らは人間に命を捧げたのである。動物は屠殺されて命を捧げた。当然「いただきます」と言って、感謝の言葉を述べるべきであろう。

 ところが近年は「いただきます」すら言わずに、いきなりパク付く礼儀知らずがいる。こう言う類
(たぐい)は老若男女の垣根を越えて殖えている。それだけ、食べ物に対する感謝がなくなり、食べ物があることが当り前のような世の中になってしまった。これこそ現代の「飽食の時代」の特長と言わねばならない。
 現代人は「ひもじい思い」を知らないからこそ、こうした無礼に及ぶのだろう。
 食糧がやがて尽きることを想像出来ないのである。いつも在
(あ)って当り前となっている。それだけ空腹に耐える体質を持たない。金さえ出せば、いつでも何処でも欲しい物は手に入ると思っている。
 しかし百年前から降ろされている託宣や預言では「食べ物がなくなるぞ、そう言う世の中が来るぞ」と、今日の飽食に警鐘を鳴らしている。これは贅沢に慣らされて、口が奢
(おご)ってしまった現代人への警告でもある。しかし、大半は聴く耳を持たないようである。

 人間の口……。
 つまり舌は人間の肉体の中でも、最も強欲な部位である。舌が肥えると質
(たち)が悪くなる。もっともっと美味いものが欲しくなる。あたかも麻薬患者が麻薬を欲しがるように。
 今日の美食主義も、これと似た状態になっている。
 舌を一言で云えば、舌ほど恥知らずなところはない。人間と名の付く生き物で、その人が自分の舌を完全に制御出来たら、既に聖人の域に居るだろう。少なくとも、非凡な意志力を持った人となる。
 多くの現代人は舌を制御出来なくて、不摂生から起こる生活習慣病に苦しんでいる。これは舌の制御不能が招いた現代病である。
 人間の口、つまり舌を制御することこそ、実は本当の長寿に繋がり、聖人へ近付く秘訣が「舌の制御」にあるのである。食道楽では生涯、舌に振り回されて生きることになろう。舌によって行動が踊らされてしまうのである。
 顕著な例は、食事処などで“行列のできる店”の、あの行列である。美味いものと聞けば何処にでも出掛けて行く。いまや日本国内だけでなく、美食を食べに海外まで出掛けて行く。
 現代は、「美味しい物をどれだけたくさん食べたか」を問題にし、この時代では「食べないことの贅沢」に全く気付かなくなった。食べ過ぎによる食傷を起こした時代でもある。
 季節ごとの旬の蔬菜
(そさい)の味が全く分らなくなった時代でもある。また空腹トレーニングを怠ってしまった時代でもある。
 粗食少食は、その制御を教える個人の教訓から生まれた「腹八分の食思想」である。古人の食に対する制御の智慧である。私はこの八分を、更に縮めて「腹六分の食思想」を推奨している。

 次に姿勢である。
 わが家では食事のときは必ず正坐をする。
 食事中の姿勢は正坐と決まっていた。私自身物心ついた頃から、食事は正坐ということに決まっていたのである。だから今でも椅子の生活は馴染まない。むしろ正坐の方が落ち着く。動きに機敏である。
 だが今日では、正坐で食事をする家庭など殆どない。また卓袱台を囲んでという一家団欒擬きの家はあろうが、そのとき、オヤジや男どもは足を崩して胡座をかくのが普通である。しかし私の家では、父親も正坐していたし、子供の頃、平戸で育ったが、祖母の家では祖父すらきちんと正坐して食事を頂いていた。今でも私は食事のときには正坐をする。食事時間に胡座をかいたことは一度もない。
 滋賀県大津に住んでいた頃、知人で、瀬田東小学校の校長の橋本太郎氏が、よくわが家を訪れていたが、その人が「この家には武士の生活がそのまま再現されている」と驚嘆したくらいである。武士は何も武張って荒々しく、猛々しいばかりが武門の生活ではない。

 真髄は正坐の中に「丹田養成法」があったのではないかと思う。つまり「肚
(はら)」を、正坐を通じて作っていたと思うのである。猛々しい人もで、正坐となると、からっきしだらしがない。これまで柔道や空手などの格闘技系武道を遣った人で正坐が強いという人には、今まで一人もお目に掛かったことがない。多くは長時間の正坐が出来ない。頑張れば一時間程度はできようが、これが二時間、三時間となれば殆ど弱音を吐く。静の姿勢に馴染んでないのである。世は派手なアクション時代である。静止する正坐が出来ず、動いている時だけを見せ場にしている。
 これは実生活が、それぞれに色分けされ、細分化され、専門別に仕分けされてしまったからであろう。大半のこういう関係の人は、正坐でなく椅子の生活をしている。
 私は「顛沛
(てんぱい)」から考えて、椅子の生活はあまり好まない。
 それに腰掛ければ、躰全体の自由が束縛され、“いざ”動くとき、着席した位置が固定されてしまうために下半身は自由にならない。上半身だけでの稼動範囲となる。これでは躄
(いざり)である。
 乗馬のように、この恰好そのものは馬に乗っているから下半身は躄であるが、足で馬の腹を蹴って操作するから、上半身だけの躄にはならない。ところが椅子の着座は、下半身が稼動しないから完全に躄である。

 現代人の多くは椅子とテーブルの生活をしているが、椅子に坐った時点で、自分の行動が制限されて躄になってしまったことに気付かない。下半身は着座することで固定されたのだから、上半身のみしか使えない。いわば上半身のみの横の旋回であり、下半身を遣う上下の縦稼動は出来ないことになる。
 本来ならば、人間の立居振る舞いには上下前後左右の自在性があり、三次元稼動が可能な筈である。だが椅子に坐ると、それだけで下半身は固定されてしまう。全身運動中、遣えるのは上半身のみで、下半身は眠らされることになる。ディスクワークなどでは上半身だけでいいだろうが、大工や左官や鳶職などの動き廻る仕事では下半身が眠らされれば、仕事にならないであろう。

 したがって顛沛を考えた場合、“いざ”動くとき、下半身の腰力と脚力を鍛練しておけば、直ぐさま行動を起こして、危険から身を躱
(かわ)すことが出来よう。安易に下半身を遊ばせて眠らせてしまえば、顛沛時の行動は些(いささ)か不自由を享(う)ける。椅子の生活でも顛沛行動はとれるであろうが、椅子に預けて遊ばせ過ぎた下半身は、“いざ”というとき直ぐには眼を醒まさないものである。
 果たして「坐」からの動作と、椅子坐りの動作からの起姿は、どちらが俊敏だろうか。居合の立居振る舞いを考えてもらえば分ることである。椅子坐りからする抜刀する術はない。常に「坐」からの抜刀である。

 では、なぜ坐か?……となる。
 坐する生活様式は日本の気候風土に適
(かな)っているからである。また本来ならば、和服も日本の気候に併せたものであり、古人の智慧が集積されている。つまり日本の気候は、熱帯的気候と寒帯的気候がセットになっていることだ。そのため四季が顕われる。これはおそらく日本特有のものであろう。四季の移り変わりが明確であり、その変化が島国特有の様々な景観や気候の変化をみせる風土を作った。
 ゆえに日本は古来より、風土観が育まれ、またその風土観は、日本人の生活様式や思考様式を探求するにおいても大自然と結びついた。古神道をはじめとする神社信仰から自然崇拝の心が起こり、またこれがアニミズム的な自然観を齎した。大自然の至る所には神が宿っていると言う精霊観である。神慮を観じる。
 更には仏教伝来以降、仏教に見られる無常観が風土観にも見られるようになった。諸行無常の大自然の摂理とは「はかないもの」という認識が生まれたのである。
 そして「はかないもの」は、立居振る舞いの視線から見て、果たして立っている時か、あるいは坐っている時かの、風景を見る「視線観」にも繋がることになる。

 私は視線観を「坐」の位置に定めたい。
 何故なら、例えば瞑想する時に、その姿勢は立って行うものであろうか、あるいは坐して行うものであろうかの眼の視線である。瞑想は半眼である。また瞑想において、禅などは庭という小宇宙を観じるとき、これは坐の姿勢に置いて行われる。椅子の姿勢と異なり、坐すれば、腰骨の上に脊柱を垂直に立てることが出来る。
 此処に正坐の特長がある。正坐は静座ともいう。静かに坐ることをいう。
 また食べ物を食べるときも、西洋の成金階級
(上流階級とは異なる。富豪であっても「サー(Sir)」の称号を許されていない商人階級)に見られるように、朝食はベットの中で……などの、そうした食事の作法はない。
 日本では古来から寝そべって物を食べることは赦
(ゆる)されなかった。食事の時は必ず起きって食べる。腰骨の上に脊柱を垂直に立てる姿勢で食事をする。昔は床に臥(ふ)せた病人でも、食事のときだけは床の中で、正坐をさせて食事を摂らせたという。病人ですら寝たままで食事は摂らなかった。
 これは武家の良妻賢母の女房の功績が大きかったといえよう。明治維新を決行した武士階級の多くは、貧しい下級武士の子弟であったが、あの時代に文武の勇を見せたのは、背景に、母親に躾けられた武門の誇りがあったからだ。

 これは西洋人の目から見ても、尊敬に値することだった。
 現に、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは言う。
 ザビエル神父は、当時の日本人の「清貧」さについて、驚きと感動の念を表している。
 「日本人にはキリスト教国民のもっていない特質がある。それは武士が如何に貧しくとも、その貧しい武士が、豪商と同等に人々から尊敬されていることだ。貧しさを少しも恥だと思っている武士はいなかった」と。
 この神父は武士の清貧を高く評価している。
 背景には毅然
(きぜん)さを失わない凛(りん)としたところを感じたのであろう。
 だが、これには見落としてはならないことがある。武士の清貧には、背景に母親の厳格な子供に対する躾があったからだ。母親の良妻賢母の働きが大であった。ここに母親の偉大さ、また女の偉大さがある。この偉大さは女ならではであり、男には絶対に真似の出来ない偉大さである。

 ところが、明治維新を経由して、先の大戦で日本が大敗北し、戦後に訪れた母親観は、父親の家長に取って代わる不躾な「わが子を甘えの構造」の中に封じ込めることであった。過保護に子供を干渉することだけに費やされた。此処に日本の母親として良妻賢母の役割は終焉
(しゅうえん)する。
 母親も父親以上に、この能力と引き換えに経済優先を選択してしまったからである。
 だが母親が家庭から、母親の家事が解放されると、あとは自由奔放に好きな仕事を通じて、不倫でも何でも遣るようになる。上の口と同じく、下の口も物や色に溺れることになる。今日の不倫奨励はこうした側面にもあるようだ。そして老いても、恋愛遊戯が当り前の人間行為になってしまった。これは一夫多妻制や一婦多夫制より、更に悪い自由奔放恋愛である。性病の蔓延も、こうしたところが温床なっている。
 そして現代女性の女根・女陰は、此処に入る男根を選
(よ)り好みし、入って来た男根を放すまいとして、時として、すったもんだの不倫現象を起こし、結局はまた、その男根は別の女根に滑り込むという悪循環の連鎖を繰り返している。母親の家事行為の狂いが齎した元凶であった。

 さて、わが家では椅子とテーブルの生活ではなく、正坐の姿勢を常とした。正坐での自由な臨機応変性が可能な、顛沛姿勢を基本とした。これは今でも、わが家では続けている。子供達は、生まれて物心付いたときから正坐であり、食事の際に胡座をかくなどはない。胡座の姿勢は腰骨の位置より膝頭の位置が高くなるので、腰痛の病因となる。もし胡座状態で、顛沛姿勢をとるとするなら、尻の下に枕が必要となる。これは坐禅を見ても分ることだろう。だがこうなると、坐していても腰掛けているから、椅子と変わらなくなる。

 この日も、三人は正坐の姿勢で朝食を摂っていた。食事中は無言でするというのはわが家のルールにない。喋ってもいい。その時の話題は、昨日のことや、今日一日のこれからのプランなどを話すのが定番である。
 人間は昨日より今日が飛躍し、進歩していなければならない。常に変化の中に進歩を目論んでいる。昨日以上に今日はよくなりたいと誰もが願う。そこで長幼の順に話すのが、わが家の食事スタイルである。
 私は、子供にも今日一日の進歩が含有する希望を論じさせる。相手が子供であっても、その論を尊重する。実行出来るか否かは別として語らせている。人間の口から出た以上、それには何かの意味がある。子供も尊敬に値する種子を持っているからだ。

 この日も食事中に「今日一日の希望」を順に喋らせた。
 私は「今日はまず、午前か午後に掛けて新宿の紀伊国屋に行って、次に神田神保町の古書街を廻り、帰りに銀座にでも寄り、そこで一杯引っ掛け帰宅する」という、今日一日の行動予定を話した。これは単なる行動予定に映る。その中に希望など含まれていないように思えるが、それがどうして、どうして。
 本は私にとって希望の集積であった。本屋こそ宝野山である。ここまで深読みしてもらえばいいのだが、最後の「一杯引っ掛け帰宅する」は毎回色好い返事がない。そして必ず帰宅日時を確認される。
 「一杯引っ掛け帰宅するのはよしとして、ご帰宅は午前様でしょうか、それともお昼を廻ってのお晩様でしょうか」と必ず皮肉が跳ね返って来る。
 こう問われると思わず「うム?……」となって、敵も然
(さ)るもの引っ掻くもので、「極楽トンボの習性を考えてくれ」と居直る。
 「つまり、帰宅時間が不明でなくて、帰宅日が不明なんですね」と、皮肉とも冗談ともとれぬ言葉で遣り返えしてくる。
 これがおかしかったのか、真弓が口に手を当ててくすくす笑った。私は嗤
(わら)われたのだろうか。

 次に家内の話は、「荷造りと塾の円満なる終熄方法」の検討だった。もう頭の中は豊橋に飛んでいた。既に心は豊橋にありだった。
 ただ、残された塾生の多くは上位から数人か数十人かは知らないが、それは明林塾で面倒を見てもらうことにして、問題なのは極めて出来のいい上原小夜子
(高三)と勅使河原恭子(高二)の越後獅子の1号、2号の両名のことが気掛かりであるらしく、また最下位に位置する出来の悪い悪ガキの不良どもを、どうするかに頭を悩ませているところだった。円満なる終熄策を考えているのであろう。

 さて真弓の段になった。
 彼女はどういう希望の述べるのか。
 「あたくし、どう答えましょう……」となり、そこで止まってしまったのである。
 私と家内は彼女は何を話すか、その先を俟った。しかし、その先をなかなか言おうとしない。この言い淀みは何だろう。あるいは何かの悩みを抱えているのだろうか。
 「今日はどうするの?」家内が訊いた。促したような訊き方だった。
 「……うんと……」と言い出して、遂に「今日は先生とお供します」で、悩んだ末に出た答えが、これであった。
 それはそれでいいのだが、自分の子供はどうするのだろうか。今朝、誰が面倒を見ているのだろうか。その子はどうしたであろうか。あるいはその世話は、叔母の大女将が遣っているであろうが、毎日貌を合わせて生活している母子は、日々子供の貌を見ずに違和感は感じないのだろうか。
 私たち夫婦のように、子供を施設に預けている場合は、日々、子供の貌を見れないことが決して不安とは思わない。だが毎日貌を合わせている母子が、日々同じようでないと不自然に思う筈だ。それを懸念する気持ちが、殆ど感じられないのである。一体これはどうしたことだろう。むしろ自分に子供が居るなど、思っていないようだった。この辺が、何か分裂を思わせるのである。果たして、今ここに居る真弓は、私が昨日見た真弓と同一人物なのであろうか。

 さて、これまで大女将の姪が真弓だと語って来た。
 つまり、女親同士の姉妹ならば、真弓から見て母親の姉妹の姉に当たる、この姉は叔母ではなく、正しくは「伯母」でなければならない。
 読者諸氏も筆者が伯母と叔母の字を間違えているのではないだろうかと、その学と認識のなさを指摘されるであろう。だが、それがそうではないのである。
 後で分かったことだが、真弓は男の兄弟同士の繋がりの親族関係を顕す血縁が戸籍上、大女将は「叔母」になっているのである。実に不可解である。この意味の不可解を思った。
 何故だろう?……と思った。しかしこのとき、まだ血の中に何があるのか、全く知らなかった。
 血に纏
(まつわ)る因縁である。この恐ろしさに気付いたのは、もっと後になってからであった。今はそれを伏せたい。後で語ろう。

 三人揃っての食事が終わった。
 食事終了後の礼は「ごちそうまさでした」である。命を頂いたことへの感謝である。
 家内は、どんなに粗末な粗食であっても絶対に不平や苦情の類を零
(こぼ)したことがない。
 私は、「なんだ、今日はたったこれだけか」と食事の粗末さに文句を言ったことがあるが、家内は、例えば僅かな米粒に白湯を掛けたようなお茶漬け飯であっても、必ず「ごちそうさまでした」と言って、その後に必ず「ああ、美味しかった」の一言を付け加えるのである。その時の笑顔が何ともよかったことを憶えている。それを見る度に「いい笑顔だ」と思ったことがある。
 予備校の経営が傾き、それから倒産までの期間が約1年以上続いた。日増しに食事の程度が悪くなり、栄養状態も悪くなった。ろくに食べられない日もあり、一日一食というのも珍しくなかった。そう言う日は、一合ばかりの炊飯器の底に貼り付くような飯を焚き、それに白湯だけの食事である。家内は僅かばかりの米粒ばかりの飯に、白湯を掛けて少しばかり米をふやかせて食べていた。白湯を掛けても直ぐに食べず、時間を掛けて膨らませるのである。
 「何でそんなことをする?」と訊くと、「3分間お湯を掛けて待つと言うのがあるでしょ、あれですよ」と言うのである。
 私も“カップ麺じゃあるまいし”と思いながら真似をして、白湯を掛けて暫
(しばら)く俟った。すると心なしか、米がふやけて殖えたように見えるのである。こういう食事が長らく続いたことがあった。
 その一方で債権者の取立に悩まされていた。有無も言わさず、昼に限らず、夜中でも遣って来る。
 現在は債務者の権利は利息制限法や取立時間の制限はかなり厳しいが、この当時は、ほぼ野放しで、私の場合は闇金に近い高利貸しから借りていたし、こうした高利貸しは債務者から債権の取立が不可能と見ると、この債権を、次ぎなる更に程度の落ちる悪質な闇金業者に売ってしまうのである。こういう連中が、ハイエナのように夜中襲って来るのである。警察などクソ喰らえの連中である。
 そして決まり脅し文句は「お前の嫁はん、風呂に沈めたろか!」であった。関西弁のドスの利いた脅しだから身も心も震え上がってしまう。戦慄を覚える日々であった。
 そう言うときの食事は決まって、僅かな米粒に白湯を掛けただけのものだった。
 それでも家内は食べたあと、「ごちそうさまでした」と言って、「ああ、美味しかった」の一言を付けるのである。更に食べたことに感謝して、笑顔を添えることも忘れなかった。この笑顔に、何度も救われて辛い時期を耐えたことを憶えている。もしかすると、神は、家内のそう言う笑顔を検
(み)ていたのだろ。
 そして家内は私以上に、生きとし生けるものの「命の何たるか」を知っていたのかもしれない。

 これは本当にひもじい思いをした人間でないと分らないことである。
 以後も、この姿勢は崩さなかった。豊橋に引っ越し、大津に引っ越したのちも変わらなかった。大津では下の子供たち二人を養護施設から引き取ったが、子供にもこうした食事の際の躾をしていたようである。
 習志野に来て塾商売が少しばかり巧くいって、金回りがよくなっても、贅沢な食べ物は殆ど食べなかった。
 私のような貧士でありながら、貧士の客好きに付き合って、酒の肴を探して駆けずり回っていたときは、多少のお相伴には預かったであろうが、普段は贅沢な食事を一切したことがなく、また郊外のレストランなどに連れて行って欲しいなどと、一度も強請
(ねだ)られたことがなかった。
 身の回り品は極めて粗末だった。衣服を含めて上から下まで数千円前後で賄っていたようだ。衣服も洗濯したものを取っ替え引っ替えだったし、化粧品すら持っていなかった。貌は素顔のままでスッピンだった。ただ嵐の通り過ぎるのを、じっと我慢して耐えているようだった。
 ある物で我慢する。粗衣、粗食、少食であっても、素直に喜ぶのである。
 何しろ私には億単位の借金があった。その返済で、家内が一生懸命であるようだった。その一方で、私は少しばかりの家内の稼ぎを持ち出しては、極楽トンボを遣っていた。
 この朝も普段の延長で、また昨日の延長であった。この日は、食卓に少しばかり贅沢な物が並んだ。しかし普段のスタイルは崩さない。食事の後の合掌とともに添える笑顔は失わなかった。命に感謝を捧げる態度であった。
 この日も、食べ終えたあと合掌して、「ごちそうさまでした」と言い、「ああ、美味しかった」の一言を付け加え、笑顔を作ったのである。
 そのとき真弓が、「まあ、綺麗な笑顔……」と形容したくらい、家内の笑顔は美しく見えた。彼女もその笑顔を感嘆したのだろう。


 ─────習志野に滞在できる時間は限られていた。
 朝起きると、いつも「限りある時間」のことを考える今日この頃であった。
 時は、時々刻々と流れて行った。習志野所払いが、いよいよ秒読み段階に入ったのである。此処に居
(お)れる期間も、一ヵ月と僅かになった。この期間に遣れることだけは遣らねばならない。豊橋に行くと滅多に東京方面には出て来れない。

 真弓が泊まった翌日の食事終了後、新宿に行ってみようと思っていた。新宿紀伊国屋に行って、まず自分の本とビデオの売れ行きを確かめるためである。どうなっているか確認する必要があった。
 一時は店頭で、立て積みにして売られていた。このとき偶然にも、私の本を一冊とって、買ってくれた人を見たことがある。珍しい目撃だった。その人の背中を拝んだくらいである。
 また、そのとき店員の女性に「私の本とビデオは売れ行きはどうか」と訊いたことがある。すると「先生の本とビデオはまあまあです」だった。果たして今はどうなっているやら……。
 売れ行き次第で出版社から貰える印税の額に影響がでる。それに、次の原稿依頼もあり、二社の出版社から依頼を恃
(たの)まれていた。此処行くのは、それを書くための参考文献になる書籍を探すためであった。マイナーな雑誌からは、誹謗中傷記事で名指しで叩かれていたが、それでも原稿依頼はあった。
 おそらく次回の発刊の校正と校閲は習志野滞在中ではあるまい。新天地の豊橋に引っ越して以降のことになろう。そう思うと、残された一ヵ月は実に貴重なものであった。

 真弓とともに、公共の交通機関を遣って東京まで出る予定であった。
 この日のルート、大久保商店街を通り、大久保からバスに乗り津田沼まで行く。だが、問題はここにある。昨日は漬物屋のオヤジに冷やかされた。
 今日は京成大久保駅とは反対のコースであるから、その懸念はないが途中に強敵が居る。鳥屋の婆さんがこれを見ているに違いない。おまけに私の恰好より、彼女の鮮麗な藍青色
(ウルトラ・マリン)が人目を惹く。裾には艶やかな金銀の鳳凰が描かれている。訪問着とは言え、着物のファッションショーから抜け出したモデルのような恰好をしていた。さて、これをどうしたものか。
 あの鳥屋の婆さんの目を躱
(かわ)すことは至難の業である。
 私の、「着物に野袴」の壮士然程度ではない。彼女の着物は実に目立つ。こんなのが商店街を歩く。急なことで普通の衣服を取り揃いえる時間もない。このままではあらぬ誤解を受ける。これまでの悪評の上塗りになる。そこで一計を案じた。

 「先に行って、バス停で俟
(ま)っててくれませんか。この商店街を日大ならびに東邦大方向に真っ直ぐ行って、右に折れたところにバス停があります」
 「一緒に行きませんの?」
 「急用を思い出しました、直ぐに後から追い掛けます。もし、それ以上に遅くなる場合は私に構わず、あなただけ先に行って下さい。総武線に乗って錦糸町まで行けば、そこから先は東京圏内です。山手線か中央線乗って新宿まで行けばいいのです。そして東口で出ます。紀伊国屋は直ぐに分ります」
 「万一の場合の集合時間は決めませんの?」
 「遅くなるかも知れないので、余裕を持たせて、午後1時ではどうでしょう?」
 これに彼女も同意した。ただし擦れ違いが起こった場合である。
 このとき、急用を思い出した振りをして、私だけ引き返し、彼女を先に行かせた。ついでに、彼女はこのまま新宿にも行かず、自分独りで高輪に帰ってくれればいいと思ったのだが、こうまでに道行きを伴にする羽目になれば、それは期待薄で諦めざるを得なかった。そもそも猟られた人間であるからだ。
 指示した通り、ウルトラ・マリンは独りで、すたすたとバス停の方向に向かっていた。これで少しばかりの時間差が出来る。あらぬ誤解の胤
(たね)が消える。とにかく鳥屋の婆さんを躱(かわ)すのが先決だった。
 一先ず、何かを忘れた振りをして家へ戻ったのである。簡単に信じてくれたのであろうか。あるいは疑い深く、逆転の“どんでん返し”の隙を窺っているのだろうか。

 戻ると「何か忘れ物ですか」と家内が訊く。
 「いや、少しばかり時間潰しだ」
 上がり框
(かまち)の玄関先でごろりと寝転がった。内心《なぜか疲れる……、精気が吸い取られているように感じる。何故だか分らないが、エネルギーが二分されているようだ》と思った。若しや私自身がドッペルゲンガー現象を起こしているのではないか?……と思いたくなる。
 「彼女と一緒に行かなかったのですか」
 「先に行ってもらっている、分るだろ。あのド派手な恰好では目立つ。実に拙
(まず)い。昼間はそれが“もろ”になる。それにだ、横に並んでみろ。俺の品格と人格が疑われる。真っ昼間から……と揶揄される。昨日は夕刻だったのでそこまで目立たなかったが、白昼は“もろ”だ。真っ昼間から銀座のホステルと同伴しているのかと罵倒されるし、莫迦にもされる」
 「だいたい極楽トンボに品格や人格があるのですか。もうそれだけで充分に極楽トンボですよ」と皮肉めいたことを言う。こう言うときの揚げ足を取るのは、実に巧い。逆に言えば、口では悪態を突きながらも心では信用しているのかも知れない。
 少しばかり、家内とすったもんだをしながら時間潰ししていると、明林塾から事務員の女性が遣って来て、「先生を訪ねてお客さんがきています」と言うのである。
 私のところには電話がない。電話取り次ぎ一切は奴の塾であった。
 「事務員さん、お宅の先生は此処には居ないよ。今頃パチンコ台にしがみついて白熱している。ドル箱を前に血迷っているから直ぐに分るよ、そこを探したらどうです?」
 「いえ、違いますよ。曽川先生にお客さんです」
 「その人、俺を訪ねて来た借金取りじゃないのかなあ」
 「確か京都かと言ってましたが……」
 「京都から……。その人、ほんとうに京都からと言った?」一瞬頸
(くび)を傾げた。
 「ええ」
 「京都に俺の知り合いなんかいない筈だが……。関西圏は大阪と神戸だけだからなあ。いったい誰だろう。仕方ない、行ってみるか……」
 こうして客に会うことにした。
 奴の塾はバス停の近くだし、もし彼女がバスに乗らず俟っていたら、それはそれで仕方ない。また、居なかったら一人で乗って津田沼に行ったということになり、それはそれでいい。どっちに転んでも、体制に影響はない。津田沼で出遭えなかったら、紀伊国屋で午後一時である。そうなればそうなったで、それも仕方ない。問題なのは、ベッタリの同伴行動が気になる。出来れば、ある程度の距離を置きたかった。

 『論語』でも言うではないか、「女子と小人
(しょうじん)とは養い難し云々……」と。
 女子
【註】愛人や妾を指す。女性一般ではない)と小人は、近付ければ馴れ馴れしくなって無遠慮になり、遠ざければ遠ざけたで怨みを抱く。実に扱いにくい。これには距離を置く必要がある。付かず離れずである。最も悪いのは同伴型密着である。何事もベッタリと言うのは、蜜月の落し穴である。これに気付かず、落ちる人間も多い。
 それは織田信長と明智光秀の蜜月からも分ろう。
 信長は光秀を高く買った。最初、上げ膳、据え膳で、下にも置かない扱いだった。蜜月のときである。このときは信長は光秀はベッタリ同伴型と言っていい。
 だが既にこのとき、光秀には数奇な運命がセットされた。蜜月イコール数奇な運命である。そしてその通りの事件が「本能寺の変」となって顕われる。この事件は、出遭いの当初の蜜月に、光秀の運命をダイナミックにうねらせる起点があったのである。
 そもそも光秀は、十五代将軍・足利義昭と信長の両属の家臣である。最初、何から何までベッタリで、その行動律の中には食事や就寝までもを共にする有様で、日々は蜜月であった。
 ところが近江坂本城主となり、惟任日向守
(これとう‐ひゅうがのかみ)と称した頃からおかしくなる。更に丹波亀山城主となる。これも信長は気に入らなかった。信長は光秀の出来過ぎる頭脳に嫉妬した。以降、信長は光秀の顔を見る度に罵倒し、足蹴にして乱暴し、光秀は信長の戦国舞台の上で「恥じかき漢」を演じさせられるのである。
 次に毛利攻めの支援を命ぜられた。しかしこの命には従わなかった。積年の怨みが、「敵は本能寺にあり」の謀叛を企てさせたのである。
 この元凶は、ベッタリ同伴型の蜜月であった。

 私は、運命に魅入られるタイプである。引き摺られる。
 人は女に限らず男でも、付き合うにはある程度の距離を置きたい。ベッタリが一番危ない。最後は飽きられるからだ。それには、ある程度の距離が必要である。互いが擦れ違いを演じているときは、例えば恋愛でも長続きする。それはある程度の距離があるからだ。
 私は真弓を「擦れ違い女」と検
(み)た。擦れ違いを演じている限り、この女は付かず離れずの状態が維持出来る。しかし距離を置かずにベッタリを遣ると、こういう女は直ぐに飽きるし、第一、近付ければ馴れ馴れしくなる。此処が一番恐ろしいのである。

 彼女の名前を呼び捨てにしたり、年の功を笠に着て、見下したことを喋れば余計に接近して来て、馴れ馴れしくなる。それを懸念した。親しき中にも礼義ありが崩れる。他人行儀もときには必要なのだ。
 多くの男女の恋愛が時間とともに色褪せるのは、馴れ馴れしくなり過ぎるからだ。馴れ過ぎて裏も表もみな明かしてしまう。初期段階で最終的な「切り札」を早々と見せてしまうからだ。これでは最後に“どんでん返し”を企てる秘密兵器が何の役にも立たなくなる。
 「切り札」は早々と手の裡
(うち)を明かしては、「切り札」とはならない。取って置きは隠しておくことだ。
 私は真弓に「擦れ違い劇」を演出した。これにより「付かず離れず」の構図を作る。しかしこの構図は、彼女を招き寄せるためのものでない。ベッタリと付き纏われないためである。離れれば追って来て、近付ければ逃げて行く。金と同じである。金は追えば逃げるし、離れれば近寄って来る。欲しい欲しいでは、金も女も逃げるのである。

 かの有名なフランスの作家プルーストが言う「安定は情熱を殺し、不安は情熱を掻き立てる」というこの心情こそが、「付かず離れず」の正体である。安心し、安定した状態になったら、間違いなく倦怠感が起こる。倦怠期を迎えた夫婦にもよくあることだ。
 では何故、安心し、安定した状態になったら倦怠感が起こるのか。
 二人の情熱は、安心と安定で崩壊するからである。そして二人の情熱は、もはや苦悩や嫉妬、不安や動揺と云った、情熱の焔
(ほのお)に油を注ぐ必要はなくなるからである。情熱をなくした愛情は、もはや愛情ではない。安定し、安心し切った恋仲は、もう誰も邪魔する者が居なくなる。それは安定してしまった恋人同士に、不安や動揺を与えない。出遭い時の新鮮な刺戟が消えるからである。
 アメリカでは現在、急速に離婚率が高くなっているという。日本もその後を追いかけている。そうした現象は求愛と発散によって拡散されたエネルギーが、本来の中心軸からズレてしまったことで起こる。中心にあるべきものが、中心にないということである。
 あるべき筈ものが、いつしか見えなくなって見失い、中心から遠のいた拡散・膨張に、その原因があるのではないかと思うのである。最初の出逢いの中心軸が拡散によって膨張し、これが急速に新鮮さを失う原因だといえよう。

 現代人は拡散と膨張の中に、総
(すべ)てが仕組まれた縮図として組み込まれてしまっているようだ。何もかも膨張し、中心から拡散しているのだ。そして一番重要な中心点を見失う。
 何もかも膨らみ、そして互いが中心軸から離れようとする。ここにズレが起こる。
 しかし日本式恋愛術は、「忍ぶ恋」である。そこには男女の馴れ合いがない。その典型は『曽根崎心中
(そねざき‐しんじゅう)』であろう。
 これには『葉隠』の口述者・山本常朝
(つねとも)も絶賛している。これを「丈(たけ)の高い恋」と力説している。物語の発端(ほったん)は、それまで平凡な生活をしていた醤油屋平野屋の手代(てだい)徳兵衛と、北の新地の天満屋の遊女お初の二人が、仮初(かりそめ)の恋に落ちたことが原因だった。そして、その焔(ほのお)は炎上へと向かう。
 二人は恋の焔を灯
(とも)すことによって、焔は巨大な火柱になって燃え上がり、一挙に悲劇のヒーローとヒロインに躍(おど)り出る。そこには恋の新鮮さがあり、鮮明さがあって、恋に生き続けた男女の結びつきが、その中心に向かってエネルギーが収縮され、やがて永遠の生命が齎され、それが力強く躍動していったのである。
 忍ぶ恋の特徴は、悲劇のヒーローとヒロインに躍り上がっていく過程のストーリーが、「切ない」ゆえに人の心を打ち、惹
(ひ)き付けるのである。日本人の悲恋物語に対する「哀愁」や「切なさ」は、ここに回帰される。これは二人の中心点が一致していたからである。
 恋は打ち明け、「愛してます」と告白し、求愛をしたとき、その新鮮さは急速に失なわれ、況
(ま)して、これに性交という遊戯が絡めば、致命的な欠陥を抱えることになる。そして恋の命は、やがて死んでしまうのである。
 恋は、しっとりとした若葉のような潤
(うるお)いを持っていなければ、瑞々(みずみず)しい新鮮さを保つことができない。しかし潤い過ぎると、ふやけて溺愛となり、盲目となって盲(めくら)同然になる。
 やはり張りのある方がよい。

 更に情熱を失わないためには、結晶作用と美化作用が必要である。
 また陶酔し過ぎた悲劇に、フランスの作家のスタンダールの『恋愛論』がある。
 『恋愛論』の中には、繰り返し「結晶作用」という言葉が使われている。この結晶作用とは、炭坑の中に持ち込まれた枯れ枝が、塩分などにより結晶作用を受けて、枯れ枝だの結晶体の中心に、まるで花を付けたような小枝に変貌したことから、こう呼ぶそうだ。
 スタンダールによれば、人間は恋愛をすると、女性では、相手側の男性の欠点も時には長所に映り、粗暴で粗野な性格も、男らしくて勇敢に映るわけである。また男側から恋する女を見れば、一旦惚れれば、「菊石
(あばた)もエクボ」で、実に美しく見えると言うのである。男女とも、美化された環境に陥って、その世界に彷徨う。つまり恋愛の心理は、相手を美化して考える結晶作用と言うのである。つまりこの作用が起これば、男女の美醜は無関係のものとなる。

 その極めつけは、フランスの小説家で評論家のアンドレ・ジードの名著『狭き門』であろう。
 この小説仕立ての著書は、外見的に甘美な、然
(しか)も純愛な恋愛を描いているもので、「余りにも美しすぎる」と評価されたものである。内容を深く掘り下げて、繰り返し読み返すと、そこには数々の結晶作用の存在に気付かされる。陶酔による危機が、この恋愛小説の中にはあり、これが徐々に破綻(はたん)していく様子が描かれている。

 さて、『狭き門』の粗筋
(あらすじ)を要約すると次のようなものである。
 小説の主人公ジェロムは、幼い時から躰が弱く、その一方で勉強や文学に興じる青年だった。彼には従兄妹
(いとこ)のアリサがおり、この女性をこの世で一番美しい、然も一番優しい女と思うようになっていた。
 一方、アリサは何処となく物悲し気な、憂いを含んだ女性だった。それは彼女が、家庭的には余り恵まれないない環境に育ったからである。こうしたアリサにジェロムは同情を寄せ、この同情は、やがて思慕の思いに発展していく。
 ジェロムはアリサを幸せにしたいと思うようになる。また彼自身、アリサに相応しい立派な人間になろうと努力する。そして二人で手に手を繋ぎ、神の世界に行く事への憧
(あこが)れを抱くようになる。
 特にジェロムはこの気持ちが強く、また始めの頃はアリサもこうしたジェロムへ好意を寄せるようになる。このことが、彼の愛に応えたかのように映ったのである。
 ところが、アリサはいつの間にか、ジェロムの余りにも陶酔し切る愛が重荷になる。そこが総ての躓
(つまず)きだった。
 その上、アリサの妹のジュリエットが、ジェロムに恋していることを知る。アリサは妹のために身を退こうと思うようになる。また妹は妹で、姉のために好きでもない商人の男と見合い結婚をして、自分の身を退いてしまう。こうして『狭き門』の第一部が終わる。

 第二部はジュリエットが結婚後、寄り添っては、再び離れねばならない姉アリサの奇
(く)しき運命を見らねばならないところから始まる。描写は文学小説らしく、北フランスの風景が見事な描写によって美しく書き顕わされ、この風景の中で、アリサとジェロムの恋愛が展開されていく。
 ところがアリサは、ジェロムの自分と一緒に手を繋いで人生を進もうとする、この立派過ぎる生き方に、辟易
(へきえき)を感じるようになる。ジェロムの立派過ぎる人生観が、アリサには馴染めなくなって来るのである。それは余りにも理想主義的な生き方に近く、アリサにとって重荷であり、ジェロムが過大評価して、アリサを愛していることを知る。これこそスタンダールが指摘した「結晶作用」の最たるものであった。愛が美化されて、まるで仏教が指摘する「渇愛(かつあい)」の世界に迷い込もうとしていたのである。
 渇愛とは往々にして未熟な凡夫が陥る、渇して水を欲しがるような愛着
(あいじゃく)のことである。愛情に惹かれて、それを思い切れないことであり、愛欲に溺れることをいう。
 小説『狭き門』の悲劇は此処にあると言えよう。確かに、恋愛には陶酔や美化する意識が必要であろう。
 しかし、これに溺れ過ぎれば命取りになる。
 その元凶を考えれば、悲劇の起こりは「付かず離れず」の構図を演出しなかったことによる。
 何事に限らず人間関係には、ある程度の距離が必要である。ベッタリが一番危ない。このベッタリで人生を遣り損なう男女は多いようである。近付き過ぎて馴れ馴れしくなるからである。


 ─────鳥屋を通過したとき、“おや?”と思った。
 いつもだったら、婆さんは外で鳥の唐揚げや鶏肉を前に客呼びをしている。ところが今日は居なかった。奥に引っ込んでいるのだろうか。あるいは、もう「お迎え」が来たのだろか。
 その先の交差点で信号で信号待ちをしたとき、バス停を一瞥した時には彼女の姿はなかった。これで、彼女は独りで先に行ったのだなと確認した。
 塾に辿り付いたら、客が着て俟っていた。その人は一人で来ていた。
 そして名刺を出してこう言った。
 「私は社長の代理です」
 名刺には“東亜不動産株式会社・総務部長”とあった。総括本社は滋賀県大津にあり、裏側を見ると支社が関西方面に数多くあるようになっていた。京都本社が京都市左京区三条通り上ルとなっていた。
 「どういうご用件でしょ?」
 「実は弊社の社長が申しますには、先生のご都合を訊いて来て欲しい申しております。ご都合のほどは如何なものでしょうか」
 「つまり、お宅の社長さんは、私に会いたいということでしょうか?」
 「さようで御座います」
 「場所日時は?」
 「場所は有楽町の帝国ホテルか、または京都のわが社ですが、いずれを選ばれても構いません。日時もお任せします」
 「あの……、私は自分から出向きません。私に用があるのなら、本人が直接来れば宜しい。請われても自分の方から出掛けたりはしません。お宅の社長さんが、私に何の用があるかは知りませんが、こういう要件を持ち出すのなら、本人が直接来るのが筋でしょう。戻られたら、そうお伝え下さい」
 私は、きっぱりと断わった。痩せても枯れても、腐っても鯛の自負だけは失わなかった。私が立命の一灯で世に立つとするのなら、この自負だけが私の突っ支
(か)い棒であった。
 この御仁は京都からの手土産だけを置いて去った。
 私はこの手土産を事務員の女性に渡し、「これ、お宅の塾の皆さんでどうそ」と言って、この場を後にしたのである。


 ─────しかし、この「追い返し」が、後で進龍一にこっぴどく叱責を喰らうことになる。
 野郎は幾日か過ぎてこれを知り「宗家、何で追い返したのですか、もう少し詳しく事情を訊けばよかったじゃないですか!」と迫られたが、「本人が来ずして、どうして代理人から詳しい事情が訊けるんだ?……。俺は腐っても鯛だ。安売りはしない。話は対等の立場で付けたい。そこに立命の一灯がある、違うか!」と、今度は私の方が迫った。
 「しかしですね、もう贅沢言っている場合じゃないんです。折れるところは折れて、譲歩するところは譲歩する。時には妥協も必要です。これが肉を切らせて、骨を断つの兵法の極意ではありませんか!」
 「では訊くが、諸葛孔明は劉備玄徳の三顧の礼に答える以前に、早々と『私を軍師にして下さい』といって新野城に出向いたか」
 「うム?……」
 「俺は薄利多売の安売りはしたくない。いいものは高く売りたい。いいものが薄利多売の商品の中に混入されて安値で買い叩かれるのは我慢ならん。腐っても鯛である。請われて始めて動く。そのとき俺はやっと腰を挙げる」
 「いまどき、そういう恰好付けは流行
(はや)りませんよ」
 奴は、私の規格が時代に歩調を合わせられないと検
(み)て居たのであろう。言わば時代遅れの化石然と看做したのだろう。また私は私で、理想郷は、理想郷の夢を見ないと始まらないと考えていた。夢は見ないと始まらないのである。

 「そもそも道と言うのはなあ、時代と言う“いまどき”もないし、流行
(はやり)(すた)れの流行もない。いつの時代も普遍だ。決して変わることがないし、色褪(いろ‐あ)せもしない。権威が金・物・色に転んだら墜落すると言ったのは、お前だぞ。俺は俺の流派の旗印を掲げて、悔いのない理想に向けて邁進したい」
 「宗家がそう言う考えてであれば、弟子としては遵
(したが)わざるを得ません」と渋々言葉を返すのであった。それは心から納得したということではなさそうだ。まだ、一言二言反論があるような素振りであった。
 「俺は、一先ず帰ってもらったことは正解だと思っているよ。つまりだなァ、これで交渉は無事、対等の立場に戻ったということだ。条件は振り出しに戻った。これでいいではないか」
 「宗家は完全にズレている、前時代的です。何処か狂ってますよ。今は、尻に火の点いた緊急時ですよ。かちかち山の狸なんですよ、宗家は。そんなことを言っていたら、やがて西郷派転覆を企むの輩
(やから)に誅殺されてしまいます。ここは忍んで、ひとまず譲歩すべきです。ドアを完全に閉めてしまっては、もう依頼しようにも、来ないではではありませんか」
 奴は当時『鬼のセールスマン』というカセットテープを聞いていたから、「ドアは完全に閉じずに少し開けておけ」というその種のセールス法を酔心しているようだった。しかし私はその種の訪問販売で安売りはしたくなかった。薄利多売はしたくなかった。いい物は高く売りたいのである。

 「ああ分っている、しかしそれは世間流の正論だろう。だが俺は狂人だ。一個の狂人であるからこそ、このボロ流派を背負って行ける。俺の敵は、何も外ばかりに居るのではない。道場内側にも俺を批判する敵はいよう。既に『宗家は金に穢い』と誰かが流布している。だがそれはそれでいい。俺の姿勢は毅然とした態度だ、そうでないと孤高は示せんではないか。狂人はなあ、いい物は安く売る感覚がない。いい物は高く売る。緊急時だからこそ、俺は揺るぎない足場を固めるために、身を泰山の安きに置きたい」
 「ずいぶん難しい言葉を知っていますねェ」
 「お前の蔵書の何処かに書いてあった。俺ばかりに学習させずに、今度はお前が学習して、一つ俺に説いて聞かせたらどうだ」と遣り返したが、奴は浮かぬ貌をしていた。
 双方の考え方が少しずつ違って来ていることに気付き始めたようだ。名軍師も、狂人の私相手では、手に負えないという限界を感じ始めていたようである。
 狂人の言動や行動は規格外で、世間の常識枠から食み出してしまうものなのであろう。もう奴は、私を捨てる神へと変貌しようとしていた。果たして私を拾う神は居るのか。もし拾う神があるのなら、請われて行くまでのことである。
 しかし私はこの当時から、日本の稽古事が「薄利多売型」の一斉講義方式と、いい物を高く売る「個人教伝方式」に変化するだろうと考えていた。つまり、前者は圧倒的多数の大衆型の稽古事で、後者は絶対少数の一握りの理解者による「いい物は高く買う」という形に変化するのではないかと踏んでいた。多数派と少数派の二分である。
 おおよそユダヤの黄金率で言う前者の72の割合に対し、後者の28の割合である。この割合比をユダヤでは最もバランスのとれた「黄金率」と呼んでいた。二十年前までこれが世界の階級構造にはこれに近い比率になっていたが、昨今ではこの比率は前者が殖え、後者が益々少なくなっているようである。


 ─────話を前に戻そう。
 此処を出てバス停で次のバスを俟つことにした。もう彼女はいなかった。来客の応対で、無駄な時間を喰ってしまった。のこのこ出掛けて行って、馬鹿を見たという気持ちだった。
 世の中、貧者を馬鹿にした厭なことばかりが起こる。見下されることばかりが起こる。
 だが黄金の奴隷に成り下がって、人間牧場の家畜だけにはなりたくない。腐った鯛であっても、孤高を持したい。見下されて傲慢に押さえつけられ、大同団結などの大義名分に圧倒されて、強きに靡
(なび)く恭順という道は選択したくない。ボロ流派でもその実践者は心に玉(ぎょく)を抱いて、毅然とした態度をとりたい。
 少しばかり憂さ晴らしをするか……。
 別に急ぐ予定もない。そう思って習志野公園へ行ってみることにした。この場所は今年の春以来、不思議な余韻を引き摺っている。
 習志野所払いを喰らったからと言って、この地に飽きがきた訳ではない。やはり、いいところである。

 習志野空挺団の下瀬上等兵
(三等陸曹)がよく言っていたが、習志野の地名は、日清戦争か日露戦争かは知らないが、そのとき志野原という兵隊がいて成績は優秀だったと言う。上官達は常々「志野原に習え」ということで、それが地名の由来になったそうだ。ここは、かつての軍事演習基地だった。
 下瀬上等兵のことだから、何処まで本当は知らないが、何度も「習志野」の地名由来を聞かされたことがあった。そしてこの漢は、私が「上等兵」と言う度に、「自分は上等兵ではありません。三等陸曹は昔の軍隊の位で言えば伍長です。あるいは軍曹助勤です」と、上等兵と呼ばれることに反論を繰り返していた。
 ところが、私は「上等兵」といって憚
(はば)らなかった。
 先の大戦当時の東条英機が、石原莞爾から「東条上等兵」と呼称されてるのに因んだだけのことである。下瀬上等兵は事務屋的なところがあったからだ。作戦を立案出来るような頭の構造はしていない。プランのレポート提出程度の事務屋である。それ以上ではない。
 そしてこの漢が、今年の大晦日から正月三箇日に掛けて、北九州の尚道館で行われる『冬期講習合宿セミナー』の立案をした。事務屋的な草案である。
 どころが野郎は、C-130輸送機からのパラシュート降下の訓練中、落下傘の紐が躰に絡み付き、大怪我をして未だに入院中であった。

 この日、一年半以上も棲み付いた習志野の最後の見納めをするつもりでいた。よく晴れた日であった。
 季節は晩秋である。秋風が北風に変わろうとしていた。
 日大方向に向かう大通りには、黄色い絨毯
(じゅうたん)を敷き詰めたように銀杏(いちょう)の葉が降り積もっていた。いい風景だった。
 しかし今年限りで見納めである。もう来年は見られない。この地には居ない。眼にしっかり焼き付けて、想い出の1ページにしようと思った。黄色い絨毯。何ともいい風景であった。今から本格的な冬に向かう哀愁のようなものが漂っていた。空気は冷たいが、よく晴れ渡った日であった。
 そして習志野公園に行って、今年の春、花見をしたベンチに腰を掛け、当時を思う浮かべて、自分一人の感傷に浸っていた。桜はすっかり葉を落とし、風に枝を震わせて寒そうであった。やがて此処にも北風が吹く。
 こういう季節は、何となく感傷的になって溜息が漏れる。

 特に晩秋は、枯葉がしぐれのように降って来ると物悲しさを感じる。物思いに耽り、はらはらとした落葉の散るさまに哀愁が漂って来るものである。寂寥
(せきりょう)である。同時に、ある日の追憶も疾る。
 晩秋の冷たいベンチに腰掛けて、もう一度辺りを見回したとき、寂寥感の中に誰かの後ろ姿を見た。その後ろ姿は、落葉しぐれとともに心持ち霞
(かす)んでいるようだった。
 ところが、その後ろ姿が思わず振り返った。
 私は「あッ!」と驚きの声を上げた。
 振り返った人物から声が返った。
 「おや!ご貴殿でしたか……」と皺だらけの貌が笑った。


小説『壺中天・瓢箪仙人』 第一話 完

 



これより『壺中天・瓢箪仙人』は“続篇”の第二話へつづきます。





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