運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
壺中天・瓢箪仙人 1
壺中天・瓢箪仙人 2
壺中天・瓢箪仙人 3
壺中天・瓢箪仙人 4
壺中天・瓢箪仙人 5
壺中天・瓢箪仙人 6
壺中天・瓢箪仙人 7
壺中天・瓢箪仙人 8
壺中天・瓢箪仙人 9
壺中天・瓢箪仙人 10
壺中天・瓢箪仙人 11
壺中天・瓢箪仙人 12
壺中天・瓢箪仙人 13
壺中天・瓢箪仙人 14
壺中天・瓢箪仙人 15
壺中天・瓢箪仙人 16
壺中天・瓢箪仙人 17
壺中天・瓢箪仙人 18
壺中天・瓢箪仙人 19
壺中天・瓢箪仙人 20
壺中天・瓢箪仙人 21
壺中天・瓢箪仙人 22
壺中天・瓢箪仙人 23
壺中天・瓢箪仙人 24
壺中天・瓢箪仙人 25
壺中天・瓢箪仙人 26
壺中天・瓢箪仙人 27
壺中天・瓢箪仙人 28
壺中天・瓢箪仙人 29
壺中天・瓢箪仙人 30
壺中天・瓢箪仙人 31
壺中天・瓢箪仙人 32
壺中天・瓢箪仙人 33
壺中天・瓢箪仙人 34
壺中天・瓢箪仙人 35
壺中天・瓢箪仙人 36
壺中天・瓢箪仙人 37
壺中天・瓢箪仙人 38
壺中天・瓢箪仙人 39
壺中天・瓢箪仙人 40
壺中天・瓢箪仙人 41
壺中天・瓢箪仙人 42
壺中天・瓢箪仙人 43
壺中天・瓢箪仙人 44
壺中天・瓢箪仙人 45
壺中天・瓢箪仙人 46
壺中天・瓢箪仙人 47
壺中天・瓢箪仙人 48
壺中天・瓢箪仙人 49
壺中天・瓢箪仙人 50
home > 壺中天・瓢箪仙人 > 壺中天・瓢箪仙人 49
壺中天・瓢箪仙人 49

大抵、人の考え方やその行動というのは、多少なりにも世間に左右されるものである。敢然として「独立自存」を前面に打ち出し、断固、信念を貫ける人は少ない。

 自分自身の行動に対しても、自身で自主性が強いと信じている人でさえ、自分で考え、自分で判断する自主的行動に至っていない場合が多い。世間に対する誇りとか、評判とかを気にしつつ、それに左右されて実行する人が多いようである。

 特に知識階級として権威の高い位置を占めていれば、一見賢人然としていても、実績を気にし、いつも他人の評価や批評ばかりを気にしているのである。そして風見鶏的になる。
 この風見鶏的変化を、今日では協調と云う言葉で巧く繕っているようだ。
 現代は“協調”という言葉で周囲に妥協する人が多く、妥協自体も損得勘定から起こった算盤詰めの妥協である。
 そのくせに「個性的」などの言葉が持て囃
(はや)されている。

 逆に、こうしたものに左右されずに決断を下せる人は稀である。
 現代の世に「独立自存」を掲げる人は少ない。これを旗印として全面に打ち出し、魂の安住を求めて理想郷を追求する人は少ない。
 自らの必要に応じて、行動を起こすのは、その人が途轍もない偉大な賢者か、甚だしき愚者に限りである。
 圧倒的多数にランクされる中間群にいる階層は、世間に対する誇りとか、名誉とかを金繰
(かなぐり)捨てて決断や行動が出来る人は、おそらく皆無に近いであろう。
 皆無だからこそ、人間現象界では、未踏の領域に足を踏み入れて見るのも面白いのである。


●束の間の蜜月

 これまでには無い、変わった一日であった。昨日から思えせば、小さな“どんでん返し”が繰り返された一日であった。
 この変わった一日を分析すれば、一見奇妙で、これまでの経験には存在しない、然
(しか)も“どたばた喜劇”のように騒々しく、少しばかり“てんてこ舞い”で慌ただしく、加えて“蜜月”のような一日であった。
 それはまた、張りと弛みが交互に相半ばする、そういう弛張
(しちょう)に嬲(なぶ)られた一日でなかったかと思う。
 “蜜月”と評したのは「愉
(たの)しい時間」は短いからである。永遠に続くことはない。直ぐに萎む一過性のものである。直ぐに消えて行くものである。
 蜜月は記憶の一コマに過ぎない。刹那のことである。そして時間の中で埋没する。

 例えば、結婚でも結婚当初から半年までは実に愉しく、嬉しいものである。蜜月と言っていい。だが蜜月には賞味期限がある。その期限は半年未満であろう。その期限を過ぎれば色褪
(いろ‐あ)せ、悦は苦に、情熱は失望に変化し始める。
 現象界は変化の中に在
(あ)り、常に変化を求めて刻一刻と古い時間を引き摺って過ぎて行く。熱したものは、やがて冷める。そうした世界にあって、人間は常に変化を求めて奔走する。
 人間現象界とはそう言うところであり、この変化は、人間が完全なる理想に辿り着くまで目紛しく移り変わり、物色し、あれでもないこれでもないの模索の連続の中に埋没するようになっている。そして蜜月とは、その変化の中で、気紛
(き‐まぐ)れ的に生じる「ほんの短い期限付きの時間」なのである。それだけに余韻は長く続かない。感動は直ぐに冷める。
 今日が過ぎて明日になれば、その愉しさは変色して色褪せているのである。情熱が失望に変わる元凶は、ここにあると言ってよい。永久
(とわ)に……と言うことはない。沸騰した熱湯も時間が経てば冷めて、ただの常温水に戻る。

 あたかも平和が戦争と混乱の中の連続で、極めて短い期間に訪れ、そして消えて行くそうした束の間のことを、近世の人類は「平和」と称しているのと似ている。
 振り返って「変わった一日」を考えるなら、そういう一番いいときの、一番美しい、一番愉しい、一番面白い、“束の間”のことだったと思うのである。
 人生で言えば、「今が一番」のときである。今しかないときである。

 人生は不思議と、出遭いと、訣別のと、更には怨憎
(おんぞう)の連続である。どれも束の間に消えるものばかりである。あたかも陰から陽が起こり、やがて陽は、陰に戻り終熄(しゅうそく)する。燃え上がった焔(ほのお)もやがては鎮火する。生命の火はやがて消える。現象界に顕われた陰陽である。
 その陰陽の変化の中で「変わった一日」があったのではないかと思うのである。

 真弓という女性が始めて習志野に来た日、「変わった一日」が起こった。特異点に到達した。沸騰した。
 それは“どたばた喜劇”であり、“てんてこ舞い”で忙しく、何が何やら分らぬままに一日が終わったという日であった。こう言うときは、時間の経つのが早い。
 誰もがその舞台で活劇役者の立回りをするからである。「動」の活劇である。この場面では、時間は瞬く間に過ぎて行く。面白くて時の経つのも忘れてしまう。彼女もその中で活劇役者を演じていた。

 結局、塾の終わるのが遅くなって、午前零時を回っていた。既に公共の交通機関は動いていない。タクシーという手もあったが、彼女は此処に泊まると言い出した。それを譲らなかった。泊まらせて欲しいと懇願された。習志野から高輪までタクシーを遣えば2万円ほど懸かるが、それくらいの金は彼女も持っているだろう。タクシー代がない筈はない。
 しかし遅くなったので泊めて欲しい懇願した。
 「近くにホテルがある。そこに行ってはどうか」と言ったが、あっさりと一蹴されてしまった。結局、彼女のゴネ勝ちだった。
 そこで宿代まで払うと言い出した。そんなものは払わなくてもいいと言った。結局家内と談じた末、泊めることにした。
 わが家には客間などない。そこで、かつては病室だった、自称“開かずの間”と称する部屋を抉
(こ)じ開け、そこに泊めることにした。此処を綺麗に掃除をし、余りの蒲団を引っ張り出して、彼女の一夜の宿とした。静かな八畳ほどの部屋で、かつては病室であったところである。病人が寝ていた部屋である。あるいは治癒せずに、息を引き取った部屋である。
 結局病院構造になっている渡り廊下の先の、奥の離れに泊まって貰うことにした。そして此処は自称“開かずの間”である。
 ただ難点を挙げれば静かだが、静か過ぎるほど静かな場所で、単刀直入に言えば淋しいところなのである。そうかといって、まさか同じ部屋に三人、「川」の字になって寝る訳にも行くまい。
 着物を着替えてもらうことにした。着物を着たままで寝られる訳はない。そういう訓練はしたことがないだろう。また、何処でも寝れるような体も持っていないように思えた。
 家内が古着屋で仕入れた浴衣類や羽織類を幾つか持っていたので、それに着替えてもらっていたのである。浴衣着であれば、身長差は余り問題にならない。誰が着ても上下左右の些かの自由が聞く。彼女は165cm前後であるが、家内は155cm前後である。背丈が約10cm違う。それでも浴衣着なら丈の上げ下げが自在である。

 午前零時過ぎに、戸締まりをした後、三人で細やかな遅い夕食を摂った。女どもの洗顔が終わり髪をとかした後で、和気藹々の食事のひと時である。
 彼女は最初、私を十日ばかり借りるということで、家内に挨拶だけが目的だった。
 しかし、どうしたことか俄講師までし、帰宅するには遅い時間になり、そして泊まることなったのである。この流れの中には不審なものはない。意図的なものは混入されていようである。自然の流れかも知れない。特定の思惑も魂胆もなかった。人工的なものは感じられなかった。何ら特別な異常は感じられなかった。
 習志野に来て始めて、家内は同年代の意気投合出来る相手を見付けたのか、今宵は彼女相手に嬉々とはしゃいだところがあった。それに併せて、彼女も愛嬌のあるところを魅
(み)せる。その表情が愛くるしいほどだった。両人は完全に学生時代に戻っていた。その中で、当時の娘を演じているのである。

 女二人は、娘々と語り、まるで娘然とした時代を再現したように、だべっていた。それが少女のそれであった。女子校などで見掛ける風景である。
 私は大学を卒業して直ぐ、短い期間だったが、女子高で数学と理科の教師をしたことがある。そのとき女子高生の心理というものを少しばかり垣間みたことがあった。彼女達はよく笑うのである。箸が転がっても、おかしくて笑うのである。いつも笑う材料も探している。これに協力すると、その先生は「いい先生」となる。
 それは単なるジョークとか、駄洒落では駄目である。真物
(ほんもの)のユーモアである。物真似の贋作では感動しない。
 そしてこの年代特有の心理が何であるか知った。
 つまり特有の心理とは、彼女達が何を考え、何に夢見ていたか多少なりにも解るのである。そのとき見た同じような時空が、此処にも再現されていたようである。

 聴いていると他愛のない生娘のような話をしていた。世代がほぼ同じか、共通項も多いらしく、問い掛け、それに答え、相槌を打つその種の話が展開され、時には笑い声に変わる。それでいて、二人の女には子供がいて、母親でもある。それを忘れた時空の中で遊んでいた。
 家内には幼稚園の年長と年少の年子が居たし、彼女の方にも小学一年生の子供が居
(お)り、双方の年齢差は二歳違いである。高校生で言えば、三年生と一年生である。家内が上級生で、彼女が下級生である。
 しかし、この時ばかりは、自分が母親であることを忘れて、束の間の少女時代を再現して楽しんでいるように思う。学校は違っても、話は学生時代の頃であろう。二人でよくだべり、相槌を打ち、知的な話も織り交ぜつつ、女特有の会話が続いていたようだ。しかし、双方はその長幼の差をまだ知らない。同世代だが、互いに年齢を知らないのである。それゆえ年齢差から来る垣根は取り払われていた。
 私はこれを、「二人の心が打ち解けた」と検
(み)たのである。
 こうして愉しい時間が過ぎたのが、午前一時を回った頃であろうか。
 
 何事もない、無事にその日一日が終了したところであった。三人が全員寝入ったのは午前一時前であったろうか。その時刻に消灯している。少なくとも、私が寝付く30分間は何一つ物音も、犬猫の泣き声すら聴こえなかった。静かな夜であった。静寂というより、静まり返って淋しい夜であったかも知れない。
 その淋しさが静劇場面を作り出していたようだ。活劇はアクション中心だが、静劇は思案や沈黙などの静寂場面が多くなる。内面に食い入って来る。
 この日、誰もが床に就いた。
 ところが私一人、丑三つ時刻
うしみつどき/午前2時から2時半頃)に、ふと何かを感じて眼を醒(さ)ましたのである。幽(なす)かな女の哭(なき)き聲を聴いたからである。
 誰かが哭いている……。
 私の観じたことであった。
 この日、テツは仕事疲れで早々と寝ていた。
 この漢、一旦寝付くと滅多なことでは起きない。夜中の便所もない。少々のことでは滅多に起きないのである。酒を呑まされれば、寝首を掻かれるタイプの漢である。
 これまで、「人の気配で起きる癖をつけろ」と何度も注意したが、それでも起きない。そういう寝付きのいい奴だった。この漢が夜中抜け出して、彼女のいる部屋まで夜這いに出掛けることはあり得ない。そのうえ寒い。無精な人間ほど、こう言う日は動かないものだ。また、そこまで根性がない。
 哭き声は、性交に及んだときの女の“善
(よ)がり聲”などではなかった。しくしく哭く、幽かな女のすすり泣きであった。最初、空耳かと思ったが、そうではないようだ。

 横で眠っている家内を揺すった。
 「おい、起きろ」小声で、耳許に囁
(ささや)くように言った。
 辺りは鎮まり、冷気に包まれている。家内は一瞬はッ!として目を開けた。
 家内の便利なところは、“湯たんぽ代わり”になることだ。寒い日など結構、重宝する。天然の生体湯たんぽである。第一、お湯を沸かす手間が省ける。
 特に寒い日などは、太腿の内股に、自分の冷えた足先を突っ込むと実に温かい。突っ込んで悲鳴を上げるのは最初のうちだけである。そのうち徐々に馴れる。また、足を引っかければちょうどいい“抱き枕”にもなる。教育すれば、こうした行為にも怒らなくなる。嫌がりもしない。何事も最初の女房教育が肝心である。
 人間は、よく教育したものは大事にする習性がある。決して粗末にしない。世界に二つとないからだ。仙道房中術や『理趣経』では、そのことを真っ先に教えている。亭主の女房孝行の第一は、夫婦ともに先人の教えを学ぶことから始まる。蔑ろに出来ない事柄である。
 しかし此処に遠慮や手抜きがあると、あとで家庭不和の種が発芽することになる。夫婦不仲は、こうした女房教育の手抜きから起こる。教育して教育出来ないような女なら、最初から結婚などしない方がいい。教育出来るその可能性がある女性に限る。恋愛と結婚に違い所以だ。
 同じ蒲団で一緒に寝る。陽気を貰うにも重宝する。添え寝の利である。それだけ重宝する女房を守るのは亭主の義務である。この点の符合が合っていれば、家庭争議などは起こらないものだ。したがって中年女に多い更年期障害も起こらない。常に上の口と下の口を満足させるために、日頃から涙ぐましい鍛練しているからである。
 極意・秘訣は上下の口に贅沢に馴れた味を教えないことである。

 「なあに」
 そのとき突然、冷え冷えとした隙間風が、建て付けの悪い窓枠を通して部屋の中を吹き抜けた。何かが来たような気配を感じた。
 「何か聴こえないか?」
 「聴こえるって?」
 「誰かが泣いている聲だ。しくしく哭くような、そういう雨降りの時のような聲が遠くからする。よく耳を澄ませろ……、どうだ?。聴こえないか」
 しかし、そう言った時には何も聴こえなかった。
 「空耳でしょ」相手にしない。
 「確かに泣いていた。今まで哭いていた。それも人間の聲
(こえ)だ、女のような……」少し確認に満ちた語調で言った。
 「別に何も聴こえませんよ」
 そう言われても、確かに誰かが哭いているような声がしたのである。
 「訝
(おか)しいな。確かに、しくしく哭く聲だったが……」
 「では?、彼女かしら……」
 「さあ?……」こう問われれば、誰だか特定出来ない。
 誰の聲か分らないが、遠くで確かに哭く聲を聴いたのである。それも女の聲である。
 慟哭
(どうこく)というほどの烈しいもではなかったが、静かな晩に、しとしと雨が降るような酷似した感じの幽(かす)かな哭き聲であった。
 「あッ!聴こえた。やはり彼女だわ……」
 今度は思わず《まさか?……》となった。
 「……………」今度は、私には何も聴こえなかったからである。
 家内は聴こえたと言う。
 そもそも家内とは受信周波数が違うのだろうか。家内は霊媒体質である。数段感度がいい。その感度のよさは、夜のお勤めの“善がり聲”で明確になる。その違いだろう。そのように調教したと言うか、仕込んだと言うか、女体の腹部に鎮座する“眠れる蛇”を起こしてやったのである。この蛇は普段は、つまり未開発だと死ぬまで永遠に眠り続ける。本当の女を目覚めさせるには、性器をいじっても駄目である。“眠れる蛇”を起こしてやって、既婚後の人体改造を行わねばならないのである。これを開発することで、女は目覚める。少女が女になる。
 しかし中年オヤジが、今流の「烏の行水」のような、お義理セックスでは、この機能はますます退化するばかりである。この退化は、女体に更年期障害を発症させる。これは女体の全身アンテナの周波数受信感度を退化させたためである。女が、二十代半ばの“お肌の曲り角”を超えた辺りから、徐々に脂肪が着き、弛み出すのは“眠れる蛇”の中途半端な不眠症が病因である。何事も中途半端が一番いけない。
 男の義務は、“眠れる蛇”を起こし、毎回ごとに極楽に届けてやることである。「烏の行水」で地獄に届けては駄目だ。地獄に行くのは死んでからでも間に合う。生きているうちは極楽に行かねばならない。かの『理趣経』の説くところである。あるいは世間では邪教視されている『真言立川流』にも、唯物論的に極楽行き
(エクスタシーならびに忘我、恍惚、法悦など)を奨励している。
 かの田山花袋先生が云うように「女はその時々にエクスタシーの陥れ、男の躰に縋り付かせて、善い声で哭かせねばならない」のである。

 「やはり哭いている。それも聲を殺して哭いている……、でも何だか怕
(こわ)。気味が悪い……」
 「夜の夜中、なぜ聲を殺して哭くのだろう?」
 だが、この哭き聲はエクスタシーのそれとは違う。断じて忘我、恍惚、法悦の類
(たぐい)ではない。悲しいとか、憎いとか、悔しいとか、惜しいとか、苦痛とかの忍び泣きである。
 「どこか痛いのかしら……、それとも病気が進んでいるのかしら?……」
 「何か気になるなあ、行って見て来るか?」
 「止めときなさいよ、夜中の女一人の部屋ですよ」
 「あらぬ誤解を受けて騒がれても迷惑だな、止めとくか」
 「でも、気になるわねェ」
 「じゃあ、お前が見て来い」
 「わたしが。でも、何だか気味が悪い……」
 「もしかすると、見たなァ……という、あれかも知れないぞ」脅すように言った。
 「キャー、怕い」小さく悲鳴を上げて抱きついて来た。
 「安心しろ。もう直、十二月だぞ。この寒い時期に納涼大会でもあるまい……、大丈夫だ。出はしない」
 「じゃあ、二人で行って見て来る?……」
 「そうするか」
 彼女の部屋を二人で見に行くことにした。廊下の途中のところどころの電球が切れている。影になって薄暗いところもある。懐中電灯を点
(つ)けて、夜中の病院の廊下を歩き、渡り廊下を抜けて、忍び足でそっと近付いて行った。廊下の床板が至る所で朽ちている。廊下の軋(きし)みが、厭な哭くような音をたてる。それだけに気味が悪い。
 愈々
(いよいよ)彼女の部屋の開き戸の処まで遣って来た。寝静まっている感じである。哭き聲などしなかった。誰も哭いてはいない。静かに寝息をたてているようであった。
 何だ、よく寝ているでないか、やはり空耳だったか。あるいは何かと聞き間違ったか?……。そう思った。

 二人して、漸
(ようや)く安堵(あんど)した。そして、また今来た廊下を逆戻りして静かに歩いている途中だった。
 その途中、私は悪戯半分に、下から自分の貌に懐中電灯の光を当てて、家内の背中をポンと叩き、くぐもった声で「見たなァ〜」と遣ってみせたのである。
 すると家内は黄色い悲鳴を張り上げて「キャーァ〜!」と余韻を曳く大声を出したのである。
 今度は彼女の泊まっている部屋の引き戸が荒々しく開かれ、彼女が首を出して「そこのお二人さん、夜中ですよ。静かにして下さらない」と叱責されたのである。
 「ほら、御覧なさい。叱られたじゃないの」と睨んだのである。
 「お前が大声を出すからだ」
 「あなたが脅かすからよ」
 「俺ばかりの所為
(せい)じゃない」
 「だって、あなたが哭いていると言ったからですよ」
 「お前だって哭いていると相槌を打っただろ」
 再び開き戸が開かれて、「もしもし、お取り込み中、恐縮ですが、もう少し静かにして頂けません」と再度釘を刺されたのである。
 部屋に戻ってから、妙に眼が冴えて寝られなくなってしまった。
 いま首を出した私たちに注意を促したのは確かに彼女だが、あの貌はいつの貌だったのだろうか。昼なのだろうか、夜なのだろうか。思い返せば釈然としない。新たなる疑問が湧いて来た。
 こうなったら、燈火
(あかり)を点けて朝まで、これから先のことを話し合うしかない。

 「少し訝
(おか)しいと思わないか」
 「どこが?……」
 こうして家内と角を付け合わせて、密談のような話を交わした。それは家内が一瞬「怕い」と言った彼女についての話である。哭き声は確かに聴いた。一瞬空耳かと疑ったが、安易に一蹴出来るものでない。何か引っ掛かるものがある。
 幽かな哭き聲一つにしても、尋常な感情表現でない。確かに聴いた。誰かが哭いていた。
 それとも彼女は、夜と昼の人格が入れ替わるのだろうか。そういう現象があることを聴いたことがある。陰陽の変化が激しい人に起こると聴いた。そういう話をかつて聴いた覚えがある。それに、どうも何か引っ掛かることがある。
 今、開き戸を開けて貌を出したのは、あれは昼間の彼女の貌ではなかったか。そういう気がする。夜のもう一つの貌は蒲団の中で哭いていたのかも知れない。そうすると彼女は二つの人格を持っていることになる。あるいは何かの弾みに人格は分離したのか。ショックなどで、心因性障害を起こしたとき、その現象が顕われるとも言う。
 人間は簡単に言えば、肉・幽・霊の三重構造からなる。霊構造の奥に「神
(神霊体)」がある。
 この構造の見解を非科学的とか、迷信妄想の類
(たぐい)に押しやって、荒唐無稽な幻想が人智によって作り出されたと一蹴することは出来まい。

 さて、霊の話だが、例えばある彫刻家が仕事に熱中していて、それを一心不乱に行い、途中で尿意を覚え便所に行って帰って来たところ、仕事場の中に、もう一人の自分が居て、一生懸命に彫り物をしている自分を見たなどの話は、よく聴くところである。
 用を済ませ、便所から帰ったら、そこに、自分以外のもう一人の自分が居たというのである。つまり、もう一人の自分は、分身だったということである。熱中すると、こうした現象が起こるとも言われる。この現象が起きたとき、自分が、便所から帰って重なったかどうかは分からないが、一人が二人になったということは紛
(まぎ)れもなく分身である。分身が居なければ見えない現象である。
 こうした現象を、ドッペルゲンガー現象という。

 これは自身の姿を、自分で目にする幻覚現象ともいわれ、また分身現象とも言われる。単に幻覚とか、あるいは現実の分身とが、それを何
(いず)れかに決めつけることは出来ない。
 ドッペルゲンガー現象で有名なのが、文豪・芥川龍之介が自殺する前のことで、芥川の知人が彼を銀座で見たという話である。
 芥川龍之介の場合は、自分自身ではまったく銀座を歩いていた覚えはないのに、その知人は「昨日、銀座でお会いしましたね」と言ったそうである。その銀座を歩いていた芥川は、知人の話によると、薄ら笑いを浮かべて歩道を歩いていたという。
 これは単なる妄想に過ぎぬと一笑に付すことも出来まい。
 この時期、芥川は精神に異常を来していたという。
 それ故、フラフラと銀座を歩いていたのかも知れない。歩いていながら、自分では記憶に止めなかったかも知れない。異常者の一時的な記憶喪失と言えば、それまでである。
 だが、芥川は家に居て、もう一人の自分が外出して出歩いていたとすれば、紛れもなくドッペルゲンガー現象である。この現象を嘲笑するか否かは、その人の霊的解釈にもよろう。完璧なる無神論者なら一蹴に伏して終わりである。

 更には、ドッペルゲンガー現象自体も様々な解釈がある。解釈は一様でない。
 ただ、一つ共通していることは、この現象を起こした者は、本人に、近いうちに死が齎
(もたら)されるということである。その確率が高いと言われる。
 死が齎されるメカニズムは、自分という人間が分身することで、一人の自分のエネルギーが二分されて、一人分は更に半分になることから、そのエネルギーの消耗が二倍の早さで失われるといわれる。死に至るメカニズムは老衰で枯れるか、性命エネルギーを性交渉などで浪費あるいは消耗させて性命力を弱めた結果、起こる現象である。腹上死などはその顕著な例である。
 つまり、80年の寿命の者が、その半分の40年で尽きるというのである。
 芥川龍之介の場合、35歳で死んだため、本来は70歳の寿命を持っていた筈だ。作家活動をしたり、またその他の行動に遣うエネルギーは、もともと本人所有のものである。
 しかし、分身も行動するから、自分のエネルギーは二分しなければならない。これが、生まれた時から、このような二分身の行動が出来たか、死の直前になって、こうした行動が出来るようになったのかは分からないが、生まれた時からであれば、真半分になり、死ぬ直前であれば、そこで寿命の消耗は加速されたというべきであろう。

 芥川の知人は、銀座の歩道を薄ら笑いを浮かべて芥川の歩いているのを見たという。
 この場合、本人の芥川は家に居るのだが、じっとしていながら、もう一人の自分は金座を歩いているので、歩いている分だけ、体力的なエネルギーを遣ったことになる。自分は家に居てじっとしていても、もう一人の自分がエネルギーを消耗させているからである。
 芥川は35歳で自殺するが、この自殺するまでの間、もう一人の自分は様々なところに出歩いていて、心身ともに衰弱に追いやり、その結果死に至ったのかも知れない。芥川は確かに自殺して死んだ。
 ところが、もう一人の自分はどうなったのだろうか。非常に興味深いことである。

 さて、勘においては、私よりも家内の方がその能力は優れていた。私が女を尊敬し、崇拝する理由である。それは女体自体に巫女
(みこ)的な能力があって、また巫覡(ふ‐げき)的な、そもそもが女体全体が霊媒のようなアンテナ構造をしているからである。人によって、その感度の善し悪しはあるが、善(よ)がり聲が「玉鈴(ぎょくれい)を転がすように」というのが、感度がいいそうである。そう言えば、家内は声が激しかった。何処もかしこも感度のいいアンテナだった。燃えて情ずると、狂おしいほどいい聲で哭く。珠(玉鈴)を転がるように、あたかも秋の虫のようにいい聲で哭く。善がり聲とは「珠の転がる痺れの音」なのである。
 それは剣に巻き付く龍を思い出して頂ければ明白となろう。剣は男根、そして巻き付く龍は“眠れる蛇”なのである。この男女の目合
(まぐわい)の絡みを「倶利迦羅(くりから)」という。
 ちなみに、女を「巫」といい、男を「覡」という。
 私は家内に、彼女について、幾つかの質問をぶつけていた。
 
 「夜中だ、小さな声で話そう」
 声をできるだけ小さく抑えて言った。つまり、ひそひそ声でない抑えた聲である。ひそひそ声は、風切羽のような音がして夜中は却
(かえ)って響くのである。それに耳が立てられ易い。
 「はい」
 それに呼応して返事が返った。ひそひそ声を了解したのである。
 「今の貌、確かに彼女だよな」
 「ええ」
 「しかし、なんか訝
(おか)しいと思わんか」
 「どこがです?」
 「見たのは首から上で、下は見てない。全体像は見なかった」
 「そう言えば、そうですねェ」
 「俺はとんだ疫病神を連れ込んだと思うか」
 「まだ分りません」
 「お前の勘だ、彼女をどう検
(み)る」
 「何か重いものを抱えているみたい、病んでいるような。最初にそのように映りました」
 「お前もそう検るか」
 「女って、美しいときが短いですから」
 「彼女は短いか」
 「そう映ります」
 「病んでいるって、何に病んでいる?」
 「難しいものに……、複雑のようです。だから縺
(もつ)れた糸を解くのは難解でしょう」
 「どう難しい?」
 「今の医学では治せない、何か霊的な恐ろしいものに……。現代医学は霊的なものに無知です」《精・気・神のうちの神
(しん)が冒されているとでも言いたいようだ》科学的体系論が逆に、霊的無知を生んだのだろう。
 「それ、見えるか」
 「今は見えません、そのうち見えて来るかも知れません。悪い方に豹変した時に、そういうことが起こるかも……。『論語』で謂う、君子豹変すと言う訳にはいかないでしょう。まず、いい方の変化は希望薄です」
 「それは、いつだ?」
 「そのうちでしょう」
 「どうして短いと分る?」
 「あの白さです。普通はあの透けるような白さを、普通の人は美しいと見間違います。でも、あれは美しい白さではありません。病んでいる白さです。何か精を激しく消耗しているのです。それが表面化した時、怕いでしょう。可哀想な人です」
 家内は、彼女が短いと映るという。
 彼女がいまドッペルゲンガー現象を起こしているとして、その寿命値を換算すると、二十歳前後のときに、何か異変に遭遇したことになる。それから残り寿命を割り出せば2分の1であるから、40歳を少し超えたときに死が遣って来る。既にエネルギーが二分され、その現象が霊障の症状として顕われている。
 私はそれを最初、疾病
(しっぺい)と検(み)たのである。白蝋のような白さを疾病と検た。これは精の消耗の激しさを顕している。
 「もう蝕む物が蠢
(うごめ)いているということか」
 「もし気に入ったのなら彼女を大事にしてあげて下さい」
 「大事にせよとは妙なことを言う。ところで、いつまで持つ?」持続時間を訊いてみた。
 「庇護者次第です」
 「誰が庇護する?」
 「さあ、誰でしょう……」
 「俺がするのか」
 「どうでしょうか……」
 「莫迦
(ばか)に濁すなァ」
 「でも、気に入っても、下半身はそのうち駄目になるでしょう。霊臭が出ていますもの」
 霊臭の元凶は、子宮に取り憑いた癌腫のことだろう。
 この癌腫は子宮頸癌
(主として扁平上皮癌)と子宮体癌(主として腺癌)があり、前者の頻度が高いと言う。死に至る確率が高いとされる。症状は出血や帯下(たいげ)などに始まり、進めば疼痛や全身衰弱を来すと言われている。末期となると、異臭を発する。
 この異臭は後に私も、見舞った時に度々嗅いだことがある。閉口する臭さである。

 さて、「霊臭」と云う言葉は、私がこのとき始めて家内から聴いた言葉である。平成3年のことである。
 「霊」と名の付く言葉には、霊能者をはじめとして、霊視や霊耳が挙げられよう。それらは特殊能力を顕している。霊的なものが媒介して肉の眼で確認出来ない何かを見る異能の能力のことである。だが霊臭となると意味が違って来る。その場合、媒介するものは何か。
 五官のうちの「臭い」を観ずるのは鼻の嗅覚の感覚においてである。もし鼻に特殊なる霊的感覚があるのなら、霊臭といわず「霊鼻
(れいび)」と呼称せねばならない。
 本来は目や耳以上に霊的作用をするのは「鼻」なのである。盲人や聾唖
(ろうあ)者が身体の中で最も大事に観じるところは鼻である。肌以上に鼻は霊的知覚を観じるところである。
 まずそれが如何に大切であるか語ろう。

 鼻は顔の中央に坐する。ほぼ正中央で正中線上に位置している。手足は左右何れかに偏っているが、鼻はそうではない。顔は歪
(ゆが)んでいても、鼻だけはその中のほぼ正中線上にある。普通、鼻を考えれば、目や口や耳に較べて、一見愚かのように映る。だが、鼻は目や口や耳ほどに、嘘や悪戯をしない。正直である。それは馬鹿正直なくらいである。そしてである。
 鼻は不眠不休の働きをしている。目や口や耳は、鼻に較べて不眠不休の能力はない。これは貌では、鼻だけである。極めて確実に、誠実に人体に奉仕している。それでいながら貌全体に締まりを齎し、調和を保つ重要な要になっている。貌の中央にあって、前方に目や口や耳以上に突き出している。この突き出しは決して不条理でない。実に理
(ことわり)に適(かな)っている。
 では、鼻の理とはなにか。
 その理の第一は、人相学的には人物評定の社会面を司っている。鼻の如何次第で、誠実さやそれを荷なう赤誠面が表出されている。人格である。次に第二の理として、自己表現としての行動の模範が鼻によって問われる。そして第三として重要なのは、鼻はかなり遠くの風
(ふう)から、辺りの気配を読むことが出来る。
 空気の流れは、まず人体レーダーの肌で感じ、その最終的な嗅覚を鼻で観じるのである。つまり、霊臭を感じ、その情報分析をするためのソナー的
(この場合、媒介するのは空気である。息を吸う吸気によって空気反応を読む)や役割を果たしている。つまり、此処で観じる霊力を「霊鼻」というのである。したがって霊臭は、霊鼻で感知する。

 ところが霊臭と言うからには、霊体もしくは幽体から洩れている臭いを指している。腐敗物質である。
 五官は眼
(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・皮膚(触覚)を言う。これは仏教でいう「五根」から出た語である。
 そして霊臭は、嗅覚で観じる霊的な臭いである。特殊能力の霊鼻と言わす、敢えて霊から洩れている悪臭を「霊臭」と言うのである。

 現代はまた「霊臭が洩れている時代」だとも言う。この元凶は、動タンパク中心の欧米食文化が、戦後日本に流れ込んだことに起因している。
 更に戦後、昭和30年代の「タンパク質が足りないよ」のテレビコマーシャルが食肉文化を煽り、また、同じ頃、何処かの大学教授が「米を食べればバカになる」という論拠不明なる食理論を掲げ、「日本人は米を食べずにパンを喰え」を煽った。この煽動術に、多く日本人は翻弄
(ほんろう)され、パン食文化に飛びついた。朝食でのパン食は、その煽動をもろに受けた。斯くして現代日本人の食卓は、脂(油)だらけになった。今日でもその摂取量は減っていない。牛乳などとともに増加の一途にある。

 霊臭が洩れている時代の側面には、戦後の日本人は煽動者
(アジテーター)によって、巧く掌の上で踊らされたことに起因しているようだ。兵法の煽動術は何も暴動や戦争においての煽動だけではないのである。思想煽動というのもあり、かつての文化を破壊するために、その国の連綿と続いた食体系すら根刮ぎ破壊してしまうのである。その場合、攻撃目標は「上の口」からである。
 また色を乱すためには「下の口」からである。今日の性器教育が、これを雄弁に物語っている。
 白蝋のような白い肌を持つ女……。その破壊工作の「攻め口」となった場所は何処か。その箇所は想像に難くない。
 間抜けな男は、媚付き女に手を出して、運気を落すバカだろう。風俗ではそうした嵐が吹き荒れている。禍が何も上の口からだけでなく、下の口を経由して下からも侵入して来るものである。

 「匂うか」
 「ええ、酷く……」
 「進行しているということだな?」
 「かなり……」
 「厄介だなァ」
 「でも大事にして上げて下さい」
 「俺が最後を看取るようなことをするのか?」
 「そうなるかも知れません」
 「何で、それが分る?」
 「誰かの影がちらついていますもの」
 「誰かとは、男か女か」
 「男です」
 「その男というのは誰だ?」
 「別の男。彼女を蠱惑した男」
 「彼女に蠱が憑いたというのか。それが進行しているということか」
 「そのようです、それは蝕んでいます」
 「その後、俺はどうなる?」
 「看取るのです、それだけ長く生きます」《なぜ俺が看取らなければならないのか》と訊きたかった。
 「お前は?」寿命の事を訊いたのである。
 「彼女より少しばかり長いでしょうか……」
 「どういう意味だ?」
 「あなたが看取るかも知れません」《お前まで看取るのか。それは反対ではないか》と反論したかった。
 何故なら、私は五十代初めに末期病と診断され、余命半年と告知されたからである。そのとき家内はピンピンしていたし、また彼女も病んで入院中だったが、まだ死んではいなかった。
 「お前の方が若いのに、どうして寿命が逆転する?」
 この年齢差は、私が大学を卒業して女子高の教師をしている頃、家内は小学生だったことになる。
 「生命の長幼は年齢ではありません、寿命です」
 「寿命か……」
 「彼女の年齢を幾つと見る?」
 「わたしより下」
 「そう映るか」
 それは正しかった。九星気学でいうと、家内が九紫火星で彼女が七赤金星であったからだ。気学では、この相性は悪いと言われるが、その箇所を、八門遁甲の大家・内藤文穏先生は軍立
(いくさだて)に間違いがあり、九星方位盤は正八角形の遁甲配盤を模倣したものであると常にいわれたいた。この学を「遣り過ぎれば、気が狂う気違い学」と言っておられた。私もこの説を支持している。

 「寿命の枠
(わく)での絶頂周期は長くて、ここ1、2年というところでしょうか。美しいものほど短いですから」
 作用と反作用の現象界の相対的なことを言っているのだろうか。
 「その後は?」
 「坂道を転げ墜ちて行きます。それは、見るも無慙です……」
 「どうして言える?」
 「観じるだけです、勘で。科学的根拠などありません。観じるものに体系云々は付けられません。閃
(ひらめ)き一つ挙げても、それが何から起こったか、人智では説明がつきません」
 家内は一種の霊媒体質だった。異能者だった。しかし霊能者でない。ただ感情家でもあったため、情に激し易い。精神分裂病で狂ったのも、この体質が病因だった。
 異能と霊能は異なる。今日では同じように扱われるが、異能力は太古の縄文人が持っていた能力であり、この時代の人が誰でも、ごく自然に生者とともに死者とも交わっていた。現代にもそうした因子を引き摺る人がいる。
 特に異能者は、女性の場合、髪の毛が、まさに緑の黒髪というように、艶やかで勢いがあり真っ黒なのである。緑は艶のある美しい髪の毛を形容したものである。決して栗毛掛かっていない。茶色でないのである。
 家内はそのような異能力をもち、また激すると分裂病に間違われ易い霊媒体質であった。
 そして、忌まわしい某大学の造反事件でおかしくなり、そのとき最初に連れて行った病院の医師の誤診で、精神安定剤の投薬の間違いから、神経症系の病気が、精神病系の病気に病変してしまったのである。
 以降、私の波瀾の人生は、ここに始まったと言ってよい。

 現在でも懇意な、私の知人に何人かの精神科医が居るが、その一人の医師に、「最初に投薬する薬が合わなかったらどうなるか」を訊いたことがある。すると医師は「そこから、更に悪化する」と言った。この医師は日本の精神医療に在り方に批判的であり、日本の精神医療が「回転ドア式」であることを教えてくれた人である。
 そこで更に突っ込んで訊いた。
 「では、精神にも神経にも全く異常のない者が、精神安定剤の飲むとどうなるか」と訊いたら、「その健康人は一週間の投与で、完全に精神分裂病になる」と言うのである。
 精神科医が精神分裂病、つまり今日で言う“統合失調症”に罹病したら、日本では30歳前後まで各種の年金を支払った場合、以後、月に2回病院に通医院した状態になっていれば、終生年金が給付される。
 この制度を悪用して、悪質な罹病患者や、それを知る周囲の者が精神安定剤を貰って、つい最近まで、ネットで「一生涯遊んで暮らせる方法」などのキャッチフレーズで、精神安定剤を販売していた者が居たが、これは「障害者年金」を不正な方法で受給資格を得て、一人の健康な人間を廃人にする悪質な行為である。
 つまり、側面から見れば「あなたはお金をとりますか、人生をとりますか」ということで、狂って金銭を得たとしても、自分の人生は失うことになる。

 しかし、最近は時代の変化と激しさと、多忙から齎される過労で鬱病になる人が増えている。そこで、“医師のアドバイス擬き”の悪徳商売が鬱病に搦めて、他人の型の違う投薬を販売している闇業者がいる。これも、日本に精神医療の遅れが招いた「回転ドア式医療」に問題があるようだ。

 日本の精神医療は、未だにアメリカやカナダに較べて遅れている。
 これは製薬会社と精神医療側の癒着があって、意図的に精神医療後進国化の中に置き去りにされ、欧米に較べて約50年以上もの開きを生じさせているからである。日本は未だに精神安定剤による「回転ドア式」の治療が主体である。
 平成3年当時のこの時代、精神科の治療も神経科の治療も、同じ土俵の上での医療がなされていた。これは精神科医が相当な経験を有してないと、何れかを判断するのは難しい。その意味では、日本は未だに精神医療後進国である。

 また、この実情が、統合失調症の罹病した鬱病患者か、ノイローゼなどの神経症患者かの判定が付け難く、更に家内のような感情家で、霊媒体質の巫覡の「巫」の、心の病気とな無関係な人を総て一緒くたにして扱ってしまう間違いが起こるのである。
 肉体の病気は「生体」に異常が顕われるが、精神の病気は「幽体」に異常が顕われる。つまり霊体構造の最外郭で、「精
(せい)」と「神(しん)」を結びつけている、車で言えばシートベルトのような役割を果たしている「気」つまり「心」の領域である。
 気を違えるから、昔はこれを「気違い」などという言葉で揶揄した。
 ところが、「神」となると、全く次元が違ってくるのである。霊媒者
(審神者)より上であり、霊域ではなく神域に属する次元である。

 真弓は霊媒体質ではない。「神
(しん)」を媒介する何かが憑いている。それゆえ荒れると、荒ぶる神になる。例えば荒れる起因に「怨念」が憑くなどの神霊的現象である。
 そして、彼女から注意を促されて時の貌は、ドッペルゲンガー現象で起こった、もう一人の片割れだったのかと思える。そうなると、かなり進行していることになる。
 彼女は怨影
(人の怨念と動物の怨みの合体)が憑(つ)く、疾病(しっぺい)を抱えているのではないかと思う。家内もそう指摘した。単なる心の病ではないようだ。
 次元的には「神」が冒されているので、精神医療のレベルを超えたものである。過去世
(かこぜ)の悪因縁から来るものである。習気(じっけ)と言っていい。親の何かを引き摺っている。
 因縁には善と悪がある。善きは少なく、悪しきは多い。苦楽の人生構造と酷似している。苦が多く、楽が少ない。
 人は生きながら喜怒哀楽の中で、悪しきを解決しなければならない。
 その一つの解決策に、あの老人が絡んでいるのかも知れない。道家の術で完治はないにしても、改善が見られるのかも知れない。もしかすると、それを考えて、私を中継者として猟ったのかも知れない。

 もともと大女将は、老人の居所など知らなかったのではなかったか、そう思える節もある。
 確かに老人が『ひさご花』に来店したのは、過去に何度かあったかも知れない。しかし、何処の誰かとか、居場所は未だに分らずじまいで、その探索を私に遣らせようと企てたのだろう。考えられないことではなかった。
 姪の彼女が疾病というものを抱えて苦悩しているとき、何か、来店時に洩らしたに違いない。そのとき病因が何であるかを指摘したのだろう。そのように組み立てることも出来る。
 だが、「俟
(ま)てよ」となる。
 それにしては、その筋書きで物事を考えると、何か釈然としない部分が出て来る。何故だろう。
 出掛けに結び文を、私の袖の中に放り込んだのを思い出した。あれに糸口の何かがある。
 そのとき大女将は、耳許で囁くように「これを速読して下さい。読んだら直ぐに、誰にも気付かれないように処分して下さい」と言った。その通りにしてみるしかない。
 速読せよと言った。どう言う意味か。
 速読しないと書かれたインキが変色して分らなくなったり、開いて酸化状態になれば、時とともに消えるのか。そういう仕掛けがあるのかも知れない。また監視されていると仄
(ほの)めかしたり、速読する際に姪にも気付かれるなと釘を刺した。それは深層部を推理すると、私の力倆(りきりょう)に頼ったとも考えられる。
 これからどう立回るかは、まずは読んでからだ。ここは慎重に遣る以外ない。
 注意点は速読せよだった。一読後、速やかに処分せよ。監視されているから注意せよ。姪にも明かすな。分析すればこの四点である。これをキーワードとして謎解きをする。
 書かれた和紙の結び文を解いて、まず驚くことがあった。文字の流れるような行書の美しさだ。一瞬して「和歌文字」というふうに映った。

 腹痛おさまりましたでしょうか。お酒の中に媚薬(びやく)ならぬ、古い瓢箪を灼(や)いてそれと等量の黄蓮(おうれん)を粉にした物を二匁(にもんめ)ほど混入致しました。
 これをお燗
(かん)にして、朝、迎え酒として召し上がって頂きました。
 あの方
(老人)の申しますには、あなた様のお腹には、よからぬ蠱物(まじもの)が棲んでいるということで、これを追い出さねば目覚めぬと申しておりました。わたしは、そこで一つの試みとして、あなた様を験したのでございます。
 科学の発達した世に中に蠱物といいますれば不可解にお思いでしょうが、あなた様の霊肉比は霊女肉男で、奥さまが霊男肉女ということです。二つで一体の男女。どうぞ奥さまを大切になさいませ。
(おそらく老人は、私たち夫婦について話したのであろう。既に二回会っている)
 さて、姪の真弓のことですが、真弓は私の妹の娘で御座います。
 かつて咒
(じゅ)に罹り、その咒が未だに解けません。十八の時に学生結婚をし、良人は然(さ)る資産家の御曹司で、政略結婚のような形での結婚でした。
 これは入り婿の形で執り行われ、強引に妹が招き寄せたことでした。妹は子供の頃から早熟で、役者風情に熱を上げ、ある俳優の子を十五で身籠ったのです。そうして生まれたのが真弓で御座います。
 次に妹が目を付けたのは真弓の良人で御座います。真弓の婚礼後も、度々不義を重ねておりました。その現場を、真弓は不運にも見てしまったので御座います。後は述べるまでもありますまい。そのとき怨みに“蠱
(こ)”が取り憑き(怨影化)、躰の一部に巣食ってしまったのです。(この場合、心に巣食ったのではなく、神を冒されたと検る)更に悪いことは、妹と姪の良人が駆け落ちしたので御座います。表沙汰には出来ませんでしたので、表面上は嵐の日のヨットによる遭難となっております。このとき真弓は、狂う惜しいほど無念に狂いました。そして子供だけが残されました。今朝、見た小学一年の女の子で御座います。
 これまで、わが名すら明かさず、またあなた様のお名前すら存じませんでした。またあなた様も訊きもしなかったし、お名乗りになりませんでした。
 これだけで、並みの方とは違うと思料致しました。それはご自分を売り出さないお方と見たのです。聞く耳があると判断致しました。信用に値すると感得した次第です。この見解、間違っておりましょうか。
 更に練馬のあの方です。あの方を通じて、あなた様の横顔を拝見させて頂いた次第です。しかし、残念なことに、あの方は現在行方不明です。その経緯を話しますれば長くなり、追々ご報告させて頂きます。
 今朝、わたしが監視されていると申し上げたのも、あの方の行方不明と無関係では御座いません。いま暫く、時が来るまでお待ち願います。後ほど、詳細はご説明させて頂きます。
 わたくしは恥を忍んで、誠実な気持ちで、あなた様に内心を打ち明けております。でも、あなた様の見解では、誠実だけではその正しさが伝わらないとお思いになるかもしれません。その証として、あなた様のお腹に棲む蠱を出して差し上げました。ご気分は如何でしょうか。
 わたしたちを悲愴な喜劇を演じる喜劇役者とお嗤
(わら)いでしょうか。どうかお扶(たす)けくださいませ。
 最後にお願いが御座います。この話、くれぐれも真弓はお話ならないように重ねてお願い申し上げます。真弓は勘がよろしゅう御座います。勘付かれないようにご注意なさいませ。
 また話術は、わたしが真弓に教えたものです。くれぐれも真弓の媚に蠱惑されませぬようにご注意なさいませ。開封後、速読後、即座に消去されますように。

【註】青字は筆者註釈)    


 凄まじい内容のことが書かれていた。走り書きである。決死の思いであったのだろう。必死ではない。決死である。
 世間では、父親が息子の嫁を寝取って収奪するということはよく耳にするが、母親が娘の婿を寝取って収奪するという話はあまり聞かない。滅多に聞かないことを遣らかすのであるから、それだけ執着して、拘泥
(こうでい)する渇愛(かつあい)の情念は深い。愛に溺れて狂う女の情念であろうか。更には、相の固執した愛着(あいじゃく)の醜さか……。
 愛着においては、不倫以上に凄まじい執念が行為の源泉になっているのだから、何もかも覚悟の上だろう。
 単に不倫ならば、他人同士の親子・兄弟・姉妹以外との交わりがから、怨影化の現象は激したものでない。

 ところが、義父・義母・義兄・義姉・義弟・義妹の間柄であっても、交われば、そこには近親相姦の「火病
(びょう)」か、それ以上の禍が生じる筈だ。他人ならいざ知らず、親子間・兄弟間・姉妹間でこれを遣るのである。当然、狂えば怨念化するだろう。
 義理であっても血族の一員に加われば、そこには血統以外の霊統的な繋がりが出来るのである。霊統が破壊されれば近親相姦相の比ではあるまい。恐ろしい「唸
(ねん)」が疾(はし)る。義理を結べば霊統の繋がりを意味する。血以上に霊的結合するから、狂えば恐ろしい。震撼させる荒ぶる神に変化(へんげ)することも珍しくない。
 そうなると人智を超えた、人間以外の何かが働いていることは明白である。そこには邪淫が源泉となっている。作用に対して反作用を物ともしない凄まじさである。
 邪淫は唸の塊である。この唸に、私は蠱惑されるのか……。

 ちなみに黄蓮とは、キンポウゲ科の多年草で、根を干せば漢方の生薬として健胃薬となり、一方「黄蓮解毒湯
(おうれんげどくとう)」として、知る者が知る鎮静ならびに解毒剤である。この黄蓮と瓢箪の灼いた物を二匁(にもんめ)とあるから、約7gを等分にして酒に融かしたのだろう。私が嘔吐したのは、肚の毒を出す解毒作用だったらしい。果たして私の肚に棲む、肚霊(はらだま)を眠らせた狐も一緒に吐き出されたのだろうか。

 女陰は確かに素晴らしい。神秘なる構造である。女陰こそ神秘そのものである。
 一休宗純が言うように「女をば法のみくらと言うぞげに釈迦も達磨もひょいひょいと出る」と絶賛したこの世の始まりは、総て女性が造ったものである。始まりの根元は女だった。
 しかし女が、役者風情の男の色化
(いろか)に狂うと、そこに悲劇が生まれる。陰性の宿業を背負う女は怨念化し易い。今日で言う“いけ面狂い”である。男の顔形に魅せられて表皮評価に惑わされると、今度は女の方が積極的になって、娘の婿を寝取る、あるいは姉妹間で「寝取り合戦」の鬩(せめ)ぎ合いが起こるである。

 確かに女の下半身は、男には真似出来ないことをする。子を身籠り、羊水で十月十日遊泳させ、やがて風
の知らせで子を産み、育て、世界の始まりを創出する。現象界創出の一切を偉大な女陰女根が司る。
 一方で女根には、此処に入る男根を選
(よ)り好みし、入って来た男根を放すまいとして、時として、すったもんだの不倫現象を起こし、結局はまた、その男根は別の女根に滑り込む。大人の恋愛といえば体裁がいいが、つまり不倫連鎖である。それで家族中が大騒ぎする。何と言う男女の悲喜劇だろう。恋愛遊戯は、この悲喜劇の温床になっている。
 その、すったもんだの犠牲者が、大女将の言う姪の真弓と言われた女性かも知れない。大女将の結び文の内容から、「怨影
(蠱物)に苦しむ姪を扶けて欲しい」と懇願している。そう検(み)たのである。
 果たして私は、此処まで恃
(たの)まれれば、義によって助太刀申すしかない。何故か無関係だと捨て置けないのである。

 此処に書かれたキーワードを分析すると、女性には怨念が“蠱”を引き寄せたと検るべきだろう。その母親の悪性の陰性因子が、本人に取り憑き、本性と結託して巨大化している。今も成長している。そう採れる。
 総ての禍は女根に蠱惑
(こわく)された男根の仕業(しわざ)か。あるいは揺れ動いた男根の優柔不断か。悲喜劇があるとしたら、ここに元凶があるようだ。
 さて、拙
(つたな)い吾(わ)が力で、勝ち過ぎる荷をどう担ぐべきか……、その思案にくれていた。それにしても、何と言う変化が起こった日だろう。昨日から今朝に掛けて、予期しない“どんでん返し”を目(ま)の当たりに見せ付けられた思いだった。
 その“どんでん返し”の中に、ほんの束の間の蜜月があったように思うのである。



  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法