運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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壺中天・瓢箪仙人 44

瓢箪は神仙境を顕しているとも謂(い)われる。
 神仙境のシンボルことが瓢箪であった。神仙境は「死後に遊ぶ」という願望から起こったとされる。その願望には「桃」と同じように扱われ、俗世の煩悩を断ち切ったり、魔除けの「破魔」であったとも謂う。

 桃木には霊的な力が宿っているとされる。
 命の芯
(しん)から力が漲(みなぎ)る性命力を増幅させる霊魂の根源であると信じられて来た。万物は天から授かるもので、その性質並びに運命がその中に宿り、これがつまり「いのち」と言われるものである。

 更にが、老荘的に言えば性命を発生させる母胎を顕す子宮が、また瓢箪に象徴されて来た。瓢箪の中は壺と同様に、「壺中天」の世界が広がっていた。破魔の意味をもつ。
 そして破魔の瓢箪から朱塗りの盃に酒を注ぐ。万物の授かりものである「いのち」を注ぐ。何とも風流ではないか。


●異妖門

 私は時代の中を渡り歩いていた。渡り歩く「徒」である。
 では徒とは何か。
 世間には「徒」と称する類
(たぐい)がいる。
 例えば学徒も学問をして方々を渡り歩くし、また徒弟、門徒、生徒、信徒などがあり、更には仏教徒、キリスト教徒、イスラム教徒などの宗教に帰依
(きえ)して信仰の求道者も居(お)り、あるいは何もせずに遊び暮らす輩(やから)を“徒食”など称したり、無駄骨を折ることを“徒労”とも言う。

 歩行自由においては渡世人という言葉まであって、これは無職渡世の人を指し、何処かフリーメーソン的
(国境なしの自由徒行的)な意味合いを持ち、かつては「博徒」と称して全国を股に掛けて博奕(ばくち)を打って歩く徒もいた。
 つまり徒とは、歩行して「行く」ことをいい、乗り物などの鉄道や車、あるいは空路や海路を乗り物に乗らず、徒歩をもって「徒行」することを言う。また徒は、旅の先々の地において、土地神である産土氏神
(うぶすな‐の‐うじがみ)の挨拶を心得ていたものである。土地には祖霊が棲むのである。祖霊には挨拶がいる。挨拶とは「礼」であり、人間は何処に居ても、悟りの程度を試される。道理の熟知度を験(ため)す一種である。知らない土地では、常にこれが付き纏う。旅行先や徒行先では、単に案内書を一読しただけでは駄目である。気候風土とともに土地の根本を知っていなければならない。出向いた先の祖霊への挨拶が必要である。これを知らずに出掛けて行って事故や事件に巻き込まれる人もいる。

 かつてはその道標として、叢境
(むら)などの各辻々には道祖神(どうそじん)が建っていた。徒行するものを悪霊から防ぐ道案内人が立っていた。障(さえ)の神である。
 そう言う神によって、徒行する者は「いつか来たことのあるような、何か見覚えのあるような」次元まで引き込んで、懐かしい感覚を想起させるのかも知れない。

 更には、心の旅人として心的には、「乞う」というのがあって、自ら求めて、道を訪ね歩く徒行する者を「求道者」とも言う。
 そもそも徒とは、「歩して行く」の意味であり、土の上を、一歩一歩足を進めて、歩く「徒行者」のことを言うのである。


 ─────神田神保町の古書街からの復
(かえ)り、蕎麦に掛けと酒を引っ掛け、ほろ酔い気分で銀座通りを歩行していたとき、奇(く)しくも日の丸の眼を留めた。そこで開店前の掃除途中の老婦人の聲(こえ)を掛けた。
 「あの……」と問おうとしたら、「何ですか、書生さん」と、人を呑むような切り返しがあった。ここから不思議な縁が始まった。
 誘われて入った店には奇遇があった。自分では偶然に思う。しかし偶然でないようにも思える。それは不思議な縁で繋がった廻
(めぐ)り合わせを感じたからである。
 私が歩いて行き着いた先は、瓢箪を意味する『ひざご花』という和風スナックであった。このスナックは確かに和風スナックだが、並とは違う一段敷居の高い数寄屋造りで、内装の造作は一等檜の総檜造りで、あたかも離れ座敷という感じで、風情からしても逸品揃いであることを窺わせた。
 その逸品の中に瓢箪があった。それも、あのとき老人が腰にした物と酷似していたからである。
 私の心の深層部に、瓢箪を追い求める何かがあったのではないか。そういう心当たりがあった。あるいは道を乞おうそていたのか。
 訪ね歩いた先に、眼に鮮やかな日の丸があった。この日の丸が瓢箪に結びついた。
 一方で、日の丸、ある聯隊
(れんたい)の集合写真、大戦当時を偲(しの)ばせる骨董品、そして店名の『ひざご花』という関連の中から連鎖するように、大戦末期の重苦しさと、一方で郷愁を煽る「何か」に思いを馳せていた。それが何故だか無性に懐かしさを想わせたのである。何かが繋がったのである。

 かつて、わが家にも当時の父の軍隊時代の遺留品が残っていた。振り返れば、懐かしさを追い求めて訪ね歩いて来たようだ。
 父の軍刀
(刀身は配給の官品ではなく名のある刀剣だったので別に保管していた)を初めとして、軍隊毛布や図嚢(ずのう)、飯盒(はんごう)や水筒などがあり、これらは実際に私の子供の頃に使っていたからである。軍隊毛布は陸軍の星のマーク位置のカシミア(あるいはラクダか何かの合成か?)であったし、図嚢は鞄代わりだったし、飯盒は実際に飯炊きに使っていた。また水筒は、幼稚園の遠足のとき肩から下げて使ったことを記憶している。
 思えば、何故か懐かしいのである。それだけに歳を取ったことが分る。あれから40年近くが過ぎ去っていた。

 此処に至った筋道を考えた。果たして偶然に足を踏み入れたのか?……と。
 物事は総て起こるべきして起こっている。必然である。
 偶然に思える事象でも、裏には起こるべきして起こる必然が隠れていて、それが何らかの意味をもって現象を起こすのである。その意味に従い、事象としての「何か」が起こる。人智では、この「何か」を特定できないだけである。一寸先でも予測不可能だ。
 そう考えると、その経緯には何らかの意味を持っていたのであろう。
 時間帯としては、午後5時半以降のことであった。夜の帳
(とばり)が降りる頃である。
 この時間帯を「逢魔
(おうま)が刻(とき)」といい、一般には大凶時(おおまかどき)として知られる。魔が起こる時間帯である。陽が陰に転じた直後を言う。

 昔は、逃げるように家路に急いだものである。
 宵闇刻
(よいやみ‐どき)は日々刻々と流れる時間の中で、陰陽が入れ替わる時刻である。
 これはあたかも満ち潮が引き潮に変化する時刻に一瞬潮の流れが止まり、凪
(なぎ)が訪れるように時間のエアーポケット空間があり、その中間刻を“逢魔が刻”と言ったものである。
 この時刻に人智を超えた「何か」が起こるとされていた。逢魔を引き起こすから、この時間点と空間点を「魔が入り込む時刻」と呼んだ。そこに魔の効力があるとされ、そこに立つ門を「異妖門
(いようもん)」と呼んだのである。
 どうやら私は、この門を潜って此処に遣って来たらしい。あるいは門の中に呑まれたというべきか。
 此処に至る寸前まで、着物の袖をばたつかせていた悪戯風
(いたずらかぜ)はピタリと納まり、その時空を抜けて、此処に来たとも思える。鮮やかな日の丸に目が止まったのも凪時間だったかも知れない。普段は見逃して気付かないものに眼を留めたからだ。偶然にしては余りにも出来過ぎていた。必然的な、何か意味のある事象が起ころうとしているのだろう。そう感得した。

 それに、何かの誘導があったかも知れない。あるいは案内があったようにも思える。
 私は無意識に、何かに案内を請
(こ)うていたのだろうか。あたかも神仏に乞うように……。
 はじめて踏み入る土地は、何故か無意識に足の裏を通じて、何かに乞
(こ)う癖があった。
 未踏の地での願いは「迷わさないで先を案内して下さい」であり、迷わないための呪
(まじな)いである。気休めだろうが、こうすると不思議に径(みち)に迷わないのである。
 はじめて行く場所には、以降の歩行安全のために、私独自の防衛能力を働かせるのである。こうすることによって、これまで一度も事件や事故の遭遇することはなかった。無事に切り抜ける。
 土地神の習性は人の踏み入ることを赦
(ゆる)さない。余所者(よそもの)を嫌う。
 しかし平成3年頃から、何らかの変化を生じさせていたようである。
 霊的に言って、本来土地と連携する「地の神霊」である鬼神
(きじん)は荒ぶる性質のものである。未踏の地ではその土地の神霊とのスキンシップがいる。祀(まつ)りがいる。礼がいる。
 これは科学一辺倒で説明も出来ない。そうしたものがゴマンとある。そこで礼が必要になって来る。股旅渡世人が全国を回遊出来たのは礼を知っていたからである。
 一方礼を知らなかったり、礼に欠ければそのときが怕
(こわ)い。他国の余所者(よそもの)扱いは怕いものだが、それ以上にその地の土地神は、更に怕い。神霊は礼に欠ければ、それを人間にその分だけ反映させる。此処にも、単なる脅迫威嚇(きょうはく‐いかく)だけでなく、自然界の作用に対しても、反作用が働いているのである。

 平成4年に愛知県豊橋に移転し、土地の神霊に礼を尽くした。近くの神社に頭
(こうべ)を垂れに行った。産土神詣りである。三箇日より優先しなければならない行動である。
 また同年の4月頃に、京都から電車で17分の滋賀県大津瀬田に移転し、瀬田の産土神詣りをして礼を尽くした。それから三年後の平成7年に阪神・淡路大震災に遭遇した。しかし無事だった。
 大津瀬田は直接ではなかったが、関西には親族が居た。親族は産土神詣りの秘礼を知っていた。建物や物財に被害は出たが、心身には異常がなかった。罹災しながらも心のケアーは無用だった。心も躰も、惨事を見ても狂うことはなかった。「身土不二」の意味を知っていたからである。
 惨事は実際に起こっている時よりも、起こった後の惨事を反芻
(はんすう)する時点で増幅・膨張が起こり、本当の地獄は此処から始まる。あるいは映像や音から心的被害を起こす場合がある。人間は過去を反芻して、記憶の中の狂躁状態が起こるのである。

 例えば、映像や音から心的被害は一番分かり易い話が、空襲時の爆撃機からばらまかれる焼夷弾などの末尾部分にある矢羽根型の風切板である。この音はピューンと余韻を引く奇妙な、独特な音を出す。多くの爆弾はそのように造られている。
 この音を聴いていると、その音だけで狂う人が出るのである。心理戦の一種である。したがって、音で狂った人は終戦後に種々の後遺症を発症し、正常を狂わす心的被害を受けるのである。
 震災時も、地の底からの揺れを伴う非日常現象と、奇妙な振動音だけで狂う人が多数出て、心的被害を齎した人が、今も絶えないという話はよく聞くところである。これは以降の東日本大震災にも心的被害は同じように発症している。その後、死者が出るのは熊本地震からも分る。
 人間の人体とその地方の結びつきが密接な関係を持っていることは明確である。此処に真の意味での「身土不二」があるのである。
 心的被害が発症しなかった親族達は、食体系を通じて、わが身と産土の神霊は一体であることを知っていたからである。心身は健康であえり、目の当たりに生地獄を見ながら罹災したにも拘
(かかわ)らず、その後、狂いや後遺症は発症しなかった。秘礼の御陰であった。

 忌まわしい惨劇の地震の起こる一週間前、琵琶湖周辺を走行している時、不穏な地面の動きを感じた。何かが起こるぞ。そんな気配を感じた。そしてその後、震災発生後は何度か関西方面に出掛けれたが、土地神の怒りは定期的に続いていたように思うのである。
 一週間前、琵琶湖周辺に土地の異変を見た。それが長らく鎮まりを見せなかった。三日過ぎても、四日過ぎても鎮まらなかった。そして危惧
(きぐ)するべき地震が起こったのである。
 大自然の自然現象は、何処か別の次元で起こっていることがタイムラグを経て、人間現象界に反映されているようにも思える。神霊界から顕界に向けての、別時空の二現象が時間差を生じて起こっているようである。

 日本の道路は戦後、至る所が舗装され、肌が剥
(む)き出しになっているところは都会でも見られなくなった。地方都市でも同じであり、アスファルトで舗装されている。
 しかし敏感な人は、同じに見える舗装道路でも、「堅さが違う」と言うのである。舗装の下から伝わって来る土が何かを知らせると言うのである。それは踏みしめて、安堵感があるか否かの相違を言うらしい。
 安堵感を抱かせる道路は、地が確
(しっか)りした堅い道路であり、何か揺れ動く不安を感じさせるのは柔らかい道路であると言う。酸化鉄に富んだローム層や、その他の火山灰の堆積地域は柔らかい。上を舗装しているだけである。舗装されていても堅・軟がある。
 人は、堅・軟から判断し、知らない土地でも堅さによる安堵からその上を歩くと言う。こうした能力が古代人には備わっていたらしい。堅・軟が危険回避の目安になるからである。

 また同時に感じたことは、人間の心の動きと自然自体の動きが何らかの形で連動されていて、それが相互に反映されるという現象を起こしていると感じたことである。
 人の心の荒れは、そのまま自然に反映されるという超心理的な感覚である。
 そして平成3年頃から、徐々に貧富の差が克明になり、持てる者と持たざる者の格差が、心に連動された感情に変化するという感覚を抱いたのも、この時だったと記憶する。
 人は貧困や不平等を心身に感じると、感情が荒立って暴力的な行動に出るようである。テレビの報道ニュースなどで、貧しき者が富める者への不満を曝
(さら)け出す行動はよく見る現象であるからだ。

 一方富める者はどう言う行動を示すのか。
 まず貧者へ見下しである。侮蔑である。心的には高慢な態度に出る。また行動は、威嚇と優越のために遊び奢
(おご)る遊敖(ゆうごう)になる。思い遣りや慈悲の欠如した行動をとる。そこに弱者の憎悪が起こる。下から上に向けての怒りの目が集中する。この集中が臨界点を迎えると狂躁状態が起こる。人智には予測不可能な特異点に達する。特異点を迎えて“どんでん返し”が起こる。地上を霊的支配している土地神も同じである。
 そうした人の感情が自然と連結されていたら、怒りも、あるいは関連の混乱から狂躁が生じているのではないかと思うのである。鬼神は徒行の態度を検
(み)る。
 こう考えると、異妖門を通過して無事此処まで辿り着いたと安堵するのである。
 この門の通過の途上、種々の禍
(わざわい)が鬼界の口となって開き、人間の墜(お)ちるのを待ち構えている。
 旅行先などで、「懸かる」という現象は、鬼界の口の中に墜ちたことを意味する。事件や事故の遭遇とは、鬼界の口に墜ちた現象である。土地にはそういう鬼界がゴマンとある。

 「書生さんは、学徒動員世代ですか」老女将は異なことを訊く。
 「うム?……」
 一瞬戸惑った。“学徒動員”と来たからだ。
 さて、何と答えるべきか……。
 躊躇
(ちゅうちょ)していると、即座に次を切り出して来る。
 「それとも幹候として、何処かに激戦地に赴任していたとか?……」おそらく冗談であろう。
 《とんでもありません》と答えるより、乗るのも面白い。いっその事、《敗走のインパールで戦っていました》と答えようか。
 ただ否定しても、その程度のレベルの人間で終わる。折角、異妖門を潜り、此処まで足の裏に導かれて来たのである。この場を繕
(つくろ)う独自の“乗り”が欲しい。しかしインパールは大袈裟だろう。
 「そこまでオールドマンに見て下さるのは光栄ですが、こう見えても戦後生まれです。今ふうに言えば団塊の世代です」
 「おやまあ、てっきり学徒動員世代かと思いましたよ」
 更に釜を掛けて来た。
 「書生はですなァ、何を隠そう、戦後の生めや殖やせのベビーブーム時代の団塊の世代であります」少しばかり軍隊調になっていた。
 「書生さんは誘導尋問に掛かり易い人ですねェ。まあ、それだけ青いということでしょうか。あるいは多くの難儀を経験した苦労人でしょうか……」
 顔色の微妙な変化を読んだのだろうか。何とも意味有りげに言う。
 “青い”とは、一瞬貌に出た変化を精神的未熟と指摘しているのだろうか。あるいは心理戦で楽しもうというのか。それとも年に似合わず老けているとでも言いたいのだろうか。それならば若僧に見られてないだけでも増しである。私は若く見られ、青二才に見られるのが好きではない。若いですねなどと言われると、《俺はそれほどバカに見えるか》と遣り返したくなる。

 だが老女将は、あきらかに人を喰っている。
 客を客とも思っていない。歯切れのいい江戸弁でずけずけものを言う。またそれだけに修羅場然とした場数を踏んで来ているのだろう。この肚の据わり方は何だろう。役者が一枚上である。こうなると調子を合わせるしかない。
 「書生は、年齢より年長に見られて実に光栄です」
 「書生さんは変わった人ですねえ、変人の類
(たぐい)でしょ?」呑むことを諦めない。
 「ますます光栄です」
 これは切り返しついでの皮肉ではない。
 私はこれまで、自分を幸福な人間だと思ったこともないし、不幸だと思ったこともない。ただ生きることに忙しかった。あれやこれやを思い悩む暇などなかった。
 不幸だと思う人が、平和こそ幸福だと思い込んでいる人で、幸福だと思っている人は波乱万丈の人生を不幸だと思い込んでいる人だろう。
 そもそも、個々人で感知する幸・不幸は、その人のこれまでの人生経験や体験で異なるのである。その基準は一様でない。人によって違う。

 「書生さんは不思議な人……」
 「変人ですから」
 「老けてみられて光栄だと云い、変人と言われて更に光栄と云う。出
(いで)立ちからして長老趣味がおありですのね」
 「長老とはいいですなァ」
 私は、長老と聴けば直ぐに宣布者を連想する。先達であり、司馬遷の『史記』の「司馬相如伝」にも宣布熟練の士を人生の先学として崇めている。
 「書生さんは人を喰っていると言うか、雑言も好意にとってしまうと言うか、やはり変人ですのね」
 おそらくこれも、この店では客と交わす社交辞令のようなものであろう。
 「有難く変人を遣らせて頂きます」
 「そこまで言うと奇人の域です」思惑を巧く切り替えされたことに予想外の反応が見て取れた。
 「今やっと分りましたよ、『狂』の意味が……、狂人と言われることが……」
 「何だか意味深長……」
 「そう言った者が居りました」
 「つまり書生さんは名誉とか金銭なんかには無縁で、一切興味を寄せないということですね、他人の思惑など一切気にせず、自分の価値観を何処までも押し通す、そういう人でしょ、違いますか」
 「いや、金銭は無縁でないし、名誉も欲しいし、ついでに美女も欲しい……」
 「ごちそうさま」
 「世の底辺にいる俗ですよ。表面上は俗を貶
(けな)しつつも、俗だ大好きで、俗にどっぷり首までつかったぐうたらです」
 「そういう方ほど、実は何かを悟っている。もう卒業しているのと違いますか」
 「さて、どうでしょうか……」
 「人間は変化しますからねェ、人はみな善にせよ悪にせよ、どちらに転んでも、その方向に無限の可能を秘めていますからねェ。草花を見るように自由で虚心な眼で人を見たいと思って、頭の中で考えていましたが、中々そういう自由を手に入れて豪放磊落
(ごうほう‐らいらく)に、こだわらずに生きている人は、最近、とんと見たことがありません。そこに奇人が顕われた……。長生きはするものですわ」
 「つまり、その奇人というのが、私ですか?……」
 「よく分っていらっしゃる……」
 私の意図とは違って、奇妙な方向へと流れ出した。役者は一枚上どころか、二枚も三枚も上である。振り出しの戻さねば……。
 このままでは話を反らされて変なところへと持って行かれる。私の軌道修正だった。
 「お窺
(うかが)いしたいことがありますが……」
 「なんでしょ?」
 「先ほどから気になっているのですが、そこの瓢箪のことです」
 「瓢箪が何か?……」
 「瓢箪部隊のことですよ。大戦末期、華北石家荘方面に居たという話の中で、女将が驚いたような、慌てたような、その素振りが気になりましてね」
 此処まで迫ると、何故か女将の口が重たくなるのである。話したくない素振りを示す。
 「その話、訊きたいの?……」女将はじらすように切り出した。
 「ぜひ!」懇願するように身を乗り出した。
 「詳しいことはよく知らないの。ただ、お客さんに練馬から通って来る年配の方が居りましてね、その方が石家荘方面のことを話してくれたの……。瓢箪もその人が……」
 老女将は、懐かしい……と思わせる素振りを臭わせながら話す。石家荘に何か懐かしさの共鳴を感じているようだった。
 「では、女将さんも石家荘辺に居たのですか?」
 「禍は北から訪れる……というのをご存じ?」
 老女将は私の質問に答えず、奇妙なことを訊いた。それは軍靴の跫音
(ぐんか)のことを言っているのだろうか。

 そして、そう問われて《確かあのとき瓢箪の老人は「ソ連軍は赤軍
(八路軍など)と合従連衡(がっしょう‐れんこう)して中国華北にも殺到する」と云い、その懸念が大……》と言ったいたことを思い出したのである。老女将は、終戦のあの年の8月6日、ソ連は日ソ中立条約の不延長を通告し、有効期限内の8月に対日参戦して満洲に侵攻したことを言っているのではないかと反芻するのである。おそらくそうだろう。体験者でないと出て来ない言葉である。
 すると老女将は、石家荘辺に居たか、あるいは離れていても、そう遠いところには居なかった筈だ。当時確かにその近辺に居た。そして少なくとも大戦末期は、日本内地には居なかったことになる。
 大戦末期は「北から来るぞ」ということが取沙汰
(とりざた)されていた。また中国大陸の歴史から考えても「侵掠者は北から来る」という例が多い。北狄(ほくてき)への危機感である。万里の長城はそのために建設された。
 特に古代中国では、匈奴
(きょうど)・鮮卑(せんぴ)・柔然(じゅうぜん)・突厥(とっけつ)・契丹(きったん)・ウイグル・蒙古などの遊牧民族を北狄と呼称した。

 事実それが顕著になり北方アジアから満洲へと侵入した。侵掠すれば遣りたい放題である。満洲では、北のある地点からソ連軍は侵攻した。そして至る所で“行きがけの駄賃”行為が繰り広げられた。大きな民家は悉
(ことごと)く凌辱(りょうじょく)され、占拠された。
 日本人が日本史の中で、外圧の侵攻により凌辱を受けたと言う歴史は殆どない。元寇のときは北条武士団が食い止めたし、戦国期も大名同士の領国間の侵略はあり、残忍な凌辱は村全体に及んだとしても、日本列島全域には及ばなかった。明治維新前夜の内戦にも凌辱はあったが、軽度であり、また先の大戦の敗戦後も占領軍の暴力や凌辱はあったものの、満洲においての、北から来る恐ろしさに較べればその比ではなかった。
 「侵掠者は北から来る」の驚異はどうであろうか。
 日本人は経験したことのない凄まじいものであった。ところが、こうした凌辱譚は殆ど語らたことがなかった。

 「近現代史の大惨事は書物の中では知っているつもりですが……」
 「知っているつもり……。そうでしょうね、実際に見たことはないでしょうからね」
 女将はあたかも見た、あるいは体験したと言わんような言い方であった。おそらく、その惨劇を外地で目の当たりにしたのだろう。
 人間は得体の知れない感情に支配されることがある。そのトリガーは格差不満が爆発したときである。盲目となった集団がすることと言えば、古今決まっていることなのである。
 破壊、掠奪、強姦、殺人、放火などである。背景には敵意剥
(む)き出しがある。単なる流血騒ぎなどではない。侵掠の場には、鬼気に似た独特の磁場が作り出されるからである。これを機に侵掠者は傲慢(ごうまん)になる。普段は温和な人間でも急変する。
 かつて、日本人商社マンがエコノミックアニマルと蔑称された居た頃、東南アジアなどに出張した商社マンが、現地で売春を求めて徘徊したことでも分る。こうした商社マンも日本にいれば、温和で、家庭人としてはいい父親であり、いい亭主であった。それが日本を離れて途上国に進出したとなると、これまでの態度が一変する。金に物を言わせて傲慢になる。

 軍隊でも圧倒的優位になると、将兵は傲慢になる。軍紀・軍律が甘ければ、更に一時期暴徒化する。
 人心に棲
(す)む、普段は抑圧されていた黒い心が浮上するからである。こうなると人間同士の一方的な殺戮が始まる。暴動する者と、される者の憎悪による啀(いが)み合いや殺し合いが起こる。
 これは戦争している時よりも、戦争が終わって占領された以降に起こる現象である。本当の地獄は、戦争そのものよりも、終了したときの敗戦国になったときから始まる現象こそ、まさに生地獄と言わねばならない。
 老女将は敗戦国日本に起こった、その惨劇を実際に見聞したのだろう。
 人類に有史以来の歴史の中には、建国、傾国、亡国の繰り返しが記録されている。それはまた栄枯盛衰の歴史であった。

 産經新聞を除く、朝日新聞をはじめとする左翼よりの報道をする新聞には、戦争談が報じられ、それに体験者の反戦譚や平和譚が掲載されているが、その殆どは当時の戦争体験を感情に訴え、ヒステリックに語るところから始まっている。それだけに戦後の日本で語られる当時の戦争談や軍事観は極めて皮相的であり、幼児的である。軍事に関することや防衛を語れば、総て平和の敵の看做し、保守反動主義者や偏狭な軍国主義者と喧伝する。
 「戦争はもう懲
(こ)り懲り」とか、「貴重な戦争体験を次世代に語り継がねば」という使命感と絶対的正義で、その種の感情のみに訴え、理性や知性の欠いているところは如何にも傲慢である。この傲慢は次世代を愚弄(ぐろう)するばかりか、次世代の正しい眼で歴史を検証するといした歴史観への芽も摘み取っていることになる。
 戦争と言えば、卑しく眉を顰
(しか)め、悍(おそま)しいと一蹴した表情を示す人を、私は一概に否定はしないが、問題なのは、戦争が何故起こったのかのメカニズムの解明がないまま、便乗気味の反戦主義譚に凝り固まっていることは、一方で次世代の良識を奪うことになろう。
 何故ならメカニズム解明という必須要因が欠落しているからである。

 この日、此処に一時間ほど腰を据えたが、午後七時を回ったあたりから客は入り出した。ただ呑むだけの小人の徘徊である。そういう流れの客の往来が起こり始める時刻だった。訳の分からぬ小物が紛れ込むこともある。
 普段は銀座には出て来ず、神田駅界隈の安酒場で酒を喰らう連中である。それが酔った勢いで銀座通りに足を伸ばすこともあるらしい。酔わねば一段敷居の高い数寄屋造りの、こう言う店には紛れ込むまい。世は一億総月給取りの時代である。世の中全体は急速にサラリーマンかの時代を爆走していた。会社員が、一握りの会社役員に仕える時代へと変貌を始めていた。形の変えた、アメリカ式のエリート同族構造が日本にも伝来し始めていた。ただこの時代、サラリーマンにはその自覚症状はなかった。自覚したのは一億総中流意識だけであった。

 「おい、婆さん。酒くれ……」
 その中の一人が高慢な口の聞き方をした。背広にネクタイだが小物然としていた。
 老女将は「何に致します?」も聞かずに、ヘネシーのボトル一本とグラスを置き、そのグラスにストレートを並々と継いだ。
 「こんなもの注文した覚えがないぞ、間違いではないのか」
 「いいえ、サービス品です。無料ですから好きなだけ飲んでいらして……」
 これを聞いた傲慢無礼な客は忽ち貌を青くして、辺りを見回し、逃げ腰になり「あッ!いけねえ、用事を思い出した。失敬するよ」と慌てたように退散してしまったのである。
 退散後、女将はにやりとした。しかし見下したのではない。場違いを指摘したに過ぎない。一ランクも、二ランクも上であった。

 「ああ言うのを小人というのです。論語にはああ言うのを『近づければ調子に乗って不遜になるし、遠ざければ怨
(うら)む』とあるしょしょ。人間は思い込みの激しい、自惚れの強い生き物ですからねえ」
 「唯
(ただ)女子と小人とは養ない難しと為(な)すと言う、あれですか。思い込みの為せる技で、また自惚れから来るものでしょう。ゆえに大半の日本人は戦後の平等教育で、この箇所に女子が来ることにカリカリ来る。しかし、ここに上げられた女子は、女性全般を指すのでなく、金で動く妾や芸妓の類です。そういう輩を扱い難いとしているので、これを読み間違うと誤訳も甚だしくなる。男尊女卑になってしまう。読みの浅さでしょう」
 「おや、よく解っていらっしゃる」
 この女将は私が厭でないらしい。私が一見の小物としては扱われてないらしい。厭なら、おそらく私の前にもヘネシーのボトル一本とグラスが置かれるからだ。
 現代は“場違いな素人”が殖えたような気がする。平等主義が齎した禍であろう。
 人はみな平等と思い込む輩
(やから)が殖えた。

 これは全くの余談だが、平成28年5月5日、小倉室町で毎年の恒例行事だが、此処に骨董や古着の市が立つ。娘も毎年この恒例行事に参加し、骨董や日用品などの古物や古着を売る。今年は生憎、手伝う人員が少なかったので私も駆り出された。どうせ露天で骨董を売るのならと思い、この日は刀剣を除く、鐔や柄、縁頭や目貫、小柄など約100万円相当を露天に並べた。
 私は20代の頃から刀剣を扱う刀剣商をしてきたので、今年でかれこれ50年近くのキャリアがある。

 この日、刀剣を持参しなかったのは、買主は古物台帳に一々氏名や住所を記載する面倒もあるし、身分確認のために免許証等の提示が必要になり、それを必要としない物品に限り持参して店先に並べた。快晴という天候にも恵まれ、往来の人通りは多かった。
 娘の骨董や日用品などの古着や帯に関しては、時間帯によっては行列ができるほど込む時間があったが、その横で刀剣付随の鐔や柄、縁頭や目貫、小柄などは遂に終日まで一個も売れなかった。値段が万以上の物が多く、それを敬遠された嫌いもあるが、多くの客は一瞥
(いちべつ)しただけで去って行くのである。
 それでも中には、刀剣マニアのような人も居て、足を止め、鐔などを箱ごと持ち上げて、唸る人が居た。唸るのは欲しいが、値段が……ということで手が出ないのであろう。
 だが、人を能
(よ)く観察していると、同じ人が、眼を付けた物があるらしく、その回数を数えると、三、四回うろついているのである。しかし思い切って値段交渉にまでは至らなかったようだ。

 その中に一人、五十代前半と思える尊大な口を聞く、サラリーマン風のオヤジが居た。
 そして狙いを定めた鐔を箱ごとと持ち上げて、「あんた、これ値段の付け方を間違っているのではないのかね。わしは刀剣を何振りも持っているし、もうこのかた25年以上も蒐集と遣っていて詳しいんだよ。あんたのような素人かセミプロかは知らんが、大した目利きでもない者が、こういう出鱈目な値段をつけちゃあいかんなあ」と傲慢に言い放つ。
 私は20歳の大学生の頃から、もうかれこれ50年、つまり半世紀近くも刀屋を遣って来た。確かに先輩連の60年、70年の目利きに較べれば、まだまだ駆け出しである。現在も現役で、刀剣商見習いの娘に日本刀の鑑
(み)方を仕込み、刀剣市場でも毎月三度各地の市場に出向いて、オヤジどもと遣り合わせている。
 「私は目利きとは申しませんが、もうかれこれ50年、約半世紀、この道で修行させてもらっている。解らないことも多々あり、日々精進の思いで勉強させて頂いております。勉強不足で、時には値段の読みを間違うことがあります。そのために高い月謝を払って勉強させられている有難さと、損する余裕を学び、そのたびに自分の未熟をつくづく思い知らされます」と、こう言い放って、常に古物鑑札を必要とするこの商売には、官憲の職務質問にも回答する義務があり、古物商許可証を持ち歩いている。それを見せて、「私は福岡県で、今では珍しい1万番弱の、まあ言わば古株でしょうか。娘の古物許可証は9億番以上を超えています。それだけに私が少しばかり古いというのはお分りでしょう。難解なる『刀剣学』という分野を僅か20年や30年そこらで威張られては困りますねえ」と言い放つと、そのオヤジは血相を変えて忽ち退散してしまった。
 私を単なる露天商的に見下し、口から出任せを語る香具師と見たのだろう。これも素人の怕さである。

 禍が口から出るが、また知ったかぶりの素人は、今更ながらに怕いと思ったのである。
 「素人は怕い」
 奈良の、ある剣術流派の家元の口癖だった。私が平成6年以来、奈良に出向いて立ち寄ると、必ず二言目に「素人は怕い」と出て来る言葉であった。この家元は必ずこれを度々口にした。
 そして再び、この歳になって、改めて思い知らされた言葉であった。
 世の中には明らかに上下の格差は存在するのだが、昨今の民主主義デモクラシーの蔓延は、悪い方向に傾いた平等主義が末端までに流出しているようである。みな平等と思い込む傲慢は、年齢の長幼を狂わせるだけでなく、経験や見識の上下も転覆させてしまったようである。
 現代は「長老」という言葉が、時の流れの中で葬り去れれた時代でもある。

 「現代人は見掛け倒しに誤摩化されますからねえ。残念なことは、かの原憲のような人を見下すようになってしまいました。それだけ表皮に囚われているということでしょうか」
 「また原憲とは、よく知っていらっしゃる、お見それ致しました」
 女将は中々の教養人であるらしい。
 「原憲の清貧から、また、かの瓢箪部隊の小隊長だった御老人を髣髴とさせたのですよ。あの方は実に風流に精通しいるらしかった。桜の樹の下の見事な風流と、もう一度出遭いたいものです」
 「それを習志野で見たと仰るの?」
 「わずか直径7、8センチほどの盃に、天から降って来る桜の花弁を浮かべ、一息の飲み干す。実に風流で見事なものですよ。まさに神業でした」
 「もしかすると、やはり練馬のあの方ですわ」
 「練馬の?……」疑問はなぜ練馬なのかである。女将は詳細な場所を知っているのだろうか。その疑問が残った。しかし簡単には教えてくれそうにはなかった。それだけ明かしてはならない著名人なのだろう。
 私の認識で練馬と言えば、練馬大根と、小学校三年一学期まで此処で育ったから、そのときの級友に東京外語大ドイツ語学科に進んだ友が居た。その兄も同じ外語大に学び、ドイツ語学科出身で、私が20歳になったときの大学時代、テレビ出演してテレビ局
(朝日テレビ系列(旧NETテレビ)桂小金治アフタヌーンショーに出演)でこの友と落ち合ったことがある。そして生番組放送終了後、「うちへ来ないか」という誘いを受けて、この友の家に一晩を世話になったことがある。その住所が練馬だった。その後、もう一度訪れたことがあった。東京に出たとき、神田神保町の古書街に道案内をしてくれたのも、この友であった。
 練馬と聞いて、何だか懐かしかった。奇しくも練馬に住んでいる友と、少年期の平戸時代が重なったのである。
 此処で一時間ほど過ごしたが、練馬にいるらしいという情報を掴んで、一応この日は退散することにしたのである。



●極楽と地獄の同居の日々

 飛ぶのは何も極楽トンボだけでない。時として地獄からのトンボも舞い込んで来る。
 伝習塾は商いとしては、そこそこの売り上げをみせていた。
 しかし私は何しろ天下の素浪人である。身の振り場がない。振る袖が欲しい。先ず人脈探しだった。賛同者を得なければならなかった。
 私の得ようとした人物は、あたかも「管鮑
(かんぽう)の交わり」に似たような、そういう親交(しんこう)を描いていた。これは単なる友人を指して言う親友とは違う。生涯の親にも匹敵する友のことである。
 徐々にではあるが、何人かの人脈は着々と構築しつつあったが、まだ強力な有力者を得ておらず、結局、髪結いの亭主のような日々を送っていた。
 親交をもって、「有徳の士」という志に賛同する同志は得ていなかった。そうなると些か焦りを覚え、虚しく潰えて行く日々が疎
(うと)ましかった。
 それに伝習塾は“地域の公害然だから止めろ”と住民運動まで起こりつつあった。閉鎖に追い込まれるのは時間の問題であろう。
 此処に来て、進退窮まったのである。

 さて、この状況をどう打開するか。
 当面はそれに頭を悩ます日々が続くだろう。
 焦っても無駄なことであったが、凡夫
(ぼんぷ)の悲しいところは、無駄と知りつつも無駄を働き、下手を打つこともある。じたばたしても始まらないのだが、ついばたついてしまう。肚が出来ていないだけに静かに出来ない。
 何しろ、「習志野所払い」の危惧があった。追い出されるのは時間の問題だろう。
 習志野を追われたとして、次に落ちゆく先を何処にするかであった。どう下ものか……、そうした思案に暮れる日々が続いていた。
 つまり私は、二進
(にっち)も三進(さっち)もいかない深刻なる浪人生活を余儀なくされていた。

 世間では、一口に浪人と言う。
 しかし、浪人に身の振り方は難しい。それだけに肩身の狭い思いをしなければならない。世間を憚る一方で家族に対しても頭が上がらない。
 例えば、サラリーマンでリストラをされた人は、以降はしばらく「浪人時代」と言うことを経験するであろうが、また、これが次の職が見つかるまでの就職運動が大変である。妻帯者なら、とにかく妻君に頭が上がるまい。身を縮めるしかない。
 一日中何もせず家にゴロゴロしていては、まず甲斐性無しを糾弾
(きゅうだん)され、次に「早く仕事を見付けて何処かに就職でもしたら如何……」などと小言の一つも飛び出して来るだろう。

 「これから、どう暮らして行くのか」また「以後の生計はどう立てるのか」更には「これまでの家や車のローンはどう支払って行くのか」などの、こういう先々の深刻な問題が持ち上がって来るだろう。
 子供が中・高校生であったりすれば、子供自身の将来の進路も狂いが生じて来る筈である。親父としては、これをどう解決するか。

 リストラに際し、スズメの涙のような退職金は早々と遣い終え、その後の生活は成り立たなくなり、浪人生活を余儀なくされるということは、給与所得者の本人も大変だが、それよりも女房や家族も一大事で、最初に音を上げるのは、まず周囲からであろう。
 一方、日本人の脳裡
(のうり)には、定年までの終身雇傭の意識が今でも根強く残っている。ところが現実は急激に変化しているようだ。
 今の時代は、サラリーマンは気楽な家業ではないのである。

 それが充分に分る故に、「勝ち組」に残って、何とか自分のいいところを見せ、サービス残業をしたり、付き合い残業をして、自分の「受け」を良くしようと企む。
 残業の最大の目的は、「上司受け」が目的で、まず自分がリストラに遭遇しないことであろう。そのために残業する。頑張っているように見えるからである。
 これを、ポーズでする人も少なくなかろう。

 だが、効率面から考えると、こうした「サービス残業」とか「付き合い残業」と言ったこの種のものは、それ自体が実に無計画であり、もし企業にそうした体質があるとしたら、その企業の上司は無能であり、無能者を役員に据えたりしていることになる。そうした企業は、やがて判断を誤り斜陽を辿り、下手をすれば倒産が免れないだろう。
 暗黙の了解などの意識で、残業と言う行為が習慣的になっている会社は、計画性がないために、ある意味で殆
(あや)ういといえよう。

 倒産予備軍に含まれる企業こそ、「残業」と言う無意味な、古い判例や習慣を押し付け、一見、猛烈社員の「会社人間」を培養しているような錯覚を抱いているであろうが、現実はそうではないようだ。
 しかし、私は幸いなことに、深刻な事態にぶつかっても、“喉元過ぎれば熱さを忘れる”の類で、常識人とは異なる極楽トンボ的なところがあった。
 この当時、よく銀座を歩いたものである。
 また『ひざご花』を知って以来、此処にもよく足を運んだ。腰瓢箪の仙人然の老人の居場所を聞くために足を運んだものである。しかしこの情報は、老人が以前来店したとき以降、途切れていると言う。その後の消息は分らなかった。ただ分ったのは練馬という地名だけだった。
 しかし瓢箪仙人は、銀座のこうした店にも出入り出来る風流人だったのである。意外にも著名なる有徳の士であるかも知れない。

 夕暮れ近くなると、極楽トンボの習性が顕われる。
 習志野から津田沼経由で総武快速のグリーン車
に揺られ、新橋まで行く。通勤客とは逆コースなので、グリーン車はがら空きだった。この席に脚を投げ出し、和服姿で一人悠々と陣取ったものである。風流人の気取りか?……。悪趣味と取れないこともない。
 東京で山手に乗り換え、新橋で降りて、この地域を歩いたものである。
 気が向けば、飲み屋の赤提灯に誘われて、何軒もハシゴしたことがあった。次々に店を変わるのもいい。静かだと長居し、煩
(うるさ)いと直ぐに出て店を変わる。要するに、酒呑みの習性がそうさせていた。そして最後は『ひざご花』に寄って最後の“締め”を遣り、習志野へと戻って行くのである。
 この数寄屋造りの離れ座敷に来ると、あの老人の風流が思い返されるからである。もしかすると、座敷に坐って、チビリチビリ遣っているかも知れない。それを夢想して来店したが、一度も出遭うことはなかった。

 新橋で降り、日劇辺りに向かうこのコースでは、此処を歩く人は、みな希望に溢れているようだった。バブルが崩壊したとは言え、人々は自信に満ち、何故こんなに自信があるのだろうと思うくらい、胸を張っているようだった。
 それに比べ、「この俺は……」と思うのである。

 しかし反面、「人生はプラス・マイナス・イコール・ゼロ」という人生の『貸借対照表』の法則を信じていたから、一方的に不幸に陥ることもないし、また、一方的に幸福にありつくと言うこともない。そう信じていた。
 それは最終的にはプラス・マイナス・イコール・ゼロなのである。
 そしてこの考えは間違っていなかった。やがて、落ちた分だけ「浮かぶ瀬」も見つかったのである。
 浪人生活の男にとって、「甲斐性無し」などの小言や、愚痴が飛び出したら、やはり男としても情けなくなり、これだけで「何処かに就職しなければ……」と焦りも出て来る。
 そうなると、浪人生活と言うのは、女房や家族の方が、先に音を上げてギブアップしてしまうものである。
 そして就職運動も、ダボハゼ的になり易い。

 ダボハゼ的とは、何でも飛びつくと言う意味である。
 そうなると、間違いなく焦って、失敗が連続する。悪い時には悪いことが重なる連鎖性が阻止出来なくなるのである。ここが一番恐ろしいのである。
 このことを、知ってか知らずか、家内は小言や愚痴を吐かなかった女である。救われた余裕があった。
 ゆえに私は、悠々と遊んだのである。遊べと促している以上、何も遠慮することはない。そう思って遠慮なく遊んだ。極楽トンボの日々であった。
 私は家内が掻き集めた月謝の約五十万円ほどを元手に、好き勝手をして遊びに遊びまくった。
 平成2、3年の頃の五十万円だから、ちょっとした金である。これを一ヵ月懸かって、惜しげも無く散財するのである。
 やはり「紐ではないか」という人がいるかも知れない。

 ところが違う。
 浪人して、時を窺
(うかが)ったのである。世の中の動向を探ったのである。
 この遊びの中で、多忙から解放され、世の中のことが広く見えるようになり、各業界の知人も多く出来た。その金で、高額な一冊数万円もする本も買った。
 爾来
(じらい)本を読む日が幾日も続いた。晴耕雨読と言いたいところだが、晴れても読書三昧だった。読書をその後の養分にした。本来ならば、仕事を求めてバタバタしなければならないのだが、それが無駄だと悟ると、今度は景気よく遊ぶことを考えるようになった。その意味では、やはり極楽トンボであった。
 それを気前よく赦
(ゆる)してくれていたのが家内である。内助の功といかないまでも、それに近かっただろう。
 あたかもホーソーンに『緋文字』を書かせた妻ソフィアのように……。

 ホーソーンは税関の職を奪われ途方に暮れた。
 妻のソフィアは、職を失って困り果てていた良人
(おっと)のホーソーンに、貧乏は懲(こ)りている筈なのだが「それじゃあ、また本が懸けますね」と嬉しそうに答えた。
 そこでホーソーン。
 「そりゃそうだが、本を書いている間の暮らしがね……」と困ったようにいうと、「それはちゃんとこういう風に」と、ソフィアはこれまで少しずつ貯めたへそくりを見せたのである。
 あたかも山内一豊の妻に劣らぬ激励にホーソーンは感動した。悪妻・鈍妻に悩む男だったら涙の出るような話である。かつてこの話を家内にしたことがあった。
 それを実行したかどうかは知らないが、必然的にそうなっていた。



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