運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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壺中天・瓢箪仙人 43

見せ掛けの外装は、時と共に朽ち果て、中の構造が露出する、化けの皮が剥がれ易い構造になっている。
 人は自分の内に神がいることに気付かない。外面的な見せ掛けにこだわる。外側の姿に振り回されているのが、老若男女の現代人の現実ではあるまいか。

 人生を生きている実感として、疑い、恐れ、迷い、孤独などの、躓
(つまず)きの穴に落ち込むことは、自然の成り行きである。
 しかし凡夫
(ぼんぷ)の多くは、穴の中でもがき、それから逃れようとして足掻(あが)きながらも、外に神を求めるようだ。そして自らの内にある混乱と混迷、貧困と無知などの愚に気付くことは少ないようだ。

 長い間背負ってきた重荷の中は、欲求不満がぎっしり詰まっていて、その内訳は概ねが現実逃避と、欺瞞
(ぎまん)や奢侈(しゃた)といった満たされない物質文明の造りあげた、煩悩(ぼんのう)という産物であった。物に幸せを求めた結果から起こった幻である。


●新時代の蠢き

 相変わらずの『伝習塾』だった。住人のメンバーには変わりはなかった。
 家内が居て、内弟子のテツと居候の下瀬上等兵がいた。在
(あ)り来たりの、日々異常無しの平穏無事な毎日だった。平和であり、日々是好日である。
 しかし欠伸
(あくび)の出るような生活は、些(いささ)か退屈が入り交じる。
 こういうのを果たして幸せというのかも知れない。もしかすると、本当の幸せは平穏日々の生活にあるのだろう。
 だが、こういうのんびりとした生活は、そう長くは続かない。人間の運命は油断出来ないものである。いつ変化が生じるか分らない。特異点
(シンギュラーポイント)はある日、突然予想もしないところから吹き上げる。幸せの中には、不気味なものを孕(はら)むのが人生である。予測できないから、一寸先は闇である。日々平穏無事の希望的観測は禁物である。

 「テツ!」私は大声で叫んだ。
 しかし返事はなかった。
 「テッちゃんは、もうとっくにお仕事ですよ」
 テツに変わって返事したのは家内だった。
 家内は、遠くからそう言うのである。家内も今は掃除の最中なのだろう。遠くから声が返って来た。
 内心《野郎は仕事か……くそ……。そうだったのか……》と、仕事に向かったテツを想う。
 よく考えれば返事はないはずだ。
 野郎は近頃、働き口を見つけたという。
 秋葉原の外科病院の手術室の後片付けの仕事を探して来て、朝から仕事だったのである。木曜日と日曜日を除く、出勤日に朝六時頃、JR津田沼駅から中央線に乗って出掛けて行く。
 この“ケチ男”は、大久保から津田沼までのバス代を浮かせようと思って、徒歩と駆け足を組み合わせて駅まで向かう。あるいはケチというより、金が無いことがそうさせているのかも知れない。しかしちゃっかりしている。その間の交通費は、ちゃんと病院からせしめて、それを浮かせているのである。小銭を貯め込んでいるらしい。

 野郎を置いてみて分ったことだが、欲しいものを本屋の雑誌のタダ読みの中で探して来る。あるいはゴミ箱に捨てある雑誌や新聞を拾って情報を得る。その中から欲しい物を探す。野性の智慧であろう。例えば“サバイバル物”の類
(たぐい)だ。買うために金を貯め込む。
 ナイフやそれに類する刃物に異常に興味を示す。それも日本刀とか刺身包丁といった長物ではなく、懐に忍ばせることができる物を欲しがる。要するに喧嘩道具である。
 世の中には、本身の刃物を握らせると矢鱈強くなるという者がいる。得物を持たない素手の場合は大したことはないが、刃物を手にすると矢鱈強くなる。世の中にはそう言う人間がいる。テツはその種の人間なのかも知れない。話す内容から喧嘩は随分あるそうで、それが元で鑑別所に収監されたらしい。そうした体験から非常時の携帯物を欲しがるのだろう。

 いつものことながら、私は“テツ!”と叫ぶ。野郎は一種の玩具
(おもちゃ)だったからだ。しかし、幾ら玩具であっても、いじり過ぎてはこちらが殆(あや)うくなる。加減と言うものが必要であり、それを知らずに遣ると、寝首を掻(か)かれる恐れがあった。そういう危険な奴だった。
 またそれはそれで、最近の私は弛
(たる)んでいたので、いい刺戟となり、更に緊張にもなって、常に警戒するというのは満更でもない。危険を知らせる緊張は、張りつめ感があっていいものである。
 家に、何をするか分らない“兇器がある”ということは、無意識の緊張を与える。それが弛む心を緊張させ、常に危険を感じさせる。日常にあって、非日常を体験しているのである。
 テツの貌を見ていると、今は服従のポーズを採っているが、言葉で烈しく突くと、突然、眼にその変化
(へんげ)の特長が顕われる。篦(へら)で切れ目を入れたような細い眼になって、その細い眼の中に、何かが恐ろしく烱(ひか)るものがある。闇の中から炯々(けいけい)とした鋭いものが伝わる。それを増幅させるのが顴骨(かんこつ)の異常な盛り上がりである。
 はて?……、この光は何かと考えると、それは狼の眼のような、そういう青い眼の鋭さだった。狼の眼は闇の中では青く烱る。

 本来は人間が飼えない、そういう生き物を野郎の眼に感じたことがある。テツには狼のような野性が備わっているのかも知れない。それだけに、ある一面において充分に恐怖する。
 その恐怖を反芻
(はんすう)すると、一瞬頭がぐらりとふらつく。飼ってはならないものを飼っているからである。
 進龍一が「ああいうを飼って大丈夫ですか」と訊いたのは、このことであったのかも知れない。言われてみれば辻褄がある。それがまた、身裡
(みうち)を、得体の知れない恐怖で震え上がらせるのである。

 アラブの格言に「狼の仔
(こ)は馴(な)らすことが出来ない」というのがある。如何に手懐(てなず)けようとも、人間には靡(なび)かない。既に独自の悟りがあるからである。
 表面は乞食然としていても、それを貧困と思わないのだろう。恐ろしいほどの独自の自覚を持っていた。狼のような野性である。
 しかしそれでも、テツには言っている限りの「礼」を教えなければならない。蛮人のままでは社会に通用しないからである。しかし、それは狼を調教するようなものである。その調教には慈悲と愛情が要
(い)ろう。以後、心掛けねばならない。
 人の世は憎悪が入り交じる。失言によって、謂
(いわ)れのない怨みを買うこともある。善きにと思って遣ったことが、裏目に出て悪い方に採(と)られることもある。
 この辺を間違えば、ある意味で厄介な代物だ。常識人なら、こう言う危険物は飼わないだろう。

 それにしても、わが家の目覚ましは鳴らなかった。あるいは鳴ったのかも知れない。私の耳には、今日は家内の“演歌入り”の目覚まし時計が鳴らなかった。
 毎朝、六時を過ぎた頃、家内の“ド演歌”が始まるのだが、今日は珍しく目覚まし時計は鳴らなかった。寝入って、聞き逃したのだろうか。
 「下瀬上等兵は?」
 「もうとっくに……」
 「なに!、野郎もか……」
 野郎二人は毎晩、夜は騒がしいくせに寝起きがいい。早起きをしやがる。とんでもない奴らだ。そして朝早く仕事に出て行く。無職で浪々の身は、私一人であった。
 奴らは意気軒昂
(いき‐けんこう)だった。それが少しばかり腹立たしいのである。そして自分の体たらくを思う。私一人が墜落していた。気が弛んで、緊張が失われている。そこでテツを少しばかりからかいたくなる。悪い癖であった。
 人間はこういう時が一番危ない。隙を突かれて不意打ちを喰らうからである。魔も忍び込み易い。凡夫は同じ轍
(てつ)を踏むまいとして、また同じことを繰り返してしまう。凡夫の悲しさである。
 限度ということを念頭に置いて、これから先の善後策を打ち出さねばなるまい。
 幸福というのは、幸福だと思い込んでいても、いつしか消えて行くというのが幸福の実体である。また不幸であっても、撥ね返せる不幸であったりする。いつも絶えず流動しているのである。人生は流動の中に在ると言ってもよい。

 「いま何時だ?」
 「もう九時を過ぎてますよ」
 “えッ?九時過ぎ……”
 何だか寝坊した観があった。
 今日はド演歌の目覚まし時計が鳴らなかったのではなく、寝坊して聞こえなかったのである。今朝も目覚まし時計は、ちゃんと鳴ったのである。
 サラリーマンならとっくに会社に着き、もう仕事を始めている頃のである。
 しかし、近頃ぐうたらになり過ぎた私は、朝おきる時間が徐々に遅れ始めていた。
 今日は起床が午前九時だった。
 身体的な異常だったのか。それとも不摂生が問題だったのか。
 そして昨晩はどうだったか?……と寝起きの悪い頭で反芻
(はんすう)するのだった。
 昨晩は、テツと下瀬上等兵が遅くまで酒を喰らい、騒がしく、エロ話をくっちゃべっていた。テツも人間生活に慣れたようである。

 昨日までを反芻する最中、進龍一がひょっこり現れて、変な雑誌を持ち込んで来た。
 「宗家、この雑誌見ましたか?」と切り出した。私が本屋で既に見たのではないかという口振りで言う。
 “そんなもの見る分けないだろう……”という貌で、奴の持った雑誌に首を傾けると、それは左翼系の大手某新聞社が発行した『A○○グラフ』と題した写真雑誌だった。それを購入し、それを持参したというふうだった。それを突き付けて、私にこう言うのである。
 「なんだそれ?」
 「全共闘ですよ、全共闘」
 「全共闘がどうした?」
 「宗家は全共闘の時代でしょう?」私の大学時代を指摘する。
 「ああ、そうだが全共闘は無縁だった」
 しかし確かに無縁だが、同世代だった。その同世代に、何事かを焚き付けた無産階級のプロレタリアートの仮面を被った某出版社のブルジョアジーが居たのである。

 奴が差し出した『A○○グラフ』には、そのブルジョアジーが掲載されていた。得意満面になって、かつての階級闘争の話を掲載していた。この御仁は、某新聞社の週刊誌の編集長から、後に某テレビ局にニュース番組のニュース・キャスターとなった人物である。そして「知的生命体」などと持て囃
(はや)され、一時マスコミで脚光を浴びた左寄りのニュース・タレントだった。
 奴の差し出したグラフ雑誌を見て、“嫌なものを見てしまった”という感じがした。

 全共闘のあの時代を思い出すと、当時の真相はどうだったのか?……と振り返ることがある。あの騒がしかった、あの時代はいったい何か?……と思うのである。
 当時の想い出は、現実に鼻につく穢さがあった。何者かが自分独りいい子ぶって、世の中を掻
(か)き回していたからである。正義漢然として、当時の学生や労働者を煽動していたからである。
 その穢さの最たるものが、学生や労働者を背後で操るタレント左翼論客や、タレント大学教授の類
(たぐい)であった。進歩的文化人を気取る、その種の火付け役だった。ソ連や北朝鮮を指して「ソ同盟」と、尊敬の念をもって標榜する連中であった。これにマスコミが同調し、歩調を合わせて、左寄り理論があたかも正義であるかのように当時を解説したのである。マスコミもまた、彼等の崇拝者で信奉者であった。

 例えば『前衛』は、1958年初頭までの日本敗戦から十数年間、一貫してソ連を「ソ同盟」と尊敬を込めて呼称していた。ソ連礼賛主義に徹していた。
 その当時、それにしても……と思うのである。
 それにしても……、社会主義とソ連礼賛、北朝鮮礼賛に明け暮れる進歩的文化人や同種の作家は、現場の実行犯として猛威を振るう全共闘の実行部隊以上に、言葉で表せない狡
(ずる)さを持っていた。自分の手は汚さずという、一種独特の狡さであった。
 その狡さが、「それにしても……」と思わせるのである。
 この一種独特の狡さを持っていた輩
(やから)は、マルキシストと一線を画しつつ、自らは良心的なポーズをとり、ソビエトの「南侵説」を“いつ認めるか”を問題にしていたのである。
 これをテーマにして、学生や労働者を背後から焚き付けていた。狡猾な計算の上で、これを企んでいたのである。
 それがまた「社会主義性善説」や「マルキシズム絶対視」に入れ揚げる構図を作っていた。その策にまんまと嵌まり、マスコミが同調して踊ったのである。その踊りの名手が左翼系新聞だった。この新聞社は戦前から太平洋戦争に懸けて、日本人に戦争突入をさんざん煽
(あお)った政府に歩調を合わせた報道機関であった。
 ところが日本が敗戦国なると、その煽りの矛先を180度転換したのである。保守が一気に革新へと変貌した。

 「宗家。時代も変わるものですが、人間も“変わり身”が早いですねェ。まるで“手を替え品を替え”ですよ。特に、こいつら変身ぶりをどう思いますか?」と訊くのだった。
 「昨日の敵は今日の味方か……、そして昨日の味方は今日の敵……」
 「何ですか、それ?」
 「何処の国にも、いつの世にも裏切り者は居るということだ」
 「裏切り者……」
 「人間はそうした種属で、特に日本人は豹変
(ひょうへん)が早いのだよ。明治維新の際の、徳川幕府重臣の明治新政府への就職殺到。そして太平洋戦争と銘打った大東亜戦争を肯定した政府御用商人達の、戦争に負けた途端にアメリカ側にくっつき一儲けを企む変わり身の早さ。時代の節目には、必ず裏切り者が居る。売国奴は居るものだ」
 「なるほどねェ……」
 奴は得心したように相槌
(あいづち)を打つ。
 「人間社会とは、そう言うところだよ」
 この言葉を聞いて、頷
(うなず)いたふうだった。奴も思い当たるところがあったのだろう。かつては奴も新聞社に居たからである。
 私は進龍一の言葉を聞いて、この男も分別と常識の中で暮らす人生を選択してしまったのか……という残念な気持ちが沸き上っていた。世間との摩擦を恐れている。奴はこれを常識としている。分別としているのである。あるいは人は、皆そうなのかも知れない。そうした生き方が安全で無難なのだろう。これを否定する、私の差し出がましい意見は控えねばならなかった。

 「寂しいものだなァ」
 「何がです?」
 「俺と一緒に狂える奴が誰もいないから……」
 「宗家はいい歳をして、まだ分別が身に付かないのですか」
 「俺は元々無分別でいいと思っている。俺の“無分別智
(むふんべつ‐ち)”が、今の自分を為(な)している。無分別智こそ、創造だよ。無分別智を失ったら、無から有が生まれないではないか。お前らしくもないことを言うな、アイディア切れになるぞ」
 「もう私のアイディアは枯渇
(こかつ)してますよ、泉は枯れてしまいました」
 「どうして?」
 「私の潤沢な泉を宗家が、みな吸収してしまったからです。すっかり吸い尽くされて、残っているのは、ただの抜け殻ですよ」
 「俺を悪の権化のように言うなよ」
 「宗家は正真正銘の悪の権化ですよ。途方もない“狂”の一字で生きている確信的な悪党です」
 「その表現、少しばかりきついのと違うか」
 私は呆
(あき)れたふうに訊き返す。私に進化しきれない尻尾を引き摺ったところがある。しかし、言われてみればその通りかも知れない。自分では自覚症状がないが、その通りなのだろう。

 「宗家。今の時代は、生き馬の目を抜く“狂”の一字がなければ失速しますよ。
 ところが宗家は違う。完全に狂っている。その“狂”の一字が不思議にも人を惹
(ひ)き付けるのですよ。不完全でありながら、そこに惹き付ける何かがある。あたかもアバンチュールで大麻を吸ってみようと思うような奴が……。そんな奴らが、宗家に吸い寄せられるのです」
 「それでは、まるで俺が護摩
(ごま)の灰か、山賊の親方ではないか」
 「宗家の高野聖
(こうやひじり)の扮装は最高ですからね。こうした扮装、誰にも真似が出来ませんよ。弘法大師の護摩の灰と称して、強引に売りつけるこうした芸当、宗家以外には無理ですからね。私には絶対に真似が出来ませんがね。
 宗家というのは、その流派の狂人です。こんな狂人、誰にでも出来る訳がありません。そして狂人であればこそ生き残る確率も高い。そうした運命を宗家は背負って歩いているのですよ。変えられないだけに、気の毒に思うこともあります」
 奴は変な同情をしやがった。
 この分析が正しいかどうかは、私には分からない。あるいはそうかも知れない。
 だが、否定する材料も見当たらない。恐らく奴は、無から有を作り出す、最小単位の細胞は“狂”の一字にあると見ているのだろう。形を為
(な)すものは、その最小単位に“狂”が存在するのだろう。この一線を破らなければ、有は生まれないのだろう。そのことを奴は知っているのだった。

 事実、吉田松陰がそうではなかったか。
 吉田松陰は僅か30年の人生の中で、「狂」と「猛」を説いている。壮絶な生き態
(ざま)だ。それを実行しようとしたのである。そして陽明学の行動原理で、これを実行している。
 松陰は陽明学者ではないにしても、知行合一はこの中に包含されていると言っても過言ではない。
 間部詮勝
(まなべ‐あきかつ)暗殺計画を言い出した松陰の心境の中には、“狂”の一字が眠っていた。それがやがて眼を醒ました。
 当時、間部詮勝下総守は時の幕府老中で、越前鯖江
(さばえ)藩の藩主だった。

 安政五年、大老・井伊直弼
(いい‐なおすけ)の命をうけ、条約調印と将軍継嗣(けいし)問題で上洛した反幕志士数十人を逮捕した。この間部を松陰は斬ろうと計画した。そしてこの暗殺計画は、松陰がペリー来航の際、軍艦に忍び込み、海外密航を企てた時以上に、「狂おしい」ように端(はた)から検(み)る第三者の目には映ったのである。
 「間部詮勝暗殺計画」は、矛盾や混乱があり、滑稽さまでもが漂っていたが、安政五年のこの年に、松陰は身を挺して戦闘者たるべき戦いの、最終段階に入っていたのである。そしてこれを支えたのは“狂”の一字だった。あるいは狂える人間の“猛”だった。
 矛盾や混乱を超越するには“狂”の一字しかなかった。
 したがって、傍観者では“狂”の一字は実践出来ないのである。それを知り尽くして、進龍一は私を“狂”の一字に祀
(まつ)り上げ、自分は傍観者になろうと決め込んでいるのかも知れなかった。

 「何をもって狂というか……」
 そんな叱咤激励にも似た言葉が、私の脳裡
(のうり)に共鳴和音を発していた。そして松陰の「狂」と「猛」は重なり合い、矛盾と混乱を紡ぎつつ、彼は過激な行動へと驀進(ばくしん)するのである。そんな驀進力(ばくしん‐りょく)を、私に期待しているのかも知れなかった。最もいい場所に陣取り、最もいい高みの見物の出来る場所で……。
 一身を投げ打ち、直接行動に移る松陰のような行動原理を、私に期待したのかも知れない。それに躍る私の狂態を「高みの見物」と洒落込んだのかも知れない。
 何かが変わろうとしていた。
 時代は急速に変化し、変化の中には何者かの画策が蠢
(うごめ)いていた。日本にも革新の看板を背負ったブルジョアジー的な売国奴が、この頃から、ちらほらと浮上して来た。そして知的タレントとして、ニュース解説などで人気を博した、かつての社会主義者が居たのである。

 平成3年
(1991)の秋以降から、保守と革新の境目が曖昧(あいまい)になり始めた。
 バブル景気は昭和61年12月頃から平成3年2月まで続き、これを「平成バブル景気」と言う。そして崩壊した直後、暫
(しばら)くは好景気の余韻は引いていたが、既にこの時から資産などの持たざる者と、多大な恩恵に及んでいた者との分離が始まり、日本には深刻な経済問題が起こって、格差の時代に突入した。

 「暗雲」の暗示か掛かった時代でもあった。それ以前は経済バブルの暗雲だったが、バブルが弾けると、時代そのものがスッポリと暗雲に包み込まれ不穏が呈し始めた。
 東南アジアの近隣諸国から、まず当時の日本人はエコノミックアニマルと揶揄
(やゆ)され、次に先の大戦に反省の色を見せない「憎き日本人」像というものが捏造し始められたことである。
 左翼系新聞などの報道記事を通じて、進歩的文化人の罵声に併せて徐々にエスカレートして行く。日本人が日本人を悪く言う現象である。またこれまでの文化も伝統も否定して、日本悪玉論を捏造したことであった。この風潮は外国のメディアに載って煽られる一方であった。そして時代は霊的に、不吉なものを感じる禁忌が押し寄せて来たように思うのである。
 この時代、敏感な人なら、そういう気配を感じたであろう。

 実に科学的でない、「勘」というようなもので感じる、その中に、何か不穏なものが紛れ込んでいるような気配だった。この時代くらいから異状な気を周囲に漂わせる独特な匂いは渦巻き始めた。日本人の体臭が急に獣じみてきた。日本人のこれまでの食体系は破壊され、それが顕著になり始めた時期である。
 霊臭と言う、動物を喰ったような肉食獣に臭いである。金や物主体の唯物主義が蔓延
(はびこ)り、日本人が霊臭に冒された時期でもあった。その象徴がセックス、スポーツ、スクリーンの3Sで、打算的個人主義が世を席巻した時期でもあった。この頃より、食と色が大いに乱れだす。食と色の乱れによって、敬愛・誠心・忠孝・道義なども日本人から喪失した。
 それは本来人間が接近してはならない、禁忌を犯したことをいう臭いを撒き散らし始めたのも、この時期だったと記憶する。あたかも外国から渡来した蕃神
(ばんしん)の臭いであった。
 現に、このとき外国の神が一気に雪崩れ込んで来たと思うのである。これが政治に大きく影響を与え始めていた。

 外国の肉食文化は明治維新以来のことであったが、平成から昭和への変化する分岐点で何かが侵入して来たように思うのである。そして多様性の言葉をもって、分裂的な思想が蔓延
り出した。
 自由奔放に分離分裂するような、悪しき個人主義の謳歌が始まったように思うのである。
 某新聞社の歴史捏造により従軍慰安婦問題が浮上し始め、半島や大陸からの日本叩きが始まったのもこの時期であったし、バブル崩壊後の不況は既に長期的な計画が随分前から仕組まれていたように思う。
 世情が奇妙に捻れ出したのも、この時期であり、水面下では不思議な暗躍が起こっていた。おまけに国会まで捻れていた。そして当時と、今日の共通する国際情勢には、当時を重ね合わせて何か不思議に一致するものを見出せるのである。
 国際政治における「奇妙な正当性」である。それを具体的に論ずるならば、食文化に併せて日本人の急激な変わりようである。

 まず現代と比較してみる。
 2016年
(平成28年)2月、キューバでフランシスコローマ教皇とモスクワ総主教キリル一世が核戦争防止について会見をした。更に、同年4月には広島でG7外相会合(日本、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、カナダの7か国)を開催し、「核兵器のない世界」を目指すとした。この席上にはケリー米国務長官が出席し、来日途中にイギリスとドイツは中国に立ち寄った。広島でG7外相会合とは、どういう意味合いのもだったか。
 中国は広島でのG7に激しい不快を示した。この政治背景も奇妙である。

 さて、昭和20年8月6日、広島への原子爆弾投下は、人類がはじめて、頭上を人工太陽で灼かれた日であった。広島に投下した原子爆弾はリトルボーイだった。
 この原爆計画は「ペーパークリップ作戦」と言う名で実施された。
 ペーパークリップ作戦とは第二次世界大戦末から終戦直後にかけ、米軍が元ナチスドイツの優秀な科学者をドイツからアメリカに連行したときの一連の作戦名であり、ペーパークリップ計画
Project Paperclip/統合参謀本部に全作戦の責任が委ねられた)と呼ばれるものである。
 この作戦は、ナチスドイツの科学者と技術者で構成された。つまり広島投下の原爆はナチスドイツの科学者と技術者で完成されたものである。
 この計画遂行に資金支援したのが、“連銀”と呼称されたFRB
Federal Reserve Bank/アメリカで、連邦準備制度により各連邦準備区に設立された連邦準備銀行)であった。
 余談だが平成3年当時、FRBは日本人には殆ど知られていなかった。銀座のあるクラブでFRBの話をしたら、そこのホステス嬢が御丁寧にも「それはFBIの間違いではないのでしょうか」と、笑い話にもならない訂正を受けたことがある。それくらい当時はFRBについては知られていなかった。

 FRBがナチスドイツを支援して、後に回収するというのがペーパークリップ作戦である。
 この作戦は1943年の春から開始された。何とも奇妙な構図である。
 またナチスドイツの影響力は中国大陸にも及んでおり、大陸では、蒋介石の許
(もと)にドイツ軍事顧問団は派遣され、戦争指導が行われていた。
 このときアメリカは蒋介石の顧問として情報戦に参戦しており、フライングタイガー米空軍義勇軍が上海事変を演出した。また情報戦の演出として空爆下の路上に子供の泣き叫ぶ写真や死体が散乱した惨事を報道する写真が『ライフ』誌に掲載されて世界各地に配信された。
 この情報戦はやがて上海戦から南京追撃線へと移行し、斯
(か)くして「南京大殺戮30万人(米国の歴史教科書には40万人)」の構図が演出された。

 俚諺
(りげん)に「悪事千里を走る」というのがあるが、千里を走るのは何も悪事だけでなく、悪事を演出した捏造も、噂も、ウソも同時に千里を趨(はし)る威力を持っている。二十世紀は情報戦へと変化していた。
 本来は「悪い行いをすれば直ぐに世間に知れ渡る」という意味だが、これは捏造においても情報戦では同じ効果があり、特に南京大虐殺偽証として、戦後の極東国際軍事裁判
(ポツダム宣言受諾に基づき、太平洋戦争における日本の主要な戦争犯罪人に対して行われた裁判で、東京裁判の名で知られる)では意見が真っ向から食い違う自体が発生した。その結果、食い違いに生じたのは戦勝国と敗戦国の構図であり、いつの時代も勝てば官軍となる。力は正義なのである。情報戦での結果は讒言(ざんげん)の構図が可能となる。人を陥れるために事実は曲げられ、悪態から起こった罵詈雑言があたかも事実然として猛威を降ることになる。情報戦の特長である。
 讒言は飽くまで、事実の如く勝者の口から論じられて絶大な権利を有し、敗者は謂
(いわ)れのない捏造に懺悔(ざんげ)を強いられ、その懺悔の構図がまた悪事として映る。敗者はこの構図下で屈する以外ないのである。
 斯くして東京裁判では、当時の優秀な若い軍人達が千人近く処刑されたと言う。

 この処刑において、私は直ぐに『カティンの森事件』を思い出す。
 第二次世界大戦中、ソ連領のグニェズドヴォ近郊の森で、約二万二千人に上るポーランド軍将兵、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者たちが、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン政権下で刑事警察、秘密警察、国境警察、諜報機関を統括していた国家機関
Narodnyi komissariat vnutrennikh del/NKVD)の手で処刑された。特にポーランド軍将校においては残虐を極めた処刑が行われたと言う。
 1939年9月、ナチスドイツとソ連軍の両軍はポーランドに侵攻した。ポーランド全土は一挙に占領されて、ポーランド軍は直ちに武装解除された。ソ連軍に降伏したポーランド軍将兵は捕虜として強制収容所送りになった。この間、ポーランド政府はパリへ脱出し、ポーランド亡命政府を結成して後にロンドンに移る。
 一方、スモレンスク
(現在のロシア連邦の西方の都市)の近郊にある村グニェズドヴォでは、一万人以上のポーランド人捕虜が列車で運ばれ、銃殺されたという。

 1943年2月末、ドイツ軍中央軍集団の将校らがカティン近くの森「山羊ヶ丘」で、ポーランド人将校の遺体が埋められているのを発見した。そして捕虜銃殺の報は直ちに齎された。
 これが「カティン虐殺事件」として報じられた。このとき後のポーランド軍を背負って立つ有能な約二千人の将校が、針金で後ろ手で縛られたまま処刑されたと言う。
 ナチスドイツ下では、この虐殺事件の報は、中央軍集団から国民啓蒙のため宣伝省に送られ、宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスは、この事件の大々的な調査を命じた。対ソ宣伝に利用するためである。二十世紀前半、世は情報戦に突入していた。

 この構図は何故か東京裁判で、日本の未来を背負って立つ優秀な将校が千人近く処刑されたことと『カティンの森事件』とを重ね合わせてしまうのである。
 人間の行動律は洋の東西を問わず、そこに仕掛けられた事件は、同じ構図出演出されているのではないかと思うのである。
 こうした演出は、広島長崎の原爆投下で、今なお正当化される構図と、何故か不思議にも一致してしまうのである。

 さて、現代に至ってはパナマ文書
(Panama Papers)が歩き始めた。
 この文書はパナマの法律事務所であるモサック・フォンセカ
(Mossack Fonseca) 法律事務所(イギリスの大手一般新聞である『ガーディアン』によると、世界で4番目に大きなオフショア法律事務所よって作成された機密文書である。
 この文書には、オフショア金融センターを利用する21万4千社に上る企業と、その大株主や取締役などの詳細情報が書かれている。詳細情報としてリストアップされてる企業関係者の大半は、著名な政治家や富裕層であり、また公的組織も現存する。
 これらの情報が、2015年にドイツ新聞である『南ドイツ新聞』社に漏らされたのである。
 モサック・フォンセカ法律事務所は『エコノミスト』
(イギリスの週刊新聞で、ロンドンに所在)に「世界で最も口が堅い海外金融業界のリーダー」と評価されていたいたが、世は情報戦の時代であり、ガードの堅い極秘情報でも人間が関与する限り情報は何処かで洩れるものである。これも人間の行動律の何かを物語っているのだろう。
 パナマ文書は明らかに情報戦の中に置かれている。秘密裏に蒐集した極秘情報は、それだけに漏洩の危険に晒
(さら)される。情報戦の構図である。

 世界には米国民には見えない、超金持ちと言われる資産家の小数が大多数をコントロールしている。この資産家とは米ドル印刷集団のことである。紙と印刷熈があれば、ドル札は無限大に発行出来る。神を買うことの出来る通貨発行権を持つのである。
 その巣窟がFRB
である。
 この通貨発行権の威力は絶大である。世界を動かしている。それに発行する単価は実に安い。
 単価が仮に百円とすると、コストは僅か二円程度。利益は98円であり、これを貸出に使う。貸出利益は莫大なものになる。この莫大な資金で、次ぎに戦費調達などに使い、軍需品は貸出とは桁違いな天文学的数字を生み出す種金となる。この種金は連鎖を起こして、更に膨らみ始める。
 軍需品は消耗品であるため、消費は次々に繰り返される。ねずみ講式の永久連鎖講の如きである。超天文学的数字を作り出す永久連鎖講装置が、僅か1%にも満たない超上級富豪層から作り出されたのである。
 この永久連鎖講装置を考え出したのがアシュケナジー・ユダヤであった。かつてのカザール帝国の出身者達であり、西暦千年頃、北からロシア正教、南からイスラム、西からキリスト教の圧迫を受けて改宗が迫られたとき、何れにも改宗せず、ユダヤ教徒に成り済まして“偽ユダヤ人”になった。また“偽ユダヤ人”は、一説にはファリサイ派の流れを継承したともいわれる。アシュケナジー・ユダヤ人は旧約聖書に出て来るアブラハム、ヤコブ、イサクらの流れの血統をもつ子孫などではない。西南アジア系ではなく、ヨーロッパに近い白人系人種である。
 現在アメリカを席巻する1%のユダヤ人とは、アシュケナジーなのである。彼らがエスタブリッシュメントとして、国家や市民社会の様々な次元で意志決定や政策形成に影響力を及ぼすのである。

 ちなみにファリサイ派は、イエスの時代に盛んだったユダヤ教の一派で、紀元前二世紀後半頃に擡頭
(たいとう)し、モーセの律法の厳格な遵守を主張し、これを守らない者を汚れた者として斥けた。
 だがイエスは、その偽善的傾向を激しく攻撃したことで知られる。アシュケナジー・ユダヤはこの流れを継ぎ、ユダヤ教に改宗してユダヤ人に成り済ましたとも言う。
 ユダヤ人は旧約聖書に見えるヤコブと、その後裔
(こうえい)である十二部族の総称かなり、つまりセム族の流れを継ぎ、自らをスファラディー・ユダヤの子孫であると自称する人達である。アブラハムの子孫である。
 だが現代のイスラエルは、アシュケナジー・ユダヤ人達によって1948年に建国された国家であり、未だに中東紛争の焦点となって争いが絶えない。
 この紛争は、何処かで何者かの指令によって動かされていると検
(み)るべきだろう。影響力は大である。

 この流れの中で、広島でG7外相会合があり、次に伊勢志摩G7サミットとなる。
 アメリカは現在、日本円に換算して16,000兆円の借金を抱えている。デフォルト回避を行っているが償還不可能は、また権威失墜を招く。
 では権威が失墜すると、どう言う現象を起こすか。
 かつてアメリカは世界の警察官と称されていた。国連でも主導権の全般を握っていたからである。その代名詞が世界の警察官であった。
 ところが、この債務国は巨額なる借金によって核保有国としても、また安保理理事国としての権威からも失墜し、安泰が脅かされ始めた。踊らされる背景に僅か1%の超スーパーリッチ層が、その他大勢の大多数のアメリカ国民を操っているのである。

 しかし国民の大半の意識としては、自らが操られている自覚症状を感じていない。為
(な)すがままにコントロールされ、今や6人に1人が生活保護層に組み込まれている。子供のホームレスまでいる。この社会の恥部は、アジアやアフリカの貧困層と酷似している。経済格差は益々克明になりつつある。
 民主主義デモクラシーの発祥の地アメリカと言えば、日本人の眼には、実に公平公正で、然も徹底した平等主義は隅々にまで行き渡っているように見える。ところが現実は違う。
 この国は完全なる階級社会である。

 階級を廃止したと宣言する自由の国アメリカは、自由とは名ばかりで有名無実。自由は死語のなっている。
 この国では、大統領になるにしても1%の超スーパーリッチ層の御趣向を伺わねば大統領にはなれない。大統領選挙も完全に1%にコントロールされているのである。そのコントロールかにおいて大統領が誕生し、総てその指令に基づいた政治や経済が展開される。キリスト教国家アメリカは、今では神とは擦れ違いの生活をしている。大半のアメリカ国民は1%の層に対して、家畜化を余儀なくされたのである。その余波は日本にも及んだ。

 巷
(ちまた)では、金銭目当ての未成年女子の売春が“援助交際”という偽装名で持て囃(はや)され始めた頃である。他にも青少年の間で引蘢りが顕著になり始めていた。こうした社会構造が克明になり始めたのは、平成3年のバブル崩壊以降でなかったかと思うのである。
 日本でも聡い者は変身が巧みだった。かつて左翼陣営で発言を大にしていた論客らが、これを機にブルジョア化し始めたのも、この頃からだった。
 アメリカの属国日本はアメリカの変化に微妙に反応し、それはあらゆる階層に反映するのである。その最たるものが就業者の変革的な変化である。

 世の中の職業分布としては、この頃から、職人が激減し始めた時期でもあった。
 日本国民の就労の八割り以上は企業体という組織の所属し、その体質は、自然と企業全体主義へと偏って行った。企業と運命共同体を作ることにより、生活出来るという体質構造を作り上げて行ったのである。企業依存である。大半の日本人は企業を離れては何も出来ないのである。
 今では八割り以上の日本国民の就業者が何らかの組織に属し、運命共同体の中に居て、日々の生活の糧を得る構造になっている。背景にはマイホームやその他のクレジットで、ローン漬けにされて多重債務を抱え込むことになる。

 一方で企業や組織の微温湯
(ぬるまゆ)に浸かることを余儀なくされ、その中から出られない体質に変化させてしまった。微温湯から出れば、忽(たちま)ち風邪をひいてしまう軟弱体質である。組織の中に浸っている限りにおいて風邪をひかなくてすむ。家畜化ならぬ、企業の社畜に成り下がってしまったのである。これはいいも悪いもない。喰うためには誰もが、社畜の道を選択した。本来の自由を放棄してしまったのである。
 つまり、小数の会社役員のために、多数の会社員が奉仕するアメリカ式就業構造が、既に日本では出来上がってしまった。また数百人程度のスーパーリッチ層に対し、その他大勢の日本国民が家畜として奉仕する、人間牧場で管理される柵
(さく)の中に自ら進んで入ってしまったのである。

 産業別職業分布では、第一次産業は1%、第二次産業は24%、そして残りの第三次産業は75%と言われているが、全産業を併せても、大半はサラリーマン化された企業体に属し、運命共同体組織を形作っている。農業や漁業従事者にしても、また職人的な仕事に携わる産業においても、多くはサラリーマン化された企業体に属し、組織によってコントロールされる構造の中に居る。
 それに反して、独立農業従事者とか漁業従事者とか、また独立職人という「独立」して商いを糧
(かて)とするそういう人は圧倒的小数になった。集団的組織構造の中に多くが依存している。

 時代は斯くして、新たなる時代に突入し、以降、金持ちのための金持ちの政策が展開され、一般に贅沢という代物が、金持ちだけの専売特許になって行くのである。
 持て成しも、接待も、金を払っての契約であり、総て金持ちのためのものに移行されて行く。豪華客船でのクルーズも、豪華列車での旅情満喫も、金を払う者のために作られたものであり、二十一世紀の幕開けは、「金持ちの金持ちによる金持のための政治」が暗黙の了解で世界の認知を受けた時であった。
 「民主」という言葉も米大統領リンカーンによって、1863年に、ゲティスバーグで行なった演説中の言葉に、民主政治の原則が仕掛けられたのでないかと思う。そして以降も、今なお継続中である。
 このように急変した新時代の顕著な蠢
(うごめ)きは、平成3年のバブル崩壊以降でなかったかと記憶するのである。また、平成3年度の就職状況は売手市場で、大学高校の新卒者は優位に自分を売込むことが出来た年であった。



●日の丸と瓢箪

 神田神保町の古書街からの復
(かえ)り、いつもの定番としては、午後5時頃には『藪そば』で蕎麦の笊(ざる)を数枚平らげ、併せて日本酒を恃(たの)み、天ぷらを齧(かじ)りながら手酌で酒を引っ掛けるというのが当時の過ごし方で、その後、銀座に出て何処かで酒を呑む。そして終電がなくなる前に帰路につくというのが、私の日常であった。

 『藪そば』で酒を引っ掛け、その足で神田から新橋まで電車で行き、新橋駅からほろ酔い気分まま銀座通りを歩いている時だった。
 何処かのビルの地下街へと通じる入口に、和風スナックを謳った『ひさご花』の電光看板があり、前には鮮やかな日の丸が張ってあった。それが莫迦
(ばか)に眼に付いたのである。そして店前を、六十半ば前後と思える老婦人が白髪を結い上げ、品よく和服を着て周囲を箒で掃いていた。
 私は鮮やかな日の丸が眼に付いたのである。眼を抉
(えぐ)るくらいの鮮やかさだった。思わず足を止めて日の丸に魅入っていた。
 私は掃除の老婦人に聲
(こえ)を掛けた。
 「あの……」
 しかし、聲
を掛けようとして出た言葉が、此処までだった。何故かその老婦人に圧倒されてしまったからである。
 すると老婦人は「何ですか、書生さん」と、私を呑んだようなことを言う。
 この「書生さん」に一瞬苦笑してしまった。おそらく着物に野袴という、現代では奇妙な独特の出で立ちから、ジョークとして吐露
(とろ)したのだろう。

 今日この頃の服装は着物に野袴である。この出
(い)立ちから、明治時代の書生を連想しないことはない。年配者がこの出で立ちを見れば、書生然に見えないこともあるまい。そこで撥(は)ね返って来た言葉が「書生さん」であったのだろう。
 また私の恰好は、何処へ行っても目立つようで、この出立ちから、右翼の壮士に見えなくもない。これにステッキなどを所持していたら、その中には仕込み杖と採られる。そうなると、過激な行動をする行動右翼とも採られかねない。刺客然として検
(み)られる。
 もし、その類を所持していたら、官憲から職務質問受けるだろう、この出で立ちなら……。
 そして仕込み杖なら「銃砲刀剣類登録証を拝見」となるかも知れない。
 居酒屋などに入ると、一瞬静かになる。この姿だけで一目置かれている威圧があったに違いない。
 そういう経緯から考えれば、この老婦人が一瞬私をそのような書生風のオヤジと検たのも不思議ではあるまい。

 「日の丸が掛けてありますが、おたくの店ですか」
 「ええ、そうですよ」
 「どうして日の丸なのですか」
 「だって日の丸って綺麗でしょ。見ていて美しいもの……」
 そう言われれば確かに綺麗である。歯切れのいい江戸弁で答えた。
 白地に赤い日の丸は、一瞬眼を留める。それが鮮やかなだけに、足を止めてしまうこともある。美しい旗である。
 「では、立ち寄らせて頂いても構いませんか」
 「ええ、どうぞどうぞ」となって、店の中に引き込まれた。
 早い時間なので、店には客はいなかった。
 店内は数寄屋造りの離れ座敷を思わせた。凝った造りである。
 店のカウンター中央には横2メートル、縦1.5メートルくらいの、ある聯隊
(れんたい)の集合写真が飾ってあった。その脇には大戦当時を偲ばせる骨董品類が並べてあった。
 腰を掛けて、まずレミーマルタンの水割り一杯を注文した。女性はその準備に掛かったようだ。
 暫
(しばら)く辺を見回した。
 周囲を見渡すと、その中に瓢箪の一群があって、これを見た私は「あッ?……」と思わず聲を上げてしまった。その瓢箪は、あのとき習志野公園で出遭った老人は所持していたものと、殆ど同じ物を見たからである。光沢といい、長年手入れをして来た時代を偲ばせるものであった。
 「あの……」
 「何ですか、書生さん」
 「そこの瓢箪ですが、その瓢箪、もしかすると……」
 「もしかすると、何ですか」
 「それ水筒代わりに使っていたものではありませんか?」
 「よくご存知ですね。この瓢箪は大戦末期の兵隊さんの水筒でした」
 「すると、瓢箪部隊の水筒ですか」
 「瓢箪部隊ですって?……。どうしてそれを知っているのですか」
 「いたのですよ、その部隊の人が……」
 「どこで?……」
 「習志野で見たのですよ」
 「習志野で?……」
 「では、おたくは瓢箪部隊のことを何か知っているのですか。その部隊は大戦末期、華北石家荘方面にいたそうですよ。そういう話、今までに聴いたことはありませんか」
 「華北石家荘方面ですって!……」
 女将は一瞬驚いたような声を上げた。あるいは慌てたのかも知れない。突拍子もない話だと感知したのだろう。この老婦人は当時のことを、あきらかに知っているらしかった。だが、簡単には話してくれない素振りだった。何となく口の重さが感じられた。



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