運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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壺中天・瓢箪仙人 42

昨今は、幸福を豊かで便利で快適でという物質的幸福感を幸福と称しているようだが、こういう物で飾られた幸福や平和は、何となく鼻に突くものがある。物指向のそれは、ニセモノ臭く感じる人工的な幸福であるからだ。

 そして、物で飾り立てる人工的な幸福は、それを常に外に求める幸福である。
 自分の中に存在する、また自分の中に置き忘れた裡側
(うちがわ)の幸福こそ、貧しくとも楽しい真の幸福なのではないのか。
 幸福が物質的に飾り立てる幸福と信じ込んでいるのは、実は幸福の名を借りた幻影であり虚構である。
 人生求道は、何処までも真物を目指したいものである。


●あがない

 人が見向きもしない物に眼を向ける。また、人が見向きもしない物の中には以外な“お宝”が転がっている場合がある。
 私に、これを教えてくれたのは、かのロスチャイルド家の始祖となったマイヤー・アムシェルだった。当時のマイヤーは、ドイツ西部地方のライン川の支流マイン川下流にある都市フランクフルトで「古いコイン」を扱う『古物商』をしていた。
 しかし此処で古銭を扱ったことから、後に世界を動かす「金融王」へと躍進する。
 当時のマイヤーは普通の人なら安易に見逃してしまう、“がらくた”同然の古銭に目を付けた。一般人なら見向きもしない媒体である。しかしこれを見逃さず、古いコインを宝の山と検
(み)たのである。

 古銭に付加価値をつけるために古銭を買い取ると、持ち前の知恵を駆使して手書きのパンフレットを作り、それに独自の工夫を懲
(こ)らして、顧客になりそうな人達にパンフレットを郵送した。今日で言うダイレクト・メールである。
 マイヤーの風貌
(ふうぼう)は長身で、肩をすぼめた学者タイプの、髭(ひげ)下には、いつも微笑を絶やさなかった人だと言う。その風貌は如何にも“カラバ思想”にマッチした神秘的で、かつ穏和な性格だったと言う。
 人相学的には智に長けた人間の特徴を顕している。

 物事を冷静に判断し、「見通し」の利く人であったと言うことだ。「先見の明」があったと言うべきであろう。それを彼自身の風貌に漂わせていた。また商品に付加価値を付けて販売することから、並みの人間以上に商才が長けていたことになる。
 つまりマイヤーの商法は、一般の人が見向きもしない古銭に目をつけ、これに“付加価値をつけた”ことである。大富豪になるような人は、「並みの人間」などではなく、どこか違うと言うことだ。それは目の付けどころである。この違いを先見の明と言ってもいいだろう。

 当時古銭などに興味を抱く階級としては、王侯貴族や富裕の商人層などの上流階級であり、マイヤーは知恵を絞り、自分の持てる知識を駆使して、この階級の人達に興味を抱く、心憎いばかりの趣向を凝らしたのである。
 顧客開拓のために、あの手この手を駆使して、彼等に接近を図り、遂に時の支配層に食い込むことに成功した。こうしてフランクフルト地方の領主、ヘッセン・ハナウ家のウィルヘルム公に古銭を売り込むチャンスを掴んだ。人脈作りに長けていた。

 マイヤーは周知の通り、下層階級出身のユダヤ人であり、少年の頃からユダヤ教の「導師ラビ」について、中東やヨーロッパの歴史を学び、語学を勉強し、ヘブライ語をはじめとして、英語、フランス語、ドイツ語を学んだ。
 こうした教養、つまり学を積んで行ったことが彼の未来を開いたのである。普通の人ならば、古い貨幣に過ぎない、古銭に独特の付加価値をつけることを思いついたのである。実にアイデアである。
 ここにマイヤーのサクセス・ストーリーの「先見の明」が潜んでいた。こうして「一番最初の種金造り」の成功したのである。この種金をもって、後に金融業の乗り出して行くのである。
 商いは、種金無しでは展開出来ない。
 そして常人とは異なる「先見の明」が物を言うのはいうまでもない。
 常に「明を養う」鍛錬をしておかなければならない。普段から見逃し聞き逃しをしない鍛練である。人の話をよく聞く耳を養い、また真相を見抜く観察眼を養っておくことである。

 かつて京都のある陶芸家から、こんな話を聴いたことがある。
 「陶芸は土の中から埋もれた器を彫り出す仕事なんや。土を検
(み)ると、その中には器が閉じ込められているのが分る。そして器が言うのや。はよう、わしを彫り出してくれ、彫り出してくれと。そう呼びかけるのや。そして土を捏ねて彫り出してやる。陶芸とはそういう仕事なんや」
 この話は、私が滋賀県大津に棲んでいた頃、知人の陶芸家から聴いた話である。この陶芸家は土の中に埋もれた器を検
るという。一種の先見の明であろう。

 また、これに似た逸話は、かのミケランジェロにもある。
 ミケランジェロの有名な逸話として、友人と散歩中、野原に苔むした黒っぽい大石が転がっていて、その石の中に「美しい女神が虜
(とりこ)にされている」と検たのである。そこでミケランジェロは女神を救出しなければならないと考えた。一緒に歩いていた友人は、なぜミケランジェロがこう言うことをいうのか分らなかった。
 ところが、ミケランジェロは数日後、人夫を雇ってこの大石を自分のアトリエに運び込ませた。石の表面には大理石の痕跡が見られた。その後、一気に彫り上げ、女神に救出作戦を展開するのである。苔むした大石を見たとき、脳裡
(のうり)には理想的な女神像が一瞬にして閃いたのだろう。
 彼はギルランダイオに絵を学び、ドナテッロらの感化を受けて、彫刻に入神の技を示したルネサンス期の芸術家である。大石を見て、その中に女神が虜にされていると検ることが出来るのは余程、その中を視る霊眼的な眼力が必要だろう。この眼力も、また何が埋もれているか見抜く先見の明であろう。

 何事に限らず、人生を生きていく上では先見の明という眼力を養っておかねばならない。日頃から観察眼を鍛えておかねばならない。この鍛練の有無で、一歩でも二歩でも理想に近付けるか否かが決定されるようである。
 人生は理想に近付く鍛練が、常に要求されているのである。商売もこれと似たようなところがある。入神あるいは入魂という、魂を賭
(か)けたものが必要になって来るのである。独自の創意工夫である。創意工夫においてはマイヤー・アムシェル然(しか)りだった。
 特に若い頃、私はマイヤーの発想に大いに感化されたことがあった。

 大学生の頃、学生業の副業として、刀屋をしながら同時に家庭教師も遣っていた。私の場合は、この二つの業種が同じように映ったのである。当時はこう言う発想が出来る人は極めて稀であった。
 また、悪い言葉でいえば一種の魂胆でもあった。受験指導をしていたから、志望大学の合格させた暁
(あかつき)には刀剣を合格祝として買ってもらえるという魂胆を持っていたのである。しかし、合格祝は合格させなければ成立しない。
 ある人は、私のこう言う遣り方を“武家の商法”と蔑視したことがあった。甘いと嗤った。
 私は、武士が、何も商売が下手とは思わなかった。問題は打ち込む魂である。商いに真剣になるかならぬかの違いである。真剣度である。
 但し、武家の商法には、一つだけ特長がある。
 武家式の商売は、薄利多売は不適当で、「一品限り」と言うものを販売する商売である。販売商品は多くなくてもいい。付加価値的な要素を必要とする。武家の商法ではディスカウント的な遣り方は適さない。また不特定多数に売り捲るディスカウントショップの商いではない。
 世界に二つとない、例えば古美術品などに限り有効なのである。同質・同形の物を安価で、薄利多売しないのである。

 あたかも外科医の如き、自分の執刀した患者の術後を訪ねて廻る仕事である。その後の経過を訊く。この仕事が武家の商法である。
 自分が執刀した患者の術後を案じて、五年後、十年後、二十年後に患者の家を訪ねて廻り、その後の経過を伺う良心である。
 私も、この話を「昔はそう言う医者がいた」ということを聴いたことがある。
 この良心的な医者は、決して多くの手術をこなして薄利多売的な執刀をしなかった人であろう。術後にも責任を負った。
 これほど、良心が確かなことはない。
 この良心の確かさをもって、医者だけでなく、その他の商売においても、こうであれば顧客に対し、良心を維持出来るだろう。
 だがディスカウントショップの商いでは、良心など希薄である。数多く売れればいい。しかし、それでは心が通じない。多過ぎて誰に何を売ったかも覚えていない。心を通わし、良心を届ける必要があるのである。

 これは古銭などにおいてもそうであろう。
 これはと思うものを推奨し、それに独自の創意工夫をもって付加価値を付ける。
 なぜマイヤーが古銭に目を付けたかそれを想えば、容易に薄利多売と一品限りの違いが浮上して来る筈である。
 付加価値を付ける商売は、一品限りにおいて有効であった。一品限りは、世界に同じものが二つとない。この意味が非常に大きいのである。
 薄利多売は、大量販売の才がある人が遣ればいい。
 マイヤーは「一品限り」において、顧客の心を掴んだのである。逆に薄利多売では掴めなかったであろう。いい物、珍しい物を高く売る。世界に同じものが二つとないから、売値は売主にある。買主にではない。売主が買主を選択する。この意味が大きいのである。
 では、なぜ商いをするのか。

 日本には古くから「士魂商才」と言う言葉がある。
 日本では、こういう古くから言葉があった。しかし、今日では間違った解釈がされ、士魂商才と言えば、一般には「武士の精神と商人の才とを兼備すること」と言うように解釈されている。近代、『和魂漢才』からの造語と言われている。

 ところが、本当の意味は違うらしい。
 「商い」は、また「あがない」ともいう。
 “あがない”とは「あがなう」ことである。あがなうとは、「贖
(あがな)う」であり、何かを代償として、罪を「まぬかれる」ことを言う。また転じて、「つぐないをする」ことを言う。つまり、「罪ほろぼし」の意味だ。罪ほろぼしをするのである。
 かつて、キリストは我が身を犠牲にして、代償を捧げた。罪過をあがなったのである。これを「贖罪
(しょくざい)」と言う。自らではあがなうことのできない人間の罪を、神の子であり、人となったキリストが、十字架の死によってあがなったのである。これにより、神と人との和解を果したとされるのだ。この「贖罪」の示す意味は大きい。

 一方、「あきない」を“商い”と言い、つまり商いとは「あがなう」ことを指すのである。これこそ「贖い」なのだ。贖うのは、また深読みすれば、罪人の持つ「つみ」である。人間は、災いの生き物である。
 したがって、贖いは、「低姿勢」でなければ出来ない。頭を低くしなければ出来ない。
 何故ならば、罪人は頭を低くし反省しなければならない。頭を低くし、あがなうことで、その罪の許しを請うのである。
 商売も、頭を低くしなければ出来ない。
 踏ん反
(ぞ)り返っていては、商売は出来ない。商人が客より威張っていては商売にならない。客より頭を低くして、はじめて商いは成立する。
 商いを成立させるためには、相手を持ち上げなければならない。その基本は、話をよく聞いてやることである。よく喋らせて、よく聞くことである。機嫌良く喋らせ、機嫌良く買ってもらい、機嫌良く帰ってもらうことである。

 商売の基本は、相手のことをよく聞くことである。聞き上手になることである。聞き上手になれば、商売のセンスが身に付く。「低姿勢」という意味が理解出来てくる。頭
(ず)が高くては商売は出来ない。
 私は空威張りでない強さを求めて、若い頃から道場とともに刀屋をした。尊大にならず、頭を低くして、どうしたら客に気に入ってもらえるか、そうしたものも武技とともに研究してきた。
 刀屋の後に、学習塾や進学塾、大学予備校なども経営したが、本来経営と言うのは、威張っていては成り立たないのである。殿様商法では、顧客の満足と笑顔を満たさないのである。これが「商い」をやって、悟ったことだった。

 最近は少しずつこうしたことが理解できるようになった。
 頭を低くすることが、実は同時に、武術の真理であることも分かってきたのである。稽古事の奥義は、何も荒々しい中だけにあるのではない。猛々しいだけが、勇気でないのである。
 本来の勇気は争わないことであった。争わないということが、実は簡単なようで難しい。争わないためには勇気がいるからである。また戦わないためには、戦わないための勇気がいる。
 二十世紀、人類は二度に亘る世界大戦を仕出かした。そして、この大戦を戦うために大きな勇気を必要とした。今は戦わないために勇気を必要とする時代に変貌した。
 ところが、戦争の火種は至る所で燻っている。そして先の大戦では、しばしば虚栄心を勇気に代用されて来た。そのために悲劇が生まれた。慈悲と優しさが欠如していたからである。
 優しさがなければ、真理の道の奥義は極められない。
 勇気と優しさは、表裏一体の関係なのである。その表裏一体の心得を体得するために、また武人は“武家の商法”の愚に陥ることなく、修行を積み重ねなければならないのである。私の奮戦は、こうした一面にも現れていたのである。
 商いは「あがない」である。優しさを学ぶための、人に頭を下げる平身低頭があるように思うのである。



●居候

 再び話を平成3年当時の習志野時代に戻そう。
 私と家内、それに内弟子のテツの三人の中に、もう一人加わる者が居た。伝習塾への新しい居候である。
 この居候は陸上自衛隊習志野空挺団
(第一空挺団)に籍を置く、山口県岩国市から来た、下瀬上等兵だった。
 本来の階級は、三等陸曹だったが、私はこの漢を「下瀬上等兵」と呼んでいた。
 彼は、身長190cm近くはあろうと思われる、長身の引き締まった体躯の持ち主だった。
 まるで鋼
(はがね)のような、鍛えた体躯の持ち主だった。俊敏で、タフであった。疲れ知らずだった。さすが、日本一の習志野空挺団員と思った。

 この空挺団には、全国から選
(よ)りすぐった優秀な自衛官が集結していたのである。パラシュート降下を専門とする、日本で唯一のパラシュート降下空挺団である。彼もその優秀な選ばれた一人で、曹候補生出身の自衛官だった。
 下瀬は、私から「上等兵」と呼ばれる度に、「自分は三等陸曹です。昔の階級でいえば“伍長”です。自衛隊では立派な下士官です。また自分は新任隊員担当の営内班長です。部下が二十人居ますから、上等兵ではまずいです。どうせ呼ぶなら、伍長と読んで下さい」と、口を尖
(とが)らせて言うのだった。
 彼は私から「上等兵」と呼ばれるのが不満であったらしい。それでも下瀬の進言を退
(しりぞ)け、上等兵と呼んでいたのである。

 しかし、いつの頃からか、彼も諦めたのか、あるいは自棄糞
(やけ‐くそ)になってしまったのか、「下瀬上等兵!」と呼ぶと、「はッ!」と元気良く返事をするようになっていた。開き直ったように返事をするようになっていた。
 なぜ彼を「上等兵」と呼ぶようになったか、それは昭和の陸軍きっての戦略家であった石原莞爾
(いしわら‐かんじ)が、東条英機(とうじょう‐ひでき)を「上等兵」と呼んでいたことに由来する。陸軍中将の石原は、陸軍大将の東条を「上等兵」と、公言して憚(はばか)らなかったのである。

 石原莞爾は満州事変の首謀者である。
 一方、東条英機は太平洋戦争を勃発させた当時の首相で、陸軍大臣を兼務した参謀総長だった。他にも商工や軍需各相をも兼務していた。
 この東条を石原は、「上等兵」と呼んでいたのである。それは、東条が事務屋としての能力して持ってないからであった。所詮
(しょせん)首相の器(うつわ)ではなかった。だから、石原は東条を、「上等兵」と呼んで憚らなかったのである。事務屋の器でしかないと見抜いていたのである。
 営内班長の下瀬も、どこか東条英機と重なった、事務屋程度の能力しかないように映った。
 確かに彼は暗記能力はよかったが、それは事務屋のそれだった。だから、下瀬を「上等兵」と呼んだのである。事務屋の東条を彷佛
(ほうふつ)とさせたからだ。
 戦前・戦中、東条は「カミソリ東条」と呼ばれていたが、切れ者は切れ者だが、事務屋の官僚的な切れ者だった。大局を読み、グランド・デザインを創出するような戦略家には、ほど遠かった。

 私は下瀬もそのように検
(み)たのだった。
 その上、この男は油断も隙もなかった。見逃すと、とんでもないことをするのである。
 下瀬上等兵は、この年の夏の尚道館で行われた「夏期合宿セミナー」にも参加していた。
 福岡県最高峰の福智山に登った際、道案内の私が途中で道を間違い、右に行くか、左に行くかの分岐点で選択しに迷ったとき、下瀬上等兵は大変役に立ったのだった。
 「下瀬上等兵!」
 「はあッ!何でしょうか」
 「どうも道に迷ったらしい。すまんが、ちょいとその先まで、右か左か調べてきてくれんか?」
 「はい!只今より下瀬上等兵、進路の探索に行って参ります」
 「よろしい、行ってこい」
 そして横にいた中学生の小坊主にも、「お前も、下瀬上等兵と一緒に駆け足で先を見てこい」と頼んだのだった。
 この中学生の小坊主は、尚道館に通っていた中三男子の道場生で、陸上部に入っていて、長距離ランナーだった。駅伝選手なのである。持久力があって中々のタフな少年だった。この小坊主にも、斥候
(せっこう)を命じたのだった。私はこの少年を「くちびる小僧」と呼んでいた。
 「ただいまより、下瀬上等兵と“くちびる小僧
(この少年は笑うと唇が大きく広がる。それにちなんで“くちびる小僧”と徒名した)”の両名に、前方の状況偵察を命ずる」
 呼び出された二人は、気を付けをしたままこれを拝聴した。
 私は、二人を斥候に仕立てたのである。

 まず小坊主が先に駆けた。そして100m位をおいて、下瀬上等兵が駆けた。これは空挺レンジャーの余裕を思わせる、そういう駆け方をしたのだった。彼はリュックをまるで背嚢
(はいのう)のように背負ったまま駆け足で、「レンジャー!」と大声を出して突進して行った。まさに自衛隊レンジャー部隊の突撃だった。
 空挺レンジャー要員は、訓練で突進する際、「レンジャー!」と大声を出して、突っ込んで行くと言うのだった。
 下瀬上等兵は、こうした場合、非常に役に立つ重宝な人間だった。
 その道の先まで、道場の小坊主と、駆け足で斥候に出てくれ、「この先は行き止まりです」と、自衛隊員らしい報告をしてくれたのであった。事務屋らしく、紙に図形まで書いてくれたのだった。しかし、どこか事務屋のレポートを棒読みするような言い方だった。

 私としては、その語尾に《右に迂回した方が安全です》と付け加えて欲しかった。意見具申が欲しかった。参謀としての意見具申が欲しかったのである。この漢、所詮
(しょせん)兵卒か……と思うのだった。
 状況見立は的確だが、具申能力がなかった。自分で右か左か、意見を具申しないのである。状況をただ報告するだけで、状況判断の意見具申がないのである。
 だがこうして、福智山登山は、途中、道に迷うこともなく、頂上まで無事に辿り着いたのだった。下瀬上等兵と小坊主が斥候に出てくれたお陰であった。それにしても、事務屋は虚しかった。

 下瀬上等兵の実家は、山口県岩国市で農家をやっていた。彼の父上から、「息子が、宗家先生にはいろいろと、お世話になります」という礼状をつけて、伝習塾に、昔でいう“米一俵”
(1俵は4斗のことで、1斗は1升の10倍で、18.039リットルに当る。約72キロ強で、20キロ弱の米が4個分)を宅配便で届けてくれたのだった。それも今年の秋、収穫をしたばかりの新米だった。有り難い献上品だった。
 これで伝習塾の住民は、合計で四人になったのである。
 営内班長の“下瀬上等兵殿”は、特別な演習や夜間訓練がないときや、また綱武館で稽古がないときは、毎日きまって午後六時頃に帰ってくる。そして、定番の焼酎の晩酌をはじめるのであった。
 それにテツを付き合わせ、今度はテツに、酒の味を教えたのだった。なんでも“よからぬこと”を教えるのが好きな男だった。

 夜9時頃になると、両名はすっかり出来上がり、大声で軍歌を歌い出す始末だった。
 そしてついに軍歌から、“しもねた”の卑猥
(ひわい)な春歌に変わったのである。
 手拍子を打って、露骨な歌を歌って大騒ぎするのだった。自衛隊で今はやっているらしい、卑猥なエロ歌のオンパレードだった。仕舞いには、茶碗を箸で叩いて、乱痴気
(らんちき)騒ぎを仕出かすのである。
 酔いにまかせ、乗りに乗って調子づいていた。彼等は、実に楽しそうであった。羨ましいくらい楽しそうであった。

 下瀬上等兵が、手拍子を打ちながら、『東京音頭』の曲を捩
(もじ)って、イントロ部分の賑(にぎ)やかな“出囃子(で‐ばやし)”を歌う。その賑やかなこと、あたかも寄席芸人が高座に上がる時に奏する、下座(げざ)の囃子の如し。
 そして、春歌の歌詞がいよいよ露骨に歌われる。
 「♪ はあ〜、春はよいよい、ちょいと桜の下で……」
 こう下瀬上等兵が歌うと、テツはそれに「ヨイヨイ」と、間
(あ)の手を入れるのである。
 バカバカしい歌詞を、実に軽快に、にぎやかしく歌うのだった。
 二人だけの宴会は、大いに盛り上がっていた。二人にとって、ここ伝習塾は、この世の春の桃源郷だった。二人は仲良く羽目を外し、そして仲良く沈没したのだった。

 私もこの中に入って、三人で沈没したかった。彼らの仲間に加わり、乱痴気騒ぎをしたかったが、予々
(かねがね)、進龍一が、「宗家は下の者と、酒を飲んではなりません。宗家の権威を失墜させてはなりません。毅然(きぜん)としていて下さい」と、釘を刺すものだから、私は大人しく一人で晩酌をするか、あるいは仕方なく、一人で外に飲みに行くしかなかったのである。
 当時、テツは白帯だったし、下瀬上等兵は参級だった。進龍一の言う、“下の者”だった。
 彼等と酒の飲もうにも、無理な話だった。仲間に入って愉快にやりたかったが、このことがバレれば、進から大目玉を食らうことは間違いなかった。宗家とは、このように堅苦しいものだった。

 隣の教室で授業をしている家内から「うるさいわね!ここがどこだか知っているの。授業ができないじゃないの、静かにしなさい!」と、いつも二人は叱られるのだった。
 家内の授業は、毎晩11時頃まで続くのである。
 すると下瀬上等兵が、「すいましぇーん」と、白々しい返事をするのだった。
 もし、私がこの中に入って乱痴気騒ぎをやっていたら、私も、家内から叱られたかも知れない。
 しかし、そういう家内も、毎朝6時になると、目覚まし時計代わりに、決まったように、十八番
(おはこ)の“ド演歌”を唸るのだった。それも“ド演歌”である。気張った“ド演歌”である。唸って唸って、唸りまくるのだ。それも朝っぱらからである。
 私にとっては、これこそ「うるさかった」のである。

 朝っぱらから、バカ声を張り上げて歌うものだから、隣の森川夫人から一度、「奥さんは大変歌がお上手ですね」と、品良く言われたことがあった。
 しかし、それに謙遜
(けんそん)もせず、「ええ」と相槌(あいづち)を打つのだった。打った相槌に余計な遠慮がなかったし、屈託もなかった。
 普通だったら、「いえ、それほどでも」と、謙遜してみせるのだが、家内はしゃあしゃあとして、「お上手ですね」に対し、あつかましく
「ええ」と答えるのだった。

 森川夫人は、皮肉でこう言ったかも知れないのだが、家内は自分で本当に歌がうまいと思っていたのであろう。呆れたものだった。
 この、家内の「ええ」には、押さえ難い笑いも伴ったが、一方であつかましく言ってのける「ええ」には、実を言って、毒気を抜かれた感じだった。自惚れも、ここまでくれば上出来だと思うのであった。

 最初、私の家にエレクトーン付きで転がり込んで来た頃、「お前、将来何になる?」と訊いたら、「わたしは“天童よしみ”みたいに、アイドル演歌歌手になりたいんです」と、しゃあしゃあと言うのだった。羞恥心など、全くなかった。
 私は呆れて、「お前なあ、バカも休み休み言えよ。23、4歳もなって、何がアイドル歌手なんだ。この年齢では、立派なオバサンじゃないか。そのオバサンが、アイドルなどになれる訳がないないじゃないか。それにお前は、自分で歌がうまいと思っているのか?」と詰
(なじ)ると、「ええ」と臆面もなく答え、それがのちに、あるテレビ局の「のど自慢」番組に出場するという行動に出たのだった。

 この「のど自慢」は、一週間前ほどに予選があり、それを通過すると、今度は舞台に立って、大勢の観客に向かって歌うことができる。晴れて観客の前に立って、堂々と歌うことができるのである。下手も上手も、予選に通過すればテレビに出られるのである。その予選に通過して、「のど自慢」に出たのであった。

 その当時、「わたし、予選にうかっちゃった。どうしよう」と言い出し、それについて私に指示を仰ぐのだった。
 「どうしようったて、お前が勝手に決めたことだろう。いまさら、どうしようもあるものか」
 「そんなことじゃないの。合格して“今週のチャンピオン”にでもなって、今度はグランド大会に出場し、レコード会社からスカウトされて、本当の演歌歌手になったらどうしようと、思っているの。困ったわ」
 「困ることはない、安心しろ。まず、そんなことは100%ない。200%と断言してもいい。お前のようなド素人が、どうしてプロの歌手になれるんだ」
 私はこう詰
(なじ)っても、諦めもせず、某テレビ局の「のど自慢」に本当に出場して、合格の鐘を鳴らしたのであった。
 この時、小倉北区のK市民会館で開かれた、この番組に出たのであった。坂本冬美の『祝い酒』を歌って、合格の鐘を鳴らしたのだった。

 合格の鐘と同時に、ガッツポーズで「やった!」と言って、飛び上がって喜んだのだった。生徒たちも、それに大喜びしたのだった。あの当時、応援に来ていた生徒たちから拍手喝采をもらい、大受けしたことがあった。
 塾の女生徒が黄色い声で声援する前で、獅子奮迅
(しし‐ふんじん)の活躍をしたのだった。
 司会のアナウンサーが、「合格です、おめでとうございます。お所とお名前を聞かせて下さい」と訊くと、「北九州市八幡東区から来ました曽川です」と答えた。
 すると、生徒たちが黄色い声援を上げて拍手したのだった。生徒も、家内の合格を喜んでくれたのだった。

 更にアナウンサーが、黄色い声援を挙げる会場を見渡し、「会場には大勢の生徒さんたちが応援に来てくれていますねェ。横断幕には“ちとせ先生ガンバレ!”とありますが、どちらの学校の先生ですか?」と、訊く。
 すると家内は「いいえ、塾です。うちでは進学塾をしているのです」と言って、公共の電波を使って、ちゃっかりと塾の名前を宣伝するのだった。抜け目がなかった。このとき私は、この放送を家のテレビで見ていたのである。
 会場からは黄色い声援と、大きな拍手喝采を浴びたのである。しかし、そこまでだった。念願の“今週のチャンピオン”には、なれなかった。
 しかし、このテレビ出演以来、もう二度と“演歌歌手”などとは言わなくなった。
 それは自分の歌唱力に限界があると言うことを感じたからではない。また歌手が、自分にとって、遠く及ばない世界のものだと、諦めた訳でもなかった。ただ、テレビに出て、合格の鐘を鳴らしたかっただけなのである。それだけで目的が達成されたのだった。
 あの時、確かに、家内の得意満面の笑顔があった。人生を、“このときぞ”と言わんばかりの、胸を張る得意満面の自信が、その表情に出ていた。

 「のど自慢」に出演した時、塾の中・高生の女生徒を遵
(したが)え、横断幕まで作らせて会場に押し掛け、そこで“これまでの憂さ”を晴らしたかっただけなのである。そういう意図があった。
 所謂
(いわゆる)家内にとっては、これが家内特有のストレス解消法である。そのストレス解消法を、習志野に連れてきても遣(や)っていたのである。それも朝っぱらからである。

 朝6時になると、1分の狂いもなく、歌いはじめるのである。目覚まし時計のようにである。歌を忘れたカナリアではなかった。朝っぱらから、うるさい小雀だった。
 この歌声を聞いて私は、「バカ野郎!朝っぱらからうるさい!」と怒鳴るのだった。
 「女のわたしに、“野郎”はないでしょ……」と反論して、また何事もなかったように、歌いはじめるのである。
 ただ、私が救われたのは、この場にもし、ピアノかエレクトーンがあったら、どんなにやかましかろうと思うのだった。それに近所迷惑でもあった。この手の楽器がないだけでも、幸せと思わねばならなかった。



●品格と人格

 日本陽明学の祖・中江藤樹によれば、まず武士を“士”と捉えている。藤樹のことを著わし『翁問答』によれば、「士とは天子・諸候・卿大夫・士・庶民の五等の身分のうちで、卿大夫を助けて様々な役職に就いて、政治上の実務を担当し、道の実現の一翼を担う身分である」としている。


 藤樹の論議は、武士をこれまでの武辺の武士と捉えていないところに注目したい。
 孔子の説いた、儒教の説く「君子の道」に則っていなければならないのである。更に発展させて、儒学中興の学問である『朱子学』から脱皮し、王陽明の説いた『陽明学』に辿り着き、“致良知説”の陽明学に準じた「倫理の道」の担い手として、士農工商の四民のうち、上位にくる武士は、農工商の三民の模範とならねばならないとしている。
 藤樹の理想は、三民の模範となる武士の立場を、次の三つのランクに分類したのだった。
 「上」にくる武士は、明徳が十分明らかで、名利私欲を求めず、仁義を行う勇気があって、文武を兼ね備えた者をいう、としている。つまり、藤樹が挙げた「上の武士」は、仁義を行う勇気があるとしていることである。

 次に、「中」にくる武士は、明徳は不明瞭で明らかでないが、名利私欲に迷わず、名誉や義理に命をかけ、恥辱意識を持っている者を「中の武士」としているのである。
 更に「下」にくる武士を挙げ、このランクは、上辺だけは義理や人情を大事にするように見せ掛けて、心の裡
(うち)には私利私欲が逞しく、野心をぎらつかせ、立身出世のみを念頭においてこれに専念する者をいうとしている。
 そして以上を総じて、武士の上・中・下の品位と人格を見分けるポイントとして、武士個々人の“徳”と“才”と“功”を挙げている。

 藤樹によれば、“徳”は文武合一の徳明であり、“才”は天下国家の政治を運営する能力であり、これを養うには文武両面に亘って、智慧と能力と技術を育むことであるとしている。
 更に、“功”においては国家や領地を運営し、外交に当たっては次々に勃発する国難や種々の難儀・難題を解決し、防衛を全うして、政治上の実績を積み上げてしていくとしている。
 これを武士の見分け方の三要素として、これを以て処遇することが、一方で主君の役目であるとしているのである。この是非がかなって、明君が存在するとも言い切っているのである。
 今日で言うならば、「経営者心得」のようなものであろう。

 ところが、当時の武士の実像は、陽樹が考えていたような武士象とは程遠いようだった。
 そのために藤樹は、当時の武士気質を厳しく批判したところもあった。それは藤樹が仕えた大洲
(おおず)(もと加藤氏6万石の城下町で、藤樹の旧宅がある)の武士においてである。この藩の武士は、武辺のみにこだわって武技を尊び、文を軽んずる武士が多かったとしていることだ。
 藤樹は、武辺にこだわる武士について次のように批判している。

 「世間では、彼等に対し何の検討も加えられず、いつも威張り腐って厳めしく、武技を論じては猛々しいことを武勇と思い込み、ただ腕力沙汰に及んで、人を殺すことばかりを勇気を思い違いしている。これでは屠殺
(とさつ)人と何らかわりがないではないか。何とも浅ましく、嘆かわしい限りである。戦場や非常時に対しては、武勇で勇猛なるは必要不可欠だが、平時にこの態(ざま)とは何たることだ。

 平生無事の時に、何かと争いごとに関与し、肩で風を切る態度は愚かなことだ。それでは、泰平の世に、毎日を鎧兜を着て生活するようなものではないか。日常をただ猛々しく、表面だけの勇猛を繕
(つくろ)って、武芸を学びそれだけに固執することと、軍法を学ぶことは別問題である」と厳しく批判しているのである。
 更に、「猛々しく威張り腐り、肩で風を切るような、腕力に頼る武士は、例外なく他人や、他の命を軽蔑・蔑視し、命を軽く考えているため、闘争心が激しく好戦的である。ここまでなら、バカはバカでいいが、喧嘩三昧
(ざんまい)に明け暮れて、そのために犬死にもしかねない。犬死にすれば、武士の本領を発揮することなく、主君や親・兄弟にも迷惑がかかり、これこそ愚行でまことに浅ましい限りである」と批判に追言しているのである。
 私は、藤樹の言葉を思い出す度に、喧嘩三昧に明け暮れ、喧嘩師を気取りで好戦的に喧嘩をする人間は、所詮
(しょせん)喧嘩に強いといったところで、あるいは相手をこてんぱんにやっつけたからといって、それは人間でなく、「噛み合いに強い犬」とかわりないと思うのである。

 現代の世間の人間は、格闘などと言うと、これを興味半分、おもしろ半分、更には娯楽半分で捉え、両者を戦わせて、その勝ち負けを占って観戦を楽しむが、要するに心が暗いから、猛々しい人が武辺をすれば、武辺とは猛々しいことと考え、文芸なき者が、武辺をすれば、武辺とは無芸文盲だと早呑み込みしてしまうのである。
 藤樹の、「噛み合いに強い犬」というのは実に面白い表現だ。

 ネット上の掲示板などを見ると、そのレベルの「噛み合いに強い犬」の程度のものがオンパレードだが、才徳が感じられるものは殆どなく、どれも猛々しい腕力沙汰に終始している。弱肉強食を売り物にしているが、それ以上のものでない。
 中江藤樹は360年以上も前の人であるが、この“噛み合いに強い犬”という表現は、今日でも充分に通用する厳しい指摘である。

 一般に、武士と言えば武勇を尊ぶと解釈されてしまう。
 ところが中江藤樹は、武将であり武士である、武人を中国の武人に譬
(たと)えて、「かの中国を見てみるがよい」と言い放ち、「かの地では、武将に無学文盲の将は百人に一人、千人に一人もいないのである」と論じていることだ。
 ところが、日本の武士は現実に藤樹が生きた江戸初期には、無学文盲の武士が多かった。そのために文芸に親しみ、学問に励むのは僧侶、神官、公家、医者のすることだという風習が出来上がっていた。これを藤樹は大いに嘆いたのである。そして藤樹は、更に追言する。

 「例えば、わが国でも、義経や弁慶を見てみよ」と。
 「この二人の武士の文芸は、当時の並みの武士より優れていたではないか。武士には、学問はもとより必要だが、譬
(たと)えその学問に志がなく、文芸だけを学んだとしても、武辺には何の差し障りもない」としているのだ。
 ここに藤樹の、文武両道の真の奨励するための目的があり、陽明学は「知行合一」からも分かるように“行動”の学問である。
 明治維新も、吉田松陰をはじめとする行動の学問で割る陽明学によって動かされたのだった。このことは肝に命ずるべきだろう。

 中江藤樹は勇猛を装い、腕力に頼る武士を、譬え喧嘩に勝っても、それは「噛み合いに強い犬ではないか」と言い捨てている。道理だろう。噛ませ犬否定論である。
 私はこの言葉を思い出す度に、「度胸」と言う本性も、“噛み合いに強い犬”の喧嘩師の度胸と、鉄火場での一瞬の勝負に“レンガ1本2本”を賭けて、心理戦で用いる度胸とは、明確に違うと断言できるのである。前者は噛み合いに強い犬に過ぎないが、後者は肚
(はら)の出来た人間の「器」というものを感じるのである。当然、前者の「犬」と、後者の「人間」とでは桁(けた)が違うことは、誰にでも一目瞭然であろう。

 人間と言うのは、いつの時代も、迷い続けている存在である。悩み、苦しみ続ける存在である。
 したがって、迷いが過
(あやま)ちを誘導することは明白であり、迷いが狂いを誘発し、狂いが過ちを招き寄せるのである。こうした過ちは、避け難い対象物となる。
 そしてこうした事態が発生した場合、問題は、その過ちの種類と、その時とその場合の「詫び方」となるであろう。
 今日、人間の犯す過ちは各種の領域に至り、時として「人格論」や「品格論」にまで、その火種を誘発することがある。そして人格や品格に応じて、過ちを償
(つぐな)う詫び方も色々であるが、大きく分けてこれには三種の詫び方のランクが存在する。


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