運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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壺中天・瓢箪仙人 39

平成28年3月13日、東京本郷での『バロン吉元の脈脈脈』のトークショーの案内書。

このトークショーに招待をされた筆者は、娘とともに北九州小倉より上京。
 バロン先生は昭和十五年、満洲大連生まれで、昭和21年日本に引き上げた引揚者の子弟であった。
 そして、今年、御年七十六歳であるが、「牡牛」のように元気であった。
 カーボーイハットに、胸には保安官バッチをつけその奇異ぶりは相変わらずだった。そして頭の髪の毛が黒々としていた。
 筆者が頭を指して「先生、あたま鬘
(ズラ)ではないのですか」と訊くと「馬鹿を言うな地毛だ」と言って、実際のそれを触ると確かに地毛で、染めている形跡はなかった。羨ましい限りである。

トークショーの会場で。(写真撮影:吉元エメリー氏)
 筆者を中央に、両脇はバロン先生と娘の彩。
 筆者は、かつてバロン先生と二人で銀座界隈を飲み歩いたことがある。まず帝国ホテルの喫茶室で戦闘開始に備えてミルクをここでひたすら胃袋に流し込む。胃の粘膜をミルクで保護するという魂胆である。この極意を筆者はバロン先生から教わった。

 まず帝国ホテル喫茶室を皮切りに、まず行きつけの高級スナックで第一戦の馬鹿呑みを二人ではじめ、ウォーミングアップが出来上がったのを確認して、本番である銀座に高級クラブを梯子する。飲み物はビールにウィスキー、これにブランディのごちゃ混ぜである。そしてラストまで粘った末の馬鹿呑み後、次に向かうは真夜中の新宿へとタクシーを飛ばす。
 着いた先は、バロン先生御用達の、異空間的なる秘密クラブ然とした「ハイソサエティー」の名に相応しい高級バーで、暁闇まで飲み明かし、以降へべれけになって前後不覚。そのうえ翌朝は何処かのホテルで目を醒ますという体たらく。

 訳の分からぬまま翌朝、酷い二日酔いで新幹線に揺られて滋賀県大津瀬田まで帰宅したことを覚えている。
 筆者も酒は強かったが、バロン先生も中々の酒豪。そして宵越しの金は残さないと言うサムライ。実に金離れがいい。

 当時、バロン先生は五十代初めで、戦後生まれの筆者とは八歳違い。
 そしてあれから二十年以上の歳月が流れた。
 今では、銀座での“あのバカ騒ぎ”が懐かしい。しかしバロン先生はドクターストップが掛かってアルコールは一滴もだめだそうだ。同情に堪えない。
 久しぶりに貌を合わせると、決まって古きよき時代の、この馬鹿呑み話に花が咲いてしまう。


●バロン先生の習志野訪問

 バロン先生をJR津田沼駅まで迎えに行った時のことである。
 進龍一と伴に迎えに行くことになった。
 津田沼駅に到着して、バロン先生が駅の階段を上って改札口を出て来るのを待っていた。予定時刻より随分前に出迎えに行ったつもりである。
 しかし最初バロン先生が中々見つからなくて、駅の放送案内で呼び出してもらうことにした。二人で探すのだが、バロン先生がなかなか見つからない。
 私は《さて困ったぞ。あるいはどこかで擦
(す)れ違いになったのかなァ?……》と、少し心配な気持ちになってきた。こうなると呼び出してもらう以外ない。

 私は奴に「バロン吉元さまでは面白みがない。吉元
(よしもと)を『チキモト』と呼ばせてみてはどうだ?」と持ちかけたのだった。
 それは家内が、バロン先生のことを“バロン・きちもと”というですか?と訊いたからである。それが耳から離れなかった。そこで時間潰しに悪戯を思い付いたのである。
 すると奴が、「そんなことをしいたら、バロン先生はカンカンに怒りますよ」と言ったのだった。
 「このまま待っても、なかなか現れないではないか。もしかしたら到着時刻を聞き間違えたのではあるまいな?」と遣
(や)り返したのだった。
 「そんなはずはありません」
 「それにしては到着時刻を10分も過ぎているではないか」
 「でも、もう一度、バロン先生を探してみ、それでも見つからなければ、放送案内で呼び出してもらうことにしましょう」と奴は言う。
 結局二人で駅の周りや、改札口付近を探したのだが、バロン先生の姿を見つけ出すことはできなかった。

 「やはり、居ないなァ。時間を間違えたのだろうか。それとも降りる駅を間違えたのだろうか」
 津田沼駅には出入口が二つある。南北に二つある。その二つも手分けして捜してみた。ところが居ない。
 「困りましたね。放送で呼び出して、それでも駄目なら、一度、引き上げますか。もしかすると大久保に来ているかも知れませんよ」と奴は言うのだった。
 「いや、何時間でも此処に留まるべきだろう。バロン先生は、この近くに居る、必ず居る」と、私は断言した。このまま居ないではすまされない。怖
(お)ず怖ずとは退き下がれない。確信がいる。何時間でも留まるべきだろう。一夜此処で明かしてもいい。

 そして私は、駅のアナウス係に、強引に「東京杉並区のバロン“キチモト”さま」と呼ばせたのである。するとバロン先生が直ぐに顕われたのである。
 「バロン“キチモト”とは何だ!」といって些
(いささ)か怒ったふうで、「オレはキチモトではなく“ヨシモト”だぞ」と、きつく訂正させられたのであった。

 しかし私が反論して、「ちょっとしたミステークです」と言い訳気味いうと、「ミステークだと?」と遣り返すので、苦肉の策として「ヨシモトより“キチモト”の方が『吉』で縁起がいいじゃないですか」と切り返したのである。
 するとバロン先生も「それもそうだなァ」と簡単にひっくり返るのも、この先生の面白さであった。あるいは、ちょっとしたギャグを好む人だったかも知れない。
 バロン先生が怒ることは承知の上であった。最初から分かっていた。
 しかし私の悪戯心は、バロン先生を少しからかって、悪戯
(いたずら)するというのが何とも快感だったのである。

 これは進龍一の憶測なのだが、このときバロン先生は、“漫画のネタ切れ”で困窮している時だったのではないか?と言うのである。それで私を訪ねて、千葉県習志野市まで遣
(や)って来たのではないか?……と私自身も奴の言につられて、そう思ったのである。
 こうした時に遣って来てくれ、かねがねバロン先生は、私の自伝小説『旅の衣』を読んでいたので、これを題材に新作が出来ないか……ということで習志野まで訪ねて来られたのではあるまいかと勝手に推測したのである。

 バロン先生が習志野に来る。私は当日の朝から喜々としていた。
 この準備のために家内は、よく動き廻った。
 しかしこれまでバロン先生とは実際には酒を酌み交わしたこともなく、酒席に呼ばれたことも、招いたこともなかった。今回が始めてである。酒肴の程度が皆目検討がつかない。また好みも分らない。
 こうなると、どうしたらいいか。
 家内は「勝手に取り揃えておきますよ」という。
 とにかく名立たる先生である。失礼があってはならない。貧乏で困窮しているとは言え、酒肴で持て成して心から歓迎したい。
 私は根っからの「客好き」なのである。客が来ると嬉しくなる性分である。「貧士の客好き」である。
 家内を走らせて酒の肴を買いに行かせたことを覚えている。
 塾の三人掛けの長目の坐り机二台を並べて、それを応接台代わりに使ってそこで酒を呑み、語らったことがあった。

 爾来
(じらい)習志野を離れ、愛知県豊橋に移転してからも、滋賀県大津に移転した後も、バロン先生とは縁あってお付き合いをさせて頂いている。
 平成四年以降、バロン先生とは銀座や新宿でよく飲み明かしたものである。
 特に銀座で飲み明かしたときは実に楽しかった。もう25年以上も前のことである。
 まず、帝国ホテルの喫茶室で落ち合い、バロン先生はミルクを注文し、私はコーヒーを注文するのだった。バロン先生のミルクは言わば《今から朝まで飲み明かすぞ》という暗黙の意思表示だった。この先生の銀座で飲む前は、これが毎回の一種のウォーミング・アップになっていた。
 そして次に、銀座の行きつけの和風スナックで腹拵えをし、あるいは有名な著作家らが食べに来るうどん屋で腹拵えするのである。この日の仕事は、朝まで飲むことであった。仕事に備えて食事を済ませて、いよいよ本番に取り掛かるのである。

 銀座でも一、二と言われる“F”という高級クラブに出掛けるのである。そこに着くと、まずバロン先生は両手をメガフォン代わりに口に当て「ヤッホー……、ヤッホー……」と、店内を走り回るのである。その騒々しさ、猿の如し……だった。
 他にも客は入っているのだが、そうしたことはお構えなしだ。自分の来店を先生は知らせて回るのだ。高級店でこれだけのことをしても、紳士然とした客からも、店のスタッフやホステス嬢からも苦笑を買われただけで不問に付されるのは、この先生が、この店ではそれだけ常連の“顔”ということである。

バロン先生の自画像的巷の風景。『虫けら』より。 現代柔侠伝の原稿図

 更にこのクラブで飲んだ後、銀座のスナックを転々とし、深夜を過ぎた頃から、次に新宿歌舞伎町にタクシーを飛ばし、ここからがいよいよ本番のハシゴになる。行きつけのスナックを転々とするのである。そこで有名な出版者の編集長や編集者らと顔つなぎして頂いたことがあった。
 そして最後は、どこかの喫茶店で、酔い覚ましのコーヒーでも飲んで、始発が出るまで時間潰しをして、翌朝お開きになるのである。こうしてバロン先生とは一年以上、銀座や新宿で、夜を徹して飲み明かしたことがあった。今は懐かしい想い出である。



●酒を呑むなら

 浪人時代に学んだことは多い。
 これまで見逃していたことまで見えて来る。気付かなかったことも気付かしてくれる。そしてこれまでとは異なる解放感である。
 この解放感こそ自由であり、その大事を分らせてくれるのである。
 身体的自由と言えば、ネクタイから解放され、靴から解放され、窮屈な背広やその他の貼り付くような
洋服からの解放であった。肉体的な束縛からは自由になる。これは弛(ゆる)めるということでない。日本人の本来の姿に還(かえ)るのである。
 代わって変化後は和服の登場となる。寛
(くつろ)ぎと安らぎを覚える。和服こそ、日本の気候風土に合っていると思うのである。

 靴に変わり下駄か雪駄になり、洋服に変わり私の場合は上衣は道衣に変わり、ズボンは野袴に変わった。また何よりも靴下を履かない素足は何ともいい。これまでとは異なる解放感であった。それに足の指が広がるのである。靴と言う、型らかの解放であった。これまで確
(しっか)りと型に嵌められていたものが解かれて、一気に解放されるのである。足の指が日本人本来の蛸足になって行くような感覚を覚える。

 日本人の足は、蛸のように器用で能
(よ)く動き、巧みだったと言う説もあるくらいである。
 ところが明治維新以降、西洋化の波が押し寄せ、日本人の足は革靴と言う型に嵌められて固定されてしまったとである。そのために足の親指が付け根の中足指関節で外方に向いてしまい“外反母趾”のような畸形が生まれた。
 特に先の尖った靴を履くと、関節リウマチなどの病因になり易いと言われている。また足を狭め付けることから、魚の目なども出来易く、これに罹ると足裏の表皮の角質層の一部が肥厚増殖して真皮内に深く入り込み圧迫されると痛みを伴う。更には蒸れて白癬菌
(はくせんきん)による皮膚病の一種の水虫にもなる。これらは足を型に嵌められたことから始まった。
 だが靴から解放されれば、足は本来の自由を取り戻す。

 次に経済的解放である。物財を失うからローンなどの返済に絡む、金利などの金融ならびに経済事情の解放である。経済的自由を得る。
 これは非常に精神的衛生上、大きな爽快感であった。型に嵌められた制約的な経済事情が解放されたのである。本来何もない無一文の解放感である。
 天下晴れての無一物。これほどの自由はない。何も持たないから束縛されるものもない。もう奪われるものがない。
 老荘思想を知り得た後の、この解放感が大きかった。

 そして私の場合、最高によかったのは、他人の御機嫌伺いをしなくて済むことであった。
 商店の店主をしていれば顧客の御機嫌伺いで、お追従の一つも打
(ぶ)たねばならない。
 また宮仕の会社員ならば会社役員や上司にご機嫌取りの一つも遣って、これにみに憂身を窶
(や)し、正と不正をごちゃ混ぜにして何事も諾々として使役されることでのみ栄達がままならない環境に束縛されていないから、こうした柵がないだけに、また自由であった。
 自分を一個の独立した人格として自身で考え、武人を深く掘り下げる自由の機会を得たのである。

 生まれてこの方、本当の自由を知ったという感じであった。この感覚の中には、自由の大事があった。陽気暮らしの囚われない自由を知った。こだわりかた解放されていた。
 中途半端に墜ちず、最下位のドン底まで徹底的に墜ちた「怪我の功名」とも言うべきか。
 途中で引っ掛かるような中途半端な墜ち方では、とてもこうは行かなかっただろう。

 この時代、大きな収穫は大事という大事を学んだことである。これまでとは異なる自由の感覚である。それに伴って考え方も変化した。
 人間は変わるものである。
 変化の中の大事とも言うべきか。
 更に大事なのは譲歩を知ることであった。
 金・金・金……と追い掛けてばかりいたら、金は益々逃げて行く。
 富貴は天にあり。まさに真理だった。
 だが、老荘流に考えれば、更に突っ込んで、「天は富貴なり」となる。
 富貴なる天に任せて、金が寄って来るように仕向けねばならない。しかしそれを意識しない。陽気暮らしである。無いならないでいい。こだわらない。日々是れ好日である。
 先を急ぐ人が居たら、譲って先を行かせればいい。
 その中に譲歩がある。譲歩とは、換言すれば「支配」でもあった。
 たった一歩を譲ることによって、却
(かえ)って相手の全部を支配する場合があるということを学んだ。

 ところが競って、たった一歩を先に行くことで、逆に相手に自らの全部を支配されてしまうことがある。
 世には「先んずれば即ち人を制し、後るれば則
(すなわ)ち人の制する所と為(な)る」という『史記』(項羽本紀)に出て来る項羽(こうう)以来の優位論がある。そこで、「バスに乗り遅れるな」となる。
 誰もが、相手より先に事を起こせば、優位に立ち、譲るなど以ての外となるのである。
 だが、これはよく考えると、譲らないことで自分の全人格を相手から把握されたことになりはしないか。つまり、支配したつもりが、実は自分の方が相手から心の裡
(うち)を支配されてしまうのである。此処にも作用と反作用の力が確(しっか)りと働いていた。

 また、負けたと言うまでは負けていないと世間ではよく言うが、たいていの場合、負け惜しみの自己欺瞞
(ぎまん)であり、この強がりと意地を張ることが、自らを殆(あや)うくすることがあるようだ。
 かつては、これらのことを知らなかったために、一時期、道を踏み外したが、以後反省してみて、人間は「中途半端が一番いけない」ということ気付いたのである。
 不幸にしても、とことん不幸のドン底に墜
(お)ちてみなければならない。中途半端に墜ちては、それだけで不幸だと感じてしまう。
 負けたというまでは負けていない場合は確かに負け惜しみだが、不幸に「不幸惜しみ」はない。不幸は、何処から何処までが不幸か、それが釈然としないからである。
 不幸こそ、不幸だと観ずるようでは本当の不幸でないのである。中途半端な不幸である。
 これなども譲歩と支配の関係を知らないが故の愚であろう。

 私はドン底に墜ちるまで、「人に譲る」とか「人に下る」とか「人に学ぶ」ということを、長い間殆ど知らずに来た。しかし職を失い、素浪人になってから「学問とは何か」ということが少しずつ分りかけて来たのである。
 進龍一の蔵書の中に『中江藤樹』の本があった。中江藤樹と言えば日本陽明学派の祖である。
 この本によれば、公共のために自らを省みて、自らを責める人は、また常に心をむなしゅして能
(よ)く学ぶ人であるということが書いていた。藤樹は学問について次のようなことを言っている。
 「それ学は、人の下ることを学ぶことなり。人の父たることを学ばずして、子たることを学び、師たることを学ばずして弟子たることを学ぶ。能く人の子たるものは能く人の父となり、能く人の弟子たるものは能く人の師となる。自ら高ぶるに非
(あら)ず、人より推(お)して尊(たつと)ぶなり」と。
 思えば、私は学が欠如していた。本当の学問は皆無であったからだ。
 それゆえ知らなかった。何も知らなかった。
 知っていると思い込んでいたのは、単に斯く術的な知識の範疇
(はんちゅう)の留まっていた。これでは学の無いのも同じである。

 私は無学であった。大学は出たけれど……のその程度の無学な人間だった。
 大卒者としての「学士」の紙切れは貰っていても、その程度の学歴では、実践には何一つ通用しない。たいして知ってはいないし、学んではいないのである。学問に対しては無学といっていいほどだった。
 世には無学の学士は掃いて捨てるほど、ゴマンと居るのである。
 かつて台湾総統の蒋介石が、日本人の大卒学歴者に対して「最高の学歴、最低の学力」と詰
(なじ)ったことは今でも耳に新しい。私はこの言を「大卒者の無学」と捉えたことがあった。
 そして、謂われれば、「ご指摘の通りです」となる。知識だけでは何もならないということだ。

 知識は日常の実践を通じて智慧に変換し、その智慧と合体して「見識」までに高めなければならない。この修行を殆どしたことがなかったのである。
 したがって見識がないのだから、胆識などあろう筈がない。詰めは見識から発する胆識である。
 ところが胆識が欠けていては、人望を失う。当然のことであった。人が寄って来る訳がない。

 要するに、学はまた心の鍛練でもあった。
 例えば、孔子流の『論語』
(顔淵篇)解釈で行けば、「富貴天にあり」は富を得られるかどうかは、運命によるものであり、人の力ではどうにもできないとなる。更に対句として「死生命あり」となれば、人の生死は天命で決まっており、人力ではどうすることもできないとなる。
 だが、これを老荘流の置き換えればどうなるか。
 私が考えるに、「天は富貴なり」と換言できまいか。
 老荘流に考えれば、多忙から解放されて、あくせくせず、我武者羅
(がむしゃら)に歯を食いしばることを止めれば、天はその人の方向性を見定めて間違っていなければ富貴を齎すこともあると気付いたのである。その富貴は、金銭や物財であるかも知れないし、また精神的幸福感であるかも知れない。
 精神的幸福感を得た人は、とにかく自由なのである。縛られることがない。何者にも制約されない。条件も課せられない。のびのびと自由である。

 私はこの時に学んだ大事は、心からの自由であった。何者にも束縛されないことであった。
 自由なるものは、何事も謙虚に学びつつ、世界のあらゆる思想について学ぶ。固定されることがない。
 然
(しか)も、あらゆる思想から自由なだけに、真に自由を学んだ者は思想家の名に値する思想家である。真の思想家が独善を嫌うということも学んだ。ゆえにその態度は謙虚なのである。何事も決めてかからない。真の思想家は創造することを学ぶ。創造があるが故に、如何なる思想からも自由なのである。縛られない。囚われない。こだわらないのである。

 請われて求められれば、その場に留まり、必要がなければ去る。去ることが出来るのは何も柵
(しがらみ)がないからである。それはまた自由であるからだ。
 それは老荘流に置き換えれば、「天は富貴なり」である。天こそ、自由なる富貴を宿している。このことは孔子自身も薄々感じていたのであるまいか。
 例えば、孔子は魯に仕えたが容れられず、諸国を歴遊して治国の道を説くこと十余年の歳月を過ごす。天下巡歴に出たときである。その最中、陳国と蔡国との国境付近の通過時、無道の輩
(たから)に襲われ、食糧総てを奪われてしまう。遂には餓死寸前にまで追い込まれた。そのとき門人の子路が孔子に詰問した。
 「先生、道を行う君子も窮することがあるのですか。これじゃァ、天道さまの是非も疑われます」
 子路の言葉には皮肉が込められていた。日頃から喰えないことへの鬱憤
(うっぷん)が爆発し、ついに天への不満となって顕われたのである。
 孔子は答えた。
 「窮するとは、道に窮するの謂
(いい)に非(あら)ずや。いま丘きゅう/孔丘のことで孔子を指す)仁義の道を抱き、乱世の愚に遭(あ)う。窮するとなさんや。もし其(そ)れ、食足らず、体瘁(つか)るるを以て窮すとなさば、君子、固(もと)より窮す。但(ただ)、小人(しょうじん)は窮すれば濫(みだ)る」と。
 小人は困窮すると、乱れに乱れて自暴自棄になる。そしていい加減なことをして、邪
(よこしま)な金だと分っていてもそれを懐にしたり、一変して盗みなども遣る。誘惑に弱くなる。困窮すると歯が食いしばれない。
 捕えられれば困窮を理由に「魔が差した」などと抜かす。小人の卑怯千万なところである。
 だが、大人は泰然自若
(たいぜん‐じじゃく)として己を失う事なく、正念場の大事に直面しても落着きを失わず、また平常心のまま普段とは少しも変わらない。そこがつまり、小人と大人の違いであり、また君子とも異なるところである。孔子はそのように断言したのである。これを聴いて、子路は思わず貌を赧(あか)らめた。
 人間の卑小さを指摘されたからである。自暴自棄に陥った自分を恥じる以外あるまい。

 必要とされて用いられれば留まり、そうでなくなれば去る。この点は老子の「こだわらない」という思想にも似ている。野に在
(あ)りて、位をむなしくして臥(ふ)すのもいい。臥して時機(とき)を俟てばいい。俟って、自らを練ればいい。何も先んずるばかりが能ではない。
 窮するときには窮すればいい。
 『易経』には「窮すれば即ち変時じ、変ずれば即ち通ず」とある。困窮する時には困窮すればいい。困窮から逃れようともがくことは無用である。困窮すれば困窮の中に居るがいい。
 易経の謂
(い)わんとすることは「窮して、窮して、窮して窮乏のドン底まで墜ちれば、必ず何処かに変化が生じる」ということを言っているのである。

 また災難に遭遇すれば災難に遭えばよく、死ぬときが来れば死ねばいい。それから逃げずに向かい合うことこそ、災難を逃れる妙法だと、禅でも説いている。
 「窮すれば通ず」なのである。

 人間は本来、熟して実れば、窮することもまた命と知り、大難に臨んでも少しも取り乱さないのである。これこそ、真の勇であり、武勇とはただ強がってみせるだけでない。
 真の勇者は、どんな悲境に遭遇しても、自分の心は乱さないものである。自由の境地にあれば一局面の悲境すら意にとらわれず、こだわりもしないのである。
 老荘の境地に至れば、不運や悲境も溜め息をついて頭を悩ますに至らない。陽気暮らしで切る抜けることができる。

 ただ孔子と老子の違いは、孔子は痩せ我慢の一面が漂っているが、老子は総てから解放され、飄々として自由なのである。
 そして孔子は、老子を見て「老子を見るに滝の若
(ごと)し」と言っているのである。
 このことは既に論じたが、老子は自分の才は表に出さずに奥に仕舞うものだと、孔子の礼を指摘したのである。
 このとき老子は「本当に実力のある商人は、本当にいいものは奥深く仕舞込んで普段は見せず、店先に並べるのは、そこそこか、ちょっと見だけだ」と指摘し、まず驕気
(きょうき)である自惚れと、多欲であるあれもこれもと、態色であるスタンドプレーと、淫志(いんし)である物事を淫らにして度が過ぎる四つを取り去れと言ったのである。このように指摘された孔子は、老子を「端倪(たんげい)すべからざる人物」と表し、「老子を見るに滝の若し」と心から舌を巻き、このとき孔子は拒絶反応ゼロであったと言うから、またこれも孔子の偉さだろう。

 これは「徳」を比較しても歴然として来る。
 徳は儒学にも老荘思想にも存在する。しかし儒学で謂
(い)う徳は「人徳」であり、老荘思想では「天徳」なのである。人と天の違いがある。
 人の徳とは、世間の倫理観に基づいて内省する心のことであり、天の徳とは俗世の価値観を超越した自然体の心を指す。この意味する違いは大きい筈である。

 現代の世は、何も溜め息ばかりをついて、金銭に悩んで暮らすばかりが能ではないのである。
 例えば「まいったなァ……」とか「今日はツイてない……」という事態が生じたとしても、心が鍛練されている場合、老荘流に切り替えて「今から天は何かを授けて下さる。やがて変化が顕われるだろう。窮すれば通ずではないか」と解釈すれば、これらの溜め息は一変する。
 則ち、チャンスはピンチの中に在ると感得することが出来るからである。

 それはかつて「夢」の一文字に賭
(か)けた、かの腰瓢箪の老人の語って聴かせてくれた大戦末期の激戦地談の中から想いを馳せることができのである。
 ピンチはチャンスであると無理に思い込むことはない。チャンスは常にピンチの中に在
(あ)ると感得すれば、いま苦悩して明日を心配しても始まらないし、時の廻(めぐ)りを俟(ま)てば、いずれ浮かぶ瀬もあると捉えることが出来るからである。困窮したときこそ、チャンスは寄って来ているのである。それを自覚出来るか否かの違いである。
 私は浪人時代を気楽に「陽気暮らし」をしていたことになる。
 かの有名な『朱子』にも「陽気発する処金石また透る」と朱子学の大家は言っているではないか。どんな困難も苦難も、精神を乱さず、自暴自棄にならず、己を信じて疑わねば、そこの一点を集中して断固行えば必ず打ち勝つといっているではないか。
 問題は困難に直面して乱れないことである。
 孔子先生ですら、「小人
(しょうじん)は窮すれば濫(みだ)る」と謂う以上、これこそが改善点であり、自暴自棄の陥ることこそ愚であろう。

 私のように職を失い職業を持たない浪人時代を経験し、その経験中に「親交」というのがあった。これもピンチの中に転がったチャンスであり、以降を形成するための掛け替えのない人脈であった。そこで繋がる人脈は、金に群がる蝿の人脈でないからだ。
 人間、職を失うと裸になる。これは実にいいことである。
 肩書きも消滅する。ゆえに、肩書きが消滅した後の人間は丸裸であり、丸裸になっても、それでも人が寄って来るのであれば、その人の人望は真物
(ほんもの)である。決してレプリカの模造品や偽物の類(たぐい)の贋作(がんさく)ではない。このときも吸引力は失われず、不思議にも人が寄って来たのである。
 まさに「朋
(とも)有り、遠方より来る、また楽しからずや」(『論語』学而篇)である。必ずしも学問の仲間ではなかったが、酒を呑むために、語らうために遣って来た。
 また私自身が貧士の客好きであった。
 私には、浪人時代にあらゆる階層の人と親交があった。その中には「管鮑
(かんぽう)の交わり」に似たような、そういう親交もあった。
 『酔古堂剣掃』には「貧にして楽しむ」とある。
 「貧にして客を享
(もてな)す能(あた)わず。而(しか)も客を好む。老いて世に狗(したが)う能わず。而も世に維(つな)がるるを好む。窮して書を買う能わず。而も奇書を好む」と。
 浪人生活の陽気暮らしである。
 気軽になれば気軽を楽しめばいい。

 ところが小人の世では、実際はそうはいかない。
 例えば、サラリーマンでリストラをされた人は、以降はしばらく「浪人時代」と言うことを経験するであろうが、また、これが次の職が見つかるまでの就職運動が大変である。妻帯者なら、とにかく妻君に頭が上がるまい。愚痴や小言を聴いて毎日を送らねばならない。
 一日中、何もせず家にゴロゴロしていては、まず甲斐性無しを糾弾
(きゅうだん)され、次に「早く仕事を見付けて何処かに就職でもしたら如何……」などと愚痴や小言の一つも飛び出して来るだろう。

 況
(ま)して、ホーソーンに『緋文字』を書かせたような、ソフィア夫人のような妻女は世の中はそんなに居まい。
 ホーソーンは税関の職を奪われ途方に暮れた。
 妻のソフィアは職を失って困り果てていたホーソーンに、貧乏は懲
(こ)りている筈なのだが「まあ、それじゃあ、また本が懸けますね」と嬉しそうに答えた。
 そこでホーソーン。
 「そりゃそうだが、本を書いている間の暮らしがね……」と困ったようにいうと、「それはちゃんとこういう風に」と、ソフィアはこれまで少しずつ貯めたへそくりを着せたのである。
 あたかも山内一豊の妻に劣らぬ激励に、ホーソーンは感動した。悪妻・鈍妻に悩む男だったら涙の出るような話である。かつてこの話を家内にしたことがあった。
 しかし、ソフィア夫人のような女性は金の草鞋で諸国を放浪しても、滅多に見つかるまい。
 むしろ小人の亭主には小人の女房がカップルとなることが多い。双方の心的レベルはドングリの背比べである。
 当座の先立つものが気になる。

 「これから、どう暮らして行くのか」また「以後の生計はどう立てるのか」更には「これまでの家や車のローンはどう支払って行くのか」などの、こういう先々の深刻な問題が持ち上がって来るだろう。
 子供が中・高校生であったりすれば、子供自身の将来の進路も狂いが生じて来る筈である。親父としては、これをどう解決するか。

 リストラに際し、スズメの涙のような退職金は早々と遣い終え、その後の生活は成り立たなくなり、浪人生活を余儀なくされるということは、給与所得者の本人も大変だが、それよりも女房や家族も一大事で、先に最初に音を上げるのは、まず周囲からであろう。
 一方、日本人の脳裡
(のうり)には、定年までの終身雇傭の意識が、今でも根強く残っている。ところが現実は急激に変化しているようだ。
 今の時代は、サラリーマンは気楽な家業ではないのである。

 それが充分に分る故に、「勝ち組」に残って、何とか自分のいいところを見せ、サービス残業をしたり、付き合い残業をして、自分の「受け」を良くしようと企む。
 残業の最大の目的は、「上司受け」が目的で、まず自分がリストラに遭遇しないことであろう。そのために残業する。頑張っているように見えるからである。
 これを、ポーズでする人も少なくなかろう。

 だが、効率面から考えると、こうした「サービス」とか「付き合い」と言ったこの種のものは、それ自体が実に無計画であり、もし企業にそうした体質があるとしたら、その企業の上司は無能であり、無能者を役員に据えたりしていることになる。そうした企業は、やがて判断を誤り斜陽を辿り、下手をすれば倒産が免れないだろう。
 暗黙の了解などの意識で、残業と言う行為が習慣的になっている会社は、計画性がないために、ある意味で殆
(あや)ういといえよう。

 そして多くのサラリーマン諸君が肝心なることを見逃している側面がある。
 それは時代の急激な変化である。多忙を強いる現代文明の盲点である。その一方で科学万能主義がある。誰もがこの信仰に奔っている。
 アルゴリズムから割り出された、データ情報をもって通裏に数字にしか関心を示さない時代となった。現代日本人の日常生活も、かつてとは様変わりした。その中でも「サラリーマン」という連中の変化は著しい。

 日本もアメリカ階級社会のように、貧富の差が明確になり、また雇用関係でもその差が歴然となって「会社役員」vs「会社員」という構図はますます堅固になっているようである。
 一口にサラリーマンと言っても、色は決してホワイトカラーではない。形を変えたブルーカラーの変形であり、体裁よく会社役員に使役されているという実情があるようだ。この使役状態は「家畜」の名に相応しい家畜ならぬ「社畜」であろう。
 しかし残念なことに社畜が、自分で社畜 の自覚症状がないことだ。無自覚のまま、まさに「家畜の豚」をやらされているのである。
 豚に産まれた豚は、自分が豚であることに気づかない。気づいても、どうしたら豚である悪循環から抜け出せるか、自分でそれが分からないのである。

 世は「多様性の時代」などという。
 ところが、この多様性が実に疑わしい。
 民主主義デモクラシーは「平等」の名の下に、実際には多様なる物差しを奪ってしまったからである。同じような同一酷似の人真似が流行している。自分では考えず、他人の真似をして生きることの楽を模倣してしまったからである。そして世は、相変わらず知識偏重の中に在る。
 それゆえ好きなことが見つからないのである。情報から出は選択が難しくなる。
 確かに知識は必要であろうが、偏重状態では見通しが危うくなる。知識偏重主義者が経済を動かし政治を動かしているとすれば、これは危険なことなのである。

 倒産予備軍に含まれる企業こそ、「残業」と言う無意味な、古い判例や習慣を押し付け、一見、猛烈社員の「会社人間」を培養しているような錯覚を抱いているであろうが、現実はそうではないようだ。
 現世を生きる多くに人は現実での理不尽、不合理、不如意に充ちている世の中に対して、多少の理不尽などは驚かなくなっている。忍従することが一番楽だと、その逃げ道を作ってしまった。損得だけが思考の原点に残るだけである。今を、どう振る舞うかが問題であり、今が良ければ……、わが身が安泰であれば……の刹那主義に傾いてしまった。
 したがって、「上司受け」が目的で、この種の習慣を恒例化している企業は、単に「勝ち組に入れ」と、一般社員を脅しているようなもので、やがて淘汰の対象になるのかも知れない。
 かくして社員は、「猛烈というイメージ受け」を狙って、姑息な、無意味な、非能率的な処世術に精を出すことになる。

 ところが、こうした処世術は、そうは簡単に問屋が降ろさないのである。
 サービス残業も、付き合い残業も、功を奏することは殆どなく、業績的には処世努力は皆無になってしまうことが多いようだ。
 ここにも「努力は実らない法則」が働いているようである。
 何故なら、この手の処世術は有名無実であるからだ。
 こうした事に奔走した社員は、遂に不要物になって、お払い箱と言うことも珍しくない。
 時代に蹤
(つ)いて行けない人は、最後は結局こうなるようだ。
 時代は、年功序列から遠く離れてしまった観がある。年齢は問題ではない時代になった。業績結果だけが問題にされる。
 現代では年功序列を無視するような、そういうアメリカ式の雇傭体系が確立されようとしている。日本も変わったものである。

 終身雇傭などと、そういう甘い汁を吸えるのは、今では一部の公務員くらいなものであろう。
 しかし、公務員でも、ぼやぼやしていると、名目上から依願退職に追い込まれることもある。昨今は「職能検査」が盛んだからである。

 特にこれは、公立の小・中・高校の教員に及んでいる。その他の業界も、能力を査定する「職能テスト」を遣るところが殖えているようである。
 効率化から言って、また資本主義の健全機能から言って、利潤追求のためには、無駄は徹底して省かなければならない。
 この時代、気楽な家業の「腰掛け」業務は必要ないのである。
 腰掛け意識では、忽
(たちま)ちリストラされ、浪人を余儀なくされる。無能は淘汰される運命にある。



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