運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
壺中天・瓢箪仙人 1
壺中天・瓢箪仙人 2
壺中天・瓢箪仙人 3
壺中天・瓢箪仙人 4
壺中天・瓢箪仙人 5
壺中天・瓢箪仙人 6
壺中天・瓢箪仙人 7
壺中天・瓢箪仙人 8
壺中天・瓢箪仙人 9
壺中天・瓢箪仙人 10
壺中天・瓢箪仙人 11
壺中天・瓢箪仙人 12
壺中天・瓢箪仙人 13
壺中天・瓢箪仙人 14
壺中天・瓢箪仙人 15
壺中天・瓢箪仙人 16
壺中天・瓢箪仙人 17
壺中天・瓢箪仙人 18
壺中天・瓢箪仙人 19
壺中天・瓢箪仙人 20
壺中天・瓢箪仙人 21
壺中天・瓢箪仙人 22
壺中天・瓢箪仙人 23
壺中天・瓢箪仙人 24
壺中天・瓢箪仙人 25
壺中天・瓢箪仙人 26
壺中天・瓢箪仙人 27
壺中天・瓢箪仙人 28
壺中天・瓢箪仙人 29
壺中天・瓢箪仙人 30
壺中天・瓢箪仙人 31
壺中天・瓢箪仙人 32
壺中天・瓢箪仙人 33
壺中天・瓢箪仙人 34
壺中天・瓢箪仙人 35
壺中天・瓢箪仙人 36
壺中天・瓢箪仙人 37
壺中天・瓢箪仙人 38
壺中天・瓢箪仙人 39
壺中天・瓢箪仙人 40
壺中天・瓢箪仙人 41
壺中天・瓢箪仙人 42
壺中天・瓢箪仙人 43
壺中天・瓢箪仙人 44
壺中天・瓢箪仙人 45
壺中天・瓢箪仙人 46
壺中天・瓢箪仙人 47
壺中天・瓢箪仙人 48
壺中天・瓢箪仙人 49
壺中天・瓢箪仙人 50
home > 壺中天・瓢箪仙人 > 壺中天・瓢箪仙人 38
壺中天・瓢箪仙人 38

バロン吉元著『徒然草』(マンガ日本古典17/中央公論。1996年8月15日初版発行)


●人は生まれながらに無一物

 私は資産家の倅(せがれ)の生まれでないから、親の財産は殆ど持たなかった。経済的な保護をしてくれていた父親も、中学三年のときに亡くした。
 一般的にいって親の経済的保護を失うと、残された遺族は困窮から貧乏のドン底に墜ちる運命にある。そのために進学なども諦めざるを得ない。
 当時は中卒者が「金の卵」と言われた時代で、高校進学となると中学時のクラスで大方は半分にも満たなかったし、大学進学となると高校時の進学クラスで三分の一程度だった。

 戦後のベビーブーマーで団塊の世代でありながら、これだけ進学率が今に比べて低かったのは、経済的保護者の資金力が密接に絡んでいたからである。親の収入が少なければ高校・大学へと進学することは無理だったし、また今日のように第三次産業に集中するような親の職業も今日に比べて多くはなかった。
 商業・金融・運輸通信業・サービス業などより、直接自然に関わる農業・林業・水産業などや鉱産物・農林水産物などを、更に二次的に加工する産業に従事していた。
 つまり今日のように日本は商業主体ではなく、専ら農民的な、また職人的な従事者が主体であった。それだけ所得も低く、昭和30年代から40年代に掛けれては、貧しいながらも楽しいわが家の一家団欒があったのである。

 ところが、この時期より同時に始まった高度経済成長政策により、日本国民の生活状況は一変した。組織化により、多くの産業でサラリーマン化が始まったのである。これに反して農民や職人などの層が激減した。一方で学歴が社会のパスポートになった。
 学問は学ぶためでなく、社会に通用する学歴を示すパスポートになってしまったのである。
 以降、高校・大学への進学率が急増した。そのために大学生も大卒者も、一変して社会の尊敬の対象からは外されてしまったのである。
 あくまで就職のためのパスポートになってしまった。この現象は猫も杓子も大卒者になったのだから、大卒者自体が無学歴者に逆戻りしたことであった。斯くして世は無学歴時代となる。求められる真物
(ほんもの)のパスポートは学歴ではなく、学閥になってしまったのである。

 更に社会が一変したのか、昭和30年代から40年代を起点に、これ以前の子供自身が子宝という感覚から外れてしまったのである。子供は子宝でなくなった。日本人のライフコースが変更されてしまったのである。就学、就職、結婚、退職などの人生医の出来事に伴った地位や役割は変化し、これまでの人生の道筋が急激の変更されたことであった。秩序付けられた規則が変化したのである。その最たるものが、法律の条項部分が殖えたことである。

 人間社会に法律が必要であることは言うまでもない。では、何故必要か。また何故殖えたか。
 人間には法律を破るような性質が本来備わっているからである。法律があればそれを敗る。人間が法律を破る証拠である。その意味で、法律の唯の一条も、人間の悪徳の記録でないものはない。更に法律の条項・条文が殖えるということは、時代が下るに従い、人間の悪徳が次々に発見されたからである。
 そして次世代ともなると、ライフコースの変更に伴い、悪徳は更に数を増した。
 それは人間の思考法の変化にもよろう。その変化の中で近年特に目立つのは大卒者の無職経験者が急増していることである。これは単に、浪人生活を送っているというそう言うものでない。

 また、こうした社会の流れに背景には、世代間での富みの流れが変化したことによる。
 如何なる社会においても、大衆が高等教育を受けると、親の代を起点として、二世代目ともなると教育の高水準に伴い、一方子供の出世率は低下し、かつてのように子供自体の労働力にかわって子供の教育へと変化するため、それに伴う富みの流れが変化したことである。教育に金を掛けるという現象が生まれて来る。この時点で、子供の子宝意識が失われる。子供は宝などではなく経済援助の媒体のなってしまった。
 今では、子宝意識は職人の世界か、あるいは芸能の家元か宗家の世界くらいのものだろう。サラリーマン家庭では完全に失われている。サラリーマン家庭では子供は、悪まで経済援助の対象でしかあり得ない。親が大学までの学費まで賄うというのが一般的である。そして悲しいことに子供に投資したからとって、老後、子供から面倒を診ても多雨という見返りは期待出来ないのである。
 親は、自分が死ぬまで子供の「臑齧
(すね‐かじ)り現象」に身を晒されるのである。特にサラリーマンは顕著である。
 このような結末を招いたのは、親自身が高学歴であり、学歴こそ生活向上の手段であると思い込んだためである。
 斯
(か)くして、親の経済力と子供の学歴とは、高度経済成長以降、密接な関係をもち始める。常に親の経済力と、生活向上の手段と信じられる学歴が蹤(つ)いて廻る社会が出現したのである。

 しかし、私は親の経済力とは無縁であったし、父親が死んだ方と言って、その死後の生命保険など僅かなものであった。この類は直ぐに食い潰す。遊んで喰えるなどは出来ないのである。
 昨今だったら、親が死ねば困窮するのが常で、多くはそれが通常である。
 しかし私は、したたかに存在の意欲があった。但し、親の齧
る脛などをなくしていたのは事実であり、だからといって嘆く暇などはなかった。自力で解決しなければならなかった。それを十五歳の時に悟った。
 後は自力だけが頼りである。己を信じる以外なかった。

 私の「生まれ」は所詮
(しょせん)貧乏人の小倅であったが、粉骨砕身して大学は自力で出た。自力で解決することが、また以降の人生に大きな結果を齎したことも事実である。
 偶然にしか顕われない、占によくある「助け人来る」などを充
(あ)てにしていたら大変な目に遭っていただろう。そこまで楽天家ではない。
 しかし、この種の学生は苦学と看做
(みな)されるようだが、私は自身で苦学生とは思わなかった。頭を遣えば、金の稼ぎ方は幾らでもあった。発想を変えれば済むことであった。
 学問をするには金が掛かる。普通そう考える。学費に苦慮し、それは親の脛齧りがないと実行不可能と考えてしまう。

 ところが、それは違う。
 学問をするには才能がいる。大学に行くにも才能がいる。昨今のように大学に行く才能がないくせに大学に行こうとするから問題が生じるのである。等身大の自分を知り、分を弁
(わきま)えればいいのである。天職は他にもあろう。人には天職と言うものがある。才能が向かい方向に進めばいいのである。本来は学歴無用である。
 したがって大学に行くだけの才能があれば、学費は自分でも弾き出せるし、何も高いところに行かず、割引の効くところは幾らでもある。単純に考えても、私立より国公立の方が安い。
 更に安いところは特待制度を利用して、返済無用の奨学金なども利用出来る。
 問題なのは上級学校に行く才能が有るか無いかである。その「才」の有無を見分ける能力があれば学費に苦慮することはないし、自分でも弾き出せるのである。頭を遣えば難しいことではない。
 問題なのは行けるだけの学力を養い、また行くための信念である。将来を学問で身を立てようと思うのなら行くべきだろうし、そうでなければ断念すればいい。道は他にもある。自分にあった天職を見付ければいい。自身で天職を探し出すことが出来ないから、結局、大卒者でありながら無職経験者が急増するのである。
 本来は、既に昔で言えば「元服」を迎える十四、五歳の時期に、将来を見据えた「人生の計」を立て、自分の天職を探しておかねばならないのである。

 だが、私の最終目標は数学者になることだったが、これが見事に裏切られた。
 ピランAは、わが力およばずだった。
 次に変化した。最高学府を卒業してその資格を手に入れることどうでもよくなった。変化後、学歴などはどうでもよくなった。
 目指したのは道場という函物構築であった。
 世に打って出る「函物」を目標に掲げた。プランBは事業経営の商才を磨くことであった。この頃になると大学はそのための通過点に過ぎなかった。以降、プランBで押し通すことになる。

 大学を卒業してからのその後も、高校教師、刀屋、家庭教師、学習塾、受験対象の進学塾などをいろいろ計画して、函物代金を稼ぐために奮闘したが、とてもではないが、高が一人の人間の稼ぎとしては知れたものであった。組織力が必要だったのである。
 個人商店レベルの自営業では、到底、億と言う金は弾き出せない。
 況
(ま)してサラリーマンなどをしていては、更に無理である。仕掛けも構造自体を大きくしなければならなかった。だが、具体的なものはなく、設計図は漠然としていた。
 また函物も借り物では、所詮その範疇
(はんちゅう)を出ない。仕掛けが違う。億単位の金が要る。また億単位の金を動かし、バランスシートを即座に解析する能力がいる。経営とはそういうものである。おおまかな損益計算は暗算で出来るくらいの能力がいるし、時には瞬時の判断がいる。その才があって函物は完成する。

 スポーツや武道愛好者に多い、公共施設の貸体育館の週割り時間借りとか、貸ビル賃貸式の借り物とか、そういうものでは意味がない。
 一日24時間、365日自由になるそういう、誰からも制約されない、自前の函物でなければならない。個人商店規模ではとうてい無理である。
 そこで規模を拡大する必要があった。個人の資金投入では、どうしようもないのである。経営媒体も個人から法人へと切り替えて行く必要があった。

 しかし、その序曲として、学習塾、進学塾、大学予備校という事業計画は抱いていた。学生の頃から温めていた道場事業部の発想である。その計画を手始めとして、函物代金を捻り出す計画を持っていた。同時に、馬術構想の夢もこの頃から膨らみはじめていた。
 そしてこの夢が一気に膨らんだのは、昭和50年頃、千葉船橋から競馬会の厩務員だった、当時発光流柔術の皆伝師範であった岡本邦介氏は、私の道場を度々訪れ、以降教授を請うた時からである。斯くして競馬会とも人脈が出来始めた。のち船橋から茨城県美浦村へとトレセンは移動したが、異動後も年に二回習志野の経由で美浦へと巡回指導していたので、馬術構想は更に確信的なものへと変化して行った。
 そして奇
(く)しくも、計画実行中に奇妙な伴侶に出会った。
 その計画達成のために、「武門の妻になってみないか」が、最初に家内に対しての問い掛けだった。当時の家内はそれに乗った。その夢に半分載せて貰いたいともいった。
 だが、直接的に請いた覚えはない。その気がなければ退けばいのだが、何も言わずに勝手に蹤
(つ)いて来た。同志を志願した。

 押し付けたり懇願しては駄目である。間接的に仕向けただけである。
 そのためには夢を語ることである。荒唐無稽な夢でも、語ることによって、一人では達成出来ない智慧が縒
(よ)り合わされることがある。
 気付いたら家内が蹤
(つ)いて来ていたというべきだろう。それだけで夢を共有した観がある。そこに棲み付いた。夢に棲み付いた。
 家内ほど、棲むに都合のいい同居人ではなかった。同棲者でもなかった。
 前を見ていた。逃げては居なかった。夢に向かって及び腰ではなかった。
 私の後に続く、後続能力旺盛であった。何かを覚悟していることは明白であった。これが蹤いてくるという行為だった。夢を共有して同志として協力者になったのである。

 つまりこの図式は、事業を成功させて億単位の金を掴み、その潤沢なる資金を持って函物を構える。
 この段階では空想に過ぎないが単純明快なる簡単図式であり、この図式の中に家内の道中の道行きを願ったのである。いや、させたのかも知れない。
 そのうえ図式完成のためには、世間の信用がいる。信用がなければ、人は動かないし、人望も得ることが出来ない。
 況して趣味の延長のような愛好会の個人レベルでは駄目である。また、人を集めて賑
(にぎ)あうものも駄目である。世のブームや流行に囚われない、それに左右されない、確固たる不動の構えがいるのである。

 同志共々この道を歩くと、確かに波瀾
(rん)にとんでいようが、面白いぞ……と煽(あお)ったことは事実である。
 どうせ一回限りの人生だ。二度と巡ってこない。
 自分の人生を面白く生きてみないかと、唆
(そそのか)したことは事実である。併(あわ)せて極貧の楽しさも教えた。そして、それは人生の一局面であることも諭した。
 そして夫婦共々、習志野くんだりまで来てしまった。ここまでは、まさかという青天の霹靂だった。それが夜逃げ同然であることは言うまでもない。
 今は忍ぶしかなかった。
 忍べば、また明日が来る。

 変化する現象界では、これまでの昨日と違って、一夜明ければピカピカに輝く明日であるかも知れない。そこに一縷
(いちる)の望みを託して、人は生きているのである。
 かの老人は「夢」に一文字について語った。
 この夢は、単に世間一般がいう「人生夢の如し」という、感傷的な意味ではないと言う。夢の一文字は禅にも通じ、また老荘思想とも一致する「後に何も残さない」という意味であると言う。しかしこれを解する人は少ないと言う。
 現実には「夢」という字を掲げれば、嗤
(わら)われるのがオチだろう。
 私は、しかし嗤われるオチを覚悟に、もう一戦を試みていたのである。
 習志野時代も浪人をしながら再起の隙を窺っていたのである。



●劇画作家・バロン吉元先生との出遭い

 この当時、大衆化を図る作戦は、軍師・進龍一の計画で進められていた。
 愛隆堂の『大東流合気武術』のシリーズも、BAB出版社のビデオ・シリーズも、進龍一が企画し、それによって着々と進められていた。
 それはまるで三国時代の蜀漢の丞相・諸葛亮孔明が苦心惨憺
(くしん‐さんたん)をしながら、蜀漢の国を経営するようにであった。
 そこには、進龍一の創意と工夫があった。独特の発想があった。時代の偉人たちは、それを行ってきた。奴は智が勝っていた。

 孔明は、劉備の三顧の知遇に感激し、臣事して蜀漢を確立したのだった。その痕跡
(こんせき)には、非常に苦労して心を砕き、軍資金調達に難儀をすることだった。無から有を作り出す、産みの苦しみをしていた。
 そして、軍師・進龍一も苦心惨憺を続けていた。

 こうした時期に、かの『現代柔侠伝』で有名な、劇画作家で画家のバロン吉元先生と知り合う切っ掛けを得たのだった。進龍一の、これが創意と工夫だった。人を得る、創意と工夫だった。奴が、バロン先生に手紙を書き、新宿のある喫茶店でセッティングしたのである。
 バロン先生は、私が習志野に住み着いた当時、既に殆ど劇画の創作活動は止められていて、画家として画伯としての道を歩まれていた。
 この時にバロン先生が、習志野にも一度足を運ばれたことがあった。また死んだ家内とも面識があった。

バロン吉元先生が大津市瀬田のわが家を訪問された頃で、娘と玄関前で。
(平成8年。当時、娘は小学5年生)

 死んだ家内は、バロン先生と二度顔を合わせている。一度目は習志野に居た時で、二度目は大津市瀬田に居た時だ。
 後にバロン先生は、京都の美大で大学教授となるが、ちょうどその頃の大津時代に、バロン先生とお会いした頃だったと思う。家内がバロン先生とお会いしたのである。それが最後だった。
 また当時、先生は画家に向かうの創作期であったように思う。
 しかし、その後も劇画は描かれていた。画家をされている当時も『徒然草』や『宮本武蔵・五輪の書』その他の作品を発表されていた。その後、復刻版も続々と出た。滋賀県大津に来られたのは、この時代だったと覚えている。

宮本武蔵『五輪書』バロン吉元著(徳間書店) バロン吉元著の『五輪書』の裏扉に記されたバロン先生のサイン。

 こうして、バロン先生と私との橋渡しをしてくれたのも、進龍一だった。
 彼が全て動いて、橋渡しのお膳立てをしてくれたのであった。この知謀の将が動いたのだ。一切は彼のグランド・デザインによる。

 平成2年9月、経営していた大学予備校・明林塾ゼミナールが倒産した。億単位の借金まで背負い込んだ。私にしては天文学的数字だった。債権者も執拗に襲って来る。一筋縄では行かない。
 その筋の取立を専門とする怕い“解体屋”や“葬式屋”や“切取屋”までが畳み掛けて来た。普通の人だったら頭がおかしくなるだろう。
 ある高利貸しからは、「お前の嫁はん、風呂に沈めてたろうか」などと濁声
(だみごえ)で脅されもした。更に命まで狙われた。猛攻であった。それで習志野に一時、緊急避難した。再起を図ったのである。ここでくたばる訳にはいかなかったからである。少しばかり抗する力が残っていた。諦めるには早かった。

 緊急避難時、この地では進龍一には大変世話になった。
 ただ、この男の世話は変わっていた。単に、私を師と仰いで居候としておくのではなく、居候を決め込ませないのである。師に働かせるのである。労働を強いた。奴の主義は「働かざるもの食うべからず」だった。
 そして働かせた上で、家賃でも光熱費でもきっちり取るのである。怠けさせないのである。
 生活費も必要経費は自分で稼げと言うことだった。これが私への自立に繋
(つな)がったのである。
 もしあの時、進龍一が、私を「居候」として優遇していたら、今日の私はなかったかも知れない。生き残ったのは奴に鍛えられたからである。
 結局、落ちても、腐っても、鯛は鯛で、私に働かせることをさせたのであった。最初はパチンコでも何でもいいから、自分で金を稼げというのであった。

 「今まで大変な目にあったから、少し此処で休養でもして……」などとは、微塵
(みじん)も考えないのである。甘えさせないのである。避難したその日から、有無も言わせず働かせるのである。最初はパチンコ屋によく通ったものである。しかし、同時にアイディアも提供するのだった。その後の戦略を練るのである。まさに軍師だった。

 バロン吉本先生に面識を得たり、愛隆堂から本を出したり、BABからビデオを出したりというこうした切っ掛けを作ったのも、また実は、進龍一のアイディアから始まっている。
 その意味で、このアイディア・マンは天才だった。無から有を捻り出す天才だった。非常に頭の回転の速い「切れ者」である。こう言うのを智将というのだろう。

 私の生涯の中で、こうした切れ者に出遭ったのは、後にも先にも、進龍一ただ一人だろう。
 会社形式の予備校を倒産させて北九州を追われ、習志野に一時緊急避難した時も、彼のアイディアで、何とか切り抜けて来た。奴の智はなければ今頃、どこかで潰えているだろう。
 この男は、頭の回転が早く、アイディアの尽きぬ男だった。まるで泉のように湧き出る智慧を持っていた。こうしたアイディアの尽きぬ、アイディアが枯渇
(こかつ)しないところに、進龍一の進龍一たるところがあった。

 ところが、「伝習塾構想」以降から、アイディアが枯渇しはじめていた。智慧も空回りしはじめていたのである。
 バロン先生が習志野に遣って来たのも、そういう時期であった。
 『現代柔侠伝』などで当時を一世を風靡
(ふうび)した、劇画作家で著名なバロン吉元先生が、習志野に来ることになった。この旨が進龍一の明林塾に入ったのだった。それでバロン先生をJR津田沼駅まで、奴と伴に迎えに行くことになったのである。

『柔侠伝』バロン吉元著。
 『柔侠伝』は劇画作家・バロン吉元先生の代表作で、当時は漫画アクションなどに登場し、一世を風靡した作品である。
 その後『現代柔侠伝』などと続き、柳勘九郎が明治初期を時代背景に、柔道で名をなし、その後も大正・昭和と続く物語である。

 東京杉並区より、わざわざ習志野くんだりまで来てくれるのである。嬉しくないはずがなかった。それに天下に名の轟
(とどろ)いた著名な劇画作家である。
 さっそく歓迎の準備に追われた。
 勿論、この準備に家内が走り回ったのは言うまでもない。

 「明後日、バロン先生が来る」
 「バロン先生って?……」
 「お前が時々読んで笑っている『現代柔侠伝』の作家だ。粗相
(そそう)が無いように、明後日は、いいか塾は休みにしろ」
 「どうして休みにするんです?」
 「バロン先生に、此処のバカどもは見せたくないし、お前の大声も聴かせたくない。そこで明後日は塾は休みだ。いいか休みだぞ。上原にも勅使河原にも言っておけ。明後日来る予定の生徒は、みな自宅待機で自宅学習をしろとな。絶対に明後日は来るんじゃないと言っておけよ。第一、バロン先生に失礼だろう」
 「ねえねえ、この『現代柔侠伝』の作家の先生、“バロン・きちもと”というですか?」
 「バカもの、“きちもと”じゃない。《よしもと》だ。くれぐれも間違って、バロン先生のことを“きちもと先生”と言うんじゃないぞ、いいか」
 このように言って念を押したのだが、家内が「何だか慌てて、混乱のあまり、もしかすると“きちもと”と呼びそう……」などと抜かすのであった。

 「どうして混乱するのだ?」
 「だって、昔の当用漢字では《よし》の字は口篇の上が“士”ではなく《土》だったでしょ。いつから土が士に変わったのかしら」
 「それはだなァ、偉い国語学者の先生が目が悪くてだ、土も士も区別がつかず、士に統一して《よし》を“吉”にしてしまったのだ。口篇に土を持って来るのは異体字であるからだ。
 つまりだなあ、壺を一杯に満たし、それに蓋
(ふた)をした形を象形文字で表したものだ。
 これは目出度い場合などに用いる文字だ。この字の解釈には種々あるそうだが、一般に信じられている解釈は、“士”とは《男》のことで、つまり武士や兵士の“士”であり、その士の下に《口》篇がつくのは、口は神のお告げを顕すことを言う。
 こうなると《吉》は会意文字ということになる。
 例えば男子が生まれるときなどに、それが男子であることを告げると言う意味で、告げるのは神であると信じられていた。男子がうまれることはまさに吉報の《吉》であった。つまりこの“きち”が訓読みで《よし》と読む」
 「随分と物知りですね」
 「物知りと言うほどのことではない。半年前ほどは毎日が退屈で仕方なかった。そこで毎日漢和辞典を読んでいたら、そういうことが書いてあった……」
 「へッ……、漢和辞典を毎日読書していたのですか……」
 それは呆れたという感想の返事だった。世の中に辞書を読書する馬鹿は居ないからである。いないから、また遣ってみたくもなるのである。

 「人間はなァ、読む物がなくなったら何でも読むのだ」
 「えッ?……、此処の書棚の厖大な本をみんな読んで、それでも足らないから、今度は辞書を読んでいたのですか……」と益々呆れ顔になった。
 私は進龍一の蔵書を半年ほど掛かって総て読んでしまっていた。そしてもう読む本がないから、仕方なく辞書に挑戦していたのある。しかし、英語の『コンサイス』と平凡社の『百科事典』だけは未だ手付かずであった。
 確かに進龍一も読書家であった。
 奴も新聞社に勤めていた関係上、国語力は大したものであった。かなりの本を読んで厖大な智慧を集積していることであろう。だが、漢和辞典までは読んだことがない筈である。

 大学時代、同級生に工業英語の英和辞典を丸ごと読書していた奴がいたが、当時のことを思い出して、私もこれに肖
(あや)ったまでのことであった。
 人間、知識欲が旺盛になると片っ端から手を付けて読み漁るらしい。もうここまでくると興味とかそういうものは問題でなくなり、餓えるような状態に陥って退屈を紛らすらしい。
 刑務所などで囚われの身になって、日々の退屈を紛らすために刑務所内の図書館で本を読み、独学で勉強して学士号や博士号を取得するのは、よく聴くところである。

 私も学生時代、奇妙な話を聴いたことがある。
 嘘か本当かは知らないが、大学の教科書である『常微分方程式』の本を一冊囚人の部屋に投げ入れておいたら、その囚人は小学校もろくに出てない文盲でありながら、数十年の刑期を終えて出所する頃になると、数学の教科書を完全に理解していたと言う。
 もし、この話は本当だとすれば、小中高の基礎を積んででないと、それを理解するまでには至らなかったであろう。
 単に算数や数学の範囲だけでは駄目で、まず国語の読解力と文章力がなければならない。常微分方程式するには辿り着くまでのステップがある。それを丹念に理解しながら一歩一歩階段を上がるように踏破したことになる。
 それだけ刑期の数十年が長く、退屈だったのかも知れない。それが高等数学を理解する原動力になったと考えられる。決して事実無根の作り話でもあるまい。

 また、宮本武蔵は悪ガキの《たけぞう》を名乗る少年期、城の天守閣の一劃に閉じ込められて書物の中で二年間過ごしたそうだが、読書から文の世界を知り、文武の道を拓いたとされる。読書は人間を変えるのも事実である。

 特に、その後の武蔵の生き方は、少年時代には及びもつかなかった進化をみせたのである。あたかも突然変異の如く、自身の裡側に変化が起こった。それは単に武のみに終わらず、文にまで進化の足跡をみせているからだ。武の英雄として終わっていない。単に、世間から武勇の英雄として大衆から愛されるだけでは駄目なのである。
 また時代に便乗して、一世を風靡しただけでもその時の話題の人で終わってしまう。時が経てば忘れ去られる。
 そのためには文の習得も必要となる。また文を修めれば、人生を道としての理解する意味が分って来る。
 それは人生が前半と後半に別れていることを知る。
 前半は孔子の上り坂哲学で、後半は老子の下り坂哲学である。孔子と老子では思想的に相反する。孔子に併せて、老荘を知ると、これを巧く使い分けることが出来るのである。

思想家 哲学の種類 剛性(積極性) 柔性(消極性) 概 念
孔子 上り坂哲学 理性の象徴 利性の象徴 理性善(論語世界)
老子 下り坂哲学 利性の象徴 理性の象徴 利性悪(無為自然観)

 武蔵は恐らく人生前半と後半の違いを知っていたと思われる。
 武蔵の前半人生は立身出世が主目的であった。わが名を天下に知らしめることであった。その主目的のために諸国を遍歴し剣術の腕を磨き、最後は佐々木巌流との巌流島での決闘試合は有名である。

 ところが、これ以降の試合はぷっつり止めてしまっている。
 恐らく、巌流島での試合までが武蔵野の前半の上り坂人生であったのであろう。そして以降は二天一流を考案するが、すでに後半の下り坂の人生に入っていて、前半と後半を見事に使い分けていることが分る。同じような生き方をしていないのである。
 恐らく、孔子の学だけでなく、後半に差し掛かったら切り替えが必要で、老荘思想の哲学で行くぐらいのことは理解していたのであろう。水墨画をよくし、著書まで顕している。
 これは前半の上り坂人生では、全く見られなかった行動である。




●士魂商才

 世に「士魂商才
(しこん‐しょうさい)」と云う言葉がある。
 これが一般的には、「武士の精神」と「商人の才」とを兼備することを指しているようだが、それだけではなく、実は武士あるいは武芸者などの武人は、自らの“腕が立つ”という事は同時に“理財の才”もあり、最低限度の「困らない日常」を過ごしていけるという意味である。
 これは一般解釈として、「武士の精神と商人の才とを兼備すること」となっているのを、私は一歩突っ込んで、「武技が強い」ということは、理財の才にも長
(た)けていて、困らずに、悠々(ゆうゆう)と生活出来ると云うことを明確にしなければならないことだと思っている。

 近代にも、そうした武人は多く居た。自らは修行者として修行に明け暮れる日々を送っていても、その修行が出来る充分な背景を作り上げ、同時に「悠々自適
(ゆうゆう‐じてき)に修行が出来る」という現実を作り出している、資産家的な武術家や武道家を見掛ける事がある。

 こうした人達は歳をとっても、それなりに生活に困らない程度に裕福であり、かつ「理財の才」も「良識」もあり、例えば、アパート経営やマンション経営、貸ビルや貸土地などをレンタルさせて、毎月ほぼ同額の“家賃・地代収入”があり、あるいは“銀行の預金利息”だけで、生活出来る状態を確保している。あるいは印税の類もある。そして、自分が働かなくても生活が出来、日々、生活費に困らないとう状態が確保できている。
 これは私の論で論
(あげつら)うなら“枯れない泉”を所有したことになる。
 資産家とすれば「古い金」のことあり、遺産だけで暮らしているということになろう。
 特に注視すべきは、自分で稼いだ金でないということである。古い金とは通俗的な言い方をすれば「遺産」である。隠れた階級の資産家ということになろう。
 更に特記すべきは、自分で稼いだ金でないから、多額の税金押収にもあわず、財産の強制収用にもあうことがない。まさに泉の如く湧き出て来る金である。
 こうした枯れない泉を所有する人は、一般の事業経営の金持ちと異なり、人目に目立つ高級一等地に居を構えず、他からの羨望の眼で見られず、取り巻きの有象無象から寄附行為などの懇願や依頼も受けず、世俗的な行為にも患わされることがない。また世の好・不況にも悩まされず、恐慌すら無縁で生きている。
 こうした困らない生活背景があるから、思う存分、修行に打ち込むことが出来る。この確保こそ、急務であることを気付き、これに敏感な人を「理財の才」のある人と称したのである。
 その意味で、「士魂商才」が成り立つのである。

 この「士魂商才」の原点を作った兵法家は、かの有名な宮本武蔵だった。
 武蔵は、単に剣に優れた兵法家としてだけではなく、詩や書画や茶道の“道”にも優れ、同時に「士魂商才」を身に付けた武人だった。多くの人は、武蔵のこの点を見逃してしまうようだが、これこそ人間が生きていく上で、最も重要な事柄である。
 武術家や武道家と称する人が、目先の、数日後に控えた支払い日に追い捲くられるようでは、お話にならない。自分の道場の、道場経営に追い捲くられて、日々を、あくせくしていてはなにもならないのである。日々の生活に困らない“余裕”が必要である。

 武蔵は確かにチャンバラは強かったが、決して「剣豪・剣客バカ」ではなかった。昨今の芸能人やスポーツ選手に見る、理財に関してや生活能力は“さっぱりだ”と云う兵法家ではなかった。
 軍資金の意味をよく理解していた。戦いには多額の金の懸かることを知っていた。自分の習得した「道」を教授するにも金が懸かるのである。
 日本が先の大戦でアメリカから手痛い打撃が加えられて、大敗北を期したのは当時の軍閥に戦いをするための軍資金の調達をする才がなかったことがその敗因の一つに挙げられるだろう。当時の高級軍人達にも、武蔵ほどの才はなかった。
 武蔵は金権感覚にも優れた哲学を持っていた。
 私が武蔵を高く評価したいのは、決して剣豪・剣客バカではなかったことだ。理財の才があった。

 彼は、多様の才に富み、あらゆる「道」に通じていた。時と金の関係も熟知していたのである。道に通うじるということは、あらゆる「道」に通じるのである。決して狭い「専門バカの範疇
(はんちゅう)」には留まらなかった。
 「富貴は天にあり」を知っていたのである。今日では、この意味を真に知る文武の士は、殆ど皆無と言えよう。
 勇名を馳せて一時的に脚光を浴びたとしても、それは時の「人寄せパンダ」である。所詮忘れ去られる運命にある。せいぜい系図の中に書き込まれて、それで潰える人である。これは往年のスポーツ選手が今の現代人に名すら知られていないのと同じである。

 武蔵の生き態
(ざま)を解析すれば、巌流島の決闘を折り返し点として、それまでの前半を孔子流に生き、それ以降の後半を老荘流的に生きたと言えよう。この使い分けが見事である。それだけに特異な生き態に徹したと言える。
 この実情を顧みると、近代の剣豪と言われた榊原鍵吉
(さかきばら‐けんきち)とは対照的である。
 榊原鍵吉は幕末ならびに明治の剣客として知られ、直心影流の達人であった
。また維新後、撃剣興行や天覧試合や兜試斬で名を馳せた人物である。しかし残念なことに理財の才がなかった。単に百戦百勝の激剣選手のような人であった。そのため明治の世になって一時期生活に困窮する。
 これはまさに武蔵とは対照的であった。
 武蔵は広く世に通じていた。

 あらゆる「道」に通じてこそ、その人は“達人”と云われたり、剣術家ならば“剣聖”などと云われるのであって、単に一芸に秀
(ひい)でただけでは、「名人の位」に辿り着けないのである。“わが扶持”や“わが糊口”は、生涯困らないものを用意したいものである。

 この境地に達すると、兵法家とか、また武術家とか武道家と云う武人は、「名人の域」に辿り着き、それから先の「正念場のスタートライン」に立てるのである。経済戦を賭
(と)しての生き残りである。名人は経済戦においても名人だった。士魂商才の所以である。
 士魂商才は、「日々あくせくしなくても働かずに食っていける」という基本こそ、本来の意味であり、道場経営がうまいとか、人集めがうまいと言う利権に於ての「うまさ」でなく、あくまでも「働かずに生活するに充分な金銭を身に付いている」という条件を満たしていなければならない。つまり、その人の徳分が問われるのである。

 武術で云う「徳分」とは、「武運長久」をいうのである。
 その第一は「運がいいこと」であり、第二は、あくせくして働かなくても、「金が自然に後から蹤
(つ)いて来る」ことを云う。
 この状態に至れば、まず、あくせくしないから精神的衛生状態もよく、金に追い詰められることがない。自然と心は大らかになり、静寂にして安住の状態が得られる。
 第一、労働をしないのであるから、出勤時間にも追われることがなく、仕事にも追われず、締め切りにも追われることがなく、同時に「多忙を極めない」のである。

 毎日忙しく仕事をしている人は、その人に幾ら才能や素質があっても、こうしたサラリーマン状態の会社漬けで、修行の究極点には辿り着けない。遂に時間に追われ、仕事に追われ、締め切りに追われ、また金銭の支払いに追われる。それはサラリーマン故に、生活の基盤を「月賦支払い」などのローン生計が邪魔しているからである。
 大ローンで家族にせがまれるままにマイホームを建て、また、大ローンで車を買う。その他の高級家電品を買うなどして、『貸借対照表』では「負債の部」ばかりを膨らませているからである。
 「負債の部」が膨らんで、“今は何とか払っていける”と言う状態では、決して「資産の部」は殖
(ふ)えることがない。要は、「負債の部」を皆無に近付け、「資産の部」を殖やすことだ。

 「兵法」と云う、自分の“好きな道”に長らく没頭するのであるから、その没頭出来るだけの充分な生活資金を予
(あらかじ)め何処かで確保し、毎月困らない程度の、余裕ある日常生活の確保が出来ていなければならない。
 それは根本的に云って、資本主義市場経済に準ずる「道場経営」とは、全く違う。
 道場経営と云うのは、格闘選手のレベルでは出来ない。
 経営である以上、道場主は、やはり“労働者の域”から抜け出すことができない。経営に、あくせくしなければならない。資金繰りに窮すれば、金策の為に奔走しなければならなくなる。そうなれば稽古とか、修行とかは、論外の事になる。そんな暇がなくなる。支払いに追われるからだ。

 したがっサラリーマン指導者の場合も同じであり、普段はサラリーマンをしながら、会社漬けになっているのではお話にならない。余暇も自分の思うように捻り出せず、せいぜい「社畜」にされて使役されるだけである。
 一週間の内の公休日や、その他の余暇で道場生を指導するとか、あるいは余暇を利用した自己修行であってはならない。この自己錬磨の条件は、「自分は働かずに、好きなことだけをして食って行け、かつ充分に思う存分修行が出来る」と言う条件を満たしていなければならない。

 サラリーマンをしながらとか、道場経営にあくせくしながら武道家を気取ると言うのは、修行において、本腰を入れて修行に打ち込むことが出来ず、常に「生活費」の事を念頭に置いての修行であるから、その修行は何処まで行っても、いつまで経っても、「本物」とはならない。金銭に悩まされるからだ。
 そういう状態であっては、見栄は張ることが出来ても、中身は発展途上の状態に流されてしまう。そして、決して「余暇」の範疇
(はんちゅう)を抜け出すことはないのだ。
 それでは「理財の才」があるとは言えない。自転車操業の経営者と何ら変わるところはない。

 本当の修行者は、「好きな道に日々連日連夜打ち込む」ことが出来なければならないのである。借り物ではそうはいくまい。
 その意味で宮本武蔵は真の修行者であり、毎日の生活費も事欠くことがなかった。その背景には何があったのか、それを検証しなければなるまい。
 一般に知られる武蔵像は剣客としての武蔵だが、これだけでは全貌を知ることは出来ない。剣客としての武蔵は一部に過ぎないのである。
 私が「士魂商才」の本当の意味を知ったのは、天下の素浪人となった習志野時代であり、進龍一の厖大な本の中から、繰り返し読んで経済や経営の本まで読み漁ったことである。
 再起するには同じ轍
(てつ)を二度踏んではならなかったのである。



  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法